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5.守ってくれた……?
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それから一通りの研修を終え、配属先の店舗で働くことになった。
冬麻の配属になった店舗は、ミシュランの星を獲得し続けている海外有名フレンチレストラン・東京店のライセンス契約を久我の会社が締結した店だ。外苑前にあるその店は予約必至の人気店。東京店は既存のコンセプトや味を守りつつも、おもてなしというプラスアルファを掲げているような、ひと言でいうとやる気に満ち溢れている活気ある店舗だ。
久我は最初「外苑前の店の店長から始めてみる?」なとどのたまっていたが、そんなことできるはずもない。冬麻は今は新人としてギャルソン(ウェイター)見習いで日々さまざまなことを先輩たちから学んでいる最中だ。
ギャルソンは料理の説明も、それに合わせたワインなどの知識も一から学ばなければならないし、さらにそれぞれの客に合わせた接客をするという一朝一夕ではどうにもならない仕事だ。
「ここの店の教育はどうなってんだぁ?」
あるひとりの客のひと言によって、店内に不穏な空気が流れる。恰幅のよい年配のオヤジに対してギャルソンの市倉は必死の愛想笑い。なんとかその場をうまく収めようとしている。
——うわ、例の客か。
あの客は上客だ。何度も来店してくれるし、一度の支払いも高額。でもそのせいか我がもの顔で「本店の味と違うなあ」とか「内装が変わって安っぽくなった」とかクレームばかり。
いつもの事だとみんな理解しているが、見ているだけでも心が疲れる。冬麻がここに配属になってから既に2回目の来店。毎週のようにやってくるモンスターカスタマーだ。
「あの新人! ちょっと呼んでこいっ!」
まさかと思いクレーマーのほうを見ると、明らかに冬麻を呼んでいる。行きたくはないが、既に目が合ってしまっている状況で無視はできない。
「はい……」
冬麻がクレーマーの前に立つ。先輩の市倉は、クレーマーに「お前はもういい」と手のひらで追い払われ、その場を消えるように立ち去っていった。残されたのは冬麻ひとり。
「挨拶がない」
「あ、挨拶ですか……?」
来店時にいらっしゃいませと声はかけたし、冬麻は別にここのディレクトール(支配人)ではないのでいちいち挨拶なんてする必要はない。
「新人なら『はじめまして』くらいそっちから俺に挨拶しにこいよ。俺のことを他の客と同じように扱うのか?!」
意味がわからない。お前何様なんだよ! と冬麻は内心思っているが、まさかそれを言うわけにはいかないだろう。
「ほら、早くしろ。今すぐ無礼を謝れ」
不遜な態度に腹が立つ。落ち度があったならもちろん謝るが、こっちは何も悪くない。
こんな奴に頭を下げたくない。でも接客業としては理不尽だと思っても謝るしかないのかと覚悟を決めようとしていたときだ。
店の扉が開き、颯爽と現れたのは久我だ。久我はレセプションにいた受付係のスタッフにサッと挨拶をして、すぐに冬麻のもとに向かってきた。
「いつもご来店ありがとうございます。美濃部様ですね。お噂はいつもここのディレクトールから聞いております。私、この店を経営しております会社の代表取締役の久我と申します」
久我のいつもの営業スマイル。だが、まさかの社長の登場に、さすがのクレーマー・美濃部も驚いている。
「お話は私が場所を変えてじっくりお伺いします。どうぞこちらへ」
席を立つようにやんわりと久我に促され、美濃部も立ち上がり久我と二人で店の外へと姿を消した。
——な、なんだったんだ。いきなり……。
どうして久我が突然現れたのだろう。
もしかして、同期の村野が言っていた社長のゲリラ訪問なのか……?
「た、助かったな……」
美濃部から解放された冬麻が厨房に戻るとそこにいた市倉が声をかけてきた。
「でもなんで急に社長が……」
その場にいるスタッフは誰も理由がわからない様子だ。
「とりあえず仕事だっ!」
スーシェフ(副料理長)が仕切り直し、みんな持ち場に戻った。
「お疲れ様」
しばらくして久我がひとりで戻ってきた。そこにクレーマー・美濃部の姿はない。久我はなんでもなかったかのような涼しい顔をしているが、「ど、どうなったんですかっ?」とスーシェフが久我に即座に訊ねている。
「あのままお帰りいただいたよ。そしてもうこの店であのような態度はとらないと約束してくださったよ」
「えっ! まさか……?!」
スーシェフの顔色が変わるのもわかる。そんなことありえないと思っていたからだろう。
「一体どうやって……」
「人間には表の顔と裏の顔があるからね」
「どういう意味でしょう……?」
スーシェフの質問にそれ以上は久我は答えずに「客からの理不尽な要求は跳ね除けていいからね」とはぐらかした。
「仕事の邪魔してごめんね。でも少しだけみんなの仕事ぶりを見学させてもらうよ」
久我はスーシェフとの話を切り上げ、今度は冬麻の方へ近づいてきた。
「冬麻。今日は俺と一緒に帰れる?」
急に耳元でそんなことを囁かれた。職場でよくもそんなことを……。
「閉店後、連絡してくれ。待ってるから」
やめろって! もう……。
そのあと久我は「二ノ坂くん、仕事には少し慣れた?」「ギャルソンの制服とても似合ってるね」と誰に聞かれても困らないような声かけを冬麻にしてさっきの耳打ちを誤魔化した。
冬麻の配属になった店舗は、ミシュランの星を獲得し続けている海外有名フレンチレストラン・東京店のライセンス契約を久我の会社が締結した店だ。外苑前にあるその店は予約必至の人気店。東京店は既存のコンセプトや味を守りつつも、おもてなしというプラスアルファを掲げているような、ひと言でいうとやる気に満ち溢れている活気ある店舗だ。
久我は最初「外苑前の店の店長から始めてみる?」なとどのたまっていたが、そんなことできるはずもない。冬麻は今は新人としてギャルソン(ウェイター)見習いで日々さまざまなことを先輩たちから学んでいる最中だ。
ギャルソンは料理の説明も、それに合わせたワインなどの知識も一から学ばなければならないし、さらにそれぞれの客に合わせた接客をするという一朝一夕ではどうにもならない仕事だ。
「ここの店の教育はどうなってんだぁ?」
あるひとりの客のひと言によって、店内に不穏な空気が流れる。恰幅のよい年配のオヤジに対してギャルソンの市倉は必死の愛想笑い。なんとかその場をうまく収めようとしている。
——うわ、例の客か。
あの客は上客だ。何度も来店してくれるし、一度の支払いも高額。でもそのせいか我がもの顔で「本店の味と違うなあ」とか「内装が変わって安っぽくなった」とかクレームばかり。
いつもの事だとみんな理解しているが、見ているだけでも心が疲れる。冬麻がここに配属になってから既に2回目の来店。毎週のようにやってくるモンスターカスタマーだ。
「あの新人! ちょっと呼んでこいっ!」
まさかと思いクレーマーのほうを見ると、明らかに冬麻を呼んでいる。行きたくはないが、既に目が合ってしまっている状況で無視はできない。
「はい……」
冬麻がクレーマーの前に立つ。先輩の市倉は、クレーマーに「お前はもういい」と手のひらで追い払われ、その場を消えるように立ち去っていった。残されたのは冬麻ひとり。
「挨拶がない」
「あ、挨拶ですか……?」
来店時にいらっしゃいませと声はかけたし、冬麻は別にここのディレクトール(支配人)ではないのでいちいち挨拶なんてする必要はない。
「新人なら『はじめまして』くらいそっちから俺に挨拶しにこいよ。俺のことを他の客と同じように扱うのか?!」
意味がわからない。お前何様なんだよ! と冬麻は内心思っているが、まさかそれを言うわけにはいかないだろう。
「ほら、早くしろ。今すぐ無礼を謝れ」
不遜な態度に腹が立つ。落ち度があったならもちろん謝るが、こっちは何も悪くない。
こんな奴に頭を下げたくない。でも接客業としては理不尽だと思っても謝るしかないのかと覚悟を決めようとしていたときだ。
店の扉が開き、颯爽と現れたのは久我だ。久我はレセプションにいた受付係のスタッフにサッと挨拶をして、すぐに冬麻のもとに向かってきた。
「いつもご来店ありがとうございます。美濃部様ですね。お噂はいつもここのディレクトールから聞いております。私、この店を経営しております会社の代表取締役の久我と申します」
久我のいつもの営業スマイル。だが、まさかの社長の登場に、さすがのクレーマー・美濃部も驚いている。
「お話は私が場所を変えてじっくりお伺いします。どうぞこちらへ」
席を立つようにやんわりと久我に促され、美濃部も立ち上がり久我と二人で店の外へと姿を消した。
——な、なんだったんだ。いきなり……。
どうして久我が突然現れたのだろう。
もしかして、同期の村野が言っていた社長のゲリラ訪問なのか……?
「た、助かったな……」
美濃部から解放された冬麻が厨房に戻るとそこにいた市倉が声をかけてきた。
「でもなんで急に社長が……」
その場にいるスタッフは誰も理由がわからない様子だ。
「とりあえず仕事だっ!」
スーシェフ(副料理長)が仕切り直し、みんな持ち場に戻った。
「お疲れ様」
しばらくして久我がひとりで戻ってきた。そこにクレーマー・美濃部の姿はない。久我はなんでもなかったかのような涼しい顔をしているが、「ど、どうなったんですかっ?」とスーシェフが久我に即座に訊ねている。
「あのままお帰りいただいたよ。そしてもうこの店であのような態度はとらないと約束してくださったよ」
「えっ! まさか……?!」
スーシェフの顔色が変わるのもわかる。そんなことありえないと思っていたからだろう。
「一体どうやって……」
「人間には表の顔と裏の顔があるからね」
「どういう意味でしょう……?」
スーシェフの質問にそれ以上は久我は答えずに「客からの理不尽な要求は跳ね除けていいからね」とはぐらかした。
「仕事の邪魔してごめんね。でも少しだけみんなの仕事ぶりを見学させてもらうよ」
久我はスーシェフとの話を切り上げ、今度は冬麻の方へ近づいてきた。
「冬麻。今日は俺と一緒に帰れる?」
急に耳元でそんなことを囁かれた。職場でよくもそんなことを……。
「閉店後、連絡してくれ。待ってるから」
やめろって! もう……。
そのあと久我は「二ノ坂くん、仕事には少し慣れた?」「ギャルソンの制服とても似合ってるね」と誰に聞かれても困らないような声かけを冬麻にしてさっきの耳打ちを誤魔化した。
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