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番外編 『忘れられない』神尾(受)視点

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 樋口との出会いは突然だった。
 樋口とは大学が一緒で、同じ学部に学科だ。明るい陽キャの典型みたいな樋口は、百八十センチを優に超える長身と、テニスで少し日焼けをした凛々しい顔で、学科を超えて「イケメン」だと噂になるような男だった。

 神尾はどちらかと言えば大人しいタイプだ。広い教室の隅でひとりで黙々と講義を受けるタイプで、友人も少ない。今受けている線形代数の講義には知り合いはいなかった。

 同じ講義に友達がいなくても普段は困らない。困るなと思うのはテストのときだ。
 テストでひどい点数を取った神尾は再テストになった。もともと苦手分野だったが、自分なりに頑張って勉強してテストに臨んだ結果がこれでは、これ以上の対策のしようがない。

「神尾、一緒に勉強しないか?」

 教室で途方に暮れているときに、不意に声をかけてきたのが樋口だった。

「お前も再テストなんだろ? 吉田もなんだよ。吉田に教えるついでに教えてやる。俺の線形代数攻略法はマジで完璧だぞ」

 樋口の隣には、樋口とよく一緒にいる吉田がいる。吉田は「樋口、頼む!」と冗談めいて樋口を拝んでいた。

「えっ……」

 友人の吉田に勉強を教えてやるのはわかる。でも、赤の他人の神尾にどうして親切にしてくれるのか、いまいち理解できなかった。

「ひとり教えるのもふたり教えるのも一緒だから。再テストは二週間後だろ? 今日の午後は? 空いてる?」
「あ、空いてる……」
「じゃあ早速今日からやろう! あ、連絡先教えて」

 さらりと言われて、神尾は樋口と連絡先を交換する。
 正直助かった。ひとりきりで再テストになってしまい、途方に暮れていたから。


 後になって気がついたことだが、樋口は困っている人を見つけるとつい手を差し伸べたくなるタイプの男だった。

 樋口は知っていたのだろう。この講義には神尾の知り合いがいないことと、神尾が再テストをくらって落ち込んでいたことを。それを見かねて声をかけてきた。

 樋口が人気がある理由は顔だけじゃなかった。きっとこの優しい性格にあったのだろう。
 誰に対しても分け隔てなく優しいから、樋口は人気なのだ。
 神尾に対する優しさも、特別なものじゃない。樋口は、困っている人がいたら誰彼構わず助けてやるに違いない。

 あの爽やかな笑顔も、神尾にだけ向けられているものじゃない。
 勘違いするな、と神尾は心に予防線を張った。



 大学のフリースペースで樋口が先生になり、吉田と神尾は並んで樋口の向かい側に座る。そこで懇切丁寧に線形代数を教わる。樋口は本当に教え方がうまかった。今まで勘違いして覚えていたことが、樋口の教えてくれた理論のおかげでするすると理解できた。
 樋口は単元ごとに何度も根気強く教えてくれた。一回二時間ほどの勉強会を、すでに五回ほど重ねていた。

 勉強会が終わると三人で帰る。途中、一人暮らしの吉田と別れ、駅に着くころには樋口とふたりきりになった。 

「あのさ、神尾はラーメン好き?」
「……好きだけど」

 ラーメンは神尾の大好物だ。いつもひとりで行列に並んでしまうくらいに好きだ。

「池袋にめっちゃ美味しいラーメン屋があるんだよ。大◯軒で修行した人が出したお店で、この前のラーメングランプリで入賞したんだぜ」

 樋口は少し興奮気味に話している。樋口もラーメン好きなのかもしれないなと思った。

「神尾、今からそこ食いに行かねぇ?」
「今から!?」
「そう。行こう! マジで美味いらしいから。損はさせない。な?」

 樋口に肩を抱かれて、神尾はドギマギした。

 神尾は実は男が好きなのだ。
 男なら誰でもいいというわけじゃない。触れてきたのが樋口だから、こんな気持ちになるのだ。

 樋口にはその気がないのはわかっている。でも、この高鳴る心臓は止めることはできない。

「付き合ってくれよ、神尾」

 この場合の「付き合ってくれ」はただラーメン屋に一緒に行こうと誘っているだけだとわかっている。それなのに神尾の耳には恋愛のそれに聞こえてしまってたまらない気持ちになる。

「うん。いいよ」
「おっ? やったーっ! 神尾は本当にいい奴だな! 惚れちゃう!」

 樋口が神尾の首に腕を回して抱きついてきた。

 そんなことされたら神尾は悶絶だ。樋口の腕の温もり、ふわりと感じる樋口の匂い、「惚れちゃう」などとのたまう樋口の心地よい声。

 気がついたら、すっかり樋口のことを好きになっていた。
 見たところ、樋口はゲイじゃない。過去付き合っていた話をしていたとき、普通に彼女がいたと言っていた。
 どうしてそんなノーマルの男に惹かれてしまうんだと思いながらも、樋口に触れられるたびにドキドキする。

 樋口が優しすぎるのがいけないんだ。

 優しくされることに慣れていない神尾はすぐに陥落してしまう。

 神尾はひとり、大きなため息をついた。

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