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中編

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「アレット、ついにお前の結婚相手を見つけたっ!」

薄暗い図書室で本を読んでいた私に、父がドアを開けてそう叫んだ。本に夢中になっていたから、突然聞こえた大声にもびっくりしたし、いつのまにか図書室が暗くなっている事にもびっくりした。
――やだ、灯りを付けるのを忘れてたわ
床に座っていた私は立ち上がって灯りをつけると、少しだけ図書室が明るくなり眩しくて目を細めた。私の部屋よりも小さな図書室は、本が好きな私のために父が物小屋だった部屋を改造してくれ、壁面には本がびっしりと並んでいる。この国の歴史や文化の書かれた書物から、街で流行りの最近のラブロマンスまであり部屋の窓のそばには1人掛けの椅子と小さなテーブルが置かれていた。毎週のように貰っているお小遣いで本を買い、高価な本は両親に買って貰っているため――ラブロマンスを買っているなんて知れたら恥ずかしいので勉強用のみだが――本棚に入りきらない本は床に重なっている。
「アレット、だからな」
明るくなった図書室に安心して、また床に座り直すと途中まで読んでいた本に手を伸ばすと父が私を止めた。
――そういえばお父様が叫んでいたわ
また床から立ち上がってスカートを払うと、お父様に向かい合った。
「どうかなされましたか?」
「…うむ、床に座るのは侯爵令嬢として…って、それは後で話すとして、アレット!お前と婚約したいと言ってくれた人が現れたんだっ!なんと聞いて驚くなっ!あの・・南エリアを統治している騎士団長様だっ!」
「…南エリア…?騎士団長…様?」
声高々に宣言する父の声がうるさいが、何とか聞き取れた単語を聞いて一瞬何を言っているのか分からなくなった。
こてんと頭を傾げると、父は、ああもうっ、ともう一度口を開いたり
「この国の南のエリアを統治する騎士団長、ユーグ・シリル・ダミアン・シャンボン殿で、シャンボン公爵家の次男だったが、今は男爵の爵位を国王陛下より叙爵じょしゃくされたのだ!」
「…はぁ」
「そして社交界で一番人気のあるお方で、顔立ちもそれはもう美しいっ!何よりも物腰が柔らかく女性に優しくスマートな彼がアレットと婚約したいと手紙をくれたのだっ!」
まるで父が婚約を申し込まれたみたいに、頬を赤くして早口で話している。私が返事をしてない事なんか気にせず、騎士団長の功績や容姿をつらつらと話す。
――私が…婚約…
父の話を聞きながら、ついに婚約者を作らなければいけなくなったのか、と悲しくなってしまった。



私はアレット・ニコレット・ロマーヌ・レヴィ、今年21歳となったレヴィ侯爵家の長女だ。父と母、そして私の3人家族でこの侯爵家に住んでいる。母は身体が弱く私を産んだ後は子供を産まず、侯爵家の跡取りがいない状況となっている。私に中々婚約者が現れないために、親族から養子を取るかを話し合っていたらしかった。
父譲りの黒髪は腰の長さまで伸びてるし、母の瞳の色の赤い瞳は本を読みすぎて視力が弱くなった目をカバーするメガネの下に隠れている。毎週月曜日の決まった日しか外出しないため病的に白くて、体力もないため少し歩くだけで疲れてしまう貧弱な薄い身体。
――そういえば来週の月曜日に新刊が入荷するわ
毎週月曜日になると、本屋に並べられる本を求めて外出するのだが、その日一日は疲れて横になってしまう。二週間に一度発行される国民新聞の記事に新作を発表すると知らせが載っていたのだ。予約を取りたかったけど、私がよく行くお店は予約を取らないのだ。いくら顔馴染みでも、お店の方針を私のわがままで変えるわけにはいかない。
ーーそうだわ、前日からそわそわして眠れないからもう今夜から寝る時間を早めるのはどうだろうか
まだ週の真ん中だというのに、本の事になると優先順位が変わってしまうのはアレットの悪い所だった。父の言葉が耳に入らなくて自分の世界に入っていたら、父の咳払いで父に視線を移した。
「――それでだなっ!顔合わせのお茶会を設ける事にしたのだ!月曜日の大体お昼過ぎに招待した!」
ふふん、と得意げに喋る父の声に我に返り、毎週月曜日は外出しているのを知っているのに予定を入れられてしまったのを知る。
「お父様っ!その日は私の外出する日と決まっておりますっ」
「そんなのは知っとるが、本など逃げやしないから次の日でも十分だろう、先方にも了承をもらったから今さら変更は出来ない」
「…そんなぁ」
絶望的な気持ちになって床に座り込むと、侯爵令嬢が床に座るなんてっ!と父の小言が始まったが、私は本屋に行けない悲しみでそれどころではなかった。





***************




よく晴れた外出日和のはずが、外出していないのにもう疲れ切っていた。婚約者の訪問の知らせを受けてから、本など読ませて貰えず、成人前に教えてもらっていたマナーの講師と久しぶりに会い鬼のマナー教室の幕開けとなった。
『アレット様、随分会わない間に姿勢が悪くなってますわ!』
再会の一言目にそう言われてからは、3日間付きっきりで仕草や言葉遣いを直された。
『いくら相手が男爵と言っても、公爵家の次男だった方です、人を見る目は確かでしょう』
泣きたいのを堪えてマナーの時間がすぎると、今度は侍女による連日のマッサージと美容の時間だ。
『アレットお嬢様、目の下のクマが酷いのでしばらく夜に読書をするのを控えてもらいます』
そう言って、私を幼い頃から見ている侍女長と私に仕える新人侍女は、私がこっそり隠していた本の在処を知っていて、部屋から全て持って行ってしまった。夜に図書室へと行けないように図書室の施錠――図書室に鍵が掛けられる事を初めて知った――と、私が眠るまで侍女達が交代で廊下で待機していた。私が寝ないと侍女達も休めないと知った後は素直に眠る事にしたら、身体の疲れは今までないくらいに取れて、荒れていた肌が綺麗に治っていった。
そんな怒涛の数日を過ごしたのに、騎士団長様がくる朝早くから起こされ、お風呂に入れられた後に侍女と母による身だしなみの仕上げとなった。やっと解放されたのはちょうどお昼だったが、横になると服に皺がつくと背筋を伸ばして座るしかなく休めない。
――うぅ…今日が終わったらもう一回寝たいわ…本当は本屋に行きたいけど…もう無理だわ
自室ではなく、これからやってくる騎士団長様と過ごす庭園が一望できる屋根付きの白い四阿で、私が緊張しないように先に待っていた。いきなり慣れない事をしたら、失敗するからだ。今日のために特別に仕立てられたエメラルドグリーンの刺繍が施された白いAラインのドレスに身を包んだスカートの裾を見て、侍女と母の『何としてもこの顔合わせを成功させるわっ!!』と意気込みを感じて、過去に誰からも婚約したいと申し出がなかったのを痛感した。いつもなら下を向くと真っ黒な髪が垂れるのに、綺麗に結われた髪のおかげでそれすらない。
「お嬢様、騎士団長様が間もなく到着するようです」
父よりも年上の長年仕えているこの屋敷の執事長に言われ、私は重い腰を上げた。




――なんて美形なんでしょう!
玄関先で騎士団長様を出迎えると、焦茶の馬車の本体に騎士団の紋章が描かれていて、黒い馬がそれを引いて屋敷の門を潜ってきた。美しい毛並みの馬は、父と母そして私と、背後に仕える侍女達の前を少し通り過ぎて立ち止まって、ブルルッと鼻息を吐いた。手綱を引いていた御者が馬車の先頭にある席から降りて、私達に一礼すると馬車の扉を開いた。しばらくして中からやって来たのは、絶世の美青年と言われても納得してしまう程の美しい男性。馬車を降りて私達の姿を見ると、目尻が下がり笑顔となる。金色の髪は後ろへ撫で付け、キリッとした眉だが目も鼻も口までもが完璧に整っているから怖い印象などない。お父様より若干大きな身体で威圧感を与えそうなのに、身にまとう騎士団の制服が濃い青で白いボタンや襟や袖の所々に白い刺繍が施され、上品な紳士に印象が変わる。
初めて見た美形の男性に、ぽかんと彼に見惚れる私と母。父は顔合わせをした事があるのか、にかっと笑い騎士団長様に声を掛けた。
「やぁ!よく来てくださいましたっシャンボン騎士団長!待っておりましたぞっ!」
「本日はこうして顔合わせの場を設置してくださり、感謝します、レヴィ侯爵」
低くそれほど大きな声を出していないのによく聞こえ、バリトンと声色は心地よい。
――声までカッコ良いなんて、まるでベル先生の作品みたいだわ
ベル先生とは私が大好きな作家さんで、作品のジャンルを問わず発売された新刊をいつも購入する先生だ。今日発売の新刊も実はベル先生の作品なんだが、先生の描く男性は本当にカッコよくて、きっと声も最高なんだと思っていた。リアルにはいないと思っていた美形が目の前にいて、ときめかないなんてあり得ない。
――なんでこんなにかっこいいのに、侯爵家の令嬢《私なんか》に婚約の申込をしたんだろう?…きっと性格がすこぶる悪いのねっ!
見た目だけじゃ判断のつかない何かあるんだろうと、私は少しだけ身構えた。




「はは、本当にアレット侯爵令嬢は何でも知っておりますね、思わず聞き入ってしまいます」
「…そんな、お恥ずかしい限りです」
これはお世辞だと思っていても、イケメンにそう言われて喜ばない令嬢なんているのだろうか。最初は他愛のない――
本当に天気がいいですね、とシャンボン騎士団長が話し始めてから、彼に最近読んだ本とその感想を告げるまでに至っている。それにお茶のおかわりを淹れる侍女達にもお礼を言ったり、夢中で本の話をしている私の紅茶が冷めてしまうと心配りも出来る方で、ますます何故私に婚約を申し込んだのか分からなくなる。
彼ににっこりと微笑まれながら褒められると、胸がドキドキして頬も熱くなる。庭園の散歩もエスコートをされながら一緒に回って、帰る時間になると彼は何かを思い出したように馬車の中から長方形の包みを取り出した。
「アレット侯爵令嬢に贈り物を用意いたしました、きっと最初に渡していたら私とは話してくれなかったでしょうね」
くすくすと笑いながら、私の手に載せた重さと硬さはきっと書物なのだろう。かぁっと頬がまた赤くなってしまって、ちゃんとしたお礼も言えずに彼は帰って行ってしまった。部屋に戻って贈り物の包みを開けると、そこにあったのは私が今日本屋に行って買うつもりだったベル先生の新作の本だった。





***************




「アレット、早くこちらへ来てください」
騎士団長様と婚約してから半年も経つと、月曜日にしか出かけなかった私が騎士団長様のお休みに合わせて外出するようになった。
今日は天気も良くて寒くもないので、近場の小高い丘にピクニックへ来たのだ。大きなシートを敷いた上に寝そべる彼の服装は白いシャツとズボンのシンプルな装いで、横になっているすぐ隣に私が座るようにシートの上をぽんぽんと叩いた。
――はぁ、横になっているだけで絵になるの、奇跡だわ
何度か会っていくうちに、彼の美形にはなれたはずなのに、時折こうして見惚れてしまう。
「ユーグ様、先に何か召し上がりますか?」
彼の横に座って、ピクニック用に持って来たカゴを膝の上に置いて、カゴの中にあるサンドイッチを出そうか聞くと、
「今はまだいいよ、ひとまず休憩しよう」
そう言って彼は頭の下に手を置いて、目を閉じた。心地よい風が吹いて彼の髪が揺れる。風すら彼を美しくさせてしまう、どんな時も絵画のように美しい彼に見惚れながら、ズキンと心に痛みを感じた。
――こんなに一緒に過ごしているのに、彼との婚約は嘘になるのね
彼の本当《・・》の想いは分かっているのに、面白いとも思っていたのに…私の心の中は彼に会うたびに嵐が起こっている。


ユーグ様との顔合わせの数日後、まだ我が家ではシャンボン騎士団長様の話題が尽きない時に、最近結婚して公爵夫人となった王女様の屋敷へと呼ばれた。
「久しぶりね、アレット」
「お久しぶりでございます、レティシア様」
彼女とは年も近い事と、私が読書ばかりして同年代よりも物事に詳しいために当時王女様だった彼女との話し相手に選ばれた。
「もうっ!だから、アザール公爵夫人だってば!」
ムッ、と口を尖らせるのは、王女だった頃には見れなかった表情だ。
「それよりもっ、ほらっ」
レティシア様は私の手を引きながら屋敷の奥へと進むと、私の屋敷とは全く違う広々としたサロンに通された。洗練されたデザインのサロンは、まるで美術館のように美しい。サロンに設置された家具も、花瓶に挿してある花もサロンに合うように…その空間にいるレティシア様を際立たせるように計算されて置かれているみたいだ。
ガエルから聞いたわ、南の騎士団長の婚約者になったんだって?」
「…ええ、そうなんです」
にこにこ笑う彼女はサロンの中央に置かれた椅子に座り、私は彼女の前に座った。テーブルに並んだ色々な種類のお菓子と紅茶が入ったポットとカップ。成人してからはあまり気軽に会えなくなってしまっていたが、彼女が結婚してからこうして時折彼女の屋敷へと呼ばれる事が多い。私の何をレティシア様に気に入られたのか分からないけど、友人のいない私にとってレティシア様は唯一誰にも言えない家の事や面白かった本など雑談が出来る人だ。
「ふふ、なら貴方は騎士団長に気に入られたのね」
「…?」
「いいの、こっちの話だから、そうだ、面白い話があるの」
そう言ってレティシア様は私の身に起こっている婚約騒動を教えてくれた。
なんでも、まだ仕事をしたい騎士団長様は、今まで婚約者がいると言ってやってくる縁談を個人的に断っていたのに、国王陛下から結婚するようにと貴族達にも告げられた事により嘘が発覚しそうになった。実際に警備に当たる舞踏会ではしょうがないが、招待状をもらっているにも関わらず婚約者の同伴がないのはおかしいとなってしまう。そのため本物の生きている・・・・・婚約者が必要となり、かといって本当に結婚するわけではない――らしい。
「…なるほど、それであまり社交界に出ない私が選ばれた、と」
「そう、だからって、婚約破棄はしないと思うわ、だってアレットはとても可愛らしいもの、あの騎士団長にならアレットを任せてもいいかな、と思ってるの」
――つまり、私の話もあの笑顔も外向きの顔かしら…待って、この展開……ベル先生の作品でもあったわ!
「…ふふっ、気に入った?アレットの好きな先生の作品のような展開じゃない?」
私の思考を読んだのか、レティシア様は楽しそうにコロコロと笑う。その姿も美しくて、うっとりと見惚れてしまうが…まずは
「ええっ!とっても!あのベル先生の作品の中に入ったみたいでわくわくしますっ」


そう言っていた時もあったが、騎士団長様に休みの日にお会いしたり、ささやかなプレゼント――例えば屋敷にお花が届いたり、本が届いたりするたびに、本の世界から呼び戻され彼の事を考えてしまう事が増えた。気がついたら屋敷の使用人達の心を掴んでいて、庭師までもが彼が到着すると出て来て話す始末だ。彼の仕事を邪魔しないように休日は休んで下さいと言っても彼は頷くだけで、でしたら今度から始まる舞台があるので行きませんか、とそのまま私を誘うのだ。
――その舞台はもう、ベル先生の作品ではないけど、私の好きな作品の一つなんだから断るはずがないじゃない
レティシア様に言われていた舞踏会へと同伴の声もかからないし、ささやかなプレゼントはもらうけど高価な宝石じゃないし、エスコートはされるけど過剰なスキンシップもあるわけじゃない。そして何より彼は優しく絵画のように美しくて、私の事を侮蔑した視線を向けないし、じっと宝石のように美しい碧眼の瞳で見つめられるとこっちが逆にぼぅっと見惚れてしまう。
――彼と会うと胸がドキドキして、身体全身が心臓になったみたいにうるさい。頬も赤くなってしまうし、私は本当に病気じゃないのかしら…?
一度侍女にその事を言ったら、にっこり微笑まれて『安心してください、正常です』と、お医者様も呼んでくれなかった。

婚約者として半年一緒に過ごしていくと、最初はアレット侯爵令嬢と呼ばれていたのに、二人きりになるとアレットと呼ばれるようになって、私も騎士団長様から彼の名前のユーグ様と呼ぶようになった。最初からぐいぐい距離を縮めるんじゃなくて、少しずつ二人の距離が縮まっていっている。

ユーグ様が眠ってしまったので、カゴの中にいれた本を取り出して読み始める。この本も先ほど馬車の中でユーグ様からプレゼントされたものだ。
『私といる時は読まないでね』
そう言われて渡されたが、彼が寝てしまったからいいだろうと思って取り出したけどパラ、パラと読むペースが遅く、本に集中出来ない…そう、隣で眠る彼の事が気になっているのだ。
――最近の私は本当におかしい
今までは最低限の身だしなみしか気にしてこなかったのに、彼がいない時も急に会いにきてくれるかもしれないと、普段の服もスキンケアも気にするようになった。彼が好きそうな服や小物をリサーチしようとして、逆に『アレットは何が好きなの?』と質問を返されると、逆に質問されるとは思っていなかったから、ポロッと溢した言葉の物を彼はプレゼントしてくれるようになった。
私の好きな物で満たされるのはすごく幸せだけど、彼へプレゼントしたいと思っても上手く躱されてしまうのだ。
――これもきっと、婚約破棄する予定だから意味がないって事かな…?
本の中なら最後の結末が分かるからいいけど、現実の世界だと色々と考えすぎてしまって怖くて行動に移せない。彼の好きそうな物はレティシア様から親友だと言っていた夫のガエル騎士団長様に聞いてもらうことにして、レティシア様から聞いた彼の好きだと言っていた赤いカフスボタンをプレゼントしたら喜んでくれた。こういったラフな格好の時には身につけていないが、騎士団の制服を着てお会いする時は毎回付けてくれているから気に入ってくれたと思う。ユーグ様と月に二回あれば良かったお出かけも隔週二回になり、そして気がついたら月に三回となっていった。以前は本を買う以外のお出かけは極力ないようにしていたけど、ユーグ様とのお出かけが決まるとそわそわして落ち着かないし、とても楽しみにしている――なんなら本を購入する時に感じる楽しみと似た感じになっていた。
だけど、ユーグ様とは何となく距離を感じるのは何でだろうか。これ以上踏み込んではいけない壁のようなものを感じる。例えば私が贈り物を贈りたいと申しても断られたとき、例えば私の横で出かけたり、こうして無防備で眠るのに、決して彼の働くテリトリー…騎士団本部や知り合い、彼の屋敷へと行った事がない。ガエル様とも成人前にレティシア様の護衛をしていた時に会ったきりで、全然会えないのだ。
――いつかは終わる関係の見せかけの婚約者だから、知り合いに会わせたくないのかしら
マイナス思考に陥ってしまいそうになり、頭を横に振って雑念を追い払うと、ユーグ様はまだ眠っていた。
――本を読みましょう、そうすれば変な事を考えられなくなるわ
本の世界に入ったら、嫌なことも全て忘れられる…それだけは知っているのだ。






***************





「そろそろ結婚式の日取りをレヴィ侯爵と決めようと思う」
婚約してから10ヶ月になろうとしている時、私の屋敷で彼と談笑している時に、ふと彼が何か思い出したかのように結婚の話を始めた。婚約中とはいえ、最初の頃にシャンボン公爵とレヴィ侯爵の家族間で交わした書類以外は結婚の話なんてしなかったのに。
「…結婚…ですか」
戸惑った声を出した私に、ユーグ様は片方の眉を上げて、
「…私との結婚は嫌?」
途端にしょんぼりと肩を落とす彼に、失言をしてしまったと気がついた。
「そんなっ!そんな事はありませんっ!本当ですっ…ただ今まで具体的な結婚については話が出て来なかったので」
慌てて否定すると、彼はそんな事か、とにっこりといつもの彼に戻った。
「アレットには話してないだけで、レヴィ侯爵とはあれこれ意見の交換はしているんだよ、君のお父上とは話が全く合わなくてね、君には何の穢れもない清楚な純白のドレスが似合うと言っているのに、レヴィ侯爵は教会の背景と合う淡いブルーのドレスにさせたいというんだ、おかしいだろ」
早口で言われた言葉が理解出来なくて首を傾げると、ユーグ様ははっと我に返って、ゴホンと咳払いをした。
「……とまぁ、場所も城のそばの教会にする予定だし、参列者も今精査しているんだ、まずは既婚者で不貞を働いていない貴族、あっ、ごついばかりのむさ苦しい騎士団員は排除しているから安心してくれ」
「…ガエル様は参列者に入っていますでしょうか?」
「ガエル?……うん?どうして?」
何故だろう、にっこり微笑んでいるのに、怖いと感じるのは初めてだ。
「…その、レティシア様の護衛を務めていた時にお会いしてましたし、その…レティシア様の旦那様ですから」
何となく聞いただけなのに、理由を述べなくてはいけないと感じて頭をフル総動員させると、ユーグ様はふーん、と何だか面白くなさそうに返事をした。
「呼ぶか迷っていたけど、俺の親友だし王女にベタ惚れだから変な気は起こさないだろう」
――普段は"俺"っていうのっ?やだかっこいい
ぼそっと聞こえた単語を拾い、なるべく顔に出さずに心の中が騒がしくなる。
「一応、呼びますよ、レティシア様のお話し相手だったんですよね」
「…そうなんです、レティシア様と初めてお会いした時に話が合いまして…」
いつもの彼に戻ったので、ほっとしてレティシア様の話になったので彼女との出会いからを話し始めるといつものお茶会へと戻っていった。にこにこと私の話を聞いてくれる彼が、その表情の下で何を考えているなんて知りもせずに――





***************



盛大な結婚式を挙げた――それはもう、御伽話のような真っ白なドレスを着て、王族の結婚式でも利用する美しく歴史を感じる荘厳な雰囲気の教会で、司祭様と参列者の前で永遠の愛を誓ったのだ。
この日はいつもしているメガネは外され、綺麗にお化粧とうっとりとしてしまうほど繊細で緻密な刺繍が施されたドレスを身に纏った。黒い髪は頭の上でまとめ上げられ、肩が見えるデザインのAラインのドレスと式の直前に渡されたユーグ様の碧眼の色と同じ色の宝石のネックレスをつけた。反対にユーグ様は真っ白な軍服に胸元に光る勲章が並び、胸元には赤いハンカチを入れていた。もう彼は美形だと知っているのに、美しく恐ろしく似合っている姿は、彼と目を合わせれば見惚れてしまって夢を見ているようだった。
「やっと、夫婦になったね」
彼が私の顔に掛かったレースを後ろにやり、唇同士が触れるだけだった誓いのキスの後に私にしか聞こえない声でそう言った。
――そういえば、手も繋いだ事がないのに急にキスしちゃった
エスコートされる時以外は触れ合う事はなかったのに、二人が最初の触れ合いが誓いのキスなんてすごい。
ぱちぱちと瞬きをすれば、優しく微笑む彼が目の前にいる。
――あぁ、私…ユーグ様の妻となるのね
感極まって胸が締め付けられて、涙が瞳に溢れていく。
「…アレット?」
ユーグ様は私の瞳から涙が一粒ぽろりと溢れるのを見て、目を見開き驚く。
「……お慕いしております、ユーグ様」
それ以上は胸から色々な感情が込み上げてきて、言葉が出てこない。だけど、私の腰に手を添えた彼が一歩近づいて、お互いの額が重なった。
「アレット、嬉しい」
まだ式も終わっていないのに、まだ司祭様がいるのに、参列者もいるのに、泣き出してしまう私を彼は困った声で宥める。
「…もう泣かないで」
突然泣き出した花嫁に、みんなが式の最中にも関わらずシンとしていて、泣き止まないとと思っても一粒零れた涙がどんどん出て来た。ユーグ様は私の涙を拭うと、ほうっと感銘の声が漏れた。
「花嫁が感極まって泣いてしまったようですね、このお二人に永遠の幸せを願いましょう」
司祭様の言葉で式が続けられたが、花婿の手が花嫁の腰に添えられるのは変わらなかった。




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