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短編
しおりを挟む毎日は絶対に見れない。多くて週に3日、会えない週は1日しか見れないか、残業で定時発車の電車にいる彼に会えない時もある。
彼の存在に気がついたのは、28歳で今の会社に転職して半年経った夏の時だった。新しい職場の通勤の帰り道は決まったルートが出来て、毎回同じ電車の時刻と同じ車両に乗る事が増えた。残業の時はもちろん、その電車には乗れないのだが、定時で退勤する時には決まった電車に乗った。
細長い車両のどこかの座席に座ったり、座席の前で立ったり、扉が開く付近で立ったりと色々な場所で電車移動していたが、次第に進行方向の最後尾にある最後部車両に乗ると乗り継ぎが便利だと気がついてそこに立つようになった。帰りの満員電車でも、運転室の見える窓の前にある手すりに掴まると、電車が揺れても身体が倒れないで他人にぶつからない事を発見して、運転室の前に陣取るのが増えた。
いつからか、最後部車両の運転室にいる車掌──ドアを開け閉めしたり、次の駅やちょっとしたお知らせなどをアナウンスする人──の声が一段と低く、話すスピードも一定で、聞いていて心が和むのが増えて仕事であった嫌な事が消えていく。それは毎日聞ける声じゃなくて、たまにだとも気がついた。
次第に運転室にいる車掌を見るのが当たり前になって、毎回私の心を癒すのが同じ人だと気がつくのも至極当然の流れだった。
──名前はなんですか?
心の中で毎回車掌さんに問いかけるけど、答えてくれるはずはない。だってこちらから声も掛けられない窓の先にいるんだから。
170センチの身体は鍛えているのか胸板が厚く、真っ白な半袖Yシャツから覗く腕は日に焼けていた。黒い革のベルトの時計と白い綿手袋で、長方形の小さなマイクを持ちながら口から紡ぐ声の低さと言葉の数々にうっとりとした。帽子を被るその下は黒い短髪が見え、切長の目は少しだけキツい印象を与えるが、私は知ってる──出発する前に乗客から停車駅を聞かれた時に見せる笑顔は、自分に向けて言ってないのに胸がドキドキして死ぬかと思うくらいカッコいいって事。そして夏の半袖から秋の長袖Yシャツ、冬のブレザーを着た姿に変わるたびに私は食い入るように見つめた。
──待受にしたいから写真撮りたい…って、盗撮じゃん
彼が運転室にいる間は誰かと無線で話していたり、ウロウロ動いている姿を見て、彼が私のいる車両に視線を向けると、私は慌てて視線を下げてスマホを触ってるフリをした。
いつからか彼が好きだと知り、だけど声なんて掛けられないから遠くから見つめる事しか出来なかった。
浅岡柚菜、28歳の広告会社で派遣として働いていた。前職は大卒から勤めた正社員だったけど、激務すぎて心が病んでしまい、退職したのはいいが、生きていくために働くしかなくて人材派遣会社に登録して働き始めたのがおよそ半年前だ。
彼に好きと言う勇気もなければ、返事を聞いて断られる事も知っているのに行動に移せなかった。
──彼女はいますか?
──結婚してますか?
彼のいる車両に乗った時の喜び、仕事の嫌なことも全て消してしまう魔法のような時間。見るのは毎日じゃないし、次に会えるのはいつかも分からない。左の白い手袋をじっと見ては、指輪がないか見たけど、遠目からは分からなかった。
──好きです、付き合ってください
そんな私の心の中の告白なんて、名前も知らない彼には聞こえるはずもなかった。
***************
『このたびは、踏切間で起きた信号トラブルにより、電車が遅れまして申し訳ごさいません』
始点の駅から急行電車に乗っていたら、一個前に走っていた電車で何やら信号機トラブルがあり、普段なら通過して停まらない駅で停車した。
──今日はツイてない…いつもの車掌さんじゃないし…
そうしたら、駅のホームにいた乗り換えをする人達が、帰宅時間を早くしたいがために、急行で早く駅に着く電車の中にどんどん乗り込み、鮨詰め状態となってしまう。
──苦しっ
電車が動き出すと、たくさんの人の身体が波のように動いて押されて、私の身体は私の後ろに立つ人と手すりの間で押しつぶされて息が上手く出来ない。緩やかなカーブで人が離れてかと思ったら、また戻ってきて押される。それが何回か続くと、だんだん気分が悪くなって来て、次の駅に停車した時には、吐き気を抑えるのが難しくなり、私は降りる駅じゃなかったけど降りる事にした。
ホームに降りて柱の側で座ると、最後部車両から車掌さんが降りて来て私に声を掛けて来たが、それどころじゃなくてハンカチを口に置いて息を吸っていると、ホームの奥から駅員さんがやって来て、車掌さんと話した後に電車が出発してしまった。
ふー、ふー
と息を吸って吐いていたら、吐き気も少しだけ治った。
「…お客様、大丈夫ですか」
心の余裕ができると周りの環境が分かって、耳に入った声が、いつもマイク越しに聞いていた声だと気がついた。
──う…そだ…最悪じゃん
今日も仕事で勝負服じゃないから、可愛い格好じゃないし、満員電車で揉まれていたし、うずくまって座っているから髪型も服もぐちゃぐちゃになってる。吐き気もあるし、今吐いたら千年の恋も冷める…彼が私のことを好きなんてあり得ないけど、第一印象が最悪と自己嫌悪に陥る。
「…はい、すいません」
ハンカチを口元に添えたまま、少し顔を上げれば、いつも窓ガラス越しに見ていた彼が、私と目線を合わせて一緒にしゃがんでくれていた。
「こちらですと、夜風に当たって体調を崩されますので、駅員室でお身体を休めましょう」
丁寧な言葉遣いと落ち着いたトーンが私の耳から頭に入って言葉を理解するまで、彼の顔をジーッと見つめていた。
「…すいません」
駅員室にある黒いソファーに座って吐き気が治ると、バッグに入っていた水のペットボトルを飲むと、やっと今の状況を理解した。
──手っ…手を触ってしまったっ
立ち上がる時に、白い手袋をした右手を差し伸べられて咄嗟に取ったが、気持ち悪くてそれどころじゃなかった。だけど今思うとすごくもったいない気がしてならなかった。
──私のばかっ!ばかっ!何で気持ち悪くなってんのよっ
自分を責めても、気持ち悪くならなかったらこの駅に下車する事もなかったし、彼に会う事もなかったと思うと、最終的には吐かなくて良かったとポジティブに思う事にした。
──名前も知らない、ゲロ吐いた人から告白なんてお断りだよ
いつかは告白したいとは思っているが、名前も何にも知らない人からされるよりは、すごくハードルが高いけど、ある程度雑談レベルで話す人にならないとダメな気がする。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい…すいません、だいぶ落ち着きました」
青いパーテーションから顔を出した白髪混じりの駅員さんに声を掛けられ頭を下げると、駅員さんは豪快に笑った。
「大丈夫ですよ、一番早い次の急行が到着するまであと30分はありますから、ゆっくりしてください」
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げると、駅員さんがいなくなり、また1人になった。
駅員室に入ったのは初めてで、キョロキョロと周りを見渡す。私が座る2人用の黒いソファーの前には木製のローテーブルがあり、その先に同じ黒いソファーがある。入った時に見えたパーテーションの隣にはグレーのテーブルが並んでいたから、観葉植物が角に置かれているだけのシンプルな来客用のスペースだと気がついた。
──ここに彼の机とかあるのかな
さっきまでは吐きそうでそれどころじゃなかったのに、今はもうストーカーみたいな、不純な気持ちが出てきて困る。
「…浅岡さん、もう大丈夫ですか?」
今度は白髪混じりの駅員さんではなく、私の片想い中の相手が顔を覗かせて来てくれた。
「あ、ハイっ、大丈夫です」
「無理に立つとまた具合が悪くなりますから、座ってください」
勢いよく立ち上がった私に苦笑した彼の笑顔ったらもう!めちゃくちゃ可愛くて──それなりに歳を重ねた男の人に可愛いは失礼だと思うが、ピシッとした姿から空気が和らぎ可愛いのだ──でも見惚れるには不審者なので彼の言う通りに座ると、彼はヨシヨシとでも言うように頷いた。
この部屋に来てすぐ名前と緊急連絡先を聞かれ、何か緊急事態が発生した時は、バッグに入ったお財布から身分証を取り出してもらいますと言われた。幸いにも大事には至らなかったけど、彼に名前を呼ばれると擽ったい。
「…ただ今、電車の遅延の関係で30分ほど目的の駅まで一番早く帰れる急行の到着が遅れてまして、もうしばらくお待ち下さい…それとも駅の改札出ましたらタクシーもありますが」
「いえ、もう体調も良くなったので電車…で帰ろうと思ってます」
「そうですか…でしたらもうしばらくこちらでお待ちいただきます」
白髪混じりの駅員さんに言われた事と同じ事を言われ、申し訳なくなってきた。
「あの…もうホームで待っても大丈夫なんですが」
「具合が悪くなっていたので、30分外で待ってもらうとなりますと、また体調を崩されると思いますので」
だいぶ元気になって妄想してましたとは言えず、ホームで待とうかと思っていたが、遠回しにやめてと言われて駅員さんの好意に甘える事にした。
「あの、すいませんお名前をお聞きしてもよろしいですか…?」
「星山と言います」
ちゃっかり彼の名前を知れた私は、この世の終わりかと思った数時間前の出来事なんて綺麗さっぱり忘れたのだった。
***************
「たっくん!待って」
「ゆずちゃんっ!はやくっ!はやくっ!」
5歳なのに、私よりしっかりしている甥っ子は、電車の時間に乗り遅れると大きな声で言って、改札に入るとすぐにダッシュをする。危ないと言って私も走って甥っ子を追いかけると、足の速い子供は先に駅の最後部車両についた。甥っ子は振り返ってぴょんぴょん跳ねながら私に向かって、出発まであと5分あるよー!と叫ぶ。
「もうっ!たっくん!」
「…ぼく、電車好きなの?」
危ないでしょっ!と怒ろうとして、ホームに停車していた車両の最後部車両から駅員さんが降りて来て、甥っ子に向かって声を掛ける聞いた事のある駅員さんの声に、私の心臓は止まりかけた。
「うん!だいすきっ!とくに、えぬせんけいのシリーズがすき」
「おぉっ、N系って知っているのか、すごいね」
無邪気に駅員さんからの質問に返す甥っ子は、憧れの車掌さんに話しかけられて、にこにこと嬉しそうに返事をする。だけど私の心は早鐘が鳴り、それどころじゃない。
──えっなんで?今日土曜日だよっ?しかも夕方だしっ
今日は姉の子供であるたっくんと一緒に買い物に行った帰りで、たまたま電車に乗る事になっただけなのに、先月助けてもらった──と勝手に思っている──星山さんに会えるなんて偶然がすごい。
会えるとは思ってなくて嬉しい気持ちと、ちゃんと可愛い服でいれば良かったという後悔と、さっき甥っ子に怒っているところを見られて恥ずかしい気持ちが私の頭の中をぐるぐる回っているのに、たっくんは星山さんにN系とやらの素晴らしさを熱弁していた。
ひと通り熱弁したら満足した甥っ子に笑い、星山さんは運転室に戻った。このままお別れかな、と思っていたら、長方形の半透明の白い小さなカードケースを持って私達の元に戻ってきた。
「…これ、N系じゃないけど、この会社が運行するカードだから、このシリーズも好きになって欲しい」
膝を曲げて同じ目線になりながら、カードケースからカードを一枚取り出すと甥っ子に渡した。そのカードは今から乗る予定の車両の写真が載っていて、車両の名前と路線名が表示されているカードだった。子供相手に真剣な表情でこのカードの説明する姿はなんだか、営業マンみたいでおかしい。
「わぁっ!ありがとう!おじさん!ぼくいちばんはえぬけいだけど、このでんしゃは、ままとよくのるからすきだよ!」
カードを宝物に触れるかのように大事に受け取り、甥っ子はハイテンションとなった。
「…あの、どうも…この間もお世話になりまして」
喜んでいる甥っ子との話が終わったから、私の事など沢山の乗客の1人で、忘れているかも知れないと思ったけど、勇気を出して星山さんに話しかけると、彼は立ち上がって帽子を直した。私よりも頭ひとつ分くらい大きい背が私の前に立ち、こんな近くで話すのは初めてだとどきどきした。
「いえ、もう体調はよろしいのですか?浅岡さん」
「はい、もうあれから無理に満員電車に乗らなくなりました」
「はは、あの時は電車遅延でしたので…しかし無理は禁物ですから」
覚えておいてくれたと感動したけど、話すきっかけが介抱って、と微妙な始まりだったのが引っかかったけど、やっぱり話せるようになったのは大きいと一歩仲良くなったと嬉しくなった。
「それに…可愛いお子さんですね」
星山さんはチラッと甥っ子に視線を向けてそう言うと、私はとんでもない勘違いをしていると口を開けると、
「ちがうよ?ゆずちゃんは、ままのいもうとで、ぼくのおばさんだよ?」
私の代わりにしっかりとした口調で甥っ子が言ってくれ、私も慌てて甥っ子の言葉に頷いた。
「違いますっ、私の子供じゃないですっ…たっくん…この子は姉の子供で甥っ子ですっ!」
確かに甥っ子とは顔は似ているが、どちらかという私と姉の雰囲気が似ているから良く自分の子供かと聞かれる事が多い。
普段ならまだ結婚していないのかと言われたりするかま、子供がそばにいればそんな事は聞かれないから別に訂正はしないけど、今回ばかりは違う。
──うそっ、やだやだっ、誤解されたくないっ
始まろとしていたのに終わるなんて絶対に嫌だと思っていたら、星山さんは目元を少しだけ赤くして頬を掻いた。
「そうなんですか…でしたら、浅岡さんにはこちらを」
ボソボソと聞こえた声のスピードは早く、星山さんは手に持っていたカードケースからではなく、胸ポケットから一枚のカードを私の前に出した。
「…えっ…これ」
甥っ子と同じ車両の写真が載ったカードを貰ったんだけど、裏面を見ると電話番号とSNSのメッセージアプリのIDが殴り書きされていた。
「…良かったら…今度ご飯食べに行きませんか」
あっ、とか、うっ、とどう返事をしていいのか考えていたら、発車時刻が近づいたのか、彼は
「…では、お待ちしてます」
そう言って帽子を直すフリをして頭を下げると、運転室へと行ってしまった。
「…ゆずちゃん?乗らないの?」
甥っ子に手を引っ張られ、彼のいる運転室がある最後部車両に乗ると、甥っ子は運転室が見える場所に陣取った。
──まるで私みたい
背伸びしても甥っ子は見えないから、私が抱っこをすると、私に抱きつきながら、星山さんの動きをじーっと見ていた。
電車が出発すると、甥っ子は運転室の奥に見える景色を眺めて楽しんでいた。気まずいと思いつつ、甥っ子を見るフリして星山さんを盗み見たら、彼と目が合ってお互い照れてしまう。
──初めて目が合ったかも
時々甥っ子が彼に手を向かって手を振ると、彼も最初は戸惑っていたが小さく振り返してくれるようになった。
「ゆずちゃん!つぎだよ!」
いつもの乗り換えの駅に到着すると、ぐずる事なく電車に乗れた甥っ子は私の腕から降りた。
ゆっくり減速する電車がホームに到着して、星山さんがドアを開けると一斉に乗客が降りて、星山さんも一度降りて乗客が車両を乗り降りする見て、また運転室のドアを閉めて、ドアの小窓を開けるとホームに停まっていた車両のドアを閉めた。
「ばいばいっ!!」
大きな声で手を振る甥っ子に、星山さんは手を振り、私を見て頭を下げると電車が動き出した。
電車がホームからいなくなるまで、動こうとしない甥っ子に付き添いながら、彼から連絡先を貰ったと、今更ながら実感した。
***************
「すいませんっ、待ちましたか?」
「いや、ちょうど来たところだよ」
12月の最初の土曜日、10時ぴったりに駅の改札前で待ち合わせをした場所に、5分前に行くとすでに星山さんがいて小走りで近寄ると、彼は私が来たと何故か笑った。
──私服だっ…帽子も手袋もしてない
いつもは制服で当たり前なのに、黒のショルダーバックを胸に掛けて、シンプルな濃緑のダウンジャケットと黒いジーンズを履いた星山さんにどきどきする。
「…今日も可愛いね」
「あっ…ありがとうごさいます」
彼は私の服装を見て惜しみない賞賛をして、私の方が照れてしまう。私の服装は白いハイネックのニットとモスグリーンの腰回りに大きなボタンが3ついたフレアロングスカートで、茶色のブーツとブーツと同じ色のコートを羽織り、白いミニバッグを持っていた。
彼のダウンの色と私のスカートの色が似ていて、まるでペアルックみたいで嬉しい。
星山さんからSNSのメッセージアプリのIDを貰ってから、初めて送る文章とか悩んでいたら夜になっていた。
『浅岡です 今日は甥っ子にカードありがとうございます』
と、まるで近所の人に送る簡潔なお礼文になってしまったが、送信してしまったのでどうしようもなかった。なかなか既読が付かなくてヤキモキしていたら、それから2時間くらいして星山さんからの仕事が長引いて返信が遅れたとあり、そこから毎日少しずつメッセージのやり取りをするようになった。
おはようからおやすみまで、誰かと毎日連絡をする習慣なんてなかったから新鮮で楽しくて、毎日が華やかになった気がした。
『電話で話す?』
ある日星山さんからメッセージが届いてからは、2日に一度は時間が合えば電話で話すようになった。
他愛のない話や好きな事、彼が今年33歳と知り、私の年齢をいうと、敬語だった2人はフランクに話すようになり、ぐんと距離が縮まったような気がした。彼が運転室にいる帰りの電車で会うと、会釈をするようになった。変わらずに彼が見てないところで、じーっと見てしまうのは、もう彼の声を聞いて姿を見るだけで疲れなんて吹き飛んでしまうようになってしまったから、今更止めようとは思わなかったけど。
駅員さんは365日電車が稼働しているから、後から考えたら当たり前だけど、シフト制だと知って驚いた。だから星山さんは日曜日の休みは2か月に一度くらいと、始発の車掌になる場合もあるから、独身だから寮で暮らしているといつかの話の時に聞いた。
SNSのメッセージアプリでやり取りが始まり、ひと月が経つと、来月のこの日の土曜日なら休みだからどこかに行こうかと誘われて、私は了承した。私は事務で働いているから土日祝は休みで、シフト制の星山さんと休みの日が被らないから、仕事終わりか有給取って彼とご飯でも食べに行こうかなと思っていたのだけど、星山さんのほうから誘ってくれて純粋に嬉しかった。他愛のない話をする日常の中で、一切好きとか気になっているとか、そんな素ぶりを見せないから、私に好意を持っていてくれているのかも、と自惚れいる所に会った途端に褒めるものだから余計に勘違いした。
──もう一個のスカートと悩んでたから、こっちにして良かった
歩き出した彼の横に並びながら、昨日の夜から悩んでいた服装問題で、最後までそんな事を考えていると、
「朝ごはん食べた?」
「あー、それがまだで…星山さんは?」
「俺もまだ…この近くのカフェに入って温かい飲み物でも飲もうか」
何にも食べていない私に合わせて言ってくれたのかな、と優しいと胸がときめいた。
着いたカフェでは、朝の11時までモーニングの時間帯のサービスの一環で、コーヒーの値段にトーストが付くサービスをしていた。
「ホットカフェラテと、ブラックのコーヒーひとつで」
お店に入ってすぐ長いカウンターの端にレジが設置され、注文をするとお店の奥へと行けるカウンターの終わりで注文した商品を受け取ることになっていた。
土曜日の朝だけど、学生らしき人がもう勉強を始めていたり、年配の方が読書をしている。
2人で空いている席を見つけて荷物を置いて、品物を受け取るカウンターに戻って、店員さんが順にトーストや飲み物をトレーに載せるのを待った。
「…砂糖は使う?」
「俺はいいよ」
カウンターの横にあるスティックシュガーやコーヒーミルク、ガムシロップや木製のマドラーとストローやナプキンが置いてある場所から、ひとつだけスティックシュガーを手に取り、トレーにそっと載せるとちょうど注文していた飲み物とトーストが出来たので、星山さんはトレーを受け取った。彼の後ろをついていき、席に戻った。ちょうどカウンターしか空いてなかったので隣同士に座り、2人のちょうど真ん中にトレーが置かれた。
「今日は、前に行ってみたいって言っていたココと、散歩がてらイルミネーション見に行こうか」
もしかしたらお昼は遅くなるかもしれないと言った星山さんは、私に今日行く場所のサイトを見せてくれた。
「…わっ綺麗」
見せてくれたサイトは、私が以前行ってみたいと電話で話している時に零した場所で、建物の中に何個かの部屋があり、アトラクションではないけど、幻想的な光と花や風船で演出された空間を体験出来る所だ。たとえば、鏡が天井も壁面にも張ってる部屋に、細長いライトが天井からいくつも吊り下がって、いろんな色で光り、写真映えする今話題のデートスポットだ。
私と彼の間の真ん中にある彼のスマホの画面で、2人で見ていると、自然と距離が近くなる。
「お昼は先にする?」
「…どうしようか」
「この場所混んでたら先に食べようか」
「うん」
トーストを食べながらこの後の予定を決めると、次の目的地へと向かった。
***************
「はいチーズ」
土曜日って事もあり、混雑していた目的地で、お互いを写真に収めながら、いくつかの部屋を過ごしたら、座る事にした。この部屋は床が鏡だったけど、天井と壁面が一面に赤や濃いピンク、黄色などの花の高画質の映像が流れて床に反射して、本物の大きな花の中にいるみたいだ。ここのゾーンは床に座って少しだけ休憩する事になった。隣に並んで座り、私の左腕と星山さんの右腕が触れる。朝はよそよそしい雰囲気だったのに、今はもう身体が当たる時が多くなっている。それに、最初の場所は1人の被写体が多いのに、だんだんツーショットの写真が増えている。
「…浅岡さんの名前はなんて言うの?」
お互いが撮った写真を見て、SNSのメッセージアプリで送り合っていたら、ふと私の画面を覗きながら星山さんが聞いてきた。
「柚菜…浅岡、柚菜」
私が自分のフルネームを口にすると、急に花の映像から、真っ青な空と真っ白な雲の映像に切り替わり、夏の晴天の下にいる錯覚に陥る。
「…名前まで可愛いね」
足りないのは太陽の日差しだけだと思っていると、隣からフッと笑う星山さんの低い声が聞こえて、空耳かと彼の方を向くと、私を愛おしそうに見つめる彼と視線が合った。
「…星山さん?」
カラカラに喉が渇き、上手く言葉が出てこない。
──今、名前まで可愛いって言った…?私の事、好きなの…
「一眞、俺は星山一眞」
「一眞くん…?」
ってら呼べばいいのかと聞こうとしたら、星山さんは私から視線を外さずに、また口を開いた。
「柚菜ちゃん、俺君が好きだ…付き合って欲しい」
告白されるなんて思いもしなかったから、驚いて声が出ない。
「その顔も可愛い」
困ったように眉を下げて笑う顔は、電車に乗っていた時に見た、接客している表情とは違って、普段のとっつきにくそうな雰囲気とはかけ離れて、とっても幼く見える。
──あなたの方が可愛いですっ
と言おうとしたけど、彼に言われた言葉がやっと頭の中で理解出来て、私は胸がいっぱいになって嬉しい気持ちが溢れた。
「あっ…の、私もっ」
好きですっと返事をしようとしたら、私の左の頬に手を伸ばして添えた彼の顔が近寄り、私の視界が彼の頬と形の良い耳といつも帽子をしているはずの短い髪になる。
──耳の下の顎のラインが男の人だ…
自分とは違って、くっきりと太い線だと理解すると同時に、私の唇にカサついた固い物が当たったのに気がついた。唇同士が触れるだけのキスは、しばらく重なっていたが、彼の唇が離れた時には熱い吐息が私の唇に当たった。
「私も好き」
今度は落ち着いて気持ちを伝えると、星山さんは
「俺も好き」
と言ってもう一度、今度は私の上唇を喰みながらキスをした。
「一眞くん…んっ、っ」
人に見られたと思っていたが、映像の切り替えのタイミングで初キスをしたから誰も私達に気がついていなかった。告白された空間を出ると、次の部屋に行ける広い廊下の柱の陰で隠れてキスをするようになった。
「ごめん、嬉しくてしょうがない」
一眞くんはそう言って私を壁と柱の間に隠して、私に覆い被さるように立つと私の唇を奪った。唇を合わせるだけだったのに、廊下を進み、演出された部屋を出るたびに舌の絡む濃厚なキスへと変わっていった。
「ちょっと余裕ないかも」
情熱的なキスをされ、酸欠気味の私の頭は何も考えられなくて、ただただ一眞くんを見つめることしか出来ない。彼の大きな手が私の頬を挟み、指先で耳朶や頬を撫でられると、私も彼の身体に身を任せるようになった。
「…ずっと、好きだった」
小さな声で囁かれて、キスをされ続けた。
──私もずっと好きでした
言いたい事はいっぱいあるのに、今はキスをしていたい欲には勝てなかった。
建物を出た時には2人の指先は絡まって繋がり、距離感もゼロとなっていた。
星山一眞は、ある梅雨明けの夕方の退勤ラッシュで見かけた、可愛らしい女性に目を奪われた。毎日のように何十万人と行き交う人々を見てきた一眞は、一目惚れなんてした事なかったのに、その時だけは彼女以外は切り取られたみたいに他の人を人として認識できなくなり、モザイクがかかったように見えなくなった。同じ時刻の電車に乗る彼女が自分のいる電車に乗ると、知らず知らずのうちに通常よりもゆっくりと低い声でアナウンスを続けた。まるで俺に気がついてくれ、とでも言うように願いを込めているかのように、大きな瞳で自分を見て欲しいと思うようになったが、彼女は他の人がしているように手元のスマホを見ている。
──彼氏かな、そりゃいるよな、可愛いから
むかむかと面白くない感情を抱えながら、過ごした日々はある日突然終わりを告げた。彼女が具合が悪くなり駅長室へと連れて行った後から、怒涛の展開が始まる。後日彼女が連れ歩いていたのは彼女の子供だと俺は勘違いしてしまったが、実は甥っ子であると知った時は心から嬉しいと思った。電車が好きだと言う彼女の甥っ子に、子供用に配る電車カードを渡す分を取りに行くと、運転室で急いで渡す用の電車カードに自分の連絡先を書いて渡したあの時の俺の行動力はファインプレーだと今は思う。
ただの車掌と乗客だった関係から、ひょんなきっかけで名前を知るようになり、休日でばったり会った時に連絡先を交換して──ついには彼氏彼女の関係となった。
そう遠くない未来、2人はさらに深い関係になる。彼女の退勤時間なんて残業がなければ大体同じだから、教えて貰った彼のいる電車の時刻の電車に合わせて乗るのが多くなった。
たまに満員電車でぎゅうぎゅうとなると、運転室と乗客が乗る車両を仕切る窓が白い結露で曇る。誰も見ていないのをいい事に、指先でハートマークを描いて運転室にいる彼氏に告白をすると、彼女にベタ惚れした彼氏は照れ笑いをして、彼女はその姿に激萌えした。
電車を降りる時に、また後で、と、ぱくぱくと口を動かした彼のメッセージに彼女は頷くと、退寮した彼の帰りを新しい新居で待ったのだった。
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