さよならの研究

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さよならの研究

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 A氏はとあることに没頭していた。それが「さよならの研究」である。

 人間というのは個人という単位であっても、社会という単位であっても別れで世界は駆動していると言っても過言ではない。別れたくないから人々は科学や宗教を前へ進めてきた。死後の世界を創造したのもこれが理由に違いない。それほどまで別れを忌み嫌ってきた人間としての歴史がある。

 しかしながらA氏には全くもって別れの悲しみを理解することができなかった。ある他者を認識、想像するに際してその他者自体の存在は全く必要ない。会えば必ずその人を認識できるわけではないし、会えないからと言ってその人を認識できないわけでもない。寂しく感じるならば、もう一度認識したいと強く願うならばただそうすればいい。

 他者が存在しなくなる別れについての問題は主に二つある。

 一つは情報のアップデートができなくなるということだ。しかし愛おしくなる彼はその彼として既に完全な存在なのではないか。アップデートしたい一部があるのか。もしあるとしたらそんな彼は、別れでもってあなたに深い悲しみを与えることができるのだろうか。否だと思う。

 もう一つは忘却の可能性があるということ。A氏は頭を抱える。ならそこまでだということだろうし、それでいいのではないか。忘れたくないなら忘れなければいい。

 A氏はこの研究に際して様々な動物を飼育した。愛情と時間を大いに注ぎながら彼らに接した。一定期間後彼らは土へと還っていく。しかしながらやはり上記の仮定から脱することができない。

 A氏は娘を殺した。彼女はA氏をとても愛していたし、彼もまたそうだった。全く恨みなどない。むしろ感謝の気持ちでいっぱいであった。しかしそこに迷いは一切ない。もちろん結果は目に見えていた。A氏は彼女に対して情報のアップデートが必要だとは到底思えなかった上、絶対に忘れない自信があった。

 A氏には妻がいた。この妻も夫と同様にどこか狂っていたのだろう。こんなA氏に対して献身的な生活を送っていた。自らの娘が殺されることに対して一切の抵抗を見せなかったどころか、彼女の首にA氏がロープをかけていたときに手を押さえていた人物こそがこの妻であった。愛する夫のために。A氏は、この研究を成功させることこそが愛する妻へ対する最大の恩返しになるだろうと思った。

 そこから数年後、A氏が妻を乗せて車を運転していた時だった。眩い閃光が目を刺す。その閃光に似た音がしたなと思った瞬間、体に激しい痛みを感じた。そして快楽すら感じるトリップ。

 気がつくとA氏は道路の上に倒れていた。泣き叫ぶ妻の声。視界の大半が赤く染まっている。この赤い世界を自分が作ったことを知り、死を悟る。これまでで最大の別れを体験することになるだろう。現実世界との別れ。妻との別れ。しかし今まで同様現実世界に不満はない。忘れることもないだろう。死後に感情を駆動できる場所があればの話だが。それ程まで素晴らしき世界だった。妻も同様である。

 そう世界に別れを告げた後、妻に対しても別れをと思ったその時、一つの考えが細胞レベルで身体を精神を駆ける。


 
 妻は私に対してアップデートを求めるのではないのか。アップデートできない不完全な私のことなんて妻は忘れてしまうのではないか。



 震えが止まらない。熱い血が体の外へ妻を求めて手を伸ばす。これは盲点だった。私は妻を愛している。

 忘れてほしくない。いつまでも君の中で。別れてしまえばもはや願うことすら叶わない。死後の世界などない。だからA氏がこの不安に駆られるのも長くて数分だろう。しかしこの数分こそが一生。一生をこの思考に囚われることこそが。ああ。忘れないでおくれよ。どこかで私が彼女を認識できるとしてもその彼女は私を知らないかもしれない。この可能性が私の認識する妻を不完全な姿に変えていく。

 A氏の妻は最愛の夫の命が尽きかけるのを片目に発狂した。髪を毟り口に入れる。手の皮膚をお供にしながら。走る。回る。あまりの禍々しさに美が宿り踊りになる。車の油と人の血の川。金切り声はどんなソプラノよりも人の心を掴み、握り潰す。

 彼女は地面に落ちる鋭い破片を手に取った。首に当てる。

 意識が遠のく中でA氏が最後に見た景色だった。暗転した世界で母に抱かれるような幸福感と安心感に包まれていた。

 これで妻が私を忘れるという可能性は消えた。どこに行っても私の認識する彼女は私を忘れていない完璧な存在である。アップデート?忘却?笑わせるな。

 A氏は心の中で妻への別れを済ませると、完璧な彼女の手を取り川を渡った。
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