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 錬金術の主目的は卑金属を貴金属に変えることにあった。数多くの研究者達が思考し、時に馬鹿げていると感じられるようなことを真面目に行う。
 黄金は手に入らなかったが、新たな技術の発見はそれなりの富と名声を生んだ。
「ほんとに出来るのかな。妄言を書き残しただけの錬金術師って多いんだよね……精子や血液はともかく馬糞で人工生命体って生まれるのか? 薬草と聖水もなんか怪しいような……」
 ぼやきながらシミオンが用意している蒸留器も錬金術によって生まれた技術だ。混合物を分離させ、濃縮させる。今回は本来の用途と違い、フラスコの温度を安定させる装置として利用する。
「ま、自ら失敗しなければ明確な否定も出来ないし。成功すればホムンクルスが生まれるんだし。やるしかないね」
 本に記された材料達。それもシミオン自ら採集に出向き、品質の良い物ばかりを選りすぐった。フラスコの中へ詰め込み、蒸留器を利用して馬の胎内と同じ温度を保つ。
「……たとえ失敗しても。休みが出来たと思えばいいさ」
 ぐちゃぐちゃになった材料達を見つめる目は静かだったが、その奥底に期待の火は消えない。
「叶うなら。妄言でなく会いたいよ。僕のホムンクルスに……」
 ホムンクルスの錬成を決意したシミオンに、富と名声を欲する気持ちはなかった。本当にホムンクルスが生まれるのか試したい知的好奇心はある。だが何よりもシミオンを親と慕い、共に過ごしてくれる存在が生まれるかもしれないという可能性に期待していた。
 シミオンは家族が欲しかった。
 同性しか愛せず、しかし伴侶が出来るとは思えない。孤独な男は妄言としか思えないことにすら縋り、家族を生むべく一年近くの長期に渡る真偽不明の錬成へ手を出した。

***

 錬成は暇だった。フラスコの中の温度が冷めたり、熱くなり過ぎないよう注意しなければならないが、本番前に何度も試していたおかげで安定している。それでも何があるかわからないので油断は出来ず、睡眠以外目を離したくなかった。
 ホムンクルスの錬成を始めてから、シミオンの生活はフラスコの前で営まれた。溜め込んだ素材を使って他の道具を作るのも、時間がなくて積んでいた書物を読むのも、食事は勿論入浴代わりの清拭も何もかも。排泄だけはフラスコの前では出来ないので便所へ駆けた。
 何をしていても時折フラスコに突っ込んだ温度計を見て、異常がないか確認する。睡眠も短い仮眠のようなものをぶつ切りに取る。
 そんな暮らしが始まって三日目、窓の外を宵闇が包み込んだ頃のことだった。
 長期休業中の札をかけた工房の扉が控えめに叩かれた。起きていたシミオンが扉越しに誰か尋ねると、返ってきたのは恋い焦がれる男の声と名前だった。
「テオドア? 何かあったの?」
「食堂に行ってもここ最近、きみを見ないから……何かあったのかと店主に聞いたら、長く休むことになったと言われて。きみの方こそ何かあったのではないか?」
 食堂に顔を出さないシミオンを心配してくれたらしい。優しいテオドアらしいと頬を染めつつ、シミオンは錬成の為の休みだと答えた。
「一年近く? 何故そんなに掛かるんだ」
「それだけ難しい錬成なんです。片時も目を離したくないくらい。何かご用があるのなら、錬成が終わってからお願いします」
 テオドアが食堂に通うようになったのは半年程前からのことだった。貴族である彼が庶民の食堂を利用するのも珍しいが、たまにシミオンの作った傷薬を買っていってくれる。
 薬が欲しかったのかもしれないが、今のシミオンはそれ所ではなかった。
「きみはやはり凄いんだろうな」
 返ってきたテオドアの一言は、シミオンにはよくわからなかった。何を指しているのか。どういう意味なのか。
 テオドアに褒められるようなものは、シミオンには何もない。
「会えないのは辛く寂しいが、きみの錬成が無事に終わることを祈っているよ」
「ええ。ありがとうございます」
 扉越しの会話が終わり、テオドアらしき足音が工房から離れていく。それが聞こえなくなってから、シミオンは深く息を吐いた。
「……おまけだよ。好きな人の側をうろちょろしてる奴でも、何かあったら心配してくれるくらい優しいんだ」
 わざわざ訪ねてきてくれた理由は、シミオンの為ではないのだと自分に言い聞かせて諦める。酷く胸が痛むが、実際そうなのだろう。諦めなければならないことはこれまでにもたくさんあった。
「諦めたから師匠に会えたし。諦めたから……」
 蒸留器に温められるフラスコを見る。温度計は来客前と変わらぬ温度を示していた。

***

 テオドアの来訪から夜が明け、時計が昼前を教える頃。工房の扉を叩く者がまた訪れた。
「シミオン。開けてちょうだい」
 扉を叩く軽い音と共に聞き慣れた少女の声が届き、シミオンは扉を開けた。手に編みかごを下げたメリッサが「こんにちは」と中へ入る。
「メリッサ。どうしたの?」
「差し入れと売上金を持ってきたの」
 はい、と差し出されたかごの中を確認すると、焼き立てのキッシュと麻袋が入っていた。
 ごつごつとした麻袋を手に取るとずっしりと重い。開いてみると硬貨が詰まっていた。
「傷薬と洗剤、もうすぐなくなってしまいそうなの」
「そういえばビルさん、売っといてくれるって言ってたっけ。待ってて、昨日たくさん作ったんだ」
 キッシュと売上金を取り出したかごの中に、食堂に置いている商品を詰める。売っておくわね、と微笑むメリッサに感謝の言葉を伝えると、大きな瞳はじっとシミオンを見上げた。
「また来るわね」
「うん、ありがとう。商品作っておくね」
 一年近くも休みを取って迷惑を掛けているというのに、シミオンの商品を売ってくれるメリッサ達には感謝の言葉もない。復帰したら今まで以上に働こう。そんなことを考えているシミオンの表情を見て、メリッサはため息をついて帰っていった。

 メリッサは数日おきに差し入れと売上金を手に、訪問してくれるようになった。一人工房に閉じ籠ってフラスコ見守っているシミオンにとって、訪れる彼女と少し会話をするだけでも楽しかった。
「きっと店に戻ったら感激しまくるね。酔っぱらいのウザ絡みもありがたく思うかも」
「ふふ。なら復帰初日は夜にしてもらうようお父さんに言っとくわね」
 その日も訪れたメリッサと他愛ない話をしていた。笑顔を浮かべてくれるが、無理をしているような気がして大丈夫なのかと問いかける。
「お店は大丈夫。シミオンがいなくて寂しいだけよ」
「本当に?」
「ええ。私はこうしてシミオンに会いに来る理由があるだけマシだわ」
 メリッサはそう言って商品を詰めた編みかごを掲げた。
「メリッサなら別に、理由がなくたって歓迎するよ。あんまり相手は出来ないかもしれないけど」
 メリッサとは食堂で働き始めた少年期からの仲だ。幼馴染みというよりは姉であり妹のような存在の彼女は、確かにシミオンにとって特別な人だった。
「……ありがとう。シミオン」
 特別な彼女の笑顔は、僅かに陰りを帯びていた。

***

 フラスコの中は問題なく同温に保たれたまま日々が過ぎた。錬成が進んでいるかと問われると、頷くことは出来なかった。書物に記されたホムンクルスという存在、その創造が正しいのかがそもそも不明なのだ。
「……馬の胎と同温で四十日程して……それが人の形を持ったなら……」
 記されていた記述を述べてみる。フラスコの中で混ざり、濁り、境のなくなった素材達はどろどろとしており、何かを形作る気配はなかった。
「今日は何をしようかな……」
 給仕の仕事をせず、客の依頼に答えるでもなく、工房に籠る暮らしは暇を生み出すだけだった。貯蔵した素材はまだあるが、食堂に置いた商品在庫は既に潤沢で、しばらく追加はいらないだろうとメリッサに教えられた。
 積んでいた本もあらかた読み終えてしまった。新たに得た知識をまとめ、ホムンクルスの錬成を終えたら行いたいことは増えたがフラスコから目を離せない今は出来ることが少ない。
 フラスコの前まで椅子を引き、ぼうっと中を見つめる。灰色のような茶色のような、形容し難い材料達を眺めているとゆったりとした睡魔が襲ってくる。
「弟子になって。働き始めて。こんなにだらけてるの、初めてかも」
 毎日を忙しく過ごしていたシミオンにとって、退屈は無縁だった。両親の庇護下にあった頃はどうだったか。もう覚えていない。
 瞬きの数が増える。寝入ろうとしているシミオンの視界の中、小さな変化はゆっくりと生まれ始めていた。
 フラスコの中の存在は、その形をゆっくりと作り始めた。球体から長い何かが生えたような奇妙な形。それは少しずつ輪郭を確かなものに変えていく。
 球体は頭。豆粒のようなそれにぽつりと生えた二つの黒い点は目だ。頭から伸びているのは胴体で、いつの間にか小さな手足らしきものも生えていた。
 素材はいつしか色を澄み渡らせ、その中に小さな胎児が微睡んでいる。その様子を黙って見つめていたシミオンの見開かれた目から、透明な雫が零れ落ちた。
「……形。形を持ったなら」
 フラスコの置かれた机に前のめりになっていたシミオンの体が起き上がる。辺りを見回し、目的の物を見つけるとすぐに動いた。
 戸棚の上に置かれていた短剣を取り、鞘から抜く。磨かれた刃先で人差し指を僅かに刺すと、小さな赤い玉がぷっくりと生まれる。
 フラスコの中へ血を垂らすと胎児は静かに真紅を吸った。フラスコの中は透明なまま、血生臭さの欠片もない。
「毎日血を与える。これを四十週行うことで……」
 側に置かれていた傷薬を手に取り、指へ塗ると傷はすぐに塞がった。
「ホムンクルスが誕生する」
 言い聞かせるように口述するその顔は、期待から紅潮していた。
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