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照明の消えた室内は窓から差し込む月明かりによってうっすらと輪郭を持たせている。
今年で高校生になった雅(みやび)が寝転んでも広々とした余裕のあるベッドの上にはもう一人、雅より立派な体躯の男が横になっている。同世代の平均身長よりは少し小柄な雅と違い、長い手足と程好く筋肉のついた体型は男らしくてかっこいい。雅の年代では容姿の整った成人男性というだけでも憧憬を抱くというのに、彼は雅の恩人であり、愛すべき夫でもある。
ぱっちりと覚めてしまった目は飽きもせず共寝をする男を見つめた。男らしく太く整えられた眉、その筋に沿う鼻は高く、今は閉じられた眼差しは開けばいつも雅を見守ってくれる。鋭利なラインを描く顎の上には雅に優しい言葉を紡いでくれる薄い唇がある。
彼の顔は勿論、声も性格も何もかも。雅は彼のことが大好きで愛している。
十歳年の離れた幼馴染みである彼、芹沢篤史(せりざわ あつし)は小さな頃から雅の憧れだった。テレビの中の芸能人のような――それ以上にかっこいい年上の篤史を慕う雅は彼に纏わりついてはしゃぎ、鬱陶しいだろうに嫌な顔一つせず雅の相手をしてくれた。
自分も忙しい筈なのに時間を作っては雅を訪ね、勉強を見てくれるおかげで小学校時代の雅の成績はクラスで一番だった。
篤史が大学に上がると頻繁に会うことは出来なくなったが、それでも月に数回は雅に会いに来てくれた。大学を卒業して起業した彼は多忙を極めたが、それでも必ず雅との時間を作る。
大切にされている。そう自惚れても仕方ない。だからつい、彼に愚痴を溢してしまったのだ。
雅の家は和菓子屋を営んでいる。今の町に店を出したのは曾祖父の代なのでわりと近年だが、技術の継承は遡れば江戸時代から続いているという。古めかしさや地元民からの親しみはあるがそれだけでは続いていかない昨今。店は倒産の危機に瀕していた。
篤史と同い年の兄、尊(たける)が店を継ぐ為に高校卒業後製菓学校へ通いながら修行を始めた頃。まだ雅は八歳で、この頃から既に経営難の兆しはあったらしい。
何も知らないまま時が過ぎ、雅が中学に上がり半年が過ぎた十月のある日の夜。喉の渇きを覚えた雅が台所へ向かうと、居間の電気が点いていた。
ぼそぼそと話し声が聞こえ、気になってこっそりと様子をうかがった雅の耳に「店を畳むしかない」という兄の声と、反射的に怒鳴り付ける父の声が聞こえた。母はさめざめと泣いていた。
製菓学校を卒業してからというもの、本格的に父の下で修行を始めた兄は経営にも関わっているようだった。両親も兄も雅には何も言わないが、影でこうして何度も話し合っていたのだろうか。
まだまだ子供の雅に話してもどうしようもない問題だと理解は出来る。けれど家の問題ならば雅にも話してほしかった。
雅は音を立てずに部屋に戻り、布団にくるまって今聞いたことを反芻し顔を青ざめる。息子が、弟が不安に駆られるようなことを避けたいが為に秘匿していた彼らの心を当時の雅は察することが出来なかった。
実家が潰れてしまうのではないか。突然知ってしまった不安の種を相談出来る相手は家にも学校にもいなかった。ただ一人を除いて。
「どうした雅。今日は落ち着きがないな」
シンプルな家具の設えられたモデルルームのように綺麗な篤史のマンションに勉強を教わりに呼ばれ、二人掛けのダイニングテーブルに座った雅は篤史と向かい合っていた。いつもなら篤史のアドバイスを受けながら宿題を解いていく真面目な雅が、今日は全く集中出来ていない。
せっかく忙しい時間を割いて勉強を教えてくれているというのに、雅はそんな気になれなかった。頭を下げて今日はもう帰ろうとすると、穏やかな声に止められる。
「雅。どうしたんだ。何かあったなら教えてくれ。俺はお前の力になりたいんだよ」
集中力のない雅の態度も、貴重な時間を潰されたことも怒らず、ただ雅を心配した様子で尋ねてくれる篤史の声に。雅の目から大粒の涙が零れ落ちた。
不安な心を涙として具現化出来るのは家族の寝静まった夜の布団の中くらいで、悪い想像ばかりが渦巻く頭は少しも休まらない。
「……勉強したって。高校、行けないかもしれない」
「そんなことない。雅は覚えがいいから進学校だって狙えるさ。俺もサポートする」
勉強についていけないと不安に思っている。そう捉えた篤史の言葉に首を振る。前提が違った。
「…………うち、もしかしたら潰れるかもしれないから。そしたら、ぼく、学校行かないで働く」
中学は義務教育なので行政の補助を受ければ何とかなるかもしれないが、高校は無理だろう。通えるのなら働いて家族の助けになりたい。
「……潰れる? 桜花堂が?」
桜花堂は店の名前だ。曾祖父が店と隣接して家を建てる際、二つの建物を繋ぐ中庭に桜を植えたことにちなんで名付けられた。
「……篤史さん。今までありがとう。高校も大学もきっと無理だから。もういいんだ」
雅を思って費やしてくれた時間は全て無駄になってしまった。申し訳ない気持ちが頭を深々と下げさせる。木製のテーブルに鼻先が触れた。
今度こそ帰ろうと立ち上がった雅だが、篤史の方が早かった。さっと立ち上がった彼は長い足を動かして回り込み、雅へ腕を伸ばす。
「結婚しよう」
力強い腕の中へしまいこむように抱き締められ、流されるままに篤史の首筋へ顔を埋める雅
の耳に囁きが聞こえた。
「え?」
「桜花堂の援助をする。経営についても可能な限り相談に乗る。だから俺と結婚してくれ」
抱擁が解かれたかと思えば今度は至近距離で見つめ合い、再び求婚の言葉をぶつけられる。雅も篤史も男同士だが、数年前に同性間の結婚を認める法改正が行われたので問題はない。
雅の心も問題はなかった。
ゆっくりと、小さく頷く雅はずっと昔から恋をしている。目の前の彼。兄の友人。年の離れた雅の幼馴染みの男性に。
「良かった……雅、大丈夫だ。お前には俺がいる」
再びぎゅうぎゅうと締め付けるような抱擁に合っても雅は苦しむことはない。予想だにしなかった展開に頭も心も体すら麻痺している。
「……ど、して。結婚、してくれるの」
篤史は桜花堂の和菓子を好いてくれている。たまに店にも顔を出して饅頭を買っていってくれるし、篤史の家に行く時に母に必ず持たされる手土産を渡すと嬉しそうに笑って雅と一緒に食べてくれる。
桜花堂の客として力になりたいと思ってくれるのはとてもありがたいけれど、雅と結婚する意味は何だろうか。担保なのか。
考えを見透かしたような顔をして「違うよ」と否定して。一拍置いた篤史は、蕩けるような笑顔を見せた。
「雅が好きだから。援助を盾に結婚したいだけなんだ」
雅に都合のいい言葉ばかり聞こえてくるけれど、それが雅の現実だった。
その日の勢いのまま、雅を連れた篤史は桜花堂を訪ねた。息子の友人であり、小さな頃から見てきた顔であり、今は常連客である篤史に対し両親も尊も好意的に出迎える――が。
真っ直ぐ父の厳(いわお)に対して話があると申し出た篤史に何か感じ取ったのか、三人共に顔色を変える。厳と尊は篤史を住居スペースへ促し、ついていこうとした雅を厳は「子供の聞く話でもないだろう」と止め、篤史も待っていてくれと頷いている。
「お母さんとお店番してちょうだい」
「うん……」
母に言われ、閉店までの店番をして過ごした雅だが、篤史達の話し合いとその結果が気になって仕方なかった。
閉店後、話し合いも終わったらしく住居から出てきた篤史は雅の部屋へ上げてくれと頼んできた。断る理由もないので篤史を連れて部屋へ入る。
狭い個室には篤史の家と違ってテーブルセットなんてない。学習机とベッドに面積のほとんどを占められている。
ベッドにでも座ってくれと声を掛けると、大人しく従いベッドへ腰掛けた彼に腕を引かれた。引っ張られるまま彼の胸へ倒れ込み、優しい抱擁に包まれる。
「承諾させた。俺の会社と桜花堂は業務提携することにして、資金援助は無利子の無期限返済。経営方針については今後も話し合いだな」
たった三十分の話し合いで厳を納得させたのかと感心する雅へ。再び蕩けた笑顔が向けられる。
「雅との婚約も決まった」
「……よく許したね」
「ほとんど、お前への愛のゴリ押しで通ったからな」
首を傾げる雅は知らない。
桜花堂の倒産は避けたいがこれまでの桜花堂を捨て変化をするくらいなら店を潰した方がいいと、変革を拒む厳の臆病な心を突き動かしたのは可愛い息子を使った揺さぶりだ。
「俺は桜花堂が好きです。饅頭も勿論ですが、桜花堂という店が好きなんです」
商店の一角に佇む小さな和菓子屋。裏は彼らの家になっており、中庭には毎年綺麗な花を咲かせる桜の大木が埋まっている。
彼らの暮らす名残がそこかしこに転がっていた。
「貴方達と、何より雅に悲しい思いをしてほしくない。雅の実家を守りたいんです」
こんこんと語るのは幼い頃から世話になった桜花堂への思いと、雅を愛している気持ちだ。最後には桜花堂との業務提携も雅との婚約も、全て篤史の思う通りに纏まっていた。
篤史に求婚され、両親と兄がそれを認めてからというもの。雅の生活は一転した。
店が潰れるのではないかという不安が消え、心が軽くなる。明るく笑うことが増えたのはそれだけではなかった。
篤史が勉強を教えてくれる日が増えたのだ。
忙しいのではないかと心配する雅に「大丈夫だ」と穏やかに微笑む。
「遠慮してただけだから」
「遠慮?」
「ああ。中学生なら友達と遊んだりするだろう? 俺があまり構いすぎたら迷惑だと思ってたんだ」
「迷惑なんてそんな! 僕、嬉しかった。篤史さんと会えて……嬉しかったんだよ」
十も年の離れた彼の実家は近所にあるが、知り合った繋がりは尊だった。尊と篤史は小さな頃から互いの家を行き来する程に仲が良く、篤史は雅が生まれた頃から知っている。
雅が物心つく頃には篤史は思春期の少年で、変わることのない年の差はいつまで経っても子供の雅を置き去りに篤史を大人に変えていく。
尊と互いの家に遊びに通う年代の終わった篤史との交流は消えてしまうものだと思っていたのに、篤史は変わらず雅に会いに来てくれた。饅頭を買うついでだったとしても、雅は嬉しくて仕方なかった。
会う度に学校はどうだと話し掛けてくれるのが嬉しくて、雅は懸命に自分の話をした。同じくらい篤史の話も聞きたがった。
大学の話も起業したという話も、意味はよくわからなかったけど篤史の声が聞けるなら何でも良かった。
学校から帰り母と共に店番をしていると篤史がやって来る日々が続き、小学校も高学年になると学校の勉強は難しいものが増えていき、少しだけ愚痴をこぼしてしまった。
「なら俺が勉強見てやろうか」
え、と篤史を見上げる雅の頭が大きな手に撫でられる。優しい動作は篤史の心情を表しているようだった。
「毎日は無理だが、月に何回か勉強教えてやるよ」
「いいの?」
いいよと笑って頷いてくれた篤史はそのまま雅の母へ話をつけてしまった。家庭教師のようなもので、篤史の出ている大学や社長として忙しい日々を送る彼の貴重な時間を考えれば月謝を多めに払うべきなのに彼は受け取らなかった。
「好きでやってるだけだから。いいよ」
そう言って固辞する篤史にせめてもの気持ちとしてよく買ってくれる饅頭を手土産に彼の家へ通い、勉強を見てもらうようになった雅の通信簿に刻まれる数字はみるみるうちに上がっていった。
今年で高校生になった雅(みやび)が寝転んでも広々とした余裕のあるベッドの上にはもう一人、雅より立派な体躯の男が横になっている。同世代の平均身長よりは少し小柄な雅と違い、長い手足と程好く筋肉のついた体型は男らしくてかっこいい。雅の年代では容姿の整った成人男性というだけでも憧憬を抱くというのに、彼は雅の恩人であり、愛すべき夫でもある。
ぱっちりと覚めてしまった目は飽きもせず共寝をする男を見つめた。男らしく太く整えられた眉、その筋に沿う鼻は高く、今は閉じられた眼差しは開けばいつも雅を見守ってくれる。鋭利なラインを描く顎の上には雅に優しい言葉を紡いでくれる薄い唇がある。
彼の顔は勿論、声も性格も何もかも。雅は彼のことが大好きで愛している。
十歳年の離れた幼馴染みである彼、芹沢篤史(せりざわ あつし)は小さな頃から雅の憧れだった。テレビの中の芸能人のような――それ以上にかっこいい年上の篤史を慕う雅は彼に纏わりついてはしゃぎ、鬱陶しいだろうに嫌な顔一つせず雅の相手をしてくれた。
自分も忙しい筈なのに時間を作っては雅を訪ね、勉強を見てくれるおかげで小学校時代の雅の成績はクラスで一番だった。
篤史が大学に上がると頻繁に会うことは出来なくなったが、それでも月に数回は雅に会いに来てくれた。大学を卒業して起業した彼は多忙を極めたが、それでも必ず雅との時間を作る。
大切にされている。そう自惚れても仕方ない。だからつい、彼に愚痴を溢してしまったのだ。
雅の家は和菓子屋を営んでいる。今の町に店を出したのは曾祖父の代なのでわりと近年だが、技術の継承は遡れば江戸時代から続いているという。古めかしさや地元民からの親しみはあるがそれだけでは続いていかない昨今。店は倒産の危機に瀕していた。
篤史と同い年の兄、尊(たける)が店を継ぐ為に高校卒業後製菓学校へ通いながら修行を始めた頃。まだ雅は八歳で、この頃から既に経営難の兆しはあったらしい。
何も知らないまま時が過ぎ、雅が中学に上がり半年が過ぎた十月のある日の夜。喉の渇きを覚えた雅が台所へ向かうと、居間の電気が点いていた。
ぼそぼそと話し声が聞こえ、気になってこっそりと様子をうかがった雅の耳に「店を畳むしかない」という兄の声と、反射的に怒鳴り付ける父の声が聞こえた。母はさめざめと泣いていた。
製菓学校を卒業してからというもの、本格的に父の下で修行を始めた兄は経営にも関わっているようだった。両親も兄も雅には何も言わないが、影でこうして何度も話し合っていたのだろうか。
まだまだ子供の雅に話してもどうしようもない問題だと理解は出来る。けれど家の問題ならば雅にも話してほしかった。
雅は音を立てずに部屋に戻り、布団にくるまって今聞いたことを反芻し顔を青ざめる。息子が、弟が不安に駆られるようなことを避けたいが為に秘匿していた彼らの心を当時の雅は察することが出来なかった。
実家が潰れてしまうのではないか。突然知ってしまった不安の種を相談出来る相手は家にも学校にもいなかった。ただ一人を除いて。
「どうした雅。今日は落ち着きがないな」
シンプルな家具の設えられたモデルルームのように綺麗な篤史のマンションに勉強を教わりに呼ばれ、二人掛けのダイニングテーブルに座った雅は篤史と向かい合っていた。いつもなら篤史のアドバイスを受けながら宿題を解いていく真面目な雅が、今日は全く集中出来ていない。
せっかく忙しい時間を割いて勉強を教えてくれているというのに、雅はそんな気になれなかった。頭を下げて今日はもう帰ろうとすると、穏やかな声に止められる。
「雅。どうしたんだ。何かあったなら教えてくれ。俺はお前の力になりたいんだよ」
集中力のない雅の態度も、貴重な時間を潰されたことも怒らず、ただ雅を心配した様子で尋ねてくれる篤史の声に。雅の目から大粒の涙が零れ落ちた。
不安な心を涙として具現化出来るのは家族の寝静まった夜の布団の中くらいで、悪い想像ばかりが渦巻く頭は少しも休まらない。
「……勉強したって。高校、行けないかもしれない」
「そんなことない。雅は覚えがいいから進学校だって狙えるさ。俺もサポートする」
勉強についていけないと不安に思っている。そう捉えた篤史の言葉に首を振る。前提が違った。
「…………うち、もしかしたら潰れるかもしれないから。そしたら、ぼく、学校行かないで働く」
中学は義務教育なので行政の補助を受ければ何とかなるかもしれないが、高校は無理だろう。通えるのなら働いて家族の助けになりたい。
「……潰れる? 桜花堂が?」
桜花堂は店の名前だ。曾祖父が店と隣接して家を建てる際、二つの建物を繋ぐ中庭に桜を植えたことにちなんで名付けられた。
「……篤史さん。今までありがとう。高校も大学もきっと無理だから。もういいんだ」
雅を思って費やしてくれた時間は全て無駄になってしまった。申し訳ない気持ちが頭を深々と下げさせる。木製のテーブルに鼻先が触れた。
今度こそ帰ろうと立ち上がった雅だが、篤史の方が早かった。さっと立ち上がった彼は長い足を動かして回り込み、雅へ腕を伸ばす。
「結婚しよう」
力強い腕の中へしまいこむように抱き締められ、流されるままに篤史の首筋へ顔を埋める雅
の耳に囁きが聞こえた。
「え?」
「桜花堂の援助をする。経営についても可能な限り相談に乗る。だから俺と結婚してくれ」
抱擁が解かれたかと思えば今度は至近距離で見つめ合い、再び求婚の言葉をぶつけられる。雅も篤史も男同士だが、数年前に同性間の結婚を認める法改正が行われたので問題はない。
雅の心も問題はなかった。
ゆっくりと、小さく頷く雅はずっと昔から恋をしている。目の前の彼。兄の友人。年の離れた雅の幼馴染みの男性に。
「良かった……雅、大丈夫だ。お前には俺がいる」
再びぎゅうぎゅうと締め付けるような抱擁に合っても雅は苦しむことはない。予想だにしなかった展開に頭も心も体すら麻痺している。
「……ど、して。結婚、してくれるの」
篤史は桜花堂の和菓子を好いてくれている。たまに店にも顔を出して饅頭を買っていってくれるし、篤史の家に行く時に母に必ず持たされる手土産を渡すと嬉しそうに笑って雅と一緒に食べてくれる。
桜花堂の客として力になりたいと思ってくれるのはとてもありがたいけれど、雅と結婚する意味は何だろうか。担保なのか。
考えを見透かしたような顔をして「違うよ」と否定して。一拍置いた篤史は、蕩けるような笑顔を見せた。
「雅が好きだから。援助を盾に結婚したいだけなんだ」
雅に都合のいい言葉ばかり聞こえてくるけれど、それが雅の現実だった。
その日の勢いのまま、雅を連れた篤史は桜花堂を訪ねた。息子の友人であり、小さな頃から見てきた顔であり、今は常連客である篤史に対し両親も尊も好意的に出迎える――が。
真っ直ぐ父の厳(いわお)に対して話があると申し出た篤史に何か感じ取ったのか、三人共に顔色を変える。厳と尊は篤史を住居スペースへ促し、ついていこうとした雅を厳は「子供の聞く話でもないだろう」と止め、篤史も待っていてくれと頷いている。
「お母さんとお店番してちょうだい」
「うん……」
母に言われ、閉店までの店番をして過ごした雅だが、篤史達の話し合いとその結果が気になって仕方なかった。
閉店後、話し合いも終わったらしく住居から出てきた篤史は雅の部屋へ上げてくれと頼んできた。断る理由もないので篤史を連れて部屋へ入る。
狭い個室には篤史の家と違ってテーブルセットなんてない。学習机とベッドに面積のほとんどを占められている。
ベッドにでも座ってくれと声を掛けると、大人しく従いベッドへ腰掛けた彼に腕を引かれた。引っ張られるまま彼の胸へ倒れ込み、優しい抱擁に包まれる。
「承諾させた。俺の会社と桜花堂は業務提携することにして、資金援助は無利子の無期限返済。経営方針については今後も話し合いだな」
たった三十分の話し合いで厳を納得させたのかと感心する雅へ。再び蕩けた笑顔が向けられる。
「雅との婚約も決まった」
「……よく許したね」
「ほとんど、お前への愛のゴリ押しで通ったからな」
首を傾げる雅は知らない。
桜花堂の倒産は避けたいがこれまでの桜花堂を捨て変化をするくらいなら店を潰した方がいいと、変革を拒む厳の臆病な心を突き動かしたのは可愛い息子を使った揺さぶりだ。
「俺は桜花堂が好きです。饅頭も勿論ですが、桜花堂という店が好きなんです」
商店の一角に佇む小さな和菓子屋。裏は彼らの家になっており、中庭には毎年綺麗な花を咲かせる桜の大木が埋まっている。
彼らの暮らす名残がそこかしこに転がっていた。
「貴方達と、何より雅に悲しい思いをしてほしくない。雅の実家を守りたいんです」
こんこんと語るのは幼い頃から世話になった桜花堂への思いと、雅を愛している気持ちだ。最後には桜花堂との業務提携も雅との婚約も、全て篤史の思う通りに纏まっていた。
篤史に求婚され、両親と兄がそれを認めてからというもの。雅の生活は一転した。
店が潰れるのではないかという不安が消え、心が軽くなる。明るく笑うことが増えたのはそれだけではなかった。
篤史が勉強を教えてくれる日が増えたのだ。
忙しいのではないかと心配する雅に「大丈夫だ」と穏やかに微笑む。
「遠慮してただけだから」
「遠慮?」
「ああ。中学生なら友達と遊んだりするだろう? 俺があまり構いすぎたら迷惑だと思ってたんだ」
「迷惑なんてそんな! 僕、嬉しかった。篤史さんと会えて……嬉しかったんだよ」
十も年の離れた彼の実家は近所にあるが、知り合った繋がりは尊だった。尊と篤史は小さな頃から互いの家を行き来する程に仲が良く、篤史は雅が生まれた頃から知っている。
雅が物心つく頃には篤史は思春期の少年で、変わることのない年の差はいつまで経っても子供の雅を置き去りに篤史を大人に変えていく。
尊と互いの家に遊びに通う年代の終わった篤史との交流は消えてしまうものだと思っていたのに、篤史は変わらず雅に会いに来てくれた。饅頭を買うついでだったとしても、雅は嬉しくて仕方なかった。
会う度に学校はどうだと話し掛けてくれるのが嬉しくて、雅は懸命に自分の話をした。同じくらい篤史の話も聞きたがった。
大学の話も起業したという話も、意味はよくわからなかったけど篤史の声が聞けるなら何でも良かった。
学校から帰り母と共に店番をしていると篤史がやって来る日々が続き、小学校も高学年になると学校の勉強は難しいものが増えていき、少しだけ愚痴をこぼしてしまった。
「なら俺が勉強見てやろうか」
え、と篤史を見上げる雅の頭が大きな手に撫でられる。優しい動作は篤史の心情を表しているようだった。
「毎日は無理だが、月に何回か勉強教えてやるよ」
「いいの?」
いいよと笑って頷いてくれた篤史はそのまま雅の母へ話をつけてしまった。家庭教師のようなもので、篤史の出ている大学や社長として忙しい日々を送る彼の貴重な時間を考えれば月謝を多めに払うべきなのに彼は受け取らなかった。
「好きでやってるだけだから。いいよ」
そう言って固辞する篤史にせめてもの気持ちとしてよく買ってくれる饅頭を手土産に彼の家へ通い、勉強を見てもらうようになった雅の通信簿に刻まれる数字はみるみるうちに上がっていった。
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