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第四章 私と彼女
第十九話
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「話ってなんだよ」
一階の待合室で、私と伊藤は向かい合ってソファに座っていた。
「知ってた?」
「何をだよ」
「私たちのこと」
そう言って、伊藤は高そうな皮のバッグから一枚の写真を取り出した。
「うわぁ、すごい格好してるな」
そこには白い車を中央に、いつもの司と派手な女性が並んで立っていた。
その女性は、金色の明るい髪に、大きな目。眉まで伸びた長いまつ毛は、今にも風で吹き飛びそうな具合だった。
「もしかして…これ伊藤?
私はその女性を指差し、そう問いかけた。
「うん………」
伊藤は恥ずかしそうに私から目を逸らすと、軽く唇を噛んだ。
「三月に免許合宿に行ったの。私は免許取るつもりなかったけど、お父さんが取れってうるさいから。それで高校の友達二、三人に一緒に合宿に行かないかって聞いたらみんな予定が埋まっていて、結局私一人で合宿に行くことになったの」
「申し込みは全てお父さんに任せたから、私、当日まで合宿場がどこだかしらなかったの。茨城ってことだけは知っていたんだけど、具体的な場所までは聞かされていなかったから。そしたらその場所、日本一厳しい合宿場だったの。周りは山と畑に囲まれて、遊ぶ場所どころか、コンビニもない。そんな場所に一人で二週間よ。酷いと思わない?」
伊藤はふふふと笑って、私の顔を覗いた。
「合宿なんだから、大体どこもそんなもんだろ」
私は冷静にそう答えた。
「あら、そうなの。それでね、一日目はずっと一人で行動していたの。周りは友達と来ている大学生とカップルばっかりで。私、柄でもないのに一番前の席の端っこに座って、その人たちの邪魔にならないようにコソコソと授業を受けていたの。そして二日目になって、私がいつものように授業の準備をしていたら、隣の席空いてますかって男の人が聞いてきたの」
「それが森本君だった。彼は授業中、私が聞いてもいないのに自分のことについてペラペラと話すの。最初は何を言っているのかちんぷんかんぷんで、変な人だなって思っていたけど、私ずっと一人だったから、だんだんそれが嬉しくなってきて、授業そっちのけで彼の話を聞くようになった」
「彼と話しているうちに、地元が横浜の人だって何となくわかったの。だから、横浜のどちらにお住まいですか、って聞いた。そしたらね、彼なんて言ったと思う?あれもしかして気づいてない?って……そこでやっと自分の名前を言ったから、彼が同級生の森本君だって、私ようやく気づいたの。彼、髪も服装も中学の頃と全然違うでしょ?だからまったく気が付かなくて。それから、その日はずうっと彼と中学の話をしていたわ」
伊藤は早口でそう言うと、バッグから水を出しクイっと一口で飲み干した。
「それでつかさと付き合ったってわけか……」
私は腕を組んで呟くようにそう言うと、小さくため息をついた。
「ううん。彼とは付き合ってないの」
「え?」
私ははっきりとそう答える伊藤の口元を見やって、思わずそう言った。
「おいそれ、どういうことだよ」
「うん……………」
伊藤は顔を曇らせていた。
「合宿が終わった後、彼から食事に誘われてね。私も食事だけなら別にいいかなって思って、その誘いに乗って彼と食事したの。そしたら帰り道、彼が紙袋から真っ赤なバラを出してきて、私に告白してきたの」
伊藤は目線を宙に浮かべ、思い出すかのようにそう語り続けた。
「私、彼のことは地元の同級生としか思っていなかったから、その時はすぐにごめんなさいって断ったの。今思えば酷いことしたなって感じだけど。はっきり言ったほうがいいじゃない? だからそのお花は受け取れないよって…それで、そのまま帰ろうとしたの。そしたらね…」
「彼、いきなり跪いて私に土下座したのよ。それも額を地面に押し付けて、ここで折れたら俺は男じゃないって何度も言うの………通りゆく人みんな彼のこと見てたから、私恥ずかしくて何回もやめてって言ったの。でも彼、止めるどころかどんどん声の勢いを増して、最後は警察まで来ちゃってね……」
「それから考えたの、彼と恋仲になることはできないけど、時間のある日はできるだけ会えるような関係でいようって…そう彼に言ったの」
そこまで口にして、伊藤はキラキラと光っている乾いた唇をぺろっと舐めた。
「それは友達と何が違うんだよ」
私は眉をしかめて伊藤の目をじっと睨んだ。
「友達じゃないよ。ただ暇な時に会うだけだから。それに……」
「それを友達って言うんじゃないのか」
私は声を張った。
なぜだか、伊藤の話す言葉の全てが、私には腹立たしく感じられた。
「水木ってさぁ、男女の友情って成立すると思う?」
先ほどから笑みひとつ現さなかった伊藤が、一瞬だけほほえんで、薄紅色の唇を動かした。
「…………するんじゃないか」
「私はね、これっぽっちも思わないの」
伊藤は笑っていた。
「もちろん昔はそう思うこともあったよ。小学校の時なんか女子よりも男子と遊ぶことの方が多かったし。でも中学に入ると、みんな思春期に入っていくでしょ?それまで普通に話していた異性が急によそよそしく接してくるようになったり、友達だと思っていた男の子が、彼女ができたからってわたしと話さなくなったり。わたしその時初めて感じたのよ、男と女は別の生き物だ、ってね。どんなにお互いをわかり合って、寄り添ったとしても、芯の部分は自分にしかわからない。どんなに友達になろうと努力しても、相手が心を開くようにこっちから仕掛けても、どこか自分の心のうちに、異性には見せてはいけないって一面が隠れていて、それを表に出すことができないの」
その言葉を聞いて、私は何者かに槍を突きつけられたような鋭い衝撃を覚えた。私の頭の中に、さまざまな人の顔が映る。私の父、母、兄弟、B、森川先生。その中で、つかさの顔と彼女の顔だけが、他を突き放す光りを放って、私の前に大きく映し出されたような気がした。
「だから私は男女で友情が成立するとは思えない。もし仮に、それができるのだとすれば、もうそれは友情じゃなくて愛情ね」
「それなら………」
「それなら、つかさとの関係はなんだったんだよ」
俺は怒りのこもった口調で、声高にそう言った。思えば伊藤とこんなに長い時間、面と向かって話したことなんてなかったなと、伊藤の高く整った鼻先を眺めながらそう感じていた。
「お客さん…かな?」
伊藤は淡々とそう呟いた。
彼女のその言葉を聞いて、私は会った時から抱いていた、伊藤の違和感の正体がようやく掴めたような気がした。
それは、ソファの下に置かれたバッグや彼女の身につけているもの全てが、この年齢の女性が持つには早すぎる、質の良い大人の輝かしさを持つものだったからである。
「お前、つかさを弄んだな」
俺は長いまつ毛を睨んだ。
「もてあそぶだなんて、そんなことしたつもりはないわ。私は彼が私を求めてくれるから、なるべく長くそうさせてあげようって、それだけなんだから」
「それを弄ぶって言うんだよ」
私はソファから立った。胸が張り裂けそうだった。
「いいか。お前のやっていることはなぁ、人の心を踏みにじる行為なんだよ。そのバッグだってつかさの金で買ったものなんだろ?」
伊藤は下を向いて黙っていた。その怒っても笑ってもいない、彼女の無の表情を眺めて、私はさらに怒りが湧いてきた。
「中学ぶりに会ってちょっとは綺麗になったなと思ったら、お前そんなことやってたのかよ。成績も優秀でクラスをまとめてたお前が、こんなに落ちぶれるなんて思いもしなかったぜ」
私は我を忘れて怒鳴り続けた。
「水商売はなぁ、最低の職業なんだよ」
パチン
人のまばらな病院に、私の頬を叩く音が大きく響いた。
「水木に………水木に私の何がわかるって言うの?」
伊藤はソファから立ち上がっていた。その目には水を溜めていた。
「あぁわからないさ。人の心騙して金取る女の気持ちなんかなぁ」
「騙してなんかない」
「騙してるよ」
私は向かい合って立っている、伊藤のきらびやかな瞳をこれでもかと睨んだ。
彼女の頬には何筋もの涙が流れていた。
「だましてなんか……………だましてなんかないよぉ。だってつかさ……本当は私のこと好きなんかじゃないんだもの」
伊藤は吐くようにそう言うと、我慢していたものがなくなったのか、そのまま泣き続けた。
*
それから五分ほど、私は向かい合って泣いている伊藤に、目を合わすことができなかった。時折私の方をチラリと見やる彼女の目と、周りからの痛い視線に、私は気づきながらも黙って俯いていた。次第に鼻を啜る音が弱まって、ハンカチで顔を拭きはじめた時、伊藤が
「ちょっと外に出ない?」
と言った。
「いいよ」
私はテーブルに視線を注いだまま静かにそう言った。
総合病院の裏には、たくさんの木々が生い茂る小さな公園が付随されており、私と伊藤は公園のベンチに腰を下ろした。
「あんまりこの話、言いたくないんだけど……特別だよ」
優しい声で伊藤が私にそう言った。
夜の公園を照らす街灯が、その整った顔を際立たせていた。
「わたしが母子家庭だって言うのは、もう知ってるよね?」
「ああ」
中学一年の夏、クラスで家族の話題が出た時、伊藤の口から語られた家庭の事情を、私は今でも鮮明に思い出すことができた。
「弟が今中学三年生でね、優斗って言うんだけど、水木覚えているかな?一度だけ中学の文化祭に来たことがあるのよ」
「伊藤の背中に乗ってた、あのちっちゃい子だろ?覚えてるよ」
中学一年の文化祭、椅子に座って弟と遊ぶ伊藤の姿が俺の前に映し出された。
「優斗ね、すごく頭がいいの。学校のテストなんて毎回一位で、家に帰ってくるといつもわたしに自慢してくるの」
「そんな優斗も、もう三年生で進路について家で話す機会が増えたの。それでわたしがね、頭がいいなら青藍高校にすればいいんじゃないって言ったの。そしたらあの子すぐに返事して、うん、そこに行くよって。それしか言わなかったの」
青藍高校とは、この辺りの公立高校では一番偏差値の高い進学校だ。
「やけにあっさり決まったもんだから、わたし何かおかしいなと思って、優斗が帰った後こっそり中学に行って聞いてみることにしたの。ほら萩野先生っていたでしょ?わたし達が一年の時副担任だった。その人が今優斗の担任なの」
「あのちょっと太った先生だろ?」
「そうそう、黒縁メガネのね」
伊藤はふふふと笑った。
「そしたら先生が、伊藤くんは一度だけ進路希望書に医学部コースのある私立高校を書いたことがあるって言うの。あの子、一度も家でそんなこと言わなかったから、わたしびっくりして書かれた紙を何度も見返したわ」
「それじゃあ優斗は医者になりたいのか」
「家に帰った後、あんた医者になるの?って優斗に聞いてみたの。そしたら、うんって。下を向きながら小さくそう言ったわ。わたし達家族にお金の面で心配かけたくないからって、ずっと隠していたみたい」
「それで、お金が必要になったのか」
「うん………」
伊藤は下を向いてそう言った。
「私立高校の方はわたしが大学に行かなかった分を出せば大丈夫なんだけど、医学部の大学になると、その何倍ものお金が必要になるの」
それから伊藤は、四月から今に至るまでの出来事を、全て私に話してくれた。
つかさが告白してきた後弟の進路について話したこと。母が足を骨折して二ヶ月働けなくなったこと。その間に伊藤がレンタル彼女を始めたこと。夜が遅い時はつかさが弟の面倒を見ていたこと。弟に彼女ができたこと。
伊藤はその出来事を、辛い過去のようには話さず、むしろ楽しそうに私に語った。私は遠くを眺めて伊藤の話を聞いていたが、彼女があまりにも楽しそうに話すので、自然と目線が伊藤の顔に引き寄せられた。その顔は、先ほど待合室で見たものよりはるかに美しい、公園の街灯に照らされた輝かしい彼女の笑顔だった。
一階の待合室で、私と伊藤は向かい合ってソファに座っていた。
「知ってた?」
「何をだよ」
「私たちのこと」
そう言って、伊藤は高そうな皮のバッグから一枚の写真を取り出した。
「うわぁ、すごい格好してるな」
そこには白い車を中央に、いつもの司と派手な女性が並んで立っていた。
その女性は、金色の明るい髪に、大きな目。眉まで伸びた長いまつ毛は、今にも風で吹き飛びそうな具合だった。
「もしかして…これ伊藤?
私はその女性を指差し、そう問いかけた。
「うん………」
伊藤は恥ずかしそうに私から目を逸らすと、軽く唇を噛んだ。
「三月に免許合宿に行ったの。私は免許取るつもりなかったけど、お父さんが取れってうるさいから。それで高校の友達二、三人に一緒に合宿に行かないかって聞いたらみんな予定が埋まっていて、結局私一人で合宿に行くことになったの」
「申し込みは全てお父さんに任せたから、私、当日まで合宿場がどこだかしらなかったの。茨城ってことだけは知っていたんだけど、具体的な場所までは聞かされていなかったから。そしたらその場所、日本一厳しい合宿場だったの。周りは山と畑に囲まれて、遊ぶ場所どころか、コンビニもない。そんな場所に一人で二週間よ。酷いと思わない?」
伊藤はふふふと笑って、私の顔を覗いた。
「合宿なんだから、大体どこもそんなもんだろ」
私は冷静にそう答えた。
「あら、そうなの。それでね、一日目はずっと一人で行動していたの。周りは友達と来ている大学生とカップルばっかりで。私、柄でもないのに一番前の席の端っこに座って、その人たちの邪魔にならないようにコソコソと授業を受けていたの。そして二日目になって、私がいつものように授業の準備をしていたら、隣の席空いてますかって男の人が聞いてきたの」
「それが森本君だった。彼は授業中、私が聞いてもいないのに自分のことについてペラペラと話すの。最初は何を言っているのかちんぷんかんぷんで、変な人だなって思っていたけど、私ずっと一人だったから、だんだんそれが嬉しくなってきて、授業そっちのけで彼の話を聞くようになった」
「彼と話しているうちに、地元が横浜の人だって何となくわかったの。だから、横浜のどちらにお住まいですか、って聞いた。そしたらね、彼なんて言ったと思う?あれもしかして気づいてない?って……そこでやっと自分の名前を言ったから、彼が同級生の森本君だって、私ようやく気づいたの。彼、髪も服装も中学の頃と全然違うでしょ?だからまったく気が付かなくて。それから、その日はずうっと彼と中学の話をしていたわ」
伊藤は早口でそう言うと、バッグから水を出しクイっと一口で飲み干した。
「それでつかさと付き合ったってわけか……」
私は腕を組んで呟くようにそう言うと、小さくため息をついた。
「ううん。彼とは付き合ってないの」
「え?」
私ははっきりとそう答える伊藤の口元を見やって、思わずそう言った。
「おいそれ、どういうことだよ」
「うん……………」
伊藤は顔を曇らせていた。
「合宿が終わった後、彼から食事に誘われてね。私も食事だけなら別にいいかなって思って、その誘いに乗って彼と食事したの。そしたら帰り道、彼が紙袋から真っ赤なバラを出してきて、私に告白してきたの」
伊藤は目線を宙に浮かべ、思い出すかのようにそう語り続けた。
「私、彼のことは地元の同級生としか思っていなかったから、その時はすぐにごめんなさいって断ったの。今思えば酷いことしたなって感じだけど。はっきり言ったほうがいいじゃない? だからそのお花は受け取れないよって…それで、そのまま帰ろうとしたの。そしたらね…」
「彼、いきなり跪いて私に土下座したのよ。それも額を地面に押し付けて、ここで折れたら俺は男じゃないって何度も言うの………通りゆく人みんな彼のこと見てたから、私恥ずかしくて何回もやめてって言ったの。でも彼、止めるどころかどんどん声の勢いを増して、最後は警察まで来ちゃってね……」
「それから考えたの、彼と恋仲になることはできないけど、時間のある日はできるだけ会えるような関係でいようって…そう彼に言ったの」
そこまで口にして、伊藤はキラキラと光っている乾いた唇をぺろっと舐めた。
「それは友達と何が違うんだよ」
私は眉をしかめて伊藤の目をじっと睨んだ。
「友達じゃないよ。ただ暇な時に会うだけだから。それに……」
「それを友達って言うんじゃないのか」
私は声を張った。
なぜだか、伊藤の話す言葉の全てが、私には腹立たしく感じられた。
「水木ってさぁ、男女の友情って成立すると思う?」
先ほどから笑みひとつ現さなかった伊藤が、一瞬だけほほえんで、薄紅色の唇を動かした。
「…………するんじゃないか」
「私はね、これっぽっちも思わないの」
伊藤は笑っていた。
「もちろん昔はそう思うこともあったよ。小学校の時なんか女子よりも男子と遊ぶことの方が多かったし。でも中学に入ると、みんな思春期に入っていくでしょ?それまで普通に話していた異性が急によそよそしく接してくるようになったり、友達だと思っていた男の子が、彼女ができたからってわたしと話さなくなったり。わたしその時初めて感じたのよ、男と女は別の生き物だ、ってね。どんなにお互いをわかり合って、寄り添ったとしても、芯の部分は自分にしかわからない。どんなに友達になろうと努力しても、相手が心を開くようにこっちから仕掛けても、どこか自分の心のうちに、異性には見せてはいけないって一面が隠れていて、それを表に出すことができないの」
その言葉を聞いて、私は何者かに槍を突きつけられたような鋭い衝撃を覚えた。私の頭の中に、さまざまな人の顔が映る。私の父、母、兄弟、B、森川先生。その中で、つかさの顔と彼女の顔だけが、他を突き放す光りを放って、私の前に大きく映し出されたような気がした。
「だから私は男女で友情が成立するとは思えない。もし仮に、それができるのだとすれば、もうそれは友情じゃなくて愛情ね」
「それなら………」
「それなら、つかさとの関係はなんだったんだよ」
俺は怒りのこもった口調で、声高にそう言った。思えば伊藤とこんなに長い時間、面と向かって話したことなんてなかったなと、伊藤の高く整った鼻先を眺めながらそう感じていた。
「お客さん…かな?」
伊藤は淡々とそう呟いた。
彼女のその言葉を聞いて、私は会った時から抱いていた、伊藤の違和感の正体がようやく掴めたような気がした。
それは、ソファの下に置かれたバッグや彼女の身につけているもの全てが、この年齢の女性が持つには早すぎる、質の良い大人の輝かしさを持つものだったからである。
「お前、つかさを弄んだな」
俺は長いまつ毛を睨んだ。
「もてあそぶだなんて、そんなことしたつもりはないわ。私は彼が私を求めてくれるから、なるべく長くそうさせてあげようって、それだけなんだから」
「それを弄ぶって言うんだよ」
私はソファから立った。胸が張り裂けそうだった。
「いいか。お前のやっていることはなぁ、人の心を踏みにじる行為なんだよ。そのバッグだってつかさの金で買ったものなんだろ?」
伊藤は下を向いて黙っていた。その怒っても笑ってもいない、彼女の無の表情を眺めて、私はさらに怒りが湧いてきた。
「中学ぶりに会ってちょっとは綺麗になったなと思ったら、お前そんなことやってたのかよ。成績も優秀でクラスをまとめてたお前が、こんなに落ちぶれるなんて思いもしなかったぜ」
私は我を忘れて怒鳴り続けた。
「水商売はなぁ、最低の職業なんだよ」
パチン
人のまばらな病院に、私の頬を叩く音が大きく響いた。
「水木に………水木に私の何がわかるって言うの?」
伊藤はソファから立ち上がっていた。その目には水を溜めていた。
「あぁわからないさ。人の心騙して金取る女の気持ちなんかなぁ」
「騙してなんかない」
「騙してるよ」
私は向かい合って立っている、伊藤のきらびやかな瞳をこれでもかと睨んだ。
彼女の頬には何筋もの涙が流れていた。
「だましてなんか……………だましてなんかないよぉ。だってつかさ……本当は私のこと好きなんかじゃないんだもの」
伊藤は吐くようにそう言うと、我慢していたものがなくなったのか、そのまま泣き続けた。
*
それから五分ほど、私は向かい合って泣いている伊藤に、目を合わすことができなかった。時折私の方をチラリと見やる彼女の目と、周りからの痛い視線に、私は気づきながらも黙って俯いていた。次第に鼻を啜る音が弱まって、ハンカチで顔を拭きはじめた時、伊藤が
「ちょっと外に出ない?」
と言った。
「いいよ」
私はテーブルに視線を注いだまま静かにそう言った。
総合病院の裏には、たくさんの木々が生い茂る小さな公園が付随されており、私と伊藤は公園のベンチに腰を下ろした。
「あんまりこの話、言いたくないんだけど……特別だよ」
優しい声で伊藤が私にそう言った。
夜の公園を照らす街灯が、その整った顔を際立たせていた。
「わたしが母子家庭だって言うのは、もう知ってるよね?」
「ああ」
中学一年の夏、クラスで家族の話題が出た時、伊藤の口から語られた家庭の事情を、私は今でも鮮明に思い出すことができた。
「弟が今中学三年生でね、優斗って言うんだけど、水木覚えているかな?一度だけ中学の文化祭に来たことがあるのよ」
「伊藤の背中に乗ってた、あのちっちゃい子だろ?覚えてるよ」
中学一年の文化祭、椅子に座って弟と遊ぶ伊藤の姿が俺の前に映し出された。
「優斗ね、すごく頭がいいの。学校のテストなんて毎回一位で、家に帰ってくるといつもわたしに自慢してくるの」
「そんな優斗も、もう三年生で進路について家で話す機会が増えたの。それでわたしがね、頭がいいなら青藍高校にすればいいんじゃないって言ったの。そしたらあの子すぐに返事して、うん、そこに行くよって。それしか言わなかったの」
青藍高校とは、この辺りの公立高校では一番偏差値の高い進学校だ。
「やけにあっさり決まったもんだから、わたし何かおかしいなと思って、優斗が帰った後こっそり中学に行って聞いてみることにしたの。ほら萩野先生っていたでしょ?わたし達が一年の時副担任だった。その人が今優斗の担任なの」
「あのちょっと太った先生だろ?」
「そうそう、黒縁メガネのね」
伊藤はふふふと笑った。
「そしたら先生が、伊藤くんは一度だけ進路希望書に医学部コースのある私立高校を書いたことがあるって言うの。あの子、一度も家でそんなこと言わなかったから、わたしびっくりして書かれた紙を何度も見返したわ」
「それじゃあ優斗は医者になりたいのか」
「家に帰った後、あんた医者になるの?って優斗に聞いてみたの。そしたら、うんって。下を向きながら小さくそう言ったわ。わたし達家族にお金の面で心配かけたくないからって、ずっと隠していたみたい」
「それで、お金が必要になったのか」
「うん………」
伊藤は下を向いてそう言った。
「私立高校の方はわたしが大学に行かなかった分を出せば大丈夫なんだけど、医学部の大学になると、その何倍ものお金が必要になるの」
それから伊藤は、四月から今に至るまでの出来事を、全て私に話してくれた。
つかさが告白してきた後弟の進路について話したこと。母が足を骨折して二ヶ月働けなくなったこと。その間に伊藤がレンタル彼女を始めたこと。夜が遅い時はつかさが弟の面倒を見ていたこと。弟に彼女ができたこと。
伊藤はその出来事を、辛い過去のようには話さず、むしろ楽しそうに私に語った。私は遠くを眺めて伊藤の話を聞いていたが、彼女があまりにも楽しそうに話すので、自然と目線が伊藤の顔に引き寄せられた。その顔は、先ほど待合室で見たものよりはるかに美しい、公園の街灯に照らされた輝かしい彼女の笑顔だった。
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