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<16・悪夢の沼底>

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 涼貴が前世の記憶を明確に思い出したのは、高校生になってからのことである。
 それでも今から思えば、完全に思い出さないまでも――体のどこかには、前世の欠片が染み付いていたように感じてならないのだ。幼い頃から、暗い場所がどうしても苦手だったこと。自分より体が大きな、大人に対してどうしても恐怖心を感じることが多かったこと。
 それが幼い頃に虐待されていたとか、捨てられたとか、怖いイジメに遭っていたというのならまだ分かる。しかし少なくとも、“瀬良涼貴”として産まれてからそのような露骨な不幸に見舞われたことは一度もないはずで。何故そのような恐怖症にたびたび見舞われるのか、自分でもよくわかってはいなかった。――皮肉にも、シンデレラとしての記憶が蘇ってきて、全て納得がいってしまったのだけれど。
 自分のその記憶は全て、シンデレラであったかつての己が影響していたのだと。
 悲惨極まりない末路を迎えたシンデレラが、確かに自分の中に存在していたからということ。彼女は、“女として”の自分を嘆き、心底憎んでいた。もう二度と女に産まれたくない、あのような目になど遭いたくないと地獄で祈りを捧げるほどに。それが、悲劇を望む魔女の力さえ跳ね返すほどに。

――ああ、夢だと。夢だと分かっているのに、どうしてこんなにも体が震えるのか。

 今日は何をされるのだろう。夢の中で涼貴はまだ、十三歳の少女としてそこにいる。ネグリジェ一枚身につけたその下には、下着の一枚も身につけることを許されていない。簡単だ、その方が都合がいいから。――本当は全裸でもいいなんてことを、ニヤつきながら言われたほどである。あの人は自分を愛してなどいなかった。いっそ欲望の対象にされるのならどれほど良かっただろう。
 人の不幸を願えば、同じだけの不幸が返ってくる。
 そんなこと、最初からわかりきっていた。だけど、あの頃の自分に、一体どうして願わないなどという選択肢があっただろう。たとえ、憎むべき相手の墓のすぐ隣に、自分が埋まるための穴を掘るような行いであったとしてもだ。

『やあ、シンデレラ』

 そして今日も――鉄格子が、開く。
 王子に嫁いだ筈の姫君なのに、豪奢に見える部屋の入口と窓は鉄格子で閉ざされている。二重三重の鍵で閉ざされたそれは、外側からしか開くことはない。涼貴が、シンデレラがそこから逃げる術はない。
 その向こうには、下劣な本性を隠したその人が――邪悪を纏ってこちらを見ている。

『今日もたくさん、ゲストを用意したんだ。気に入ってくれると嬉しいなあ』

 何度朝日が上っても。自分に夜明けが来ることは、ただの一度もなかった。
 明るくても暗くても、世界は何一つ変わりはしない。
 押し殺した悲鳴の奥で――シンデレラはカタカタと震えることでしか、応えることを許されない。

――今日も、独りだ。独りぼっちだ。

 もう、痛いのも怖いのも嫌だ。それなのに自分には、この苦しみを分かち合うことができる相手もいない。
 助けて、なんて言葉はとうに封印した。それを告げたら最後、連中を楽しませるだけだと知っているのだから。そうすれば苦しみを長引かせるだけだ。体が壊れるまで、頭がおかしくなるまで、暴虐の時間が続くだけであるのだから。

――それでも、もう。もう嫌だ。嫌なんだ……だってもう、僕は……僕はシンデレラじゃないのに!

 その時。
 震える腕を――誰かが、掴んだ。え、と思って振り向く。そこには誰もいない。派手で暗い、悪趣味な部屋が広がるばかりだ。それなのに。
 感触が、ある。温かい手を感じる。誰かが――今、自分を引き上げようとしている。そう。



「涼貴、しっかりしろ!!」



 はっとして、眼を見開いた。はっきりと声が聞こえると同時に、視界がクリアになり、意識が沼の底から引き上げられる。
 最初に目に入ったのは天井ではなく。こちらを心配そうに見下ろす、ひとりの女性の顔だった。

「え、あ……り、凛音、さん……?」

 彼女の名前を思い出し、呼んだ瞬間。全身から力が抜けそうになった。

――おかしいなあ。どうして、こんなに……安心しているんだろう、僕は。

 悪夢から覚めることができたから?
 それとも――自分の手を握り、呼んでくれる存在がいたことを認識したから?
 それとも――それが、彼女であったから?まだ出会って僅かな期間しか経過していないというのに?

「よ、良かったあ……揺さぶってもめっちゃ声かけても、全然目覚めないもんだから。これで起きなかったら、平手打ちしかないかと思ったぞ」
「……すみません」
「いいけど。目を覚ましてくれたからいいけどさあ」

 はああ、と大きく息を吐く彼女は。ここにきて涼貴の手を握ったままであったことに気づき、慌てたように手を離す。なんだかそれが少し名残惜しいが――まあ、真っ赤になって恥ずかしがる顔がちょっと可愛いから、これはこれでいいということにしようかとも思う。いや、断じて自分は彼女に対して、異性として特別な感情を持っているわけではないけれど。

――良かった。余計なことを考えてるってことは……ちょっとは余裕、戻ってきたみたいだ。

「貴女に平手打ちされたら、睡眠が永眠になってかもしれませんね……うっ」

 心配をかけてしまったのは、明白だ。少しでも強がろうと軽口を叩いて体を起こそうとし、背中に痛みが走って呻く羽目になる。
 そういえば、自分達は一寸法師と戦っていたはずだ。うっすらと彼女が一寸法師を倒したところは覚えているが――そのあとの記憶が、随分ぼんやりしている。とりあえずこの場所は、と見回して涼貴は此処が病院ではなく、彼女の自宅であることに気づいた。どうやら、凛音はきちんと“賢明”な判断ができたらしい。
 つまり、病院に涼貴を連れ込めば厄介なことになる――という事実認識ができたということだ。

「無理するなよ。怪我はだいぶ塞がりつつあるみたいだけど……それでも完全ってわけじゃないだろ?」
「申し訳ありません……」
「謝るくらいなら、二度としないでくれ。……助けてくれたことに、感謝はするけどさ」
「……はい」

 涼貴の軽口にツッコミを入れることもしない彼女。よほど不安にさせてしまったようだ、と流石に反省する。
 本当に、余計な怪我などするべきではない。守ろうとした相手の、心まで守れないようではなんの意味もないではないか。むしろ凛音の対応は極めて大人だ。自分が逆の立場なら、徹底的に罵倒してハッ倒しているところである。
 異説転装時に負ったダメージは、解除時に半分以上が回復することになる。異説転装を習得していれば、通常時でも相当傷の治りは早くなるのだ。凛音はそれに気づいて、涼貴を病院に連れていくのはかえってまずいことになると判断したのだろう。それで正解である。あまりにも急速に治る傷など見せたら、医師達が総じてひっくり返るのみならず、研究材料にされて長らく拘束されるのは目に見えているのだから。

「えっと、此処は私の部屋だ。って見れば分かると思うけど。他にちょっと連れ込める場所がなかったっていうか、徒歩でさっさと行ける場所が少なかったもんだからさ、汚いベッドで悪いけど」

 照れ隠しのように頭を掻きながら告げる凛音。

「それと、一寸法師の方は気絶してるだけで大したダメージなかったみたいだから、そのまま救急車だけ呼んで逃げた。多分今頃病院だろ。……小学生の、女の子だったよ」
「やはりそうですか」
「私さ、まだあんまり……命懸けの戦いをしてるとか、そういう自覚なかったけど。あんな小さな子供が、あんな残酷なことやらされてると思ったら……絶対許せないって思ったよ。同時に、お前が倒れたの見たら、なんかさ……」

 しどろもどろ、多分言いたいことがありすぎて詰まっている状態なのだろう。彼女が言葉を詰まらせながら、それでも必死で言葉を探している様子だった。
 本当は、涼貴も思っていたのだ――巻き込んでしまって申し訳なかった、と。
 彼女はまだ前世に目覚めていなかった。前世に目覚めていない物語を見つけることは、一部の能力者を覗けばそうそう簡単なことではない。涼貴の能力が少し特殊であっただけだ。つまり、このままいけば彼女は魔王に見つかることもなく、平穏無事に暮らせた可能性も十分にあったのである。
 勿論、いずれ能力に目覚める日は“必ず”来る。魔女の呪いが、自分達に生涯人として過ごすことを許すはずがないのだから。けれどそれが、魔王との戦いを終えたあとならば――目覚めても、戦うことなく過ごすことだってできたかもしれないのである。
 いくら、加賀美瑠衣が攫われたというきっかけがあったとはいえ。彼女を、戦士にしない方法もあったのだ。それなのに自分が彼女に声をかけた――巻き込んでしまった。自分の力が足らないことを知っていたがゆえに。自分が、弱かったばかりに。

「私、やるよ。戦う。そうしなきゃいけないって、はっきりそう思ったよ」

 彼女の強い意思。その言葉は、まさに涼貴が望んだものであったはずだった。
 それなのに今は、その声を聞くのが辛くもあるのだ。そのようにレールを敷いて、歩かせたのは自分だというのに。大きな矛盾で、エゴイズムにもほどがあるというのに。

「一緒に戦おう、涼貴。……だからもう、私を守ったりしないでくれ。私は、涼貴の後ろじゃなくて、隣で戦いたい。もう絶対、足でまといになんかならないからさ」
「足でまといどころか、もう貴女は立派な戦士ですよ。あの一寸法師を、ほぼ一人で倒してみせたんですから」

 ごめんなさい、なんて言えない。
 そんなことを今更言ったってもう遅すぎるのだから。でも。

「むしろ、弱いのは僕の方です。……目覚めたばかりの貴女に、完全に助けられてしまいました。戦士として、あまりにも失格でしょう。……貴女を無理やり巻き込んで、偉そうに指導して、結局助けられていては世話ないですよ」
「なんだ、そんなこと考えてたのか。確かに急に話持ってきたなーと思ったし、最初は戸惑ったけどさ。一緒に戦うことを選んだのは私の意思だよ?」
「でも、レールを敷いたのは僕ですから。それなのに……」
「ああもう!だから!私はマリオネットになるほどお人好しな女じゃないって言ってんの!」
「う」

 言い募る涼貴の頬に、温かいものが触れる。彼女が両手で、涼貴の頬を包み込んでいた。安心して欲しいと、そう言い聞かせるように。
 自分はここにいると、そう教えてくれるように。

「助けたいのも、守りたいのも、戦うのも。全部、私が望んだことだよ。レールを敷かれたって、気に食わないならそれを外すなり、壊すなりって選択はできたんだから。私は自分が望まない道を強制されて、黙ってそれに従うような人間じゃない」

 それにさ、と。彼女は微笑む。

「弱くたって、いいじゃんか。……私だって、弱いし。人間、完璧チートじゃないから意味があるんだよ。完璧に強い奴はきっと……弱かったり、苦しかったりする人の心なんかわかんないさ。ダメなところがあるから、ダメな人の気持ちがわかる。名前もない誰かの生きる世界を、なんとか守りたいって思える。お前も、きっとそうなんじゃないかな」
「凛音、さん……」
「大丈夫。ちゃんと仲間を募ろうって思って……巻き込んだって私に対して罪悪感抱くようなあんたはさ。人を傷つけて平気な魔王より、ずっと“強い”よ。私が、保証する」

 ああ、そうか。涼貴は思う。何故自分が、最初の仲間にこの人を選んだのか。確かにそれは、桃太郎が攫われたというきっかけはあったけれど、きっとそれだけではないのだ。
 この人だから、一番最初に仲間にしたいと。相棒として傍にいて欲しいと――そう思えたのだと。

「……凛音、さん」

 だから、涼貴は。

「少しだけ……話、聞いて貰えますか。僕の……シンデレラの、物語を」

 彼女には、話しておきたいと思ったのである。
 ドロドロに汚れ、汚泥に塗れて封印したいと願っていた――前世の、シンデレラの真実を。
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