恋とオバケと梟と

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<20・迫り来る狂気>

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 おぞましい音と、苦痛の呻きと、悲鳴。一体どれほどの惨事が、このカーテンの向こうで繰り広げられているというのか。
 意を決して布地に手をかけ、一気に開いた燕が見たものは。

「――っ!」

 一瞬、ぎゅっと目を瞑ってしまった己を誰が責められるというのだろう。
 あれ、と思って目を開いたのは、先程まで嫌というほど鼻腔をくすぐっていた臭いがなくなっていたからだ。

「あ……」

 保健室のベッドの上には――何もなかった。
 白いシーツ、白いタオル、白い枕。まるで一切使われていないかのような清潔なそれらが、綺麗に敷かれ、あるいは畳まれて置かれているのみであったのである。

――そ、そうだよ。保健の先生が復讐にかられて、子供を生きたまま解剖したとか……そんなことがあったんだとしても。実際、その事件が起きたのはずっと昔のことなんだから……!

 今、このベッドが血まみれになっているはずがない。彼らはどちらも、とうの昔に死んでいる存在なのだから。
 だが、それならばさっきまで聞いていた音は?声は?
 そして鼻がひん曲がりそうなほど漂っていた、凄まじい血の臭いは――?

『お前も……』
「!」

 だが、安心したのも束の間。その声は、燕のすぐ後ろで聞こえてきたのである。恨みがましい、掠れた女の低い声が。

『お前も、そいつの仲間なの?』

 はっとして、振り返った。だが、そこには誰もいない。先ほどと同じ、カーテンが引かれたもう一つのベッドがあるだけだ。
 だが、もはやその声を、空耳だなどと楽観的に考えることは燕には出来なかった。いる。確かに、この保健室には何かとてつもなくおぞましいものがいるのだ。
 パチ、パチチ、と電灯が不自然な点滅を始める。とにかく早く出た方がいい。入口のドアに近づいて歩き始めた、まさにその瞬間。

『誰も、助けようとしなかったの……あの子を。あの子はいつも、大丈夫だと笑っていたけれど……私は、私だけは本当は知っていたのよ。本当はずっと助けを求めていたということ。あの子はいつも血まみれになって、それでも歯を食いしばって戦っていたということ。それなのに、誰も助けなかったの。あの子が殴られているのを見て見ぬフリをしていた。担任さえ、あの子が傷だらけであることに気づいていたのに、いじめっ子が否定したら何もそれ以上訊かなくて、それで……』

 早口で、鬱々と吐かれる声。またしてもそれは、燕の後ろに回っていた。先ほど燕が覗き込んだベッドの方から聞こえてくる。さらに。

『後悔したの……ああ、あああああ!後悔した、後悔した、後悔した後悔した!あの子が生きているうちに、何であいつらを殺してやらなかったのかしら!私は知っていたのに、あの子が助けを求めているのがわかっていたのに!そうなる前にこうしておけばよかった、こいつらを皆殺しにしておけばよかったのだわ……!こういうクズどもは、大人になってもクズのままなのだから。自分が本気で痛い思いをしなければ、相手の痛みなんぞ理解できないようなクズ、クズ、クズ!私が大人として、思い知らせてやるのは正しいこと……そうすればあの子を救えた!死なせなどしなかったのに!!』

 憎悪の声と共に、どんどん強くなっていく血の臭い。先ほど消えたはずの、びちゃ、べちゃ、という音が再び聞こえ始めていた。さっきとは違うのは、もはやはっきりと痛い、助けて、と訴える声がなくなっていること。微かなうめき声と呼吸の音だけが聞こえている。ぽたぽたと滴る液体の音、女の怨嗟の声とともに。

『あの子を一緒にいじめた奴も、見て見ぬフリをした奴も同罪……!ねえ、あんた、このクソガキを助けに来たんでしょう?なら……』

 がくがくと震えながら、燕は振り返った。
 そして。



『あんたも、こいつの仲間よね?なら……一緒に解剖してあげるわ……!』



 見た。
 見てしまった。
 白衣を真っ赤に染めて、手にメスを持って立つ女も。
 その後ろのベッドが、そう先ほどは確かに何もなかったはずのベッドが。カーテンの内側まで真っ赤に染まっている様も。
 そのベッドに横たわる、腹と胸をぱっくり裂かれ――まだびくびくと動く内臓をむき出しにして、痙攣している少年の姿も――。

「う、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 自分でも、人生で初めてと思うほどの声が出た。喉が潰れそうなほど甲高い悲鳴――よくぞこんな声が出せたものだ、と関心してしまいそうになるほどの。
 燕は泣き叫びながら、保健室のドアに縋りつき、ノブを回した。

「い、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!助けっ……ああああ!」

 何を叫んでいるのか、自分でも判別できそうにない状態のまま。女の振り回すメスをギリギリで躱し、燕は絶叫しながら保健室の外へと転がり出たのだった。



 ***



「英玲奈ちゃん、急いで!」
「ま、待って!」

 足をもつれさせながら、梟は英玲奈と共に階段を駆け上っていく。何かがおかしい、ということは既に二人とも気づいていた。一つはマリコさん、の様子だ。
 自分が彼女の様子を最初に見たのは、燕がいなくなったと思しき空き教室でのことであるが。その時の彼女は、普通の人間と殆ど変わらない見た目をしていたはずであるのだ。職員室で見た時は一瞬だったが、その時もさほど変わらなかった気がするのである。
 でも、今は。

――何で、あんな首が……骨がなくなったみたいに、ぐにゃぐにゃに曲がってるんだ!?

 彼女は首吊りの縄でブランコでもするように全身をゆらゆらさせながら、どんどん自分達に近づいてきたのである。その時、彼女の首は上に、下に、左右にと人間の頚椎の可動域を超える動きをしていた。まるで胴体と首が、皮一枚だけで繋がってでもいるように。

『キャハハ、キャハハハハハ、ハハハハハハハ!』

 甲高い声で笑いながら追いかけてきたその顔。
 ぶらぶら、ぐにゃぐにゃと首を揺らしながら迫ってきたその顔は、喜悦以外の何物でもなかった。引き裂けそうなほど口を三日月型に開き、だらだらと涎を垂らし、血走った目をかっと見開いたその顔は、到底生きた人間がしていい表情ではない。例えていうなら、以前なにかの動画でちらっと見てしまった海外の薬物中毒者の表情があんなものに近かったような気がする。そう、言うなれば――正気を失った人間の顔、以外の何物でもない。
 おかしいのは顔と首だけではなかった。近づくにつれ、ゴキリゴキリと鈍い音も断続的に響くのである。彼女の腕も、おかしな方向にねじまがりつつあった。肘が真逆に折れ曲がり、肩が360度回転し、指がそれぞれ生き物のごとく明後日の方向を向く。両腕がそんな有様であるというのに、彼女は甲高い声で喜悦を嗤い続けるのだ。これが、異様でなくてなんだというのだろう。

――前に見た時より、マリコさんの様子がおかしくなってるのは……俺達がなんかのスイッチを踏んだから!?それとも……時間経過のせいか!?

 後者の可能性が高かった。校舎の内側の様子も、どんどんおかしなものに変わりつつある。現代の南校舎から、以前の木造の旧校舎らしき素材に変わっているというだけではない。明らかに、内部構造が異質なのだ。
 廊下がこんなに急勾配なはずがない。
 階段がこんなに長いはずがない。
 天井に、暗幕のごとく大量の蜘蛛の巣が垂れ下がっているのもおかしいし、柱があんなに斜めに曲がっているのも妙だ。

――やっぱり、長い時間此処にいるのはまずいんだ!あるいは、俺達が七不思議をクリアして、人形に一歩近づいたから悪霊が焦ってるってパターンもあるのか……!?だがそれにしちゃ、変化がちょっと急すぎないか!?

「梟さん、こっち!こっちです!」

 ぐねぐねと不自然に曲がるような廊下を走り、どこか逃げ込める場所はないかと探していた時。英玲奈が、ドアを見つけて叫んだ。
 椅子やら机やらが積み上がった木造の壁際。その場所だけ、ぽっかりと入口が開いていたのである。そのドアの様子は、辛うじて燕の記憶にも残っているものだった。
 特徴的なマーク――女子トイレ、だ。

――じょ、女子トイレとか入るの恥ずかしいけど……んなこと言ってる場合じゃないか!

 英玲奈に手招かれるまま、梟は彼女と共に女子トイレに逃げ込んだ。アンモニアのような独特な据えた臭いが鼻につき、思わず顔をしかめる。
 だが贅沢は言っていられない。二人が入ると、すぐ様入口のドアを閉めて、がちゃりと鍵をかけた。そのままずるずると、二人そろってドアの前に座り込むことになる。

「……いなくなりました、かね?」

 英玲奈がぜえぜえと息を吐きながら、問いかけてくる。梟はいや、と首を振りつつ神経を研ぎ澄ませた。

「まだ、気配はある。けどこっちには気づいてないっぽい。……諦めてくれるまで、しばらく此処に閉じこもっていよう。ていうか、走り回りすぎて現在地わからんのだけど、何処此処。階段は一気に上まで上がった、よな?」
「多分。だからここ、五階だとは思うんですけど……」
「うん……」

 英玲奈も自分も、自信がないのも当然といえば当然だ。階段を登りきって五階に到達するまでは、そこまで校舎におかしな様子はなかったと思うのである。木造に変身してしまっていたが、それだけだ。
 だが、廊下を逃げる途中から何かがおかしくなっていた。妙に坂を登る羽目になったり、椅子や机が積み上がりすぎて通れない場所があったり、分かれ道をいくつも経由することになったり。
 明らかに、元の五階、それどころかかつての旧校舎の構造としても有り得ないものだった。校舎は長方形の形であり、旧校舎もそれは同じだったはずである。あんな風に、廊下に曲がり道や角がいくつも存在していたはずがない。
 空間が、突然ネジ曲がり始めた。時間の経過のせいか、あるいは他に理由があるのか。

――長方形……。

 息を整えながら、ここでようやく梟は、随分前に感じた違和感を思い出していた。この学校の構造だ。何故、北校舎、南校舎という形にしたのだろう、と。それも、北校舎の短い側面を鬼門に向け、南校舎と逆さのTの字を作るような形状で。

――何か、見落としてる?……そういえば、北校舎に七不思議はなかったけど……怪談の類って、本当に何もなかったんだっけか……?

 そういえば、北校舎は生徒の数(というより、少子化の影響で地域の子供の数そのものが減っていったのだが)、が少なくなった影響で、取り壊そうという話が出ていた気がする。結局、梟の代でそれが出たのに、今の今まで実行される様子がない。
 そのわりに、南校舎と比べて使われることが少なすぎるのが不思議ではあるのだが。



『梟、そういやさ……北校舎の方にある書類運び手伝ってくれって先生に言われた時さ。俺、見ちまったんだよね……あれだよあれ。“百鬼夜行”ってやつ!』


――百鬼、夜行?

 まさか、と梟は目を見開く。もしや、この学校は。

「……梟さん?」

 突然沈黙し、何かを考え始めた梟に英玲奈が声をかけてくる。そうだ、一人で考えだけまとめているわけにはいかない。気づいたことは、彼女にも積極的に共有していかなければ。

「……いや、なんとなく気づいたかもしれないことがあってさ。あくまで、予想だけど」

 まだ、外でマリコの気配はする。どっちみち、この場から自分達はまだ出られない。小声になって、話をすることに決める梟。

「この学校ってもしかして……悪いものの“受け皿”だったんじゃないのかな、って思って」
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