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<1・呼び声とプロローグ>
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「一つ結んで、キミコさん……。
二つ結んで、リエコさん……」
朗々とした歌が、校舎の中に響き渡る。藤根宮小学校六年三組、千代田真姫は、五階の南校舎の女子トイレの中にいた。
手前から二番目の鏡の前で、スマートフォンにメモした内容を片手に歌を口ずさむ。五階の隅にある女子トイレは、五階を利用する一部の生徒しか使わない。それこそ、大きな方を急に催して、他の子に見られるのが恥ずかしい子が稀に駆け込んでくるくらいの場所である。ましてや、生徒の殆どが帰ったこの時間、真姫が一人でぶつぶつと怪しげなことをしていても見咎める生徒は誰もいないはずだった。
じっとりとした夕闇が迫る校舎の中、聞こえるのは遠くで遊ぶ子供達の声と走る微かに響く電車の音。そして、真姫の歌う声のみである。
「聞こえたらお返事をください。
この声にお応えください。
私の名前は千代田真姫です。
この学校の生徒です……」
歌の中に自分の名前を組み込むのって、想像していた以上に恥ずかしいなと思う。しかし、そういうルールである以上ここは黙って従う他ないのだ。そもそもおまじないに頼るほど、勉強をサボっていたのは自業自得と言われても仕方のないことなのだから。
この学校の七不思議は、少々変わっている。怖い、というよりおまじない系に属するものが殆どであるからだ。七不思議のうち六つは、特定の場所でお祈りをすると良いことが起きるよ、という類のものなのである。真姫が今いる、この場所もそう。七不思議の一つ、“幸運を呼ぶ双子の鏡”だった。
昔々、この学校がまだ木造の旧校舎だった時代。この学校の五階の女子トイレで、おまじないをした双子がいた。姉のキミコと妹のリエコ。二人は学校でも有名な、霊感少女達であったという。その特異な霊能力が影響してなのかしらずか、彼女達はあまり成績が良くなかったのだそうだ。仕方なく、この鏡の前で精霊を呼んで、その力を借りて勉強を助けてもらおうとしたという。
彼女達が呼び出した勉学を助けてくれる精霊は、今もこの鏡の中に力を残しているのだそうだ。
ゆえに、ここでその時と同じようにおまじないをすると、双子が自分達と同じ悩みを抱えた生徒を助けてくれるという。実際この鏡の前でおまじないを行って、成績アップに成功した生徒が何人もいると聞いている。
――おまじないは、他の生徒に見られないようにしないといけない。そこがネックだったんだけど、今日は大丈夫そう。
夏休みも間近に迫った六年生のこの時期になって、焦りを抱いている自分も馬鹿だとは思っている。五年生の時何故あんな楽観的な気持ちになれたのかさっぱりわからない。母は自分の合格に心底期待しているし、年の離れた優秀な兄のようにゆくゆくはあのT大に行って欲しいとまで考えているのが透けている。はっきり言ってうんざりする話だが、彼女の期待に応えられなかった時の失望した視線を浴びるくらいなら、多少無理でも頑張った方が楽だと思っているのは確かだった。ましてや、勉強そのものが嫌いなわけではないから尚更である。
そう、中学受験をするのなら、六年生になってから頑張っても遅い。小学校の五年生の時点ではもう、受験組はみんなバリバリに勉強しているはずだ。いくら好きな漫画にドハマリしてしまったからって、手を抜いていい理由になるはずがなかったというのに。
――まあ、此処に来たのが私だけじゃないってことは。みんな、考えることはおんなじだったってわけよね……。
実は、このおまじないを実行しようと試みるのは既に四回目であったりする。
前の数回は、おまじないをやろうとしたところでトイレに人がいることに気づいて断念したのだった。しかもその相手もまた、鏡の前でぶつぶつ言っている始末である。自分と同じ目的でおまじないを実行しようとした生徒であることは明白だった。まあ彼女達は、自分にこっそり目撃されてしまった時点で失敗したも同然なのだが。もうおまじないでもなんでもいいから受験祈願したい、という生徒はやはり少なくなかったということらしい。遭遇したのはみんな、そこそこ背の大きな女の子ばかりだった。みんな、真姫と同じ受験生だったということだろう。
見られてはいけないという条件がある以上、人がほとんどはける時間帯を見極めなくてはならない。
真姫は委員会もなく、先生達が職員会議で遅くなる日を選んでおまじないを行うことにした。職員会議で先生たちが職員室に大集合しているということはつまり、見回りの時間もそれだけ遅くなるということである。用務員のおじさんもいるが、彼が見回りに来るのは逆にもう少し遅い時間であると知っていた。この学校の用務員は、実際警備員の仕事もかねているようなものらしい(それで本当にいいのだろうか、と思わないでもなかったが)。泊まり込みで夜も見回りを行ってくれるのは、安全面から考えるならありがたいことであったが。
「一つ結んで、キミコさん……。
二つ結んで、リエコさん……」
歌は五回も、繰り返さないといけない。これでやっと五回目。誰かに気づかれる前に、さっさと終わりにしなければ。
「聞こえたらお返事をください。
この声にお応えください。
私の名前は千代田真姫です。
この学校の生徒です……」
よし、これで終わり。真姫はパン、と大きな音で手を叩いて、声に出してお願い事を言った。
「お願いします!私を、大成女子中学に合格させてください!何がなんでも落ちるわけにはいかないの……お願いです、キミコさんリエコさん!」
最後に、二回大きく手を叩いて、終わり。やり方としては非常に簡単だ。ただ“誰かに見られないで五日歌を歌う”ことが難しいというだけである。
どこまで効果があるのかはわからないが、やらないよりはマシなのだ。特に、真姫は社会科の勉強が大の苦手だった。地理も歴史もちっとも覚えられないのである。他の教科は多少自力でなんとかなっても、社会だけはどうにもなる自信がなかった。神頼みでもなんでも、やらないよりマシなのである。
――終わったあ!……よし、急いで帰らないと。塾の時間あるし。
真姫は足下に置いていたランドセルを背負いなおすと、女子トイレを後にした。塾の時間が迫っている。万が一でも遅刻しようものなら、連絡は全て親に行ってしまうことになるのだ。それだけは避けなければならない。リアリストの彼女はきっと、真姫がおまじないをしていたと聞いたら呆れてこう言うだろう――そんなことしている暇があったら勉強しなさい、と。
間違ってはいない。間違ってはいないが、人間自分のど努力でやれる範囲には限界があるのだ。自分が簡単にできたことが、他人にも容易であるなどと思わないでほしいと思う真姫である。母もまた、T大卒の才女だった。小学校も中学校も高校も、ほとんど成績表で5やA以外を取ったことがないのだという。それが当たり前にできる人間は、社会科のちょっとした知識の暗記にも苦労するような人間の気持ちなんてきっとわからないに違いない。
――私だって、頑張ってるんだから。頑張っても……お母さんみたいに、運まで味方にできるほどの力なんか、ないの。それくらいわかってくれればいいのに。私とお母さんは、違う個体なんだから。
考えれば考えるほど、陰鬱な気持ちになる。おまじないをやったら確実に合格します!ということならどれほど安堵できたことか。残念ながらおまじないはおまじないなので、確実に合格を保証してくれるものではないということくらい真姫にもわかっているのである。
それでも、願掛けの一つくらいしたって、バチは当たらないだろうにと思うのだ。
凡人はそうでもしないと、自分の心を安心させることさえままならないのだから。
「ん?」
階段を降り、廊下を歩いてしばらくした時だった。
廊下の真ん中に、ぽつんと青いものが落ちていることに気づいたのである。薄緑色のタイルの上、その青はやけに目立って見えた。
誰かハンカチでも落としたのだろうか。そう思って見てみると。
「お人形……?」
それは、青いワンピースを着た女の子の人形だった。布で作った体に綿を詰め、毛糸で髪の毛を生やし、目玉にボタンを縫い付けてある比較的シンプルな人形である。随分と古めかしいものだが、誰が作ったのだろうか。裏返しにしてみたりスカートをめくって確認してみたりもしたが、名前らしきものは何処にもなかった。
――結構しっかりした作りだし……これ、大事なものなんじゃないの?どうしよう、先生に届けた方がいいよね?
職員室に寄って帰るか、と思ったところで足が止まった。今、先生達は職員会議で大集合している真っ最中であることを思い出したせいだ。あの空気の中、職員室に入るのは相当勇気がいるだろう。もっと言えば、この時間まで残っていたことを咎められるのも面倒だ。
ならば、届け先は別にするべきだろう。用務員のおじさんに渡しておけば、きっとおじさんから職員室に届けてくれるに違いない。職員会議で職員室に入れなかったので、と言えばきっとわかってくれるはずである。
――えっと、用務員室は北校舎の一階だったよね。一階昇降口を出る方が早そう。
二階に渡り廊下もあるが、少々遠回りになる。真姫は一階の下駄箱まで向かうと、靴を履き替えてそのまま一度外に出ようとした。――人形を、手に持ったまま。
それが最大の過ちであったと、気づくことなく。
『くすくす……』
え、と思った。小学生――いや、もっと小さな子供の笑い声が、すぐ近くから複数聞こえた気がしたからだ。
誰かいるのだろうか、と思わず下駄箱の裏を覗き込む。しかし、周囲は夕闇の中でしん、と静まり返るばかり。真姫以外に、誰かがいる様子もない。
――空耳かな?
校庭でまだ遊んでいる子供達がいるようだし(さすがに、そろそろ叱られる時間帯だろうが)、そのせいで何かを聞き間違えたのかもしれなかった。首をかしげながらも真姫が昇降口から外に出ようとした時だった。
ギイイイイイ……バタン!
「ああもう、ちょっと!」
きっと風でも吹いたのだろう。目の前で閉まってしまう、昇降口の扉。なんだか邪魔された気分だ。そう思いながら手をかけた真姫は、すぐに固まることになる。
扉が、開かない。
さっきまで確かに半開きの状態で固定されていたはずなのに。
「え?」
そんな筈は、と取っ手部分を観察して気づいた。ツマミは、下に下がっている。つまり鍵はかかっていない状態のはずなのだ。それなのに、開かない。突然扉が空間にがっちり固定されて、そのまま動かなくなってしまったかのように。
「ちょ、ちょっと!何で開かないの、ねえ!」
風が強くて、その抵抗でドアが抑えつけられてしまっているのだろうか。真姫は懸命にぐいぐいと扉を押し開こうとするが、戸はぴくりとも動く気配がなかった。段々と焦りを感じてくる。早く帰らなくちゃいけないのに、どうしてこういう時に限ってこんなことになるのか。他の場所の戸も試してみたが、どこもぴっちりと閉まっていて開く気配一つなかった。まさか本当に、見えない力が真姫を塾に行かせるのを阻んでいるようにさえ思えてしまう。
「なんなの、もう!なんだってのよ、もう!!」
段々腹立たしくなってくる。別の出口から出るしかないということなのだろうか。しかし、風の圧力だけで開かなくなるような扉など欠陥品ではないか。真姫はイラつきながらも、扉から離れようとして――。
気がついた。
扉のガラス戸に、人影が映っていることに。そう、丁度自分の真後ろあたりに、女の子の姿が――。
「!?」
はっとして振り向く。しかし、真姫の後ろに誰かがいる様子はない。
何かを見間違えたのか。段々とうるさくなる心臓を宥めながら、自分の下駄箱に戻ろうとしたその時。
「!」
目の前に、その少女は立っていた。今まで気付かなかったのが不思議なほどの至近距離に。
「はっ……え!?ええ!?」
『くすくす……』
黄色のワンピースに、おかっぱ頭の少女。前髪が長すぎるせいで、目元はまるで見えなかった。ただ開かれた口元が、ニタニタと三日月型に歪んでいるのがわかるだけである。
『くすくす……』
『くすくす……』
嗤い声が、聞こえる。その声が二つであると気づいた時、真姫は背筋が凍る思いがした。
声は目の前の少女と、もう一つ。自分の真後ろからも聞こえてきているのだ。
「だ、誰……」
前にも、後ろにも下がることができない。本能的に理解していた。彼女達は人間ではない、別の何かであるということを。そう。
「誰なの、ねえっ……!」
考えられるとしたらそれは――双子。
『ありがとう』
二重に重なった声が、唱和した。
『ありがとうねえ、まきちゃん』
そして。真姫の意識は、ぶつりとテレビの電源を落とすように――真っ黒になって、消失したのである。
二つ結んで、リエコさん……」
朗々とした歌が、校舎の中に響き渡る。藤根宮小学校六年三組、千代田真姫は、五階の南校舎の女子トイレの中にいた。
手前から二番目の鏡の前で、スマートフォンにメモした内容を片手に歌を口ずさむ。五階の隅にある女子トイレは、五階を利用する一部の生徒しか使わない。それこそ、大きな方を急に催して、他の子に見られるのが恥ずかしい子が稀に駆け込んでくるくらいの場所である。ましてや、生徒の殆どが帰ったこの時間、真姫が一人でぶつぶつと怪しげなことをしていても見咎める生徒は誰もいないはずだった。
じっとりとした夕闇が迫る校舎の中、聞こえるのは遠くで遊ぶ子供達の声と走る微かに響く電車の音。そして、真姫の歌う声のみである。
「聞こえたらお返事をください。
この声にお応えください。
私の名前は千代田真姫です。
この学校の生徒です……」
歌の中に自分の名前を組み込むのって、想像していた以上に恥ずかしいなと思う。しかし、そういうルールである以上ここは黙って従う他ないのだ。そもそもおまじないに頼るほど、勉強をサボっていたのは自業自得と言われても仕方のないことなのだから。
この学校の七不思議は、少々変わっている。怖い、というよりおまじない系に属するものが殆どであるからだ。七不思議のうち六つは、特定の場所でお祈りをすると良いことが起きるよ、という類のものなのである。真姫が今いる、この場所もそう。七不思議の一つ、“幸運を呼ぶ双子の鏡”だった。
昔々、この学校がまだ木造の旧校舎だった時代。この学校の五階の女子トイレで、おまじないをした双子がいた。姉のキミコと妹のリエコ。二人は学校でも有名な、霊感少女達であったという。その特異な霊能力が影響してなのかしらずか、彼女達はあまり成績が良くなかったのだそうだ。仕方なく、この鏡の前で精霊を呼んで、その力を借りて勉強を助けてもらおうとしたという。
彼女達が呼び出した勉学を助けてくれる精霊は、今もこの鏡の中に力を残しているのだそうだ。
ゆえに、ここでその時と同じようにおまじないをすると、双子が自分達と同じ悩みを抱えた生徒を助けてくれるという。実際この鏡の前でおまじないを行って、成績アップに成功した生徒が何人もいると聞いている。
――おまじないは、他の生徒に見られないようにしないといけない。そこがネックだったんだけど、今日は大丈夫そう。
夏休みも間近に迫った六年生のこの時期になって、焦りを抱いている自分も馬鹿だとは思っている。五年生の時何故あんな楽観的な気持ちになれたのかさっぱりわからない。母は自分の合格に心底期待しているし、年の離れた優秀な兄のようにゆくゆくはあのT大に行って欲しいとまで考えているのが透けている。はっきり言ってうんざりする話だが、彼女の期待に応えられなかった時の失望した視線を浴びるくらいなら、多少無理でも頑張った方が楽だと思っているのは確かだった。ましてや、勉強そのものが嫌いなわけではないから尚更である。
そう、中学受験をするのなら、六年生になってから頑張っても遅い。小学校の五年生の時点ではもう、受験組はみんなバリバリに勉強しているはずだ。いくら好きな漫画にドハマリしてしまったからって、手を抜いていい理由になるはずがなかったというのに。
――まあ、此処に来たのが私だけじゃないってことは。みんな、考えることはおんなじだったってわけよね……。
実は、このおまじないを実行しようと試みるのは既に四回目であったりする。
前の数回は、おまじないをやろうとしたところでトイレに人がいることに気づいて断念したのだった。しかもその相手もまた、鏡の前でぶつぶつ言っている始末である。自分と同じ目的でおまじないを実行しようとした生徒であることは明白だった。まあ彼女達は、自分にこっそり目撃されてしまった時点で失敗したも同然なのだが。もうおまじないでもなんでもいいから受験祈願したい、という生徒はやはり少なくなかったということらしい。遭遇したのはみんな、そこそこ背の大きな女の子ばかりだった。みんな、真姫と同じ受験生だったということだろう。
見られてはいけないという条件がある以上、人がほとんどはける時間帯を見極めなくてはならない。
真姫は委員会もなく、先生達が職員会議で遅くなる日を選んでおまじないを行うことにした。職員会議で先生たちが職員室に大集合しているということはつまり、見回りの時間もそれだけ遅くなるということである。用務員のおじさんもいるが、彼が見回りに来るのは逆にもう少し遅い時間であると知っていた。この学校の用務員は、実際警備員の仕事もかねているようなものらしい(それで本当にいいのだろうか、と思わないでもなかったが)。泊まり込みで夜も見回りを行ってくれるのは、安全面から考えるならありがたいことであったが。
「一つ結んで、キミコさん……。
二つ結んで、リエコさん……」
歌は五回も、繰り返さないといけない。これでやっと五回目。誰かに気づかれる前に、さっさと終わりにしなければ。
「聞こえたらお返事をください。
この声にお応えください。
私の名前は千代田真姫です。
この学校の生徒です……」
よし、これで終わり。真姫はパン、と大きな音で手を叩いて、声に出してお願い事を言った。
「お願いします!私を、大成女子中学に合格させてください!何がなんでも落ちるわけにはいかないの……お願いです、キミコさんリエコさん!」
最後に、二回大きく手を叩いて、終わり。やり方としては非常に簡単だ。ただ“誰かに見られないで五日歌を歌う”ことが難しいというだけである。
どこまで効果があるのかはわからないが、やらないよりはマシなのだ。特に、真姫は社会科の勉強が大の苦手だった。地理も歴史もちっとも覚えられないのである。他の教科は多少自力でなんとかなっても、社会だけはどうにもなる自信がなかった。神頼みでもなんでも、やらないよりマシなのである。
――終わったあ!……よし、急いで帰らないと。塾の時間あるし。
真姫は足下に置いていたランドセルを背負いなおすと、女子トイレを後にした。塾の時間が迫っている。万が一でも遅刻しようものなら、連絡は全て親に行ってしまうことになるのだ。それだけは避けなければならない。リアリストの彼女はきっと、真姫がおまじないをしていたと聞いたら呆れてこう言うだろう――そんなことしている暇があったら勉強しなさい、と。
間違ってはいない。間違ってはいないが、人間自分のど努力でやれる範囲には限界があるのだ。自分が簡単にできたことが、他人にも容易であるなどと思わないでほしいと思う真姫である。母もまた、T大卒の才女だった。小学校も中学校も高校も、ほとんど成績表で5やA以外を取ったことがないのだという。それが当たり前にできる人間は、社会科のちょっとした知識の暗記にも苦労するような人間の気持ちなんてきっとわからないに違いない。
――私だって、頑張ってるんだから。頑張っても……お母さんみたいに、運まで味方にできるほどの力なんか、ないの。それくらいわかってくれればいいのに。私とお母さんは、違う個体なんだから。
考えれば考えるほど、陰鬱な気持ちになる。おまじないをやったら確実に合格します!ということならどれほど安堵できたことか。残念ながらおまじないはおまじないなので、確実に合格を保証してくれるものではないということくらい真姫にもわかっているのである。
それでも、願掛けの一つくらいしたって、バチは当たらないだろうにと思うのだ。
凡人はそうでもしないと、自分の心を安心させることさえままならないのだから。
「ん?」
階段を降り、廊下を歩いてしばらくした時だった。
廊下の真ん中に、ぽつんと青いものが落ちていることに気づいたのである。薄緑色のタイルの上、その青はやけに目立って見えた。
誰かハンカチでも落としたのだろうか。そう思って見てみると。
「お人形……?」
それは、青いワンピースを着た女の子の人形だった。布で作った体に綿を詰め、毛糸で髪の毛を生やし、目玉にボタンを縫い付けてある比較的シンプルな人形である。随分と古めかしいものだが、誰が作ったのだろうか。裏返しにしてみたりスカートをめくって確認してみたりもしたが、名前らしきものは何処にもなかった。
――結構しっかりした作りだし……これ、大事なものなんじゃないの?どうしよう、先生に届けた方がいいよね?
職員室に寄って帰るか、と思ったところで足が止まった。今、先生達は職員会議で大集合している真っ最中であることを思い出したせいだ。あの空気の中、職員室に入るのは相当勇気がいるだろう。もっと言えば、この時間まで残っていたことを咎められるのも面倒だ。
ならば、届け先は別にするべきだろう。用務員のおじさんに渡しておけば、きっとおじさんから職員室に届けてくれるに違いない。職員会議で職員室に入れなかったので、と言えばきっとわかってくれるはずである。
――えっと、用務員室は北校舎の一階だったよね。一階昇降口を出る方が早そう。
二階に渡り廊下もあるが、少々遠回りになる。真姫は一階の下駄箱まで向かうと、靴を履き替えてそのまま一度外に出ようとした。――人形を、手に持ったまま。
それが最大の過ちであったと、気づくことなく。
『くすくす……』
え、と思った。小学生――いや、もっと小さな子供の笑い声が、すぐ近くから複数聞こえた気がしたからだ。
誰かいるのだろうか、と思わず下駄箱の裏を覗き込む。しかし、周囲は夕闇の中でしん、と静まり返るばかり。真姫以外に、誰かがいる様子もない。
――空耳かな?
校庭でまだ遊んでいる子供達がいるようだし(さすがに、そろそろ叱られる時間帯だろうが)、そのせいで何かを聞き間違えたのかもしれなかった。首をかしげながらも真姫が昇降口から外に出ようとした時だった。
ギイイイイイ……バタン!
「ああもう、ちょっと!」
きっと風でも吹いたのだろう。目の前で閉まってしまう、昇降口の扉。なんだか邪魔された気分だ。そう思いながら手をかけた真姫は、すぐに固まることになる。
扉が、開かない。
さっきまで確かに半開きの状態で固定されていたはずなのに。
「え?」
そんな筈は、と取っ手部分を観察して気づいた。ツマミは、下に下がっている。つまり鍵はかかっていない状態のはずなのだ。それなのに、開かない。突然扉が空間にがっちり固定されて、そのまま動かなくなってしまったかのように。
「ちょ、ちょっと!何で開かないの、ねえ!」
風が強くて、その抵抗でドアが抑えつけられてしまっているのだろうか。真姫は懸命にぐいぐいと扉を押し開こうとするが、戸はぴくりとも動く気配がなかった。段々と焦りを感じてくる。早く帰らなくちゃいけないのに、どうしてこういう時に限ってこんなことになるのか。他の場所の戸も試してみたが、どこもぴっちりと閉まっていて開く気配一つなかった。まさか本当に、見えない力が真姫を塾に行かせるのを阻んでいるようにさえ思えてしまう。
「なんなの、もう!なんだってのよ、もう!!」
段々腹立たしくなってくる。別の出口から出るしかないということなのだろうか。しかし、風の圧力だけで開かなくなるような扉など欠陥品ではないか。真姫はイラつきながらも、扉から離れようとして――。
気がついた。
扉のガラス戸に、人影が映っていることに。そう、丁度自分の真後ろあたりに、女の子の姿が――。
「!?」
はっとして振り向く。しかし、真姫の後ろに誰かがいる様子はない。
何かを見間違えたのか。段々とうるさくなる心臓を宥めながら、自分の下駄箱に戻ろうとしたその時。
「!」
目の前に、その少女は立っていた。今まで気付かなかったのが不思議なほどの至近距離に。
「はっ……え!?ええ!?」
『くすくす……』
黄色のワンピースに、おかっぱ頭の少女。前髪が長すぎるせいで、目元はまるで見えなかった。ただ開かれた口元が、ニタニタと三日月型に歪んでいるのがわかるだけである。
『くすくす……』
『くすくす……』
嗤い声が、聞こえる。その声が二つであると気づいた時、真姫は背筋が凍る思いがした。
声は目の前の少女と、もう一つ。自分の真後ろからも聞こえてきているのだ。
「だ、誰……」
前にも、後ろにも下がることができない。本能的に理解していた。彼女達は人間ではない、別の何かであるということを。そう。
「誰なの、ねえっ……!」
考えられるとしたらそれは――双子。
『ありがとう』
二重に重なった声が、唱和した。
『ありがとうねえ、まきちゃん』
そして。真姫の意識は、ぶつりとテレビの電源を落とすように――真っ黒になって、消失したのである。
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