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<1・夢見る少女>
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『待てよ、何で逃げるんだ!』
アルジャノンの声が、後ろから降ってくる。こんな慌てたような声、今まで一度も聴いたことなんかない。それもそうだろう、式典の会場で突然逃げ出したのだから、おかしいと思うのも無理ないことだ。
捕まってはいけない。あたしはとにかく、彼から逃げなければいけない。だって思い出してしまったのだから、前世を。そして、アルジャノンの実の妹という立場でありながら、彼に想いを寄せてしまっていたその最大の原因を。
――お願い、会場に戻って。戴冠式の途中なんでしょ?
森の中、動きづらいハイヒールでひたすら逃げる、逃げる。時折転び、豪華なドレスを泥で汚し、手をつくたびにすりむいて泣きたい気持ちになったとしても。
――あなたは、この国の王様になるのよ。こんなところで、あたしなんかに関わっている場合じゃない。あなたの妹、オーレリアはここで死ぬ。死んだことになるの……お願いわかって。
あたしはかつて、日本の女子高校生だった。どこにでもいるような普通の女の子。高校で出会った美術部の先輩と恋に落ちて、幸せの絶頂のまま事故で二人とも亡くなったのだ。死ぬ直前、思っていたのは未練だった。もっとこの人とたくさんやりたいことがあった、もっとこの人とずっと一緒にいたかった、それなのに何故こんなに早く死ななければいけないのかと。
痛い、苦しい、それ以上にこの人と離れたくない――死にたくない。それが許されないならせめて、生まれ変わってもこの人の傍にいたい。まさかそんな間際の願いが、こんな残酷な形で叶えられてしまおうとは。
かつての愛しい人の、妹。
兄に恋してしまった自分を責め続け、この想いがどこから来るのかを問い続けた十七年。今やっと、その理由がわかった。彼が壇上に上がり、こちらに向かって微笑みかけてくれた瞬間、その笑顔が前世の愛しい人と重なったのである。
――思い出さなければ、私は想いを抱えてなお……あの人の妹でいられたのに!
『オーレリア!』
自分の足は、けして速いものではない。ましてや、動きにくいドレスにハイヒールの姿で、舗装もされていない道を長く走り続けることなど困難なのだ。
思いきり腕を掴まれて、次の瞬間はその胸に強く抱き留められていた。
『頼む、逃げないでくれ……思い出したんだ。思い出したんだよ、俺も……!』
ああ、とあたしの視界が滲んでいく。やめて、あたしはあなたの妹なんだから、と言おうとした。言葉は喉でつっかかって、ちっとも音になってはくれなかったけれど。
――お願い、離して。でないとあたし、勘違いをしてしまう。
『好きだ』
兄であり、前世の恋人であったはずの人は。息が苦しくなるほど強く強く、あたしのことを抱きしめた。
『好きだ。好きだ、好きだ、好きだ。オーレリア……そして、芽衣子。全部思い出した。俺はかつての君も、今の君も捨てたくない。妹だって関係ない。俺が愛する人間は、今も昔も君一人だけだ。今、ようやくそれがわかったんだ』
『駄目、よ。そんなの……だって、だってあなたは、この国の王様、なんだもの。ちゃんと、高い身分のご令嬢をお妃様に貰って、子供をたくさん作って、この国を反映させていかなくちゃ……。じ、実の妹と、結婚できる法律なんて』
『ならば、俺が王様になったあとで、その法律を変えてやる』
彼の声には、一切の迷いも躊躇いもなかった。
『俺が妃にと望むのはただ一人、君だけだ。……愛してる、オーレリア』
『ああ、ああ……っ!アルジャノン、アルジャノン……!』
泥だらけのドレス、擦り傷だらけの手足。それでもあたしは振り返り、きつくきつく彼のことを抱きしめ返していたのだ。
森の中二人だけの最高のキスは。どんなお菓子よりも甘い甘い味がしたのである。
***
「はぁぁぁぁぁ……」
電車の座席にもたれかかり、小学生の緑あかるは深々とため息をついた。
手元のスマートフォンで読んでいた漫画、“運命のオーレリア”。異世界転生した元女子高生が、かつての恋人と中世ヨーロッパ風の異世界で再会し、兄と妹という立場でありながら惹かれあっていくというラブストーリーである。二人が再会してキスをする、というところで今日の配信分が終わってしまった。いいところなのに悔しい、とここが自宅なら地団太の一つも踏んでいたところである。無料配信で一日に読める話数はあまりにも少ない。タダで読ませて貰っているのだからそれくらい我慢しろ、というのが正しいことくらい、あかるにもよくわかっているのだけれど。
――ユイ達の話によると、二人がくっついてからが特に面白いって話だしさあ。えええ、これ明日まで我慢すんの?つら。めっちゃつら……!
運命のオーレリア、は数年前に大流行した漫画なのだという。異世界転生モノは数多く存在するが、その多くがありきたりな展開で一時流行してもすぐに廃れていく中、数少ない“正当派展開で生き残った作品”の一つであるのだとか、なんとか。異世界転生した後がギャグ展開ではなく、また王道少女マンガとしてのお約束も上手く踏んでいるのがいいということらしい。妹に生まれ変わってしまったのに、元恋人であるとはいえ兄に本気の恋をしてしまう少女の心理に皆が共感し、感動の涙を流すのだとか。
同時に、王になった兄アルジャノンにも数々の試練が降りかかり、妹を巻き込んで国の騒動や戦争を乗り越えて行くというハラハラドキドキの展開もあるという。現時点ではまだ、恋愛関係の描写が中心で国の物語としては大きく動いてはいない。王になってから、二人がくっついてから本番というのは間違ってはいないようだ。
――どうなるんだろ、この二人。法律って、改正するのすごく大変なんじゃないのかな。それとも、異世界だったらそういうの簡単にできちゃったりするのかな。
ご都合展開っていうのもあるしね。そんなことをつらつら考えつつ、二度目のため息である。楽しみにしている続きが、明日にならなければ読めない。それもあるが、同じだけあかるをぐったりさせたのは――このアルジャノンのようなイケメンなんか現実にはまず存在しない、という悲しい事実である。
クラスの男子達の有様を思い出せばそりゃもう期待するだけ無駄ということもわかるというものだ。高学年にもなってまさか、カーテンに絡まって遊び、うっかりレールから引きちぎって先生に雷を落とされる馬鹿がいようとは。カーテンにぶらさがって窓から窓に飛び移れないか実験しようとしたらしい。怪我人がいなかったからいいものの、少し考えれば危険極まりないことだと何故わからないのだろう。
どうせあの悪ガキどもに言わせれば、“なんかできるような気がしたから”“面白そうだったから”なんてアホな答えしか返ってこないに決まっている。そんなもん幼稚園で卒業しとけとしか言いようがない。どうせ、どこか触発されるような動画でも見てしまったというオチなのだろうが。
――そもそも、こんな風に逃げるヒロインを追いかけてきてくれる健気な王子様キャラなんてさあ、二次元の世界にしかいないっつーね。
あの男子どもが中学生、高校生になったら、イケメン王子様にジョブチェンジするのだろうか。正直、まったくそんな未来は見えない。勿論クラスの男子はそんな馬鹿ばかりではないのだが、悲しいことに顔面偏差値が高い男子の殆どが頭の中身は空っぽだったりするのである。そんな暴走系男子でも、ドッチボールやリレーではヒーローだ。女子にカッコイイ!と黄色い声を上げられていることも少なくない。まったく、あかるの好みではないのだけれど。
――あああ、でも、ロマンっていいよなー。私も追いかけられたいなあ。男前の王子様系とか俺様系に迫られるとか追われるとかしてみたいなあ。どっかに落ち着いた年上のイケメン、落ちてないかなあ。
“落ちてるようなら、わたしゃとっくに彼氏作ってるわい!”年の離れた姉のみかるなら、きっとそんなことを言うのだろうけど。
同時にクラスの男子どもにバレそうなら、“お前は追いかける側じゃなくて襲う側だろこの女ゴリラ”とでも暴言を吐かれかねない。確かにクラスの女子の中で一番でっかいし、男勝りだし、喧嘩も強いのでうっかり殴って泣かせた男子はかなりの数に登ったりするが。何も、自分の小学校の女番長を気取ったつもりもないのに、そんなわけのわからない称号がつくのは不名誉極まりないのである。
――うう、理想と現実、ザンコク。
心の中でしくしく泣いていると、電車がゆっくりと動きを止めた。ドアが開き、乗客たちが乗りこんでくる。小さな駅なので混むというほどではないが、車内の長椅子は優先席を残してほとんど埋まったようだ。別に優先席というものは健常者や若者が座ってはいけない場所ではないはずなのだが、なんとなく“座りづらい”空気があるのも確かなことなのだろう。近くに困っている人がなければ座ってもいいのにな、と思いつつもあかるもあまり座らないようにしてしまっている一人だったりする。大前提として、本来ならば優先席以外でも必要な場合は席を譲った方がいいのは確かなことなのだが。
――思えば、電車の席とか。誰かに譲ったこととか、ないや。
電車のドアが、空気が抜けるような音とともにしまっていく。自分が降りる駅まであと三駅。土曜日の午後だが、この区間はその間にあまり大きな駅もないので人の乗り降りも少ないのだ。降りるまでに電車がぎゅうぎゅうになって、座席から立てなくなるなんて心配もいらないと知っている。
――困ってる人を助けるために、積極的に何かできたらカッコいいなあって思うけど。そういう勇気って、いっつも出せない。小学生なんかに声かけられたら、迷惑なんじゃないかなって思うし。
そんなもの、結局のところただの言い訳だ。
道に迷って困っている人。ゆっくりしか横断歩道が渡れないお年寄り。大きな荷物を持っている子供。女子小学生のわりには体が大きくて力が強い、そんなあかるにしかできないことだってきっとあるはずだと思うのに。
女の子だから、小学生だから。それで勇気が出せない自分を正当化するなんて、カッコ悪いしただの怠慢ではないか。
――ダメだな。誰かに追いかけて貰うとか、助けて貰うとか、そういう妄想する前に……本当は、自分が変わらないといけないのにな。
大して可愛くもない、普通の女の子がイケメンに愛されまくるなんてのは漫画の世界だけだ。現実は、内面も外見も魅力的な女の子でなければ、男達は見向きもしないだろう。例外としてお金持ちのお嬢様なら話は別だろうが、生憎あかるは普通の家の事もだし、というかお金目当てで愛されてもちっとも嬉しくはない。
――何か、ないかな。自分を変えていけるようなこと。
穏やかな揺れに身を任せながら、あかるは何気なく周囲を見回す。
――私も勇気、出せたらな……。
そう、だからきっとそんな風に思った瞬間、事件を目撃したのもまた何かの運命だったのだろう。
斜め前の座席。OL風の若い女の人が、何やら具合が悪そうに俯いている。どうしたのかな、と違和感を感じて観察したあかるは気づいてしまった。
――ちょっ……マジで!?
彼女の右隣に座る男の手の位置が、おかしい。左手が、彼女と自分の体の間に不自然に滑りこんでいるではないか。電車の揺れでわかりづらいが、あれは紛れもなく――。
――ち、痴漢!痴漢がいる……!
アルジャノンの声が、後ろから降ってくる。こんな慌てたような声、今まで一度も聴いたことなんかない。それもそうだろう、式典の会場で突然逃げ出したのだから、おかしいと思うのも無理ないことだ。
捕まってはいけない。あたしはとにかく、彼から逃げなければいけない。だって思い出してしまったのだから、前世を。そして、アルジャノンの実の妹という立場でありながら、彼に想いを寄せてしまっていたその最大の原因を。
――お願い、会場に戻って。戴冠式の途中なんでしょ?
森の中、動きづらいハイヒールでひたすら逃げる、逃げる。時折転び、豪華なドレスを泥で汚し、手をつくたびにすりむいて泣きたい気持ちになったとしても。
――あなたは、この国の王様になるのよ。こんなところで、あたしなんかに関わっている場合じゃない。あなたの妹、オーレリアはここで死ぬ。死んだことになるの……お願いわかって。
あたしはかつて、日本の女子高校生だった。どこにでもいるような普通の女の子。高校で出会った美術部の先輩と恋に落ちて、幸せの絶頂のまま事故で二人とも亡くなったのだ。死ぬ直前、思っていたのは未練だった。もっとこの人とたくさんやりたいことがあった、もっとこの人とずっと一緒にいたかった、それなのに何故こんなに早く死ななければいけないのかと。
痛い、苦しい、それ以上にこの人と離れたくない――死にたくない。それが許されないならせめて、生まれ変わってもこの人の傍にいたい。まさかそんな間際の願いが、こんな残酷な形で叶えられてしまおうとは。
かつての愛しい人の、妹。
兄に恋してしまった自分を責め続け、この想いがどこから来るのかを問い続けた十七年。今やっと、その理由がわかった。彼が壇上に上がり、こちらに向かって微笑みかけてくれた瞬間、その笑顔が前世の愛しい人と重なったのである。
――思い出さなければ、私は想いを抱えてなお……あの人の妹でいられたのに!
『オーレリア!』
自分の足は、けして速いものではない。ましてや、動きにくいドレスにハイヒールの姿で、舗装もされていない道を長く走り続けることなど困難なのだ。
思いきり腕を掴まれて、次の瞬間はその胸に強く抱き留められていた。
『頼む、逃げないでくれ……思い出したんだ。思い出したんだよ、俺も……!』
ああ、とあたしの視界が滲んでいく。やめて、あたしはあなたの妹なんだから、と言おうとした。言葉は喉でつっかかって、ちっとも音になってはくれなかったけれど。
――お願い、離して。でないとあたし、勘違いをしてしまう。
『好きだ』
兄であり、前世の恋人であったはずの人は。息が苦しくなるほど強く強く、あたしのことを抱きしめた。
『好きだ。好きだ、好きだ、好きだ。オーレリア……そして、芽衣子。全部思い出した。俺はかつての君も、今の君も捨てたくない。妹だって関係ない。俺が愛する人間は、今も昔も君一人だけだ。今、ようやくそれがわかったんだ』
『駄目、よ。そんなの……だって、だってあなたは、この国の王様、なんだもの。ちゃんと、高い身分のご令嬢をお妃様に貰って、子供をたくさん作って、この国を反映させていかなくちゃ……。じ、実の妹と、結婚できる法律なんて』
『ならば、俺が王様になったあとで、その法律を変えてやる』
彼の声には、一切の迷いも躊躇いもなかった。
『俺が妃にと望むのはただ一人、君だけだ。……愛してる、オーレリア』
『ああ、ああ……っ!アルジャノン、アルジャノン……!』
泥だらけのドレス、擦り傷だらけの手足。それでもあたしは振り返り、きつくきつく彼のことを抱きしめ返していたのだ。
森の中二人だけの最高のキスは。どんなお菓子よりも甘い甘い味がしたのである。
***
「はぁぁぁぁぁ……」
電車の座席にもたれかかり、小学生の緑あかるは深々とため息をついた。
手元のスマートフォンで読んでいた漫画、“運命のオーレリア”。異世界転生した元女子高生が、かつての恋人と中世ヨーロッパ風の異世界で再会し、兄と妹という立場でありながら惹かれあっていくというラブストーリーである。二人が再会してキスをする、というところで今日の配信分が終わってしまった。いいところなのに悔しい、とここが自宅なら地団太の一つも踏んでいたところである。無料配信で一日に読める話数はあまりにも少ない。タダで読ませて貰っているのだからそれくらい我慢しろ、というのが正しいことくらい、あかるにもよくわかっているのだけれど。
――ユイ達の話によると、二人がくっついてからが特に面白いって話だしさあ。えええ、これ明日まで我慢すんの?つら。めっちゃつら……!
運命のオーレリア、は数年前に大流行した漫画なのだという。異世界転生モノは数多く存在するが、その多くがありきたりな展開で一時流行してもすぐに廃れていく中、数少ない“正当派展開で生き残った作品”の一つであるのだとか、なんとか。異世界転生した後がギャグ展開ではなく、また王道少女マンガとしてのお約束も上手く踏んでいるのがいいということらしい。妹に生まれ変わってしまったのに、元恋人であるとはいえ兄に本気の恋をしてしまう少女の心理に皆が共感し、感動の涙を流すのだとか。
同時に、王になった兄アルジャノンにも数々の試練が降りかかり、妹を巻き込んで国の騒動や戦争を乗り越えて行くというハラハラドキドキの展開もあるという。現時点ではまだ、恋愛関係の描写が中心で国の物語としては大きく動いてはいない。王になってから、二人がくっついてから本番というのは間違ってはいないようだ。
――どうなるんだろ、この二人。法律って、改正するのすごく大変なんじゃないのかな。それとも、異世界だったらそういうの簡単にできちゃったりするのかな。
ご都合展開っていうのもあるしね。そんなことをつらつら考えつつ、二度目のため息である。楽しみにしている続きが、明日にならなければ読めない。それもあるが、同じだけあかるをぐったりさせたのは――このアルジャノンのようなイケメンなんか現実にはまず存在しない、という悲しい事実である。
クラスの男子達の有様を思い出せばそりゃもう期待するだけ無駄ということもわかるというものだ。高学年にもなってまさか、カーテンに絡まって遊び、うっかりレールから引きちぎって先生に雷を落とされる馬鹿がいようとは。カーテンにぶらさがって窓から窓に飛び移れないか実験しようとしたらしい。怪我人がいなかったからいいものの、少し考えれば危険極まりないことだと何故わからないのだろう。
どうせあの悪ガキどもに言わせれば、“なんかできるような気がしたから”“面白そうだったから”なんてアホな答えしか返ってこないに決まっている。そんなもん幼稚園で卒業しとけとしか言いようがない。どうせ、どこか触発されるような動画でも見てしまったというオチなのだろうが。
――そもそも、こんな風に逃げるヒロインを追いかけてきてくれる健気な王子様キャラなんてさあ、二次元の世界にしかいないっつーね。
あの男子どもが中学生、高校生になったら、イケメン王子様にジョブチェンジするのだろうか。正直、まったくそんな未来は見えない。勿論クラスの男子はそんな馬鹿ばかりではないのだが、悲しいことに顔面偏差値が高い男子の殆どが頭の中身は空っぽだったりするのである。そんな暴走系男子でも、ドッチボールやリレーではヒーローだ。女子にカッコイイ!と黄色い声を上げられていることも少なくない。まったく、あかるの好みではないのだけれど。
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“落ちてるようなら、わたしゃとっくに彼氏作ってるわい!”年の離れた姉のみかるなら、きっとそんなことを言うのだろうけど。
同時にクラスの男子どもにバレそうなら、“お前は追いかける側じゃなくて襲う側だろこの女ゴリラ”とでも暴言を吐かれかねない。確かにクラスの女子の中で一番でっかいし、男勝りだし、喧嘩も強いのでうっかり殴って泣かせた男子はかなりの数に登ったりするが。何も、自分の小学校の女番長を気取ったつもりもないのに、そんなわけのわからない称号がつくのは不名誉極まりないのである。
――うう、理想と現実、ザンコク。
心の中でしくしく泣いていると、電車がゆっくりと動きを止めた。ドアが開き、乗客たちが乗りこんでくる。小さな駅なので混むというほどではないが、車内の長椅子は優先席を残してほとんど埋まったようだ。別に優先席というものは健常者や若者が座ってはいけない場所ではないはずなのだが、なんとなく“座りづらい”空気があるのも確かなことなのだろう。近くに困っている人がなければ座ってもいいのにな、と思いつつもあかるもあまり座らないようにしてしまっている一人だったりする。大前提として、本来ならば優先席以外でも必要な場合は席を譲った方がいいのは確かなことなのだが。
――思えば、電車の席とか。誰かに譲ったこととか、ないや。
電車のドアが、空気が抜けるような音とともにしまっていく。自分が降りる駅まであと三駅。土曜日の午後だが、この区間はその間にあまり大きな駅もないので人の乗り降りも少ないのだ。降りるまでに電車がぎゅうぎゅうになって、座席から立てなくなるなんて心配もいらないと知っている。
――困ってる人を助けるために、積極的に何かできたらカッコいいなあって思うけど。そういう勇気って、いっつも出せない。小学生なんかに声かけられたら、迷惑なんじゃないかなって思うし。
そんなもの、結局のところただの言い訳だ。
道に迷って困っている人。ゆっくりしか横断歩道が渡れないお年寄り。大きな荷物を持っている子供。女子小学生のわりには体が大きくて力が強い、そんなあかるにしかできないことだってきっとあるはずだと思うのに。
女の子だから、小学生だから。それで勇気が出せない自分を正当化するなんて、カッコ悪いしただの怠慢ではないか。
――ダメだな。誰かに追いかけて貰うとか、助けて貰うとか、そういう妄想する前に……本当は、自分が変わらないといけないのにな。
大して可愛くもない、普通の女の子がイケメンに愛されまくるなんてのは漫画の世界だけだ。現実は、内面も外見も魅力的な女の子でなければ、男達は見向きもしないだろう。例外としてお金持ちのお嬢様なら話は別だろうが、生憎あかるは普通の家の事もだし、というかお金目当てで愛されてもちっとも嬉しくはない。
――何か、ないかな。自分を変えていけるようなこと。
穏やかな揺れに身を任せながら、あかるは何気なく周囲を見回す。
――私も勇気、出せたらな……。
そう、だからきっとそんな風に思った瞬間、事件を目撃したのもまた何かの運命だったのだろう。
斜め前の座席。OL風の若い女の人が、何やら具合が悪そうに俯いている。どうしたのかな、と違和感を感じて観察したあかるは気づいてしまった。
――ちょっ……マジで!?
彼女の右隣に座る男の手の位置が、おかしい。左手が、彼女と自分の体の間に不自然に滑りこんでいるではないか。電車の揺れでわかりづらいが、あれは紛れもなく――。
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