暁に散る前に

はじめアキラ

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<24・コウコ。>

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 元はといえば康子もまた、妃の座を目指して女官になった一人ではあった。
 女性としての権力の頂点に憧れるのは、貴族の娘ならば当然といえば当然のこと。ましてやそれが、自分の家の名誉を背負っているならますます熱が入るというものである。
 残念ながら、女官になって約十年。康子が帝に声をかけられることなく、女官筆頭として出世していくことになったわけだが。今となっては、それもそれで自分に合っていたのかもしれないとも思うのだ。



『私はそんなお父様の反対を押し切ってでも、あの方を探そうとは思わなかったし……あの方以外に嫁ぐのなんて絶対嫌だとも思わなかったということ。確かに、私はあの方を愛していたけれど……私にとっての愛は、お金や名誉よりも軽いものだったということでしょうね。だからきっと、望んだ地位や栄誉が得られるのなら……私は、恋などしていない相手とも閨を共にすることができると思うわ』



『この後宮に来た以上、恋などするのはおやめなさい。その方が幸せよ。……その恋を貫くため、全てを捨てる覚悟がないのなら』



 映子には随分と偉そうな話をしてしまったが。
 あれは結局のところ、康子にはもう帝に寵愛されることもなければ、新しい恋をすることもないだろうと思っていたからこそ言えた言葉であるのだろう。
 いつしか女官として、帝と妃達に仕え、陰ながらこの国を支える仕事ができることに誇りを持っている自分がいる。妃としてというより、女官としてできることをする方が自分の性にあっていたのかもしれない、と。実際、女官としてここまで務め上げた時点で、家に大きな恩恵を齎しているのも事実なのである。確かに妃になるという夢は叶わなかったが、長年多くの女官たちを育て上げ、立派に役目を務めさせてきた。その功績は、帝にも他の高官達にも認められているし、時折直接お褒めの言葉を頂くこともあるほどであるからである。
 そう、だから。今の康子にはもう、若い女官たち――映子と同じ景色を見ることは、叶わないのだろう。
 それゆえに、残酷なことを言ってしまったのもわかっている。恋をするな、なんて。そんな他人の助言だけで本当に恋に落ちずに済むのであれば、結局のところ誰も泥沼に足を取られることなどない。愛のない相手との閨に恥を感じたり、苦しむようなことなどあるはずもないのだから。

――映子。これでも私は、貴女のことを根性のある娘と認めていたのよ。

 新人が、いきなりあの“蓮花”の女官に大抜擢されてしまったのだ。間違いなく苦労したはずである。実際突然無理難題を言いつけられて振り回されていた様を何度も何度も見ているわけで。それでも映子は、まったくめげるどころか“何が何でもやりぬいてやるわゴラァ!”くらいの勢いで頑張っていたことを知っている。妃たちのことを積極的にしようとし、勤務態度も至って真面目。貴族の娘ならば少々二の足を踏むような厠や風呂の清掃作業、中庭の草むしりだって文句ひとつ言わずにこなす。体力もあるし、器量もある。ひょっとしたら将来、妃として、あるいは女官として高い地位まで上り詰めるかもしれないと期待していたほどだ。
 その彼女が、最近は随分思い悩んでいる様子だった。それも縁花のことや、蓮花のことで。自分以外の、誰かのことで。
 気が強いだけではなく、本当はとても優しい娘であったのだということだろう。彼女らを最終的に蹴落として、妃の頂点になることが当初の目的であったはずだというのに。

『康子様、お願いがあります』

 女官の筆頭である康子は、他の女官たちと違う点がいくつもある。それは、特定の業務の時のみ、後宮の外に出ることが許されるということだ。勿論その機会は限定されるし、この北神邸の外に出られることは滅多にないが。
 それでも、高官の男性陣と、あるいは警備兵と話す機会はある。その中で、なんらかの交友関係を持つことも。

『花舞台の夜に。……警備兵の方に、お願い事をしてはいただけないでしょうか。わたくしの手紙を、宋の家に……わたくしの実家に届けて頂きたいのです』

 映子は気づいていたらしい。康子が時折、女官や妃達に頼まれてひそかに手紙の橋渡しをしていたことを。そして、正規の方法で文を書いたのでは、家の元に届くまでに検閲を通さなければいけない上、相当な時間がかかってしまうということを。
 わざわざ“今すぐ”ではなく。“花舞台の夜”を指定してきたのは何か意味があるはずだ。ただ手紙が人目に触れられたくないというだけではないのは知れていた。理由をそれとなく尋ねるも、映子は首を横に振って“申し訳ありません”と言うに留めたのである。

『お願いします。康子様にしか、頼めないことなのです』

――映子。貴女は何を決意したの?

 舞台を見つめながら、康子は胸騒ぎを感じていた。映子が何を本当に苦悩し、何を覚悟したのかがわからない。ただただ、自分にはあずかり知れぬ強い意志があることだけ伝わったというだけで。
 自分にできるのはただ、その意思に殉ずるか、拒むかという選択だけとうことで。

「嗚呼、奈落へ堕ちるこの身を救い出す者、彼方へと……!」

 舞台の上では、第二妃である秀花が演技を続けている。“霊告斬歌れいこくざんか”。それは、恋人に捨てられて絶望した娘が、嵐の夜に崖の上で呪詛を吐きながら身投げをしてしまうところから始まる物語である。自ら命を絶ってしまった娘は、あやうく地獄へ落ちかけてしまう。多くの亡者の群れに終われて逃げ惑う中、彼女を助けてくれたのは亡き父上であった。
 父の助言もあり、娘は自らの愚かな行いを後悔することになる。どうにか出口を求めて冥府を彷徨い、最終的には父の導きの元地獄の底から這いあがることができたものの、戻ってきた世界は自分が知るそれとは一変してしまっていた。
 そこは、なんと千年も過ぎた全く未知の世界であったのだ。しかも美しかったはずの娘は、さながら老婆のような姿に変わり果ててしまっていた。
 あのまま地獄に落ちていた方が幸せだったのか、そもそも己が生きる覚悟を決めていればこのようなことにならなかったのか。激しい雨の中、娘は後悔の淵に沈み、物語は幕を下ろすのだ。なんとも絶望的で、陰鬱とした楽曲である。
 この曲の難しいところは、何といっても一人で演じなければいけない内容が多すぎること。歌の声域が非常に広くて歌いづらいのもあるし、舞も独特で難しいというのもあるが。なんといっても一人で演じる場合は、娘と父と亡者の全てを一人で表現しなければいけないのが最大の問題なのである。本来ならば、大人数の舞台で行われるような演目を一人でこなそうというのだ。曲を知る者達がざわつくのも当然と言えば当然である。
 しかし。

――流石、秀花様だわ。

 康子は呻くしかなかかった。
 性格には大いに難のある秀花であったが、舞の技術は蓮花と同等であると専ら評判なのである。地獄に落ちて、亡者から逃げ惑う場面。何もないところで脚を引っ張られて転ぶ娘、首を絞められて苦しむ娘。娘の所作だけで、絡みつく亡者たちの全てを表現する技法はなんとも見事としか言いようがない。鬼気迫る表情、苛烈に叫ぶような歌声もまさにそれを表している。唯一、父親に関する描写に少々甘さがあるが(ほぼ呼びかけるだけで留まっているので)、それ以外は殆ど完璧だと言っても良かった。

「地獄とは嵐なり、嵐とはこの心に噴く荒れ狂う波。あの方は確かにわたくしを捨てられた、しかしその悲劇に酔いしれ、自らの選択を誤ったのはわたくしの方であったのです。わたくしがあの方を信じなかったがために、全ての悲劇は起きた。嗚呼、嗚呼、何故わたくしは自らの過ちに気づけず、あらゆる責任をあの方へと転嫁してしまったのか……!」

 かしゃん!と音を立てて閉じられる扇子。娘に扮した秀花は独白を終えると、扇子を真っ直ぐ下座に向けて歌いだす。

「過ちを悔いること、それ即ち心。過ちを購うこと、それ即ち未来。今参ります、今参るのです。父上の導きの元ー……嗚呼、これぞ、新しき未来へと!」

 勢いよく扇子を開き、己を恥じるように扇子で顔を隠し。冥府の出口へと、亡者たちを振り切って走り出す娘。しかし、その先にあるのは千年も過ぎてしまった見知らぬ世界である。さらには己の美しい姿は、シワシワの老婆に変わってしまっているのだ。

「此処は、何処ぞ……?」

 老婆になってしまった娘は体力もなくなり、足腰も弱くなり、腰も曲がってしまう。姿勢をどんどん低くしながら、息も荒げてどうにか崖を降りようとする娘。しかしそこで足が追い付かずにもつれて転んでしまうのだ。歌いながら悲鳴を上げて地に付す娘=秀花。

「嗚呼、嗚呼、いと、いと恐ろしき。嗚呼、嗚呼、いと、いとかなしき。我が罪はいくら悔いれども、購い切れるものでなし。愚かな選択を、もしあの時に戻れるのならばやり直させておくれ。父上、父上、せめて父上のいる地獄に……」

 おんおんと泣く娘、雨を示す、激しく打ち鳴らされる太鼓。最後に銅鑼の音が盛大に鳴り響き、終幕となる。

「おおおおおおおおお!」

 一気に、割れるような拍手が起きた。高官達が思わず立ち上がり、秀花の素晴らしい演技を祝福している。

「素晴らしい、素晴らしいぞ秀花様!」
「ああ、前回の演技も良かったが、今回はさらに磨きがかかっておられた!あの難しい曲をよくぞ一人で演じ切られたものだ……!」
「これはもう、秀花様が優勝で決まりなのではないか?」
「そうよな、いくら蓮花様であってもこれは……」

 確かに、今の秀花の力を超えるのは、いくら蓮花であっても難しいのではないか。なんせ今回は彼女一人ではなく、映子と共に踊るというのだから――と。康子がそう思った瞬間だった。

――え?

 きらり、と。何か光るものが、舞台にしゃがみこんだ秀花の手元から落ちたのが見えたのである。あれは、まさか。

――は、針……?

 康子の顔から、すっと血の気が引いた瞬間だった。
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