暁に散る前に

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<19・キモチ。>

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 あの壷を使って、どうにか蓮花を外に逃がしてやることはできないだろうか。
 その話を聴いてからずっと、映子の胸にあるのはそればかりだった。そう、自分があの壷を起動させて蓮花を外に出してやれれば、彼女は望み通りここから逃げることができるはずなのだ。
 しかし、少しだけそれを口に出すと、蓮花は“絶対にダメだ”と断固反対してきた。

『確かに……確かに俺は、北郷がよからぬ秘術を見つけるよりも前にこの場所から逃れたい気持ちはある。しかし、だからといって貴様に逃がして貰うなどということは絶対にあってはならぬ』
『な、何故ですか。貴方はあんなにも運命から逃れたいと……』
『それでもだ。後先をよく考えるのだ』

 彼女いわく。
 万が一縁花と同じように自分がこの場所から逃れた場合、自分もまた自殺を偽装する必要が出てくる。しかし、あの北郷が寵愛している妃の突然の死、それも死体無き自殺を果たして真実のものと受け止めることができるだろうか。恐らく、縁花の時よりもずっと念入りな捜索が行われるはずだ。それこそ、人が死ぬことも覚悟で山の中まで踏み入らないとも限らない。それでも死体が見つからなければ、いよいよ彼は妃が生きて逃げ出した可能性や、誰かを買収して外に逃げた可能性を負い始めるはず。そうなれば、まったく無関係の妃、女官、兵士達にも多分に迷惑がかかる。下手をすれば、疑いがかかった者が拷問されることもあるだろう。

『もし俺が此処から逃げるのならば、俺を逃がした者など誰もいないことを証明することが絶対なのだ、わかるか?そうでなければ、どのような犠牲が出るか分からんのだから』

 それに加えて。
 縁花の時同様、部屋に何か遺留品が残っていないかの探索は念入りに行われることだろう。確実に、あの壷も見つかるはずである。呪文を知らなければ恐らくただの壷であろうが、その恐らく、が疑わしい。ひょっとしたら、壷を起動させる別の呪文があったり、あるいは壷を傷つけることで新たに発生する秘術などもあるかもしれないからだ。蓮花があの呪文を知っているのは、怪しげな古美術商のような男から説明書を貰っていたからで、その説明書は男が遺跡から読み解いて判明したものにすぎない。他に使い道がないとも限らないのである。
 ただでさえ、妃の部屋にある怪しげな壷なのだ。疑いをもたれる可能性は大いにある。ただでさえ女官たちの間で“縁花は秘術によって逃げたのでは”なんて噂が流れ始めている以上、北郷だってその線を疑っていてもおかしくないのだ。
 万が一。万に一つの可能性だが、あれが秘術を持つ壷だと知れた場合。
 それを使って蓮花を逃がしたのが、映子であると疑われない保障がない。否むしろ、壷がそうだとわからなくても、蓮花の一番近くにいる御付きの女官なのだ。いなくなった時点で第一容疑者になるのは否めないだろう。その方法が何なのかわからなくても、それならば“方法まで吐かせればいい”と拷問にかけられてしまえばおしまいなのだ。

『北郷の……俺へのトチ狂った溺愛ぶりを見ていれば、それくらいやりかねんなと思うよ。……貴様が十六歳のうら若き乙女であるとて、躊躇いなどするものか』

 映子がそのような気を起こさぬためであろう。蓮花は、北郷が過去に行ってきた恐ろしい拷問の数々について、それはもう丁寧に解説してくれた。彼は北郷に連れられて、時には罪人の処刑現場や拷問の場を見せられることがあったのだという。
 確かにそれは、聴いているだけでも震えあがるようなものだった。
 棘だらけの石の板の上に正座をさせられ、腿の上にどんどん重石を乗せられていく刑。石の重みで、棘がどんどん膝に食い込んでいき、罪人の骨も肉もみしみしと軋ませて激痛を与えるという。脚が折れ、血が裂け、罪人の多くは涙ながらに罪を告白するのだそうだ。
 また、もっと単純で恐ろしい拷問もある。瓢箪ひょうたん責めなどと言うらしいが、人の腹を瓢箪のように絞り上げてしまう責苦があるのだそうだ。人の腹を頑丈な縄を縛り、それを滑車で左右からどんどん巻き上げていくのだという。当然、縄はどんどん罪人の腹に食い込んでいき、その腰部分をどんどん細く細く締め上げていく。骨のない部分だが、肉と内臓は過分に詰まっているのだ。それを潰されていく苦痛は計り知れない。最終的には口から、あるいは肛門から内臓を屁のようにぶちゅりと吐き出して事切れることもあるのだとか、なんとか。

『俺は絶対に、貴様をあのような目に遭わせとうない。……貴様の気持ちは嬉しい。でも、どうか愚かな覚悟などは決めないでおくれ……』

 そこまで脅されてしまっては、映子も“絶対に嫌です”などとは言えない。それほどまでに蓮花の語り口は真に迫るものがあり、映子を震え上がらせるには充分だったのだから。
 だがしかし、だからといって完全に諦められるかどうかなど別問題なのだ。

――わたくしと、蓮花。共に此処から逃げることができれば、陛下に捕まって恐ろしい目に遭うようなこともないのでは。そして可能なら、逃がした本人達がもうこの場にいないことを証すことができれば……。

 問題は。術を使った本人は、その場に残らなければならないということ。
 相手と、本人。二人一緒に同じ場所へ逃がす方法もないわけではないが、それにはかなりの危険が伴うということ。具体的には、相当な苦痛と、死の危険が。
 自分にそれができるだろうか。そもそもそこまでしてやるほど、自分にとって蓮花は価値のある存在なのか。一瞬そのようなことを想ってしまい、映子は自己嫌悪に陥った。

――酷い話ね。誰かが、自分にとって価値があるかないか、なんて。そんな考え方で人を見るだなんて。

 そもそも、自分は妃になってこの国の女性としての名誉を得るために女官になったはずである。蓮花を救う為だったわけではないし、そもそも彼のことを最初から好ましく想っていたわけでもない。そう、未だに我儘を聴かされることが少なくないのだとしても。

――でも。そのワガママも……最近は随分、優しくなったような気がする。

 気づいていた。
 蓮花は、わざと自分に嫌われようとしていたのではないか、と。そもそもあれだけ美しい存在が女官に優しくなどしたら、表向き同性であれ女官の中にはころっと気持ちが落ちてしまう人間も少なくなかったのではないか。しかし、万が一にも女官と恋愛関係などになれば、それが北郷にバレてしまえば死罪は免れられない。それこそ、蓮花のために壷を使う、などと言い出す女官がいても困るのだろう。なんだかんだ、あの人は映子を死ぬ気で脅すほど――そうまでして止めるほど、優しいニンゲンなのだから。いつ、北郷が秘術を見つけて自分の体を作り変え、望まぬ子を孕まされてしまうかもわからないにも関わらず。
 同時に。
 ワガママの度合いが落ち着いてきたのは、縁花がいなくなってからということも気づいていたのだ。ある時は、縁花が部屋を訪れていることに気づかせないため、自分の部屋から遠ざけるために映子に時間のかかる用事を言いつけた。また、最近になってやっと気づいたことは、蓮花が“持ってこい”と言った高級な帯や簪の類は、ほとんどが実際に使われることがなかったということである。
 それどころか後で探したら、自室の引き出しにも残っていなかった。――恐らく、全て縁花にあげたのだ。それらを縁花に渡すことで金に換えて、遠くの国でも生きられるようにしてやったのではないかというのが映子の推理である。無論、本人が消えてしまった以上、それを証明する手立てはもうないのだが。

――不器用な人、なのよね。本当は優しい癖に、それを素直に表に出すこともできない。

 考えすぎると、眠れなくなってしまう。縁花と出逢った夜もまさにそうだった。映子は月明かりを臨みながら、中庭の手摺に持たれてため息をつく。夜の散歩というより、これではほぼ夜風に当たっているだけの状態だったけれど。

――……おかしいわ。本当ならわたくしは家のためにもあの人を追い落として……第一妃の座を奪うことを考えるべきなのに。だって、わたくしが女性として最高の地位を得るためには、間違いなく蓮花様の存在は邪魔なはずなのよ。実際、出逢った頃には“あのクソ女、消えろ”としか思ってなかったはずだってのに……。

 心の中で下品な罵倒を向けてみても、感情が消えない。思い出すのは、淋しそうに笑う蓮花の顔ばかり。
 もっと幸せそうに笑ったら、今よりずっと綺麗だろうに。その顔を見て見たい、なんて。いつから自分はそんな、欲のあることを考えるようになったのだろう。

――ねえ、わたくしはあの人をどう思っているの?本当は……ねえ、本当に、わたくしはあの方のことを……?

 自問自答する。
 蘇るのは、康子の言葉だ。



『この後宮に来た以上、恋などするのはおやめなさい。その方が幸せよ。……その恋を貫くため、全てを捨てる覚悟がないのなら』



 結局、誰かに責任を投げることなどできない。問われているのはただ一つ、自分にとって一番大切なものが何なのかということ。
 己は本当に、蓮花のことが好きなのか。この感情を、恋と呼んでいいものなのかということ。確かにはじめて会った時よりも好ましく想っているし、あの方をこの地獄から逃がしてやりたいという気持ちは日に日に強くなっているけれど。

――もし、あの方を逃がして、わたくしの仕業だとバレなかったとしても。……確実に、わたくしはもう二度と、蓮花様と会うことはできなくなる。あの方の平穏と引き換えにわたくしは……孤独に、なる。

 孤独。
 そう思った瞬間、きゅう、と胸が締め付けられるような気がした。この後宮で、蓮花がいない生活を送る。それを想像しただけで、なんだか。

――わたくしは、本当、に……?

 一瞬、息ができなくなりそうだと思った。そんな感情に、足元がふらつくような感覚を覚えた、その時だった。

「あらあらあら。こんな真夜中に、誰かと思えば」
「!」

 思いがけない声が響いた。映子ははっとして顔を上げる。どこか甲高く、みょうにべったりとした甘ったるい声。こんな真夜中に出歩くには不似合いな赤い着物をまとったその女性は。

「秀花、様……」

 縁花をいじめていた、第二妃。秀花、その人。

「丁度いいわ。えっと貴女……映子、だったわよね。連花様御付きの」

 秀花はにやりと笑って、映子に近づいてきたのである。

「話があるのよ。貴女に、とっておきの話がね」
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