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<16・逃れられない苦しみを。>
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深夜にふと、意識が持ち上がることは珍しくない。
明かりの消えた暗い室内。ゆっくりと当代皇帝であるアンガス・エンジェリックは目を見開いた。
今年で五十三歳。自分が皇帝となってから、なんだかんだもう三十年以上が流れた。それはつまり、最後の兄弟が死んでから同じだけの月日が過ぎたという意味でもある。
一番最後の兄弟が亡くなった時、アンガスの皇位継承も確定した。おかしなことだ、息子が亡くなったというのにそれを告げた父親は笑っていたのだから。おめでとう、お前が最後の一人だ、お前が皇帝に決まったのだと。
『いいか、アンガス。この強大な国を支えていくには、強い人間でいなければならんのだ。それを忘れてくれるな』
まだ年若く、国の重責を背負っていくことと亡くなった弟のことを思って震えていたアンガスに。父はニコニコと笑ってそう告げたのである。
『他の兄弟のことで気に病んではならん。奴らは弱かったから死んだ、それだけなのだ』
『弱かった、から……』
『一般の民ならば、弱いことも罪ではなかろう。しかし、エンジェリックの一族に生まれ、皇位継承者である以上そういうわけにはいかない。この国を引き継ぐ者は強くなければならず、そして強くない者に皇族として生きる価値はないのだ。むしろ、弱気者の血はけして残してはいけない。この一族に必要なのは、国を未来永劫栄え、支え、守り続けていく強い者の血だけであるのだから』
『強い、もの……』
『お前は殺し合いに生き残った。兄弟たちとの争いに最後まで打ち勝ち、今此処に立っている。それは誉れなこと。既に消えた者のことなど気にしてはいけない。むしろ踏み越えて未来へ進むがいい。お前には、明るい未来と、この国をしょって立つ責任があることを忘れてくれるなよ』
『責任……』
まるで言い聞かせるような、洗脳のようなセリフ。それをアンガスは繰り返し、繰り返し聞かされたのだ。――まだそこに、弟の亡骸が転がっているにも関わらず。
弟を殺したのは、自分ではない。
一人の兄、一人の姉、二人の妹と一人の弟。アンガス以外に生き残っていたのは一番下の、まだ小さな弟のみだった。彼がここまで生き延びてこられたのはむしろ運でしかないだろう。そしてまだ十一歳の少年は明らかに皇帝に向いていなかった。人を率いて戦うより、一人でひっそりと内職でもしている方が向いているような大人しい性格であったためである。
いくら帝王学を学んだとて、生まれ持った性格や性質はそうそう変えられるものではない。
誰に似たのか、弟は非常に気が弱く、優しい性格だった。最後の二人となった時点で、運命を悟っていたのだろう。同時に、彼は“それでもなお”この国の皇族であったのだ。父から叩きこまれた教えが沁みついていた。きっと、最後の二人になった時点でそうすると決めていたのだ。
己が皇帝にならないために。
残る一人に皇帝を譲るために。
『兄上!どうか、この未熟で不届きな弟の代わりに、この国を支えてくださいませ!』
彼はそう言って、アンガスの目の前で剣を抜き、首を掻き切った。
アンガスは茫然として、その姿を見守るしかできなかったのである。この幼い弟だけでも守る方法はないか、それを思案していた矢先であったがために。
――誰が正しくて、誰が間違いだったのか。正直それは、今でもわからない。
それは長いエンジェリック皇国の歴史で、ずっとずっとずっと繰り返されてきたことだった。
皇帝になれるのはただ一人だけ。
それ以外の兄弟は“抹殺”されなければいけない。兄弟の屍を踏み越えて未来に向かえる者だけが王たりうる存在である、と。
それを見越した上で、皇帝は子供を最低四人は作らなければいけない。万が一后が子供を産めなかった場合は側室を儲けても構わない、と。
――法律で定められたルールではない。それでも皇帝から皇帝へ、受け継がれてきてしまった忌まわしき風習。誰も逆らうことなどできなかった。己に刻みつけられた業と教え。それが正しいと誰もが信じて大人になるのだから。
それでもアンガスは、到底承服できるものではなく。当初はそのような風習に飲み込まれてなるものかと逆らっていたのである。特に、一番可愛がっていた末弟と殺し合うなどけしてあり得なかったものだから。
だが。
一番上の兄のオースがまず、不慮の事故で死んだ。兄弟の中で最も質実剛健を地でいく、屈強で賢い兄だった。彼が乗った車が“たまたま”ブレーキが故障しており、崖下に転落したというのである。おかしな話だ。皇族が乗る車のメンテナンスがいい加減であるはずがない。明らかに誰かが意図的に仕掛けて、同時にそれを見逃すよう仕向けたのである。
誰がやったかはすぐに分かった。その次の姉、第一皇女のアナスタシアが笑いながら話しているのを聞いたのだから。自分の私設兵に命じればそんなもの一発だった、兄さまも馬鹿な人ね、と。実行犯とはいえ、兄殺しを命じておきながら何故笑うことができるのだろう。アンガスは茫然とさせられたのである。
まったく笑い話ではない。なんせ、そこから程なくして双子の姉の方、第二皇女のハンナが食中毒で死ぬことになるのだから。これもおかしなことだ。皇族はみんな同じ食事を食べている。それなのに、たまたま彼女の皿によそわれたスープだけが腐っていたなんて、そんなバカなことがあるはずがない。
だが、兄と妹を殺したアナスタシアもそれからわりとすぐにあっさりと死ぬことになる。彼女は宮殿から転落死して、鉄柵に体を貫かれたのだ。深夜に何故かベランダの手すりを乗り越えた彼女は、ピンポイントで鉄柵の上に落ち、腰から腹を貫かれたという。
しかも真夜中だったせいですぐに誰も気づかず、彼女はしばらく腸をはみださせたまま苦しみ抜いて死んでいったのだとかなんとか。こちらはやったのが誰なのかこれはわからなかった。他の皇子皇女が命じたのか、それとも自分を含めた私設兵の誰かが独断で暗殺に踏み切ったのか。
そして残った双子の妹であるエヴリンも、宮殿のプールで排水溝に吸い込まれて溺れ死ぬという結末を迎えている。それで最後には、末弟のケインと自分だけが残されて――ケインが自殺して今に至るというわけなのだった。
――直接殺して欲しいと、頼んだことはない。でも兄弟が死んだのは予のせいだったのではないかと、そう思うことは今でもある。
身近な者達に繰り返し訴えた。死にたくないと。生き残りたいと。それを聞いた者達が独断で行動に移したのだとすれば、アンガスからの命令だと解釈していたのだとすれば。
それはもう、自分が頼んだことと、何の違いがあるだろう。
――そして、悲劇はまた……繰り返されようというのか。予にとってはみんな、可愛い息子と娘たちであるというのに。でも。
『残念だが、許されんのだよ、アンガス』
ずる、とベッドの端から血まみれの腕が突き出した。暗闇の中、笑う声が聞こえる。ベッドと壁の隙間から現れる、半分焼け焦げた大柄な青年。車ごと崖下に堕ちて死んだオースだった。
ああ、まただ、とアンガスは絶望する。自分が迷うたび、悪夢が現れる。幻覚と幻聴。そうわかっていても、振り払うことはできない。
『この国の皇帝を選ぶのは、そういう仕組み。長年の伝統は守らねばならん。じゃなければ、死んだ俺達が浮かばれないだろう?』
『そうよアンガス。こればっかりは、オース兄さまの言う通りだわ』
ぬるん、とぬめった管が天蓋の裏側から垂れてくる。それは引き裂け、血にまみれ、糞便と未消化物を溢れさせた腸管だった。腹が大きく引き裂け、折れた腰骨を晒した姉のアナスタシアが天蓋に張り付いている。まるで大きな蜘蛛にでもなったかのように。
『殺し合わなきゃ。強い皇帝であるために。強い国であるために。だからわたくしたちはその命に従って、兄弟姉妹で喰らいあったのよ。あんたも結局それに加担したくせに、今更その風習を否定するの?今更良い父親の顔でもしたいの?』
『その通りです、お兄様』
『そうですわ、お兄様』
可愛らしい声が二つ響いた。双子の妹のハンナとエヴリンだ。ハンナは真っ青な顔で、口から吐瀉物を溢れさせ、ベッドの足にしがみついている。もう一人のエヴリンは頭からドレスまでぐっしょりと体が濡れていた。皮膚も水でふやけ、あちこち茶色に腐り果てている。ぼろぼろになった唇で嗤いながら、自分を殺したはずの姉の言葉を肯定するのだ。
それから。
『兄上、否定なさるのですか?』
幼い子供の声。骨が見えるほど引き裂けた首をぶらぶらと揺らしながら、弟のケインが馬乗りになってくる。悲しそうな眼で、ベッドの上のアンガスを見下ろす。
『兄上は否定なさるのですか?僕達が死んだことに、意味などなかったとおっしゃるのですか?だから、息子たちには殺し合いをさせたくないと?』
「そういうつもりではない。そういうつもりでは……っ」
『無駄にしないでください、僕達の死を。兄上と姉上の末路を。だってほら、僕はこんなに痛かったんです。見えるでしょう、この傷。自分で一生懸命斬ったんですよ?兄上のために。そう、兄上のために、兄上のために兄上のために兄上のために兄上のために!』
『ええそうよ、わたくしたちは死んだの』
『お前のためにな』
『お兄様のために』
『ええ、お兄様のために』
『潰れた車の中で、座席に挟まれて逃げられないまま焼け焦げて死んでいくのは本当に苦しかったんだぞ、アンガス』
『わたくしもよ。お腹の中身を生きたまま引きずり出されて、泣き叫んでも誰も気づいて貰えない苦しみが貴方にわかるのアンガス』
『わたしも苦しかった!お腹がもうぐちゃぐちゃにされるくらい痛くて痛くて、胃も腸も全部腐って駄目になっちゃって、捨てたくて仕方なかった!』
『わたしもですお兄様!引きずり込まれた足は痛いし、息ができないし、それで死んだあともずーっとお水の中に放置されて!』
『ああ本当に』
『痛くて痛くて』
『苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくてえええええええええ!』
兄弟姉妹の亡霊たちが、アンガスを取り囲んで次から次へと呪詛を吐く。振り返ることも、自分達の最期を否定することも許さない。この国の伝統を変えてはならないと。そうでなけば、自分達が浮かばれないのだと。
いや、わかっている。
本当に己を追い詰めているのは、己自身だ。己の迷いが、兄弟姉妹たちの姿となって具現化しているだけだと。汗にまみれた額をぬぐい、深く腐臭を吸い込んで吐き出せば――あれだけ騒がしかった亡霊たちは一瞬にして闇の底へと消える。全て、アンガスの脳の中へと引っ込んでいく。
なんて最低なんだろう。己が罪悪感に押しつぶされないために、迷うことを躊躇わないように、背中を押す役目を死んだ兄弟姉妹たちにやらせようだなんて。
――生きたかったのは、皆同じ。それでも、皇帝を選ぶ愚かな風習を変えられないために……みんなみんな死んでいった。そして、予もそれを肯定し続けた。そうでなければ、己が生き残った意味を見いだせないと思ったから。でも。
心のどこかで、願ってもいるのだ。誰かがこの恐ろしい伝統を、因習を断ち切ってくれないかと。エンジェリックの皇族の、その名にふさわしからぬ血塗られた歴史を終わらせてはくれないかと。
そう、兄が死ぬまで、自分達も表向きは普通の家族でいられたのだ。どれほど幼いころからライバルだ、最後は殺し合うのだと聞かされていてもなお。そして、一人目が死ねば、そこでタガが外れたようにみんながバタバタ死んでいった。今回もきっとそうなる。息子と娘たちのうち、一人でも死んでしまえばきっともう終わりなのだと。
「……頼む」
殺し合いをするなとは言えない。後継者を選ぶ勇気もない。
そんな弱く、愚かな皇帝でありながらも未だ祈ってしまうのだ。
「頼む、どうか……」
少しでも長く、安らぎの日々が続きますよう。例えこの悪夢が、それだけ長く続くのだとしても。
明かりの消えた暗い室内。ゆっくりと当代皇帝であるアンガス・エンジェリックは目を見開いた。
今年で五十三歳。自分が皇帝となってから、なんだかんだもう三十年以上が流れた。それはつまり、最後の兄弟が死んでから同じだけの月日が過ぎたという意味でもある。
一番最後の兄弟が亡くなった時、アンガスの皇位継承も確定した。おかしなことだ、息子が亡くなったというのにそれを告げた父親は笑っていたのだから。おめでとう、お前が最後の一人だ、お前が皇帝に決まったのだと。
『いいか、アンガス。この強大な国を支えていくには、強い人間でいなければならんのだ。それを忘れてくれるな』
まだ年若く、国の重責を背負っていくことと亡くなった弟のことを思って震えていたアンガスに。父はニコニコと笑ってそう告げたのである。
『他の兄弟のことで気に病んではならん。奴らは弱かったから死んだ、それだけなのだ』
『弱かった、から……』
『一般の民ならば、弱いことも罪ではなかろう。しかし、エンジェリックの一族に生まれ、皇位継承者である以上そういうわけにはいかない。この国を引き継ぐ者は強くなければならず、そして強くない者に皇族として生きる価値はないのだ。むしろ、弱気者の血はけして残してはいけない。この一族に必要なのは、国を未来永劫栄え、支え、守り続けていく強い者の血だけであるのだから』
『強い、もの……』
『お前は殺し合いに生き残った。兄弟たちとの争いに最後まで打ち勝ち、今此処に立っている。それは誉れなこと。既に消えた者のことなど気にしてはいけない。むしろ踏み越えて未来へ進むがいい。お前には、明るい未来と、この国をしょって立つ責任があることを忘れてくれるなよ』
『責任……』
まるで言い聞かせるような、洗脳のようなセリフ。それをアンガスは繰り返し、繰り返し聞かされたのだ。――まだそこに、弟の亡骸が転がっているにも関わらず。
弟を殺したのは、自分ではない。
一人の兄、一人の姉、二人の妹と一人の弟。アンガス以外に生き残っていたのは一番下の、まだ小さな弟のみだった。彼がここまで生き延びてこられたのはむしろ運でしかないだろう。そしてまだ十一歳の少年は明らかに皇帝に向いていなかった。人を率いて戦うより、一人でひっそりと内職でもしている方が向いているような大人しい性格であったためである。
いくら帝王学を学んだとて、生まれ持った性格や性質はそうそう変えられるものではない。
誰に似たのか、弟は非常に気が弱く、優しい性格だった。最後の二人となった時点で、運命を悟っていたのだろう。同時に、彼は“それでもなお”この国の皇族であったのだ。父から叩きこまれた教えが沁みついていた。きっと、最後の二人になった時点でそうすると決めていたのだ。
己が皇帝にならないために。
残る一人に皇帝を譲るために。
『兄上!どうか、この未熟で不届きな弟の代わりに、この国を支えてくださいませ!』
彼はそう言って、アンガスの目の前で剣を抜き、首を掻き切った。
アンガスは茫然として、その姿を見守るしかできなかったのである。この幼い弟だけでも守る方法はないか、それを思案していた矢先であったがために。
――誰が正しくて、誰が間違いだったのか。正直それは、今でもわからない。
それは長いエンジェリック皇国の歴史で、ずっとずっとずっと繰り返されてきたことだった。
皇帝になれるのはただ一人だけ。
それ以外の兄弟は“抹殺”されなければいけない。兄弟の屍を踏み越えて未来に向かえる者だけが王たりうる存在である、と。
それを見越した上で、皇帝は子供を最低四人は作らなければいけない。万が一后が子供を産めなかった場合は側室を儲けても構わない、と。
――法律で定められたルールではない。それでも皇帝から皇帝へ、受け継がれてきてしまった忌まわしき風習。誰も逆らうことなどできなかった。己に刻みつけられた業と教え。それが正しいと誰もが信じて大人になるのだから。
それでもアンガスは、到底承服できるものではなく。当初はそのような風習に飲み込まれてなるものかと逆らっていたのである。特に、一番可愛がっていた末弟と殺し合うなどけしてあり得なかったものだから。
だが。
一番上の兄のオースがまず、不慮の事故で死んだ。兄弟の中で最も質実剛健を地でいく、屈強で賢い兄だった。彼が乗った車が“たまたま”ブレーキが故障しており、崖下に転落したというのである。おかしな話だ。皇族が乗る車のメンテナンスがいい加減であるはずがない。明らかに誰かが意図的に仕掛けて、同時にそれを見逃すよう仕向けたのである。
誰がやったかはすぐに分かった。その次の姉、第一皇女のアナスタシアが笑いながら話しているのを聞いたのだから。自分の私設兵に命じればそんなもの一発だった、兄さまも馬鹿な人ね、と。実行犯とはいえ、兄殺しを命じておきながら何故笑うことができるのだろう。アンガスは茫然とさせられたのである。
まったく笑い話ではない。なんせ、そこから程なくして双子の姉の方、第二皇女のハンナが食中毒で死ぬことになるのだから。これもおかしなことだ。皇族はみんな同じ食事を食べている。それなのに、たまたま彼女の皿によそわれたスープだけが腐っていたなんて、そんなバカなことがあるはずがない。
だが、兄と妹を殺したアナスタシアもそれからわりとすぐにあっさりと死ぬことになる。彼女は宮殿から転落死して、鉄柵に体を貫かれたのだ。深夜に何故かベランダの手すりを乗り越えた彼女は、ピンポイントで鉄柵の上に落ち、腰から腹を貫かれたという。
しかも真夜中だったせいですぐに誰も気づかず、彼女はしばらく腸をはみださせたまま苦しみ抜いて死んでいったのだとかなんとか。こちらはやったのが誰なのかこれはわからなかった。他の皇子皇女が命じたのか、それとも自分を含めた私設兵の誰かが独断で暗殺に踏み切ったのか。
そして残った双子の妹であるエヴリンも、宮殿のプールで排水溝に吸い込まれて溺れ死ぬという結末を迎えている。それで最後には、末弟のケインと自分だけが残されて――ケインが自殺して今に至るというわけなのだった。
――直接殺して欲しいと、頼んだことはない。でも兄弟が死んだのは予のせいだったのではないかと、そう思うことは今でもある。
身近な者達に繰り返し訴えた。死にたくないと。生き残りたいと。それを聞いた者達が独断で行動に移したのだとすれば、アンガスからの命令だと解釈していたのだとすれば。
それはもう、自分が頼んだことと、何の違いがあるだろう。
――そして、悲劇はまた……繰り返されようというのか。予にとってはみんな、可愛い息子と娘たちであるというのに。でも。
『残念だが、許されんのだよ、アンガス』
ずる、とベッドの端から血まみれの腕が突き出した。暗闇の中、笑う声が聞こえる。ベッドと壁の隙間から現れる、半分焼け焦げた大柄な青年。車ごと崖下に堕ちて死んだオースだった。
ああ、まただ、とアンガスは絶望する。自分が迷うたび、悪夢が現れる。幻覚と幻聴。そうわかっていても、振り払うことはできない。
『この国の皇帝を選ぶのは、そういう仕組み。長年の伝統は守らねばならん。じゃなければ、死んだ俺達が浮かばれないだろう?』
『そうよアンガス。こればっかりは、オース兄さまの言う通りだわ』
ぬるん、とぬめった管が天蓋の裏側から垂れてくる。それは引き裂け、血にまみれ、糞便と未消化物を溢れさせた腸管だった。腹が大きく引き裂け、折れた腰骨を晒した姉のアナスタシアが天蓋に張り付いている。まるで大きな蜘蛛にでもなったかのように。
『殺し合わなきゃ。強い皇帝であるために。強い国であるために。だからわたくしたちはその命に従って、兄弟姉妹で喰らいあったのよ。あんたも結局それに加担したくせに、今更その風習を否定するの?今更良い父親の顔でもしたいの?』
『その通りです、お兄様』
『そうですわ、お兄様』
可愛らしい声が二つ響いた。双子の妹のハンナとエヴリンだ。ハンナは真っ青な顔で、口から吐瀉物を溢れさせ、ベッドの足にしがみついている。もう一人のエヴリンは頭からドレスまでぐっしょりと体が濡れていた。皮膚も水でふやけ、あちこち茶色に腐り果てている。ぼろぼろになった唇で嗤いながら、自分を殺したはずの姉の言葉を肯定するのだ。
それから。
『兄上、否定なさるのですか?』
幼い子供の声。骨が見えるほど引き裂けた首をぶらぶらと揺らしながら、弟のケインが馬乗りになってくる。悲しそうな眼で、ベッドの上のアンガスを見下ろす。
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「そういうつもりではない。そういうつもりでは……っ」
『無駄にしないでください、僕達の死を。兄上と姉上の末路を。だってほら、僕はこんなに痛かったんです。見えるでしょう、この傷。自分で一生懸命斬ったんですよ?兄上のために。そう、兄上のために、兄上のために兄上のために兄上のために兄上のために!』
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『お前のためにな』
『お兄様のために』
『ええ、お兄様のために』
『潰れた車の中で、座席に挟まれて逃げられないまま焼け焦げて死んでいくのは本当に苦しかったんだぞ、アンガス』
『わたくしもよ。お腹の中身を生きたまま引きずり出されて、泣き叫んでも誰も気づいて貰えない苦しみが貴方にわかるのアンガス』
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『わたしもですお兄様!引きずり込まれた足は痛いし、息ができないし、それで死んだあともずーっとお水の中に放置されて!』
『ああ本当に』
『痛くて痛くて』
『苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくてえええええええええ!』
兄弟姉妹の亡霊たちが、アンガスを取り囲んで次から次へと呪詛を吐く。振り返ることも、自分達の最期を否定することも許さない。この国の伝統を変えてはならないと。そうでなけば、自分達が浮かばれないのだと。
いや、わかっている。
本当に己を追い詰めているのは、己自身だ。己の迷いが、兄弟姉妹たちの姿となって具現化しているだけだと。汗にまみれた額をぬぐい、深く腐臭を吸い込んで吐き出せば――あれだけ騒がしかった亡霊たちは一瞬にして闇の底へと消える。全て、アンガスの脳の中へと引っ込んでいく。
なんて最低なんだろう。己が罪悪感に押しつぶされないために、迷うことを躊躇わないように、背中を押す役目を死んだ兄弟姉妹たちにやらせようだなんて。
――生きたかったのは、皆同じ。それでも、皇帝を選ぶ愚かな風習を変えられないために……みんなみんな死んでいった。そして、予もそれを肯定し続けた。そうでなければ、己が生き残った意味を見いだせないと思ったから。でも。
心のどこかで、願ってもいるのだ。誰かがこの恐ろしい伝統を、因習を断ち切ってくれないかと。エンジェリックの皇族の、その名にふさわしからぬ血塗られた歴史を終わらせてはくれないかと。
そう、兄が死ぬまで、自分達も表向きは普通の家族でいられたのだ。どれほど幼いころからライバルだ、最後は殺し合うのだと聞かされていてもなお。そして、一人目が死ねば、そこでタガが外れたようにみんながバタバタ死んでいった。今回もきっとそうなる。息子と娘たちのうち、一人でも死んでしまえばきっともう終わりなのだと。
「……頼む」
殺し合いをするなとは言えない。後継者を選ぶ勇気もない。
そんな弱く、愚かな皇帝でありながらも未だ祈ってしまうのだ。
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