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<12・そして桜の季節に。>

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 はらはらはら、とピンク色の花びらが散っている。“少女”はふと窓の外を見てため息をついた。
 花は嫌いじゃない。特に、春の象徴とも言えるハルザクラは美しい。ジャクソン侯爵家はこの花を特に愛でることで有名で、高価なハルザクラの木を庭をぐるりと囲むように植えているのだった。
 季節感があるのはいいことだ。しかし、この木は手入れが難しい。特に花が散り始めた頃から毛虫の駆除を始めないと大変なことになる。手入れを失敗したハルザクラの木は夏頃悲惨な姿になりがちだ。大量に毛虫に食われて枯れてしまうことも少なくない。世話をするのはサクラを植えると決めた貴族様ではなく、自分達使用人なんだけども――なんてことを言ってもどうしようもないが。

――今年は、お花見できるのかな。そういう時間、あるかな。

 そんなことを考えながらワゴンを押していく。今日はジャクソン侯爵家主催の舞踏会の日だ。貴族たちにとっては、コネクションを広げるための大事なイベントの一つでもある。開場してからまだ三十分。既に会場には華やかなドレス姿の男女が揃っており、お喋りに興じているのだった。舞踏会はまだ始まっていないが、この時間も彼らにとっては重要なのである。
 情報は武器。身を護るためにも、ビジネスのためにも。“少女”はそれを、嫌というほど熟知している。

――“標的”はどこだろう。そろそろ来る頃かと思うんだけど。

 ワイングラスを並べながら聞き耳を立てると、特徴的なバリトンボイスが響いた。

「ああ、皆さんお早い!相変わらず一番乗りには程遠いですな」
「ホーン侯爵!」
「ごきげんようホーン侯爵。今日も素敵な御召し物ですわね」
「ありがとう。君もその赤いドレス、大層似合っているよ。フォワット男爵の御息女の、エレナ嬢であっているかな?」
「ああ、嬉しい!覚えていてくださったんですね!」

 赤いドレスの女性と楽しそうに話す、恰幅のいい男性。話すたびに焦茶の口髭がぴくぴくと動くのがなんだか気になってしまう。アントン・ホーン侯爵。御年七十二歳。数年前に軍を退役した、元海軍将校だ。
 退役したとはいえ、まだまだその影響力は強い。現役で働く彼の“元部下”たちは、今でも彼の命令にはけして逆らわないという。それだけ実力があるからなのか、もしくはパワハラで部下たちを支配するのが得意であったからなのかは微妙なところであるが。

――すっごい媚売りまくり。……話してるのは、エレナ・フォワット。フォワット男爵のところの次女。……なんとか玉の輿に乗ろうと必死ってわけか。

 まだ表には出ていない情報。
 そのうちの一つは、ホーン侯爵の孫が少々“性格に難がある”せいで、嫁が見つからずに困っているという話。まあ、大学出てからも“作家になりたいから”といってまともな職につかず、ひたすら部屋に引きこもって小説を書いては消して書いては消してばかりしているのだから、評判が良いはずもないだろうが。
 この手のドリーマーにありがち。作家になりたいと言いつつ、一切公募に応募もしない。もっと良い作品を書かなければと言って完成させもしない。ひたすら一つの作品をこねくりまわし続けて泥沼になる。で、誰かのアドバイスもきかないものだから延々に進歩もしないという。
 正直、ホーン侯爵も困り果てているのだろう。次に爵位を引き継ぐのはまず息子だろうが、その長男の孫がこの体たらくなわけである。嫁でも貰えば少しはシャンとしてくれるはず――と思ってなんとか結婚相手を探しているらしいというのはどうやら本当らしい。さっきから、侯爵の目がエレナを値踏みしているのがまるわかりだ。
 そしてエレナの方も。侯爵の男性と話せる機会ともあってテンションが上がっている。フォワット男爵家も――これもまた表に出ていない情報だが、家業がうまくいっていなくて相当収入が危ないことになっているようだ。外国との事業で大損をして、その補填に走り回っていたら金がすっからかんになってしまったとかなんとか。とにかくここで持ち直したい、そのために助けてくれる“経済界の大物”の力が欲しい――そんなところだろう。
 ここでホーン侯爵の覚えがめでたければ、嫁入りさせてもらうこともできるかもしれない。だからひたすら媚を売りまくる、そんなところか。
 ある意味気の毒ではある。なんせ、エレナが対面しているのは結婚相手本人ではなく、あくまでその祖父。顔も知らない孫と婚約するために祖父にすり寄らなければいけない若い女性。コネクションと家のために結婚さえも利用する――昔から珍しい話でもなんでもないのは理解しているが。

――政略結婚なんてこの国では普通だけど。……何でもある貴族様だからこその苦労だと思うと、ちょっと可哀想な気もするな。

 むしろ庶民の方が、好きになった者同士で自由に結婚ができているような気もする。
 不思議なことだ。金も地位も持っていて、恵まれた生活をしている貴族の方が自由がないなんて。
 恋愛というものが、自分にはよくわかってはいないけれど。それでも本当に大切な相手と結ばれて家族を作るということは、きっと何物にも代えがたい幸福なのだろうということくらいは想像がつく。
 あの女性たちは、そういうことを考えたことはないのだろうか。
 本当に好きになった人と結婚したい。
 政略結婚なんてしたくない――なんてことは。

――いけない。そんなどうもいいこと考えている場合じゃない。

 少女は気を取り直して次のテーブルに移動する。それとなく、彼らの近くの方へ。
 自分はここに、遊びにきているわけではない。ちゃんとこなすべき仕事をしなければ。

「そういえば、ホーン侯爵の長男の方は今どうされているのです?えっと、大学で今研究をされているという話を聞いたことがあるのですが」

 エレナがちらちらと周囲を気にしながら、そんなことを切り出した。ホーン侯爵の長男――作家志望()のドラ息子の父親だ。貴族の長男は特定の職業に就かないこともあるが、少なくともホーン侯爵の息子はそうではないと知っている。大学院を卒業した後、研究室で仕事をしているという話だった。
 なんでも薬学に興味があり、父親であるホーン侯爵自らが援助しているとのことだったが。

「おや、興味がありますかな?」

 エレナの意図などわかりきっているだろうに、何も気づいていない様子でニコニコと笑っているホーン侯爵。

「うちの息子は、昔から薬に興味がありましてね。特に、精神的な病に効く薬を開発しようと研究室で頑張っているのですよ」
「伺っておりますわ!第二皇女のクリスティーナ様が研究室を訪れて、いたく感銘を受けられて援助してくださっているとか」
「ええ、ええ、その通りなのです。クリスティーナ様には感謝してもしきれません。そのおかげで息子の研究室は莫大な研究費用を得て、西に東にと薬草を探して回るようなこともできておりますしねえ。私もぜひ、息子には未来に役立つ薬を開発して、この国の多くの患者たちを救ってもらいたいと思っているのですよ」
「素晴らしいですわ。確かに、ここ近年では心の病に悩む患者の方が急増していると、そのようなお話も耳にしますものね。治療法の確立に、お医者様がたも苦労していると……」
「そうだとも。我が息子が、未来の医療に貢献できるのであれば、このような嬉しいことはない」
「本当に尊敬いたしますわ。わたくしもそんな方をお支えできたら……いえ、すみませんつい、はしたないことを」
「いやいや、構わないとも」

――すっご。なんというか、露骨すぎないかアプローチ。最近の貴族様はそういうのもありなのか?

 さて、と少女はグラスにワインを注ぐ。同時にこっそりと薬を一錠落とした。軽い自白剤。無味無臭で味もしないし後遺症も残らない。
 ホーン侯爵の好みはよくわかっている。舞踏会が始まる前に、必ず先んじてフルグアワインを一杯煽る。それをホストもわかっているので、予め用意しておくようにとメイド一同に命じられていたのだ。
 ならば利用するのは、あまりにも簡単。

――ホーン侯爵の息子は、大学で薬の研究をしている。それは事実。しかし……その本質は“人の心の病を治すための薬の開発”ではない。人の人格を想いのまま書き換え、操る薬を作るための研究だ。

 ホーン侯爵の息子は父親のいいなりだ。研究に興味を持っていたのは事実だろうが、そうういう薬を作れというのは父に命じられてのことだろう。
 人の心を想いのまま操る薬が作ることができれば、それを軍事転用できればどれだけの利益を齎すか想像に難くない。ホーン侯爵はひそかにその薬を用いて敵対組織を潰す計画を立てている。彼を支援しているクリスティーナ皇女は、ホーン侯爵とその息子が何を企んでいるのかまったく知らず――表向きの研究内容だけを信じて善意で支援を行っているという状態なのだった。
 皇女の後ろ盾があるからこそ、そのような非人道的な研究に莫大な金をかけられるのである。
 ということは、それがなくなれば彼らはどれほど困り果てることになるか。自分達の狙いはそこにある。

――さて、うまくいくといいんだが。

 ちらり、と窓の外を見る。正確には、窓ガラスに映った己の姿を。
 長い黒髪のウィッグを被り、メイド服を着た己の姿は――どこからどう見ても少女にしか見えない。そもそも声だって、いい加減声変わりしてもいい頃合いではないか。なんで普通に喋っても性別がバレないなんてことになるのだろう。神様に忘れられたとしか思えない。
 まあ、だからこそこういう仕事もできるのだけれど。

――やりますか。……ホーン侯爵がぺらぺらしゃべってくれさえすれば、証拠ができる。

 少女――否、メイドに変装したレネは、ポケットの中のボイスレコーダーを握りしめる。
 ホーン侯爵の本性。その証拠を握って見せつければ、クリスティーナ皇女は彼ら一族を見放すだろう。もとより、まだ年齢的にも幼く未熟で、ゆえに正義感が暴走しやすい年ごろの少女である。ホーン侯爵と息子の研究の正体。それから、幼いメイドにあっさり手を出すような変態性を知ってなお、支援を続けたいなどとは思わないはずだ。
 クリスティーナ皇女の“周り”の支援者たちは大層困るだろうが、本人がNOと言えば見限らないわけにもいくまい。

「ホーン侯爵」

 レネは笑顔でホーン侯爵に近づいていく。手に、薬入りワインのグラスを持ちながら。

「ジャクソン侯爵から、お祝いの一杯でございます」
「おお、ありがとう!やはりあの人はよくわかっておられますな。私はこのワインに眼がないのです」
「ご主人様にお伝えしておきますね」

 ホーン侯爵の目が、上から下にとレネを目踏みする。二十代のエレナには興味がない様子だったのに、外見年齢十三歳程度(実際はもう十六歳の男なのだが)の少女が近づいてきた途端目の色を変えてきた。このロリコンめ、と呆れ果てる。
 こいつの趣味も把握済みだ。人様の家のメイドや執事にこっそり手を出す常習犯であるということも。

「……君」

 ワインを飲みほし、顔を赤くした侯爵がにやりと笑った。

「お礼がしたい。少し会場の外に案内してくれんかね」
「了解いたしました」

 レネが、ルーイに拾われてから既に三年。
 特殊部隊ガブリエラの一員として、レネは仕事を続けていた。

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