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<20・凄惨な儀式>

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 愛憎は裏表だ、なんてことを言う人がいる。愛が強ければ強いほど憎しみもまた強くなる。期待をかけていればいるほど、思うとおりにならなかった時人は裏切られたと思って失望する生き者だ。
 孝之介にとって、小説に描いたどろどろとした人格や世界観を現実に持ち込まないことは、自らの作家として――否、人間としてのアイデンティティに近いものであったのである。アルベリクはそれをよく分かっていた。孝之介は己が歪んだものを抱えていることにコンプレックスがあったし、だからこそ社会に迎合できないことを恥だとも考えていた。その恥を、唯一自分の誇りに変えてくれたものが小説を書くということであったのだと。彼にとって二次元と三次元の間の境界線は何があっても乗り越えられてしかるべきものではなかったのである。
 そのあたりは、彼がファンの同人活動にもやや制限を加えていたことからも伺い知れるだろう。
 彼は現実の俳優やタレントを交えた自分の作品とのクロスオーバー、いわゆるナマモノと呼ばれるものを禁止していた。己の世界は二次元で完結されるべき、と思ったがゆえに“己の作品の二次創作”は許容しても“己の作品を実写化した映画やドラマの二次創作”は頑なに拒否していた。同時に、現実の人間を物語に没入させる“夢小説”というものも、己の作品の二次創作では遠慮してほしいと訴えかけていたほどである。
 そんなファン活動に制限をかける孝之介のやり方は、一部のファンからは厳しい声を投げかけられることもあったが(特に、ナマモノ同人や夢小説好きの者には、何故自分達の二次創作だけ禁止させられなければいけないのかという声もあったようだ)、それ以上に多くの読者には理解を寄せられていた。彼が頑なに、現実と非現実の境界が溶けることを拒絶していたいと願っていることを、多くのファンが理解していたからである。
 つまり。
 そんな、他の一般的なファンでさえわかっているはずのことを、熱烈なファンである久遠が分かっていないはずがない。あるいは、分かっていてなお無視をした意向を示してきた。それは、偏屈であれ基本的には穏やかな性格であった真田孝之介を激怒させるのに充分であったのである。

『先生!私は、間違ったことは何も言っていないと確信しております!私は残念でならないのです……先生の本心を理解しようともせず、ただ読者に売れるからというだけで面白みも何もないヒーローが勝利する世界に変えられてしまったことが!先生の心の闇に寄り添うファンが誰もいないということが!』

 彼は玄関口で暫くこう叫んでいた。今でもよく覚えている。

『私は、私だけは違う!先生の本当のお心に寄り添える唯一のファンは私だけなのです……!どうか、ご理解ください。その世界を現実に。現実に実現させて愚かな人間達に見せつけてやらねば……いつまでも先生の孤独や苦しみが癒えることはないのですよ!』

 久遠は強情で、同時にその思想と行動は常軌を逸していた。それから毎日のように玄関までやってきて、門前払いされても関係なく門の前で訴え続けたのである。自分は間違っていない、先生の世界を実現させるために力を貸して欲しい、と。そのたびに孝之介は激怒して彼を追い返した。そんなことが、何日もの間続いたのである。孝之介が亡くなる前日など、完全に彼は堪忍袋の尾が切れていた。怒りのまま、大事にしていたマグカップを久遠に投げつけて怒鳴るほどには。あれは、近所迷惑と言われても仕方ないほどの声であっただろう。
 孝之介が怒っていたのは、自分の作家としてのアイデンティティを踏みにじられたからだけではない。彼にとって付喪神は愛すべき友であり、それを現実に殺しあわせて融合させるような計画など断じて実現されてはならないと思っていたからである。小説の中ではサイコパスな主人公が、暴走の果てにその手段に手を染めてしまうが――それはあくまで“自分の闇が暴走したらそうなるだろう”という孝之介の予測にすぎないのだ。
 あの主人公は確かに孝之介の負の感情の化身であったが、孝之介自身ではない。
 それが達成された世界を見てみたい気持ちもなくはなかったのだろうが、それでいて絶対に見たくないという気持ちも同じだけせめぎ合っていたのではないだろうか。

――久遠が何を言っているのか、わかるようでわからなかった。付喪神融合計画……あの小説と計画が現実になったら、一体どれほどのことが起きるのか。何故人間があのような恐ろしい所業に手を染めたいなどと思えるのか。全く想像もできなかったし、分かりたいとも思えなかったのだから。

 そしてついに、その日がやってきてしまう。
 実のところあの時何が起きたのか、アルベリクにも全てを理解することはできていないのだ。
 ただ睡眠を本来必要としないはずの自分達が、あの日ばかりはやけに眠くてたまらなかったのを覚えているのである。なんだか空気がのしかかってきて、全身を上から押さえ付けられているような圧迫感を覚えたとでも言えばいいだろうか。庭の怒声に眼が覚めた時、アルベリクも妹と弟も、他の付喪神達同様書斎の床でぐったりと倒れているような状況だったのである。
 何か、とてつもなく嫌なことが起きている気がする。
 アルベリクは這いずるようにして窓のところまで行き、そして庭先を見て絶句したのだ。
 庭の木に、自分達が敬愛するその人が首吊り状態で吊り下げられているのである。その時はまだ、床に頼りない小さな椅子が置かれており、かろうじて孝之介は窒息していない状態だった。今にも倒れてしまいそうな椅子をどうにか支えにして、彼は首のロープを掴み、必死で耐えている状態だった。久遠は、そんな彼の目の前に、いつものスーツ姿で立っていたのである。
 異様だったのは、孝之介が首吊りさせられそうになっている木を中心に、魔方陣のようなものが描かれているということ。その魔方陣が、ぼんやりと淡く金色に光っているということである。

『先生!』

 アルベリクはすぐ窓を開けて飛び出そうとし、ばちり!と全身が電撃のようなもので弾かれることに気づいた。何らかの結界が張られている。家の中に、全ての付喪神達が閉じ込められている状態なのだとようやく気づかされた。自分達の全身を襲う倦怠感もそのためであるのだと。
 結界に触れられたことに気づいたのだろう、ちらりと久遠はこちらを振り返り――一瞬だけ哂ったように見えた。それも、恐ろしく邪悪な笑みで。

『残念ですが、どれほど叫んでも誰も来ませんよ、先生』

 悪魔のような男は、いつもとなんら変わらぬ静かな声で告げた。

『家の敷地全てを、ぐるりと私の術で囲ってあります。全ての音も光も、敷地外に漏れるということはありません。いくらでも叫んで下さって結構ですよ。先生はとても優秀な顕現の魔術師ではありますが、使える魔術は付喪神の顕現という一点のみ。それ以外は普通の人間と変わらぬ素質しか持ち合わせてらっしゃらないことは、既に把握済みです』

 一体何を言っているのか、あの男は。
 庭先にいるというのに、やけに声だけははっきりと聞こえる。まるで、久遠が自分達に聴かせるようにわざと仕向けてでもいるかのようだ。

『私には、私達にはどうしても先生のお力が必要なのですよ。できれば生きている先生に、生きた人間としてご協力頂きたかった。私は先生の作品を見た時、心の底から痺れたのです。これが現実になれば、これを現実にすることができれば、どれほどこの世界を真の平和に近づけることができるだろうかと……!私の熱意を真剣に伝えていけば、先生もきっと分かって下さるだろうと信じておりました。現実と二次元の境界線を、貴方はたやすく飛び越えることのできる素質をお持ちなのに……それを全く活かそうとなさらない。これほど勿体無いことがありますか?いいえ、あるはずがない……!』

 熱に浮かされたように演説する久遠。その久遠を、孝之介はもがきながらも鬼のような形相で睨み続ける。

『……君のような人間を、一時期とはいえ親友だと信じてしまった私はどこまでも愚かだったようだ……久遠正貴!君と私では、見ている世界があまりにも、違う……!このようなことはやめるんだ。物語は物語であるからこそ輝くものだ。悪魔を現実に呼び込むようなことなどあってはならない……ましてや、我が永遠の友人達をその悪魔の招来に巻き込むような行いなど……!』

 先生、先生、先生!
 気づいた他の付喪神達も、ふらつきながら窓に駆け寄って力なく訴える。自分達の無力さが憎らしくてたまらなかった。たかが人間の魔術師一人の封じられる自分の力の無さが、悲しくて理不尽でたまらない。今にも自分達の創造主が殺されそうになっているというのに、何故自分達には何もすることができないのだろうか。

『……考えは、変わりませんか?』

 久遠は悲しそうな声を作って、言う。

『先生を儀式の生贄にし、その魂を持ち去って協力を要請するのは本当に最後の手段なのです。できればそのようなことはしたくない。お願いします、私達の考えに賛同すると言ってください。そうすれば、今すぐその戒めを解きますし、二度とこのような無体なことなどしないと誓いましょう……さあ、さあ!』

 イエスと言わなければ、殺す。それは明確な脅しに他ならなかった。それでも孝之介は、興奮して真っ赤になった顔で告げたのだ。

『そこで首を縦に振れば、真田孝之介は……作家としても人間としても死んだも同じ!殺したければ殺せ、私は貴様なんぞには屈しない……!』

 やめてください、と。アルベリクは力なく窓に手を伸ばす。嘘でもいいから頷いて欲しかった。今ここで彼が殺されるくらいならば――どこでもいいから生きてさえいてくれるのならば。愚かな宗教団体や、狂信者に従属するくらいなんでもないことのように思われたからだ。
 自分達はただ、敬愛する人に生きていて欲しい。ただそれだけを願って此処に産まれてきたというのに。

『……そうですか』

 はあ、と。久遠はため息をついて、一言。



『では、仕方ありませんね。……“Press”』



  彼がその声と共に、右手をふらりと宙で泳がせた時だった。
 ぐしゃり、と。奇妙な音がした。ぎあああ!と孝之介の濁った悲鳴が響く。台に立つため、どうにか踏ん張っていた孝之介の右足が不自然に持ち上がり――あらぬ方向に折れ曲がったからだ。まるで、蛇腹を折りたたむかのように足が、関節を無視して足首からぐしゃぐしゃと潰され始める。
 あまりの激痛に、がくがくと全身を震わせる孝之介。不思議なことに、これだけ足をぐちゃぐちゃに潰されているにもかかわらず、血は一滴も零れなかった。孝之介は泡を吹きながらも、ギリギリのところで残る左足を椅子につけて耐えている。――だがそれも、時間の問題であるのは間違いなかった。続いて同じ音が、彼の左足からも聞こえ始めたからだ。

『先生!孝之介先生、先生――!』
『いやあああああああ!』
『なんだよ、何がどうしてるんだよ、どうなってるんだよ!!』
『先生いいいい!』

 付喪神達の絶叫の中、両足をぐちゃぐちゃに潰された男はもはや立っていることができず、ついにぶらんと首吊りの縄でぶら下がることになってしまった。
 だが、彼を襲う暴虐はそれで終わらない。久遠はそれとなく椅子を片付けると、再度何事かの呪文を唱えたのである。
 次には、どうにか孝之介が首のロープを支えようとしていた、左手が犠牲になった。同じように蛇腹状に折りたたまれ、不可視の力で骨を粉々に粉砕させられていく。さらに、同じく犠牲に捧げられんと孝之介の右手が掲げられた時、アルベリクは泣き叫んでいたのだ。

『やめろ……やめろやめろやめろやめろ!先生の大事な右手を壊すな、私達を、世界を作ってくれる腕を滅茶苦茶にするな!お前が、お前ごときが先生から世界を奪うな、殺すなああああああ!!』

 願いは、届くはずもなかった。
 両手両足を粉々にされた男は、もはや首だけでロープで吊り下げられ、到底窒息を止める手段などなかった。
 孝之介の体はぶらんぶらんと不自然に揺れる。両手両足の骨が砕けた後は、その腰があらぬ方向にぎゅるんと回転し、骨盤と背骨をぐちゃぐちゃとかき混ぜた。
 胸が不自然にへこみ、肋骨がじわじわと砕かれていくことを知った。
 まるで操り人形を操るように、見えない糸によって壊されていく孝之介。全身の筋力が弛緩し、糞尿を飛び散らせながら揺れるかの人は、地獄のような激痛の中、果たしてどの段階で意識を失うことができたのだろうか
 断末魔の痙攣が収まったところで、久遠は満足げに頷くと――再度、自分達の方向を振り返ったのである。そして、こう言ったのだ。

『貴方がたの大切な先生の魂、私達で預からせていただきますね。大丈夫、先生のお力は、必ず我々が平和のために役立ててみせますから……』

 ショックか、あるいは何かをされたせいなのか。
 アルベリクの記憶は――そこでぷつんと途絶えている。

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