愛憎シンフォニー

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<26・恋花。>

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 鞠花にとって恋花は、お転婆な自分と違っておしとやかで礼儀正しく、頭も良い自慢の姉だった。

『お姉ちゃんは凄いな』

 一つ年上なだけ。顔はそっくり。それなのに自分と違って女の子らしい恋花に、鞠花はいつも憧れていたのである。

『私、全然じっとしてられないし。お習字もお絵かきも好きじゃない。それより駆けっこや木登りしてる方がずっと好き』
『それは凄いことじゃない。私は、そういう運動神経とか全然ないから、まりちゃんが羨ましい』
『でも、女の子らしくないって言われる……』

 しょんぼりと頭を下げる鞠花。八尾銀行専務の家、恐らく結構なお金持ち家系。何処に出しても恥ずかしくない、自慢のお嬢様なのが恋花だったのだろう。彼女は親の厳しい教育にも応え、誰よりも美しく聡明に育った。それに対して、やや放置気味に育った妹はどこまでもお転婆。女子よりも男子と遊ぶことが多く、書道や生け花よりもかけっこや木登りが好きで、時々男の子と殴り合いの喧嘩もする勝気ぶり。そりゃ、比較されるのも無理からぬことであったはずだ。
 けれど当の姉だけは。そんな鞠花を否定することもなく、ありのままを受け止めてくれたのである。

『私は、私にできないことができる人ってとっても素敵だと思うし……この世の中に、私が二人いたら面白くないって思うの』

 にこにこと笑いながら、鞠花の背中を撫でて言うのだ。

『だから、まりちゃんが妹で本当に良かったなって。妹なのに、全然まりちゃんが何をするかわからなくて面白いし。私が知らないこと、たくさん教えてくれるんだもの』
『お姉ちゃん……』
『それに、私はまりちゃんが大好きで、まりちゃんはお姉ちゃんのこと大好きでいてくれるでしょ?ずっとずっと一緒にいてくれるでしょ?』
『もちろんだよ!私、お姉ちゃんのことが大好きだもん!』

 そんな会話をしたのは、小学生のいつのことだったか。双子のようにそっくりな年子の姉妹。自分達はそれこそ互いが結婚してもなお、ずっと一緒にいられるはずだと信じていたのである。
 鞠花にとって、どこまでも理想的な世界。姉がいて、自分がいて、家族がいて、友達がいて。そういう世界が、いつまでも続いてやまないと思い込んでいたのである。そう。

『まりちゃん、まりちゃんのお姉ちゃん怖いよ。昨日私、見ちゃったの。まりちゃんの友達の、かほちゃんのランドセル……まりちゃんのお姉ちゃんが、ハサミ、で……』

 おかしな噂や、怖い話が聞こえてきてもなお。
 そんなものは、自分と姉を引き離そうとする罠に決まっているからだ。



 ***



 確かに、少し感情の起伏が激しい一面があったのは否定しない。
 鞠花の前ではいつも優しい顔しか見せない姉が、時々恐ろしく苛烈で、残酷な面を持ち合わせていることには気づいていた。両親が離婚して生活が激変した影響もあるだろうが、恐らくそれだけではない。そもそも、仕事で忙しいことが多い父親より、母親の方が教育熱心で厳しい人だった。姉は母にとってあまりにも“理想的な少女”であったために、いろんな意味で期待されることが少なくなかったのだろう。その厳しい教育の弊害は、間違いなくあったと思う。
 本当は私も木登りやかけっこがしたい、と。恋花は一度だけ、鞠花にそう漏らしていたから。
 無論、鞠花も鞠花で、自分のことをちっとも見ない母親に淋しい気持ちになったことはあったが。それ以上に、母親に余計な小言を言われずのびのびと生活できることの方が大きかったのである。
 そんな両親は、小学生の時に離婚。
 姉が母親に、鞠花が父親に引き取られることになるのは必然だっただろう。教育方針の違いで離婚したことに父親なりに負い目があったのか、離婚したあとの父は鞠花にいっとう優しくなっていた。しかし、恐らく母はそうではなかったのだろう。離婚が決まる直前から、姉の“少し激しい一面”は明らかに激しくなっていたのだから。

『お、お姉ちゃん?何してるの?』

 姉と母が、家から出て行く前日のこと。彼女は夜、庭で何かを埋めていた。鞠花は物音に気づいて置きだしてきて、そしてパジャマ姿のままひっくり返りそうになったのである。
 恋花が埋めていたのは、猫だった。
 それも彼女が、近所で可愛がっていたはずの地域猫である。耳が桜型に欠けていて、明るいオレンジ色のシマシマで。あんなに可愛がっていたのに、何故。

『……私、おひっこしするから。新しいおうちに行かなくちゃいけないから、一緒に来てってお願いしたの。でも、この子は私がダッコしようとしたら、逃げた。私のこと、裏切って逃げようとしたの。あんなに可愛がってあげたのに』

 振り返った恋花は、笑っていた。

『だから、天罰』

 猫の首は、千切れてしまいそうなほどばっくりと裂けていた。鞠花は何も言うことができず、ただパジャマのままスコップをふるう姉を見つめることしかできなかったのである。
 自分の世界が変わること、壊れることを恐れていたのは鞠花だけではなかったのだろう。むしろ、姉は鞠花以上に恐れていたに違いない。
 しかし、世界は望むようにばかりはならない。ずっと一緒にいると思っていた両親は子供達の教育に関して揉めて離婚し、両親と一緒に姉妹もまた離ればなれになることが決定してしまい――せめてもの慰めとして、彼女は自宅近くの野良猫を連れていこうと思って、それにも失敗して。
 己が欲しいものは、何一つ己の者にならない。
 己がどれほど愛しても応えてくれない。そういう感情に、彼女は明確に囚われるようになってしまったに違いない。
 正直、鞠花はあの日のことを後悔するしかないのだ。

『お姉ちゃん。……他の人も、猫ちゃんも。その命は本人だけのものだから。お姉ちゃんだけのものには、絶対ならないの。本当は、ずっと変わらないものなんて、一緒にいられることなんてないんだよ』

 もし、勇気を出してそう言えていたら。こんな結果にはならなかったのかもしれないと。



 ***



 離ればなれになってからも、姉とは毎日のように電話やメールをしていた。両親も姉妹を引き離したことに負い目があるのか、姉妹間でそういった交流をすることに関しては何も言わなかった。毎日はさすがに無理だが、一週間か二週間に一度は近所のレストランやカフェに集まってお茶会のようなこともしたものだ。
 そんな姉が“好きな人ができた”と言い出したのは、中学三年生の時のこと。離婚してからやや暗くなってしまった姉が、最近は顔色も良いし声も弾んでいると思ったらそういうことだったらしい。
 彼女は鞠花に逢うたびに、大好きな“萬屋君”の話をしてくれた。

『運動神経が良くてね。足がとっても速いの。鞠花と同じ』

『いつもにこにこ明るくて、優しくて。私、萬屋君がこっちを見て笑ってくれるだけで、本当に幸せな気持ちになれるのよ』

『今日、先生のプリントを運んでたら手伝ってくれて、すっごくうれしかったの。最高の日になったわ』

『吹奏楽部でね、フルートが凄く上手なの。遠くからこっそり練習を聞かせてもらってるんだけど、凄くきれいな音色でね……』

 最初は、そんな可愛らしいエピソードがつらつらと語られるばかりだった。そんなに好きなら告白したら?と。鞠花がそう言ってみると、姉ははにかみながら“そのチャンスがあったら”と語った。
 萬屋君、という少年と付き合うことになったと言っていたのは、亡くなる一カ月ほど前のこと。一度だけ、スマホで撮影したという彼の写真を見せてもらった。ちょっとピンぼけしていたが、友達に囲まれて楽しそうに笑っているのはよくわかった。なるほど、なかなかのイケメンなのは間違いないらしい。
 年下の男の子との、可愛い恋。今日は手を繋いだとか、一緒にデートしたとか、そういう話をたくさん聴かされた。てっきり、二人はうまくいっているとばかり思っていたのである。毎日家には手を繋いで帰るし、毎週のようにデートもすると言っていたから。なのに。

『まりちゃん。私、萬屋君に捨てられるかも……』

 ある日、姉は泣きながら電話をしてきたのである。

『どうしよう。私が初めてのセックスで、痛いって泣いたのが駄目だったかな。無理やりしないで、なんて言ったからいけなかったのかな。ちゃんと避妊してなんて言ったから怒られちゃったのかなあ……。どうしよう、どうしよう。赤ちゃんできちゃったりしたら、もっと嫌われちゃう……?』

 確かに。姉は思い込みが激しいし、好きになったものへの執着心や独占欲はハンパないものであっただろう。彼氏ができたら、きっとその彼氏にどこまでも依存する――そういう危惧があったのは否定できない。
 けれど、だからって。中学生なのに、セックスまで及んで。それだけでも鞠花の倫理観としてはあり得ないのに、恋人だからって強姦まがいな行為に及ぶなど論外だ。危ういところがあるのは確かだが、鞠花にとっては美しくて優しい、大好きな姉であるのは間違いない。鞠花はその話を聴いてから、可能な限り毎日姉と会うようにした。学校の終わりに、彼女の百坂中の前でも公園でも駅でもなんでも待ち合わせして話を聴くことにしたのである。そんな酷い男から、一刻も早く離れられるように。
 けれど、鞠花がいくら説得しても、彼女は“私は萬屋君が好きだから”の一点張り。最近は殴られたり、罵倒されたり、学校では無視されることも増えたけれどそれでも好きなのだと。

『だから私。もし本当に、妊娠しちゃってたら……赤ちゃん産むつもり。お母さんは、絶対怒るから……一人ででも、産むの。でも、できれば萬屋君にも一緒にきてほしい。ちゃんと家族になって一緒に暮らしたい……』

 涙をぽろぽろ流し、叶わない想いを吐露する姉に。一体、鞠花は何を言うことができただろう。
 何故自分は、彼女と同じ学校に行くことができなかったのか。彼女をそんな酷い男から、守ることができなかったのか。たった二人きりの姉妹だったのに、一体どうして。
 そして、ついにあの事件は起きる。
 姉は飛び降りる直前に、鞠花にこんなメールを送ってきたのだった。



『萬屋君にわかってもらうために、私は彼の前で飛び降りることにしました。
 私にあんな酷い仕打をして、捨てた萬屋君。あんなに、あんなに大好きだったのに、尽くしたのに。

 ごめんね、まりちゃん。
 私、萬屋君を絶対に許さない。死んでも呪ってやるから』


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