マルヴィナの両翼

はじめアキラ

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<1・闇から来る腕>

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 朝日小雨あさひこさめを守ることこそ、自分の存在理由である。月城霧夜つきしろきりやは、物心ついた時から本気でそう思っていた。何故なら幼馴染の小雨は、子供の頃は華奢で小柄で――それこそまるでお姫様のように弱弱しい女の子だったからである。見た目だけではなく、内面的にもそうだった。転んでは泣き、いじめられては泣き、親が見つからなくては泣く。そんな小雨にいつも寄り添ってきたのが、霧夜であったのである。

『だいじょーぶだ、こさめ!俺がずっと、手を握っててやるからな!』

 幼稚園の頃から、自分の役目は何も変わらない。同い年でこそあったものの、霧夜にとって小雨は幼馴染の女の子というより、妹に近い存在であったのである。妹を守るのは、兄貴として当然だ。霧夜もけして屈強な方ではなかったが、持ち前の俊足と機転を生かして、小雨をいじめるいじめっこ達を次々撃退していったのだった。まあ、そのおかげで“喧嘩っぱやい乱暴者”なんていうイメージもついてしまい、大人に呼び出されて叱られるなんてこともしょっちゅうだったわけだが。
 妹のように可愛い、自分が守ってやらねばならない存在。
 そのイメージが変わってきたのは、多分中学生に上がってからのことである。理由は単純明快。小学校まではチビだった小雨が、女子サッカー部に入ってスポーツに邁進するようになってから――めきめきと身長を伸ばし、あっという間に霧夜の身長を追い抜いてしまったからだ。両親ともに小柄なので嫌な予感はしていたが、まさか中学生になってこんなにも身長差ができてしまうとは思ってもいなかった。今では一見すると、自分の方が小雨の弟に見られかねない有様である。男として、少々ヘコむのも無理からぬことではなかろうか。
 ただ、中学生になって小雨がだいぶ社交的になり、泣いてばかりだった彼女もそうではなくなったというのはきっと良い兆候なのだろう。何かあるたび、自分が飛んでいって助けてやらなくてはいけなかった彼女ではもはやいない。友達もたくさんいる。何より――スレンダーな体型はいえ、大人の女性と遜色がないくらいの、色気を身に着けたように思う。
 美人に成長した幼馴染に対して、霧夜が少し別の意識を持つようになってしまうのも必然と言えば必然だっただろう。残念ながらきっと、小雨の方には“ちょっとお節介なお兄ちゃん”という印象しか持たれていないような気がしているが。

――まあ、それも仕方ないか。そういう関係、作っちまったのは俺だし。

 髪を長く伸ばし、しっぽのように一つ結びにしているのは小雨のためだ。小学生の時、小雨が“霧夜の髪、綺麗で好きだな”と褒めてくれたからという単純な理由である。
 反対に小雨の方は、サッカーに邪魔になるからと小学校高学年になったところでばっさり髪を切ってしまった。ショートカットなのに美人に見える女の子は本物の美人、と言っていたのはどこの誰だっただろう。全くその通りである。一見ボーイッシュに見える髪型でさえ可愛らしく見えるあたり、惚れた弱みと言うべきだろうか。

「霧夜、おはよ!」
「ん、おはよ、小雨」

 今日も彼女のマンションの前で待ち合わせて、二人で学校へ行く。昔のように手を繋ぐなんてことはしないし、できない。自分達は友達であって、恋人同士ではないのだから。それでも霧夜は、自分にだけ許された二人きりのこの時間がとても大切だった。
 きっと、彼女は最終的に自分を選ばない。自分のように、“女の子みたいな顔のチビ”と馬鹿にされ、男らしさの欠片もない人間をパートナーとして選ぶとは思えない。こうして一緒に学校へ行き、当たり前のように隣にいることを許される時間もそう長くはないのだろう。
 それでも良かった。
 その短い時間だけでも彼女と一緒にいられるのなら、霧夜にとっては十分だと思っていた。一番大切なのは、小雨の幸せだ。将来小雨が幸せになれるというのなら、隣にいるのが自分でなくてもいい。そう思うべきなのだ、と。

「今日は遅刻しなかったんだな、小雨。夜更かしして寝坊するんじゃないって心配してたのに」

 毎朝恒例の軽口の一つを叩いてやると、小雨はぷくっと頬を膨らませて怒った。

「あのね!あたしだってもう小学生じゃないんだからね!それくらいの分別……っていうんだっけ?そういうものはあるんです!」
「ほんとに?ゲームのラスボスが倒せなくて悔しいってだけで、夜中に泣きながら電話かけてきたのってどこの誰だっけ?しかもその後おばさんにバレて叱られてたのも」
「うっさい!なんでそういうあたしの黒歴史ばっか覚えてるかな!!霧夜の馬鹿!」
「はははっ」

 ああ、怒った顔も可愛い。好きな子ほどいじめてしまう、なんてガキ大将の気持ちもわかろうというものだ。小雨が本気で嫌がってないのもわかっているから尚更である。

「まあ、俺も夜更かししたからあんま人のこと言えないけどな」

 話しながら、いつもの大通りを抜けていく。

「“剣これ”のイベント、あと一週間だし。一番最後の戦場がクリアできなくて困ってるんだよな。騎士クラスが五人がかりで王様守ってるとかちょっと酷いよな。最初ネットで画像見た時、コラかと本気で思ったんだけど」
「あ、霧夜でもあれ突破するのは大変なんだ……?」
「開幕前に、援軍でどこまで蹴散らせるかどうかがカギってかんじ。そこらへんはお祈りゲーだな。難易度ノーマルでアレって、ナイトメアだとどんだけヤバイのかってかんじ。イージーモードでさえ、騎士クラス三人だろ。まあ、夜更かししてでも挑みたくなるよな」
「ほんとそれだよー。はーあ、突破報酬のキャラ欲しいんだけどなあ。白馬だって手に入る機会滅多にないのに。攻略情報待ちかなあ。あと一週間しかないんだけど」
「突破者少ないせいで、情報もあんま落ちてこないもんなあ」

 二人で一緒にプレイしているアプリゲームの話題で盛り上がりつつ、交差点の前で止まった。剣これ、というのは、魔法剣の精霊たちを集めて、異世界を侵略しようとしてくる敵を討伐するというゲームである。基本は無料であり通常の戦場の難易度はさほどではないが、時折開催される期間限定イベントはものすごく難しいと評判なのだ。その代り、突破すると貴重なキャラクターや装備が手に入る。今後の戦場を優位に進めるためにも、できればクリアしておきたいというのが自分達の共通見解だった。
 勿論中学生が、翌日も学校があるのに夜中まで起きていてゲームに熱中するのはよくないと分かっているけれど。それでも、サッカーで忙しい小雨と盛り上がれる数少ない話題とあっては、霧夜もけして手は抜けないのである。ゲームそのものも楽しいが、一番楽しいのはこうして同じ話題で彼女と話ができる時間であることに違いはないのだから。

――小雨も今日は寝坊しなかったし……小雨の部活も、大会終わったばっかだから朝練やってないし。ま、普通の時間に学校着くだろ。

 ちらりと腕時計を見る。この交差点はスクランブルになっている。信号待ちの時間が長いのはわかりきっていることだった。

「あのさ、小雨」

 さっきの続きだけど、と。ゲームの話を再度彼女に振ろうとした、その時だった。顔を上げた霧夜は、自分より少し高い位置にある小雨の顔を見て眉をひそめることになる。
 彼女は霧夜ではなく、交差点の真ん中付近を見ていた。目を見開き、口をやや半開きにした呆然とした顔で。

「どしたよ?何あるのか?」

 この時間の駅前交差点は、人でごった返している。身長150cm代前半の霧夜では、人ごみに埋もれてしまって前の様子をしっかり見ることが叶わない。170cmそこそこある小雨の高さであれば、どうやら自分には見えない何かが見えているということらしいが。
 もしや事故か何かだろうか。あるいは、人でも倒れているのか。

『信号が青になりました』

 アナウンスとともに軽快なメロディーが流れ始めても、人波が動かない。周囲の人々の様子も何かおかしい。霧夜が胸騒ぎを覚え始めた、まさにその瞬間だった。

「ばっ……」

 誰かが、引きつった声で叫んだ。

「ば、化け物!!」

――え?

 一体何が。そう思った瞬間、前にいた連中が人を突き飛ばす勢いで踵を返し、交差点から逃げ出したのである。体が小さな霧夜は思わず尻もちをついてしまうこととなった。痛ぇじゃねえか!なんて文句を言う暇もない。人々は、まるでパニックになったかのように我先にと逃げだしている。
 一体何が。
 いやそれより、小雨は無事か。
 慌てて周囲を見回した霧夜は、すぐ傍で立ち尽くしたままの小雨に気づいた。

「小雨!」

 無事だったか。そう声をかけようとした次の瞬間。視界に入ってきたものに、目を剥く結果になるのだった。

「なっ……!?」

 それは、腕。
 灰色の筋肉質な腕が、交差点の中心から生えているのである。形だけは、人間の腕そっくりに見えた。だが肌の色と、鋭すぎる爪があまりに異質である。コンクリートを突き破ったその腕は、逃げ惑う人々をを無作為に攻撃しているように見えた。殴り飛ばされた女子高校生らしき女の子が地面を転がり、爪で引っ掻かれたらしきスーツの男が肩を抑えて呻いている。
 まるで、モンスター。
 一体なんの冗談だと言いたかった。まるでゲームの世界に迷い込んだかのようではないか。

「な、な、何あれ……っ」
「!」

 泣きそうな小雨の声が、霧夜を我に返らせる。これが夢か現実か、アレが作り物か本物かなんてわからないが。今一番するべきことは、ここで呆然と腕が暴れ回るのを見ていることではない。相手が何であれ、とにかく小雨だけでは守らなければ。

「こ、小雨!逃げるぞ!」

 立ち上がり、小雨の腕を引っ張ろうとしたその時。腕が自分達に気づいたように、まっすぐこちらを向いた。そして、小雨の体めがけて伸びてくるのを目撃することになる。
 彼女を捕まえる気か、あるいは。

「小雨に、触んじゃねぇ!」

 霧夜は小雨を突き飛ばし、腕の前に飛び出した。全身をその巨大な手で掴まれた――そこまでは覚えている。骨がきしむような激痛と、小雨の引き裂くような悲鳴も。
 だが、霧夜が記憶できたのは、そこまでであったのだった。まるでテレビのスイッチを切ったかのようにして、視界が一瞬にして真っ黒に染まってしまったのだから。

――守るんだ、小雨を……小雨だけは……っ!

 意識が途切れる寸前まで。
 想っていたのはただ、その一念のみであったのである。
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