黒須澪と誘惑の物語

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<29・終曲>

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 人間は弱く、脆い生き物だ。
 ゆえに神様を作り上げ、神様に縋る。偶像を崇め、自分をこの苦しみから救ってくださいと懇願するのだ。太古の昔から繰り返されてきた人の弱さの象徴。それが、彼等が崇拝する神や宗教にこそ集約されているというのは、なんとも皮肉な話ではあるが。

『あのバージル西垣が、本物の“術者”であったのは間違いないようですね。知識は、彼がご両親から受け継いだものも少なからずあったようですが……少なくとも独力で“ありうべからざるもの”を召喚するところまでこぎつけたというのは大したものです』

 ぺらり、と梨乃亜が手にした手紙の最後の一枚。冒頭はそう始まっていた。

『一連の事件は、全て繋がっていました。あの神をこの世に呼び出すための下地を作る為、神が好む生贄を作り、興味を引き出す作業がずっと教団の手で行われていたということらしいです。教団の幹部の一人をちょっと捕まえて吐かせてみたらあら不思議、都市伝説や悪霊の居場所といった“本物”の情報を、ロス・ユートピアの裏ホームページにどっさりと載せていたそうですよ。ヨウチューバーのカンジ&ユカリが見つけた呪いの電車なども、どうやらそこからの情報だったようですね』
「なんとはた迷惑な。……でも呪いの電車は、乗ったら最後誰も生きて帰れないはずよね?あんた自身とあんたに愛されてる由羅ちゃんはともかく。何で教団はそれ知ってたのかしら。あれ?でも幹部の一人のはずの木下友理奈は知らなかったような?」

 思わずツッコミを呟くと、まるでそれが聞こえていたかのように答えがその下に現れた。

『裏ホームページは、幹部の中でも今回の儀式に直接かかわる一部のメンバーにしか公開されていなかった。そのメンバーが、影響力の高そうだと思った人間にのみ、アドレスを直接リークしていたようです。……面倒なことに、カンジ&ユカリ以外にもリークされた動画投稿者や芸能人、テレビ局などがあったようなのですよね。今後また面倒なことが起きそうです。まあ、赤の他人がどこでどれだけ死のうが、私は知ったこっちゃないんですが。私の興味は、彼らの死に様がいかに面白いかどうかということだけですので』

 誰が死んでも関係ない。よく言うわ、と梨乃亜は心の中で思う。
 彼が関わった怪異にまつわるエピソードを聴くのはこれが初めてではない。大抵、欲望にかられた愚かな者が怪異に手を出して酷い目に遭う。澪が殺されたり犯されたり殴られたりなんてことも全然珍しくない。どんな人間にも変幻自在に化けられる澪だったが、彼の能力の多くはカウンターに特化している。自分が手を出されて初めて相手に罰を下せることが少なくないからだ。――彼の境遇を思えば当然だろう。元より、“善神”だったはずの彼を裏切り、復讐の神にしてしまったのは他でもない人間だったのだから。
 あの時の澪の有様を知っている梨乃亜からすれば、今の澪の方が幾分マシではある。ただ、それでも時々、こいつは本気で馬鹿なんだなと実感させられるのだ。
 簡単なこと。あれだけ人間に踏みつけにされるような経験ばかりしておきながら、彼は結局人間全てを憎んだり見下すには至っていない。今回語られたいくつものエピソードでもそれは同じ。六つの事件のうち二つで、彼は由羅以外の人間を助けているのだ。
 “マキコミ”の物語では、純粋な正義感から困っていた澪を助け、助言をした名取朱音を。
 そして先ほどの“キュウサイ”の物語では榛名春と、遠回しだが実質、新倉焔のことも助けている。バージル西垣にでさえ、直前で忠告した。心から人間などどうでもいい、誰が死んでも関係ないと思っているわけでないことは行動から見て明らかだろう。いくら本人が、そんなことはないと口で否定したとしてもだ。

――最後の儀式。元より、深淵の眠りから叩き起こされた邪神は非常に機嫌が悪かった。信者の数人を叩き潰してもいいかなと思うくらいには。

 しかし、そこで火に油を注ぎ、激怒させたものこそ。バージル西垣が知らず知らずに別の邪神の心臓を捧げてしまったことにあるのである。件の神と澪は、実質ほぼ対等な立場の存在だ(所属は違うが)。戦争していた時ならいざ知れず、別の神の魂など捧げられてはたまったものではないのである。下手をしたら、自分の身を滅ぼす毒になりかねない。加えて、神という存在そのものを軽んじる人間への怒りもある。
 ちょっとプチっと潰してやろうかな、というくらいの気持ちが、関わった奴ら皆殺しにしてやれ、に変わるのも当然と言えば当然なのだ。

――生贄になる順番。狂信者に近かった田中速人は救えなかったとしても……二番目が誰になるかは決まっていなかったはず。もし、澪より先に由羅ちゃんや新倉焔が選ばれていたら、彼等はきっと助からなかった。

 それを、澪はそれとなく自分に意識を向けることで、バージルが自分を二番手に選ぶように仕向けたのだ。あの焔という霊能力者は澪と遭遇して普通に生き残っているようだし、以前から知り合っていてなんとなく気に入っていた存在だったのかもしれない。

――榛名春は直接儀式にタッチしなかったけど、生贄を選んでしまったという立場はある。……でも彼は狙われなかった。それとなく澪が誘導したがために。……ほんと、ちょっと優しい言葉をかけられたくらいで、すぐハードル下げちゃうのよね、あんたは。

 まあ、この文章からも、榛名春が根っからの善人であることは伝わってくるというものだ。自分に自信がなく、それでいて己の能力で誰かを助けることを生き甲斐とする青年。澪のことも人間ではないとなんとなく気づいていながら、それでも澪のために涙を流して見せたのだ。かつて人と共に寄り添っていた元・善神の心が揺らぐのは必然だったのかもしれない。
 春に向かって、彼が思わず口にしてしまった言葉は、澪という存在の真実に他ならないのだろう。
 終わりにしてほしい。本当は、彼は何よりそれを望んでいる。未来永劫続くこの世の地獄。バージル西垣より誰より、そこからの救済を望んでいたのは澪自身だったはずだ。
 それでも彼に、縋れるものはない。己もまた神であるがゆえに。
 なんとも憐れな存在であることか。――梨乃亜もまた、友人という立場でありながら何もできることはないのだから。

――今の澪を救えるのは、由羅ちゃんだけなんでしょうね、きっと。

 澪はきっと由羅のためならなんでもするのだろう。由羅が澪のためならば、どんな犠牲も厭わないと示して見せたように。

『能力者と言っても、新倉焔とバージル西垣、榛名春は全員タイプが違うというのが面白いところです。榛名春の能力は語った通りですが、新倉焔の能力も結構近いものがあるようですね。ただし、新倉焔の方が強い分使い勝手は悪いかもしれません。彼は、自分に直接的危害が及ぶことが確定している怪異には一切近づけないようなのです。例えば、私が彼に殺意を抱いたら。彼は私の目の前に一切姿を現すことができなくなります……本人がどう望んだところで』
「へえ。守護霊でも憑いてるってことなのかしらね、それ」
『彼に憑いた強い加護の影響でしょうね。ただし、彼は対人外特化の為、“人間が発する悪意”に対してはセンサーが働きませんので、殺意を持つ“人間”相手には普通に相対できてしまうことになります。また、基本は相手の名前や写真を通して、相手に降りかかる異変を察知する能力がメインであるようです。相手に危険が迫っていると、その人物の名前が歪んで見えたりするらしいですよ。最初に榛名春のところに現れたのもそれが理由であるそうです。彼もなかなかのお人よしですねえ』
「……人のこと言えないくせに」

 それに加えて、僅かばかりPKの能力も持っているということなのか。目に見えない力は視えるが、それに対して直接的な抵抗は僅かに“能力の方向性をズラす”ということしかできないということらしい。多分、悪霊などを祓うような行為をする場合も、視えるモノの正体を突き止めてピンポイントで僅かばかりの力を使う、ということで対処していくのだろう。
 そんな彼が追いかけている“壷鬼”というものがなんなのかは気になるところだが(春の言葉いわく、絶対に人間が触れてはいけないレベルの何かであるようだし)、残念ながら澪はそれについて語るつもりはないらしい。長い長い手紙の文章も、残り僅かとなっていた。

『かつては私を退治しに来たはずの新倉焔さんですが、もう私を退治することはすっかり諦めてくれているようですね。妙な助言をされました。“あんまり暴れ回って、傷つけるのはやめろよ。傷つけるってのはそこの西垣由羅だけじゃない、あんた自身もだ”だそうです。……まったく、人の心配をしている場合なんでしょうかねえ、彼は』

 傷つけるな。澪を見ていたら誰だってそう言いたくもなるわ、と梨乃亜は思う。毎回毎回、澪が犯されたり殺されたりを間近で見せられる由羅が何を想っているのか、気づかないとは言わせない。生き返るから、傷が治るからいいというものではないのだ。
 体の傷は治っても、心の傷はそうではない。それは、人であってもなくても同じなのだから。

『新倉焔と榛名春には、不思議な縁ができたようですし……彼等とはまた、どこかで逢うことになるかもしれませんね。ああ、結局大阪と京都と静岡しか旅行できなくてとても残念です。まあ、ロス・ユートピアの本部に大打撃を与えられたので良しとしましょうか。自分達の信じていた神の正体を知り、有力な最高幹部を失った組織が今後も同じまま機能できるとは思えませんから』

 それでは今回のお手紙もこのへんで、と。彼は気安い言葉で、筆を置いた。

『なんだったら、またうちに遊びに来てください。旦那様も一緒に。あ、お酒は出さないのでそのつもりで』
「おいちょっと!」

 その末文を読んだところで声が上がった。じっと梨乃亜の手元を見つめていた“ようちゃん”である。

「酒出さないとはどういうことだ、もてなす気がないのか奴は!?」
「……ずっと黙ってたくせに、反応するのはソコなわけ?」

 この酒浸りの“夫”め。しおらしく可愛い愛犬として過ごしていればいいものを。梨乃亜は彼の後頭部をつんつんとつついてため息をついた。

「駄目よヨグ。あんた酒癖悪いんだから。というわけで、行くなら犬の姿のままでね。当然お酒はなし。犬の餌以外も食べちゃダメですから」
「そ、そんな!」
「罰ゲームは当分続くのよ。酔っぱらって人の教団の支部をまるまる一つ吹っ飛ばしたのは誰?私はまだ許してませんからね」
「う、うううう……」

 沈没した彼のもふもふの体のすぐ横に、写真が一枚ひらりと落ちる。それを拾い上げ、梨乃亜は小さく笑みを浮かべた。
 静岡駅の構内だろうか。改札前でピースしている黒髪金眼の青年と少女の姿がある。その後ろに普通に映り込んでいる、通勤や通学の通行人達。――彼等はみんな気づいていない。目の前で暢気に過ごしているその存在が、とんでもない災厄と、とんでもない悲運を持つ“邪神”であるなんてことは。
 怪異はごくごく身近に起きている。
 人間の心や魂、意識などあっさり高見から覗き込まれているものだ。だってそうだろう。



 エピソードを語る文面の殆どが。
 手紙の書き手であるはずの澪ではなく別の登場人物の視点で語られているのは、つまりそういうことなのだ。



――また面白い手紙を送って頂戴ね、とでもメールしておこうかな。なかなかいい暇つぶしになったし。

 憐れな存在、可愛い存在、親しい存在、面白い存在。
 歌い、踊り、狂い、自分達を楽しませ続けてくれればそれでいい。その退屈しのぎこそ、あらゆる痛みと苦しみを誤魔化す薬になりうるのだから。

「そろそろ仕事に出るわ。ようちゃん、あんたはお留守番よ。いいわね?」
「畜生……わかったよ、シュブ」

 不満そうな犬を置いて、梨乃亜は立ち上がった。

――さあ、今日の遊びを始めましょうか。

 精々楽しませておくれ、人間。
 どちらが玩具であるかなど、言うまでもなく明らかなのだから。
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