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<28・キュウサイ。Ⅵ>
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神様と言った時、人が想像するのはどんな姿だろうか。
どうしてもイエス・キリストやお釈迦様のイメージが強い人が多いのではないだろうかと思う。春もなんとなく、神様と呼ばれる存在はその方向だと思っていたのだ。
つまり、人間に近い形。
よくよく考えれば、神様が人間のような姿で表現されることこそ、人間が傲慢であることの最たる理由であるのかもしれない。自分達は神に、選ばれた存在として作られた。この地球上の支配者であることを許された。その証明として、神様に近い姿を与えられたに違いない、と。――歴史で考えてみるのであれば、人間が支配者となったのはあくまで多くの偶然や幸運が積み重なった結果であるのは間違いないというのに。それこそ、恐竜が隕石で絶滅しなかったら、哺乳類は進化せず、今とはまったく違った支配者が産まれていたのかもしれないのだから。
――もし、人の姿でなくても。……伝説上の生き物のようなものなんじゃないかって、そう思ってた。
例えば麒麟。
例えばユニコーン。
例えばドラゴン。
そういった神々しくも美しい人外の姿で現れる、それこそが神であるとなんとなく考えていたのである。だから、こればっかりは完全に想定外だった。神と呼ばれ、バージルたちが必死になって召喚したものが――人間どころか、生き物の姿さえしていない、なんてことは。
「か、神よ!」
バージルは少しばかり驚いたものの、それでも台座の前に跪き祈りを捧げている。
「ああ、ああ!や、やはりぼく達の術は正しかった!少しばかり聴いていた状況とは違うけれど、でも、でも!」
歓喜の声で彼が見つめる先に視えるのは――台座から噴出した、大量の黒い霧。
否、霧と呼ぶには妙に形を保っていた。液体と気体の間、あるいはそのどちらの性質も含むようなそれは、空気中に吹き上がりながらもうねうね、ぬめぬめと蠢いているのである。バージルの様子からして、その霧そのものが神であるのはほぼほぼ間違いないのだろう。彼は神がどのような姿をしていたのか、予め教えられて知っていたということらしい。
だが、その神と呼ぶべき存在は、眼鼻がどこにあるのかさえわからない状態である。果たして口がきける生き物であるのか、そもそも意思疎通が本当に図れるのだろうか。この世界を平和にするための新たな支配者ならば、言葉が通じないなど本末転倒であるはずなのだが――。
「うっ」
鼻を突き刺すような刺激臭に、思わず口を覆った。排泄物の臭いと腐臭が混じったような酷い悪臭だ。神様って綺麗好きなイメージがあるのに、なんてことを現実逃避気味に考えた、まさにその時だった。
「ひぎっ!?」
黒い霧が一瞬、固まったように見えた。次の瞬間液体状の触手がにゅるりと伸びてきて、呪文を唱えていた信者の一人の腹を突き刺す。
「な、なん、で私」
「本多!?」
仲間達が唖然とする中。触手がにゅるにゅると蠢いた。腹を刺された本多という男が、体をびくびくと痙攣させ口から血泡を吹く。みるみるうちに、男の腹部が不自然にへこんでいくのがわかった。
「いひゃ、痛い。いた、いひゃ、あああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
男の腹が紙のようにうすっぺらくなったところで、触手がずるりと抜けていく。液体状の触手の先には、ぬめぬめと赤く光る肉のチューブの断片のようなものを巻き取っていた。ああ、と春は理解して戦慄する。あの触手は生きたまま、男の腸を吸い上げて食らいつくしていったのだと。
「ひ、ぎゅ」
腸を喰われ尽くしたのであろう男は白目を向いて倒れ、そのまま動かなくなった。生きたまま内臓を喰われるなんて、地獄以外の何者でもない。思わずちびりそうなほどの恐怖、とはまさにこのことだ。がくがくと震えていると、ポン、と肩に手が置かれる。
「よく見ておけ、榛名春」
焔だった。彼は渋い表情で、召喚された邪神を見つめている。
「これが……人がけして手を出してはならない領域。呼び出してはならないものを呼び出した、その代償だ」
刹那、黒い霧が大きく膨れ上がった。今度は複数の触手を同時に広範囲へと放出していく。そして呪文を唱えていた他の信者達、全ての腹を同時に貫いていた。
「ぎゃああああ!」
「や、やだ!く、喰われたくない、私は、私は理想の世界をっ」
「な、何故、何故ですか神様、神様ぁ!!」
腹を抉られた信者達が痛みに泣き叫び、迫りくる死に怯えて絶叫する。しかし、黒い霧状の神はそんなこと異に返す必要もないと言わんばかりに触手を震わせた。ごきゅ、と吸い上げるような音と共に、さらなる苦痛を浴びせられた者達が絶叫する。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいいい!」
「か、神様、どうか、どうかご慈悲を!わ、我らは生贄ではっ」
「やだやだやだやだおなか、お腹の中身が、も、持ってかれ」
「ふぎゅううううううううううううっ!」
「死にたくない死にたくない死にたくないっ」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
老若男女問わず、黒ローブの信者達の腹はどんどんへこんでいき、全員が激痛にのたうちながら絶叫する。血を口から、下半身から噴出させ、がくがくと痙攣しつつ神に許しを請う。
しかし、腸を喰われ始めた時点で、彼らに助かる道などないのだ。人は腸を喰われても少しの間なら生存できるが、どのみち食べて栄養を補給するシステムが壊れれば長生きなんぞできるはずもない。何より、恐ろしすぎる痛みと恐怖にどこまでも耐えられるほど頑丈な脳も持っていない。触手が引き抜かれると同時に、信者達はみんなうすっぺらになった腹を抱えて崩れ落ちた。まだびくびくと痙攣している者はかろうじて息があるのだろうか。即死できた方が遥かに幸せであっただろうに。
「な、何故なんだ、神様……!?」
流石にこの事態は、バージルも予想していなかったことだろう。
「生贄は、他に用意したのに、なんで術士たちを襲ったんだい?生贄が気に入らなかったのかい?それとも、ぼく達の力が足らなかったということ?教えてくれ、神様、神様……!」
もう残っているのは、春達を除けばバージルのみ。彼は必死で両手を広げて訴えた。世界を変えてくれると信じて呼び出した神様が、望まぬ挙動をしたことで心底戸惑っている様子である。――自分だけでも逃げようとしないのはそこまで頭が回らないからなのか、それとも彼なりの責任感ゆえなのか。
「ば、バージル様、逃げてください!」
澪が何故、バージルに忠告したのか分かってしまった。この存在は、確かに神と呼ばれるほどの力を持つのだろう。しかし、人間の意のままに動かせるほど甘い存在ではないし、人間ごときの力で無理に引っ張り出せば一方的にこちらが酷い目を見る結果となるのである。封じるか、それができないのなら逃げるしかない。春が必死で訴えるも、バージルには聞こえていないようだった。震える声で、それでも神の方へと手を伸ばす。
「ずっと会いたかった。会いたかったんです。貴方は、ぼくの全てだから。お父さんとお母さんの悲願だったから。お願いします、世界に平和を、みんなに救済を……!」
怪物に、情けも慈悲もあるはずがなかった。どすっ!と鈍い音と共に、触手がバージルの腹に突き刺さる。自分も他の信者同様生贄なのだと悟ったバージルは、苦悶の血を吐きながらも告げた。
「ああ、ぼくの、命で……貴方が、満足してくれるなら、それでいいよ。お願いします、かわりに、せかいを、すくって……」
ずるるるる、と腸が吸い出される無慈悲な音がした。バージルの体が膝から崩れ落ちるのを、春はただ茫然と見ているしかなかった。
「あ、あああ……っ」
この人は確かに狂っていたのだろう。しかし、世界を救いたいという気持ちに嘘偽りはなかったはずである。それこそ、自分の命を捨ててでも、誰かのために尽くしたいと思っていたのは真実だったはずだ。
それなのに何故、このような最期を遂げなければいけなかったのか。自分に出来ることは、何も無かったのだろうか。
「……煩いですね。まだ心臓を再生してる途中なんですから、無理させないでくださいよ」
ふらつきながらも立ち上がった澪が、ゆっくり一歩前に踏み出した。そして黒い霧に向かってこう告げるのである。
「貴方を眠りから呼び起こした術者達は全ていなくなりました。さっさと元の場所にお帰りなさい、ニョグタ。その深淵の安らぎこそ、貴方の望みなのでしょうから」
まるで、澪の言葉を理解したかのよう。黒い霧は暫く宙で踊るように蠢いた後、しゅるしゅると台座に吸い込まれて小さくなっていったのである。まるで、とりあえず憂さ晴らしは出来たから満足だと言わんばかりに。
ありうべからざるもの。そう呼ばれた黒い霧の邪神は、やがて罅割れた台座に完全に吸い込まれて消えてしまった。硝子ケースに捧げられていた、二つの心臓とともに。
「き、消えた……?」
安堵とともに足から力が抜け、思わず春はそのまま座り込んでしまう。部屋中を満たしていたおぞましい気配は消失している――あの、ゴミが腐ったような悪臭も。
「い、一体あれは、なんだっていうんですか……」
特定の誰かに問いかけたわけではなかった。ただ、この早鐘を打つ心臓と、全身をぐっしょり濡らす汗と、恐ろしい疲労感の理由が知りたくてならなかったのである。
「神ですよ。貴方がたが想像するそれとは全く違う次元の存在ですがね」
どこか楽しげに澪は言った。
「あるいは、眠っているところを叩き起こされて恐ろしく不機嫌だった怪物。だから、起こした者達に適当に八つ当たりをして満足して帰っていったわけです。呪文に参加しなくて良かったですねえ、榛名春さん。参加してたら貴方も標的でしたよ」
「ひっ」
「さて、ゆっくり帰りましょうか。どうせこの映像は、ロス・ユートピアの本部に全部見られてるんでしょうしね」
ちらり、と彼が見上げた先には、真っ白な部屋の隅に設置された防犯カメラがあった。
「自分達が信じていた神が絶対的に手に負えないものだと、彼等もようやくわかったことでしょう。力ある者の心臓を捧げたところで、かえって機嫌を損ねるだけということも。……ならば二度とこのような愚行を起こすこともなく、私達を追いかけることもできまい。このような事実を表に公表することもね。……我々はただ疲れたなあとため息を吐きながら、正面玄関から堂々とおうちに帰ればいいのです」
どうしてもイエス・キリストやお釈迦様のイメージが強い人が多いのではないだろうかと思う。春もなんとなく、神様と呼ばれる存在はその方向だと思っていたのだ。
つまり、人間に近い形。
よくよく考えれば、神様が人間のような姿で表現されることこそ、人間が傲慢であることの最たる理由であるのかもしれない。自分達は神に、選ばれた存在として作られた。この地球上の支配者であることを許された。その証明として、神様に近い姿を与えられたに違いない、と。――歴史で考えてみるのであれば、人間が支配者となったのはあくまで多くの偶然や幸運が積み重なった結果であるのは間違いないというのに。それこそ、恐竜が隕石で絶滅しなかったら、哺乳類は進化せず、今とはまったく違った支配者が産まれていたのかもしれないのだから。
――もし、人の姿でなくても。……伝説上の生き物のようなものなんじゃないかって、そう思ってた。
例えば麒麟。
例えばユニコーン。
例えばドラゴン。
そういった神々しくも美しい人外の姿で現れる、それこそが神であるとなんとなく考えていたのである。だから、こればっかりは完全に想定外だった。神と呼ばれ、バージルたちが必死になって召喚したものが――人間どころか、生き物の姿さえしていない、なんてことは。
「か、神よ!」
バージルは少しばかり驚いたものの、それでも台座の前に跪き祈りを捧げている。
「ああ、ああ!や、やはりぼく達の術は正しかった!少しばかり聴いていた状況とは違うけれど、でも、でも!」
歓喜の声で彼が見つめる先に視えるのは――台座から噴出した、大量の黒い霧。
否、霧と呼ぶには妙に形を保っていた。液体と気体の間、あるいはそのどちらの性質も含むようなそれは、空気中に吹き上がりながらもうねうね、ぬめぬめと蠢いているのである。バージルの様子からして、その霧そのものが神であるのはほぼほぼ間違いないのだろう。彼は神がどのような姿をしていたのか、予め教えられて知っていたということらしい。
だが、その神と呼ぶべき存在は、眼鼻がどこにあるのかさえわからない状態である。果たして口がきける生き物であるのか、そもそも意思疎通が本当に図れるのだろうか。この世界を平和にするための新たな支配者ならば、言葉が通じないなど本末転倒であるはずなのだが――。
「うっ」
鼻を突き刺すような刺激臭に、思わず口を覆った。排泄物の臭いと腐臭が混じったような酷い悪臭だ。神様って綺麗好きなイメージがあるのに、なんてことを現実逃避気味に考えた、まさにその時だった。
「ひぎっ!?」
黒い霧が一瞬、固まったように見えた。次の瞬間液体状の触手がにゅるりと伸びてきて、呪文を唱えていた信者の一人の腹を突き刺す。
「な、なん、で私」
「本多!?」
仲間達が唖然とする中。触手がにゅるにゅると蠢いた。腹を刺された本多という男が、体をびくびくと痙攣させ口から血泡を吹く。みるみるうちに、男の腹部が不自然にへこんでいくのがわかった。
「いひゃ、痛い。いた、いひゃ、あああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
男の腹が紙のようにうすっぺらくなったところで、触手がずるりと抜けていく。液体状の触手の先には、ぬめぬめと赤く光る肉のチューブの断片のようなものを巻き取っていた。ああ、と春は理解して戦慄する。あの触手は生きたまま、男の腸を吸い上げて食らいつくしていったのだと。
「ひ、ぎゅ」
腸を喰われ尽くしたのであろう男は白目を向いて倒れ、そのまま動かなくなった。生きたまま内臓を喰われるなんて、地獄以外の何者でもない。思わずちびりそうなほどの恐怖、とはまさにこのことだ。がくがくと震えていると、ポン、と肩に手が置かれる。
「よく見ておけ、榛名春」
焔だった。彼は渋い表情で、召喚された邪神を見つめている。
「これが……人がけして手を出してはならない領域。呼び出してはならないものを呼び出した、その代償だ」
刹那、黒い霧が大きく膨れ上がった。今度は複数の触手を同時に広範囲へと放出していく。そして呪文を唱えていた他の信者達、全ての腹を同時に貫いていた。
「ぎゃああああ!」
「や、やだ!く、喰われたくない、私は、私は理想の世界をっ」
「な、何故、何故ですか神様、神様ぁ!!」
腹を抉られた信者達が痛みに泣き叫び、迫りくる死に怯えて絶叫する。しかし、黒い霧状の神はそんなこと異に返す必要もないと言わんばかりに触手を震わせた。ごきゅ、と吸い上げるような音と共に、さらなる苦痛を浴びせられた者達が絶叫する。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいいい!」
「か、神様、どうか、どうかご慈悲を!わ、我らは生贄ではっ」
「やだやだやだやだおなか、お腹の中身が、も、持ってかれ」
「ふぎゅううううううううううううっ!」
「死にたくない死にたくない死にたくないっ」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
老若男女問わず、黒ローブの信者達の腹はどんどんへこんでいき、全員が激痛にのたうちながら絶叫する。血を口から、下半身から噴出させ、がくがくと痙攣しつつ神に許しを請う。
しかし、腸を喰われ始めた時点で、彼らに助かる道などないのだ。人は腸を喰われても少しの間なら生存できるが、どのみち食べて栄養を補給するシステムが壊れれば長生きなんぞできるはずもない。何より、恐ろしすぎる痛みと恐怖にどこまでも耐えられるほど頑丈な脳も持っていない。触手が引き抜かれると同時に、信者達はみんなうすっぺらになった腹を抱えて崩れ落ちた。まだびくびくと痙攣している者はかろうじて息があるのだろうか。即死できた方が遥かに幸せであっただろうに。
「な、何故なんだ、神様……!?」
流石にこの事態は、バージルも予想していなかったことだろう。
「生贄は、他に用意したのに、なんで術士たちを襲ったんだい?生贄が気に入らなかったのかい?それとも、ぼく達の力が足らなかったということ?教えてくれ、神様、神様……!」
もう残っているのは、春達を除けばバージルのみ。彼は必死で両手を広げて訴えた。世界を変えてくれると信じて呼び出した神様が、望まぬ挙動をしたことで心底戸惑っている様子である。――自分だけでも逃げようとしないのはそこまで頭が回らないからなのか、それとも彼なりの責任感ゆえなのか。
「ば、バージル様、逃げてください!」
澪が何故、バージルに忠告したのか分かってしまった。この存在は、確かに神と呼ばれるほどの力を持つのだろう。しかし、人間の意のままに動かせるほど甘い存在ではないし、人間ごときの力で無理に引っ張り出せば一方的にこちらが酷い目を見る結果となるのである。封じるか、それができないのなら逃げるしかない。春が必死で訴えるも、バージルには聞こえていないようだった。震える声で、それでも神の方へと手を伸ばす。
「ずっと会いたかった。会いたかったんです。貴方は、ぼくの全てだから。お父さんとお母さんの悲願だったから。お願いします、世界に平和を、みんなに救済を……!」
怪物に、情けも慈悲もあるはずがなかった。どすっ!と鈍い音と共に、触手がバージルの腹に突き刺さる。自分も他の信者同様生贄なのだと悟ったバージルは、苦悶の血を吐きながらも告げた。
「ああ、ぼくの、命で……貴方が、満足してくれるなら、それでいいよ。お願いします、かわりに、せかいを、すくって……」
ずるるるる、と腸が吸い出される無慈悲な音がした。バージルの体が膝から崩れ落ちるのを、春はただ茫然と見ているしかなかった。
「あ、あああ……っ」
この人は確かに狂っていたのだろう。しかし、世界を救いたいという気持ちに嘘偽りはなかったはずである。それこそ、自分の命を捨ててでも、誰かのために尽くしたいと思っていたのは真実だったはずだ。
それなのに何故、このような最期を遂げなければいけなかったのか。自分に出来ることは、何も無かったのだろうか。
「……煩いですね。まだ心臓を再生してる途中なんですから、無理させないでくださいよ」
ふらつきながらも立ち上がった澪が、ゆっくり一歩前に踏み出した。そして黒い霧に向かってこう告げるのである。
「貴方を眠りから呼び起こした術者達は全ていなくなりました。さっさと元の場所にお帰りなさい、ニョグタ。その深淵の安らぎこそ、貴方の望みなのでしょうから」
まるで、澪の言葉を理解したかのよう。黒い霧は暫く宙で踊るように蠢いた後、しゅるしゅると台座に吸い込まれて小さくなっていったのである。まるで、とりあえず憂さ晴らしは出来たから満足だと言わんばかりに。
ありうべからざるもの。そう呼ばれた黒い霧の邪神は、やがて罅割れた台座に完全に吸い込まれて消えてしまった。硝子ケースに捧げられていた、二つの心臓とともに。
「き、消えた……?」
安堵とともに足から力が抜け、思わず春はそのまま座り込んでしまう。部屋中を満たしていたおぞましい気配は消失している――あの、ゴミが腐ったような悪臭も。
「い、一体あれは、なんだっていうんですか……」
特定の誰かに問いかけたわけではなかった。ただ、この早鐘を打つ心臓と、全身をぐっしょり濡らす汗と、恐ろしい疲労感の理由が知りたくてならなかったのである。
「神ですよ。貴方がたが想像するそれとは全く違う次元の存在ですがね」
どこか楽しげに澪は言った。
「あるいは、眠っているところを叩き起こされて恐ろしく不機嫌だった怪物。だから、起こした者達に適当に八つ当たりをして満足して帰っていったわけです。呪文に参加しなくて良かったですねえ、榛名春さん。参加してたら貴方も標的でしたよ」
「ひっ」
「さて、ゆっくり帰りましょうか。どうせこの映像は、ロス・ユートピアの本部に全部見られてるんでしょうしね」
ちらり、と彼が見上げた先には、真っ白な部屋の隅に設置された防犯カメラがあった。
「自分達が信じていた神が絶対的に手に負えないものだと、彼等もようやくわかったことでしょう。力ある者の心臓を捧げたところで、かえって機嫌を損ねるだけということも。……ならば二度とこのような愚行を起こすこともなく、私達を追いかけることもできまい。このような事実を表に公表することもね。……我々はただ疲れたなあとため息を吐きながら、正面玄関から堂々とおうちに帰ればいいのです」
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