黒須澪と誘惑の物語

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<27・キュウサイ。Ⅴ>

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「おお、おお!我らが旧き支配者、姿を現したまえ!」

 バージルが歓喜の声で叫ぶ。不協和音のごとく響く、田中速人の苦痛の声を無視して。

「く、く、苦しい……!ば、バージル様、これ、は」
「恐れなくていいよ、田中さん。その苦しみはほんの一時のものだからね」

 ゆっくりと、掲げた手を下ろすバージル。その顔は慈愛に満ちている。

「何も怖がらなくていい。もうすぐ君は、神様と一体となり……誰より早く、この世の苦しみから解放され、幸せになることができるんだから!」

 ぶちゅり、と肉が潰れるような音がした。がはっ!と乾いた声とともに速人は血を吐き、さながら糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちる。そのままびくびくと全身を痙攣させ、魔方陣の上で動かなくなった。

――い、一体なにが……!?

 唖然としていた春は、魔方陣の中央を見て気づいてしまう。さっきまで、確かに硝子ケースの中身は空っぽだったはずだ。それが、いつのまにか血まみれの肉の塊が一つ収まっているのである。この距離では分かりづらいが、人の拳かそれより少し大きいかといったくらいのサイズだ。血管を浮き上がらせ、あちこちからぴゅうぴゅうと血を吹き上げ、びくびくと震えているように見えるそれ。もしや、あれは。

――ま、まさか……!?

「か、彼の心臓を、抜き取っ……!?」
「うん、そうだよ」

 春の言葉を、バージルはあっさりと肯定する。

「全ての生贄は、こうやって捧げられる決まりなんだ。生きたまま心臓を抜き取って、供物にするんだよ。他の生贄はその前に手足を潰すという過程を踏まないといけないんだけど……彼等は“最後の架け橋”だから、今までの生贄とはちょっと違う。捧げるのは心臓だけでいい。だから、苦しむ時間も短くて済むんだ」
「で、でもそれじゃ」
「彼等はみんな、救いを求めて此処に来る。みんな知ってるんだよ、今の世の中じゃ幸せになれないって。だから、ぼく達を、ぼく達の神様である“ありうべからざるもの”を頼る。神様が支配する、全く新しい世の中を求める。……その神様に一番早くに取りこまれることで、神様と一緒に幸せな世界を作ることができる役目。これが名誉なものでなくてなんだというのかな?できればぼくが代わりたかったほどだよ!」
「……!」

 彼には、人を殺したという意識がない。本気で速人に救済を齎したと思っている。行き過ぎた善意は、時に世界をも壊す毒になるのだと春は今まさに思い知っていた。バージルは優しい。優しいのと同じくらい、狂っている。それを容認する他の信者や教主たちも含めて。

「不思議なものですね」

 バージルの力ならば、触れることもなく人の心臓を抜き取り、ガラスケースに転移させることも不可能ではない。それでも人が目の前で死ねば、大抵の人間は動揺するはずである。しかし、黒須澪はまったく動じる気配もなく、一歩前に進み出たのだった。

「生贄を寄越せ、とはっきりに人間に命じる神は少ないものです。人が作った物語ではやたらと多いものですが。……にも関わらず、神を信じる者の多くは生贄を捧げて神の機嫌を取りたがる。……神の本当の望みを、きちんと聴ける人間は少ない。現代社会ではそれも仕方のないことなのでしょうかねえ」
「よく分からないけど、次は君でいいのかな?」
「お好きにどうぞ」

 今から殺すと宣言されているも同然なのに、澪は楽しげに嗤うばかりである。

「バージル西垣、貴方は悪人ではない。ですから一度だけ警告しましょう。……ここで引き返せば、地獄に堕ちずに済みますよ。尤も、行く先が地獄かどうかを決めるのは私ではないので、何もない永遠の闇ということも考えられますけどね」

 澪の言葉に、うーん、とバージルは困ったように首を傾げた。

「矛盾してるよ、黒須さん。今のこの世こそが地獄。これ以上堕ちる場所なんかないから。……君もすぐ、それがわかるようになるよ」

 再びバージルが腕を振った。澪が胸を押さえて苦しみ始め、やがてその場に崩れ落ちる。

「澪さんっ!」

 由羅が小さく悲鳴を上げた。さらには“う”、と別方向からも低い声が上がる。新倉焔だった。彼は血の気が引いた顔でガラスケースを見つめている。

「馬鹿野郎、何てやばいことをしやがるんだ……」
「え」
「榛名春、お前はもう少し離れてた方がいい。巻き込まれるぞ」
「!」

 言われるまでもなかった。ああ、何だろうあれは。ガラスケースに入った田中速人の心臓は、真っ赤な普通の血肉の色をしていた。だからこそ、比較は容易い。その中に追加された澪の心臓は明らかに――周囲に、黒い光を纏い、怪しく点滅していたからだ。ずしり、とガラスケースが重みで台座に沈み込む。そのオーラが見えているのかいないのか、バージルが嬉しそうにケースを覗き込んだ。

「とてつもない力を感じる!なんとなくそんな気はしていたけれど、黒須さんは凄い素質を持った人だったんだね!……これほどの魂なら、きっと生贄に足りる……!じゃあ、次は……」

 由羅は最後にするつもりなのだろう。バージルは次に新倉焔へとその手を向けうようとして――ぱしり、と何かが爆ぜるような音が聞こえた。

「おや?」

 バージルは不思議そうに、自らの右手を見る。

「……ああ、なるほど。そういう力もあるんだね、新倉さんには。ぼくはアポートに近い力だけど、君はサイコキネシスに近い力かな?似たような能力者ってなんとなくわかるんだ。何かが視えるだけじゃなくて、そういう力も持ってたなんて意外だな」
「……お褒めに預かりどうも」

 どうやら、焔が何らかの力をもってして、バージルの能力を妨害したということらしい。ただ。

「此処に来て怖気づくのはわかるけど、素直に受け止めて欲しいなあ。君の力は多分、力の種類を変える、方向性をズラすってタイプだと思うんだけど……君は視る方が得意な魔術師だろう?PKの能力だけで比較したら、ぼくの方が圧倒的に強い。多少ズラせても、完全にぼくの力を防ぐことはできない。時間稼ぎにしかならないよ。疲れるようなことはやめよう、ねえ?」

 確かに、バージルはあまりダメージを受けている様子ではない。その“視えない力”の攻防は春にはまるでわからなかったが、それでも強い力の差があることはなんとなく想像がつく。どうするんだ、と春は冷や汗をかいた。同時に、自分はさっきから何をやってるんだ、とも。

――な、なんとかできないのか。もう、二人も殺されたんだぞ。

 やたら冷静に周囲を見ているのは、単なる現実逃避だとわかっていた。体が冷え切って、がくがくと震えて止まらない。あまりにも現実離れした光景から眼を背けたくてたまらない。いくら狙われているのが自分ではないとはいえ、このまま黙って見ていていいなんて道理はないはずだ。そう。
 せめて、焔と由羅だけでも助けなければ。だって自分が、彼等を選んでしまったのだから。

――で、でも!僕は“視る”ことしかできないんだ。バージル様と戦う方法なんかない、武器だってないのに……!

 ああ、駄目だ。全く考えがまとまらない。自分一人だけでも逃げたい、とどこかで思ってしまっている自分が恥ずかしくてたまらない。速人と澪を救えなかった時点でどうしようもなく臆病だというのに――!

「……はっ」

 刹那。
 小さく笑い声が上がった。焔だ。

「そうだな、時間稼ぎにしかならない。俺の力なんて大したことはない。でも」
「でも?」
「その時間稼ぎで、十分だ。……そもそもお前は詰んでいるよ、よりにもよって黒須澪の心臓を捧げてしまった時点でな」
「え」

 きゃあああ、と複数の叫び声が来こえた。部屋で呪文を唱えていた信者達が悲鳴を上げたのだ。

「ひっ!?」

 思わず、その場に尻もちをついていた。春たちの目の前で、びしりびしりと硝子ケースが、ケースが置かれた台座が罅割れ始めたのである。

「そいつを呼び出すのに、一番必要なのは生贄じゃない。……俺が此処に来られたのは、そいつが視ただけで死ぬタイプの神じゃないから。そして、“俺”に対して敵意を向けてるわけでもないから。……叩き起こされてただでさえ不機嫌なのに、邪神の魂なんぞ押しつけられたらそりゃたまったもんじゃないだろう。誰だって怒る、当然だ」
「その通りですね」

 嘘だろう、と思った。焔の言葉に返事をした人物。それは、魔方陣の淵に倒れ伏していたはずの、澪その人であったからだ。心臓を失っているはずなのに、その体はゆっくりと持ち上がっていく。まるで、生き返ったとでも言わんばかりに。

「さすが、新倉焔。貴方には最初から、全て見えていたわけですか」
「ふん」

 澪が生き返ったことに、焔はまったく驚いた様子もない。元から知り合いだったのだろうか。忌々しいと言わんばかりの視線を彼に投げ、すぐ傍にいた由羅の体をそれとなく魔方陣の外に押し出した。そして。

「な、何がどうなって……!?」

 混乱するバージルの目の前に、それ、は姿を現したのである。
 罅割れた台座とガラスケースの隙間から吹き出す、大量の黒い霧となって
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