黒須澪と誘惑の物語

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<23・キュウサイ。Ⅰ>

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 昨日の女性はどうなっただろうか。榛名春はるなしゅんは思いだし、深く深くため息をついた。宗教法人『ロス・ユートピア』が経営する占いの館。そこで占い師として人々の未来を予見し、良い方向に導くというのが春の仕事である。まあ、実際のところその目的はロス・ユートピアという宗教団体の宣伝と布教活動がメインであるわけだったが。

――あのままだと、本当に旦那さんを殺しに行きかねない様子だった。……でも、奥さんが旦那さんを殺すかもしれない、なんて曖昧な情報で警察に通報するわけにもいかないし……。

 占い師、なんて仕事をしていると、時にはクレーマーじみた客に当たることもある。何故なら春の能力は、時に客が見抜いて欲しくない本心や真実を知り、痛いところを突いてしまうことも少なくないからだ。まあ、昨日の客の場合は能力を使わなくても、奥さんの方に問題があるのは明らかであったわけだが。
 山口美穂という女性が、子供を作ることにどこまでも執着し、夫との間に子宝を授かれないことに苦悩しているのはすぐにわかった。それそのものはよくある、そして実に真っ当な悩みであるに違いない。問題は彼女が子供を欲しがっているのが、完全に自分を冷遇してきた両親と姉へのあてつけ目的であったということである。一刻も早く子供を作り、優秀に育てることで彼等を見返してやりたい。そして自分を認めさせてやりたい。そのために、産まれてきた子供を利用しようとしているのは、赤の他人である春から見ても明らかだったのだ。
 きっと夫にもそれが伝わっていたのだろう。子供が生まれたら幸せにできないかもしれない、そう感じたら子作りに消極的になるのも当然と言えば当然である。ましてや妻も夫も既に四十前後の年ともなれば、妻の体と将来を考えてやめておいた方がいいのではと考えるのもごく自然な流れに違いない。残念ながら、都合の良い方向にしか考えられない彼女のような人間に、そんな夫の真っ当な願いは一切届いていなかったようだが。

――道具にする子供を作る為に、疲れていようが風邪ひいてようが毎日行為を強要する。そんなことされたら、いくら奥さんが美人でも倦厭しちゃうよなあ。

 浮気はいけないが、浮気したいと夫が思うようになってしまったとしてもまったくわからない話ではない。もっと言えば、彼女の夫は実際浮気していたかどうかはかなり怪しいところである。彼女の話を聞く限り、相当倫理観が強く大人しい性分の人物であったようだ。不倫なんて行為に走る度胸があったかどうか。妻と距離を取るための手段は、何も浮気することだけではないはずなのである。それこそ、実際やらなくてもいい仕事を背負い込んで家にいる時間を減らす、とか。遊び歩く場所だって、キャバクラのような場所とは限らないはずだ。
 浮気を示す証拠は一切ないのに、彼女は夫が浮気したと思い込んで断罪を希望していた。いくら仕事とはいえ、たかが二千円ぽっち払ってもらっただけで呪殺に手を貸すなど本末転倒である。というか、美穂に告げたことばに嘘は一つもないのだ。他人を呪う方法は知っていても、呪い“殺す”までできる方法は持っていないし知らない。教えろ、と詰められても無理だとしか言いようがないのだ。

――せめて、冷静な第三者が間に入って仲介してくれたらいいんだろうけど。……そう簡単に行く話でもないんだろうなあ。

 カーテンで仕切られた部屋は、エアコンがきいていて存外快適だ。次の客の予約時間まで、あと五分。ううん、と少し大きく伸びをする春だった。人と話すのも嫌いじゃないし、狭い場所も落ち着く。一部のクレーマーの存在と、布教活動の側面さえなければ非常に性に合った仕事ではあった。貴方は占いの道を究めるべきよ、と真剣な眼で言ったお師匠様を思い出す。自分でも、生きていく道はそれしかないだろうなとは思っている。
 紫のテーブルクロスがかかった丸テーブルに、大きな水晶が一つ。それを覗き込んで、客の本質を見抜き、未来を導くのが春の仕事だった。客は自分が話してもいないことを正しく認識し、アドバイスをする春に感謝してくれる。人と話すのは楽しいし、人が喜んでくれる姿を見るのは嬉しい。元々は個人サイトで細々と活動していた春の能力を見込んで教団がスカウトしてきたのは、ほんの二年ほど前のことだった。胡散臭い教団ではあるが、環境は悪くないし給料もいい。元々住んでいたのが東京だったので引っ越しの必要には迫られたが、それ以外は破格の待遇と言っても良かった。
 何より、彼らの元に本物がいた、というのが大きいのである。幹部の一人が、春を見てこう言ったのだ。

『君、本当は水晶玉なんて必要ないよね?』

 その一言が、決定打と言っても過言ではない。
 実際、春が水晶玉を用意しているのは完全にただのポーズである。春の占いは本来、水晶玉もタロットカードも必要としないものだ。ただ相手の眼を見て、声を聴くだけで多くののことが読み取れる。映像からもある程度のことが“視える”。場合によってはそこから縁が繋がっているものも。――まあ、残念ながら死者の類が見えるような能力ではないので、霊能力とはちょっとベクトルが違うらしいが。

――できれば、インチキじゃなくて、本物の占い師だと思った上で雇って欲しいもんな。

 自分の能力が、本当に“占い”と呼ばれるものなのかはわからないがそれはそれ。一番大事なのは、春が占い師であるかどうかではなく、それによって誰かを助けることができるかどうかなのだ。
 勉強はそこそこできたが、はっきり言って他に取り柄らしい取り柄もなかった春である。いつも、自分が持っていない才能を持っている人達に憧れ、自分も彼等にように誰かの役に立ちたいと願い続けてきたのだ。ちょっと勇気を出して出来ることを全力でやれば、それだけで自分よりずっと凄い人達が喜んでくれる、感謝をしてくれる。お師匠様に弟子入りしたのもそういう経緯だった。己のこんなささやかな能力であっても、誰かの笑顔の糧となるならそんなに嬉しいことはないのである。
 まあ、今の職場を運営する宗教団体が、どこまで真っ当な組織かというと――少々怪しい、としか言いようがないのだが。いかんせん、どんな神様を信仰しているのか、資金源がどこなのかもさっぱり分からないのである。やや強引にお布施を集めているなんて話も聴いている。間接的とはいえ、そんな教団に加担していいものかどうか。全部噂でしかないと、今日まで流してきたのだけれど。

「榛名さん、次の予約の方がお見えになりましたよ」
「あ、はい!」

 受付のアルバイトが呼びに来て、慌てて春は顔を上げた。準備はできてるんでどうぞと言えば、すぐに一人の若い男性が入室してくる。

「こんにちは。どうも、僕がこの館の主である“榛名春”と言います。おかけになってください」
「……ああ」

 二十代前半から半ばくらい、だろうか。眼鏡の奥の眼光は鋭く、どこかぎらぎらと輝いている。整ったやや童顔に位置する顔立ちにはやや険しい色を乗せているが、やつれているといった気配はない。おや、と春は少しだけ意外に思った。この館の利用者は圧倒的に女性が多いというのもあるが、それだけではない。
 大抵の客は、自力では解決できない問題や悩みを抱えて抱えて抱えて抱えきれなくなって、その果てに占いを頼ることが多いのだ。つまり、睡眠不足で顔色が悪かったり、目が充血していることが少なくないのである。しかしこの青年は、そこまで追い詰められている様子もない。この暑い中黒いコートを着込んでいるのは、少々異質と言えなくもなかったけれど。

――何だろう、この人……。

 何か、探し物をしていてこちらに足を運んだ。それはすぐに分かった。ただ、占いなんて不明瞭なものを頼るほど夢想家とは思えない。
 彼の背後に見える、いくつもの糸とその行方。それが、何か大きく関係しているのだろうか。

「えっと……新倉焔にいくらほむらさん、ですよね?読み方間違ってたら言ってください、漢字しか見えてないので」

 名乗らなくても相手の名前は見えるが、振り仮名までわかるわけではない。素直にそう告げると彼は“あっている”と口にした。

「えっと、探し物をしているようですけど、何で占いなんですか?探偵などでは見つからないと思ったんでしょうか」

 こういう相手には、ストレートに疑問をぶつけた方がよさそうだ。春がそう口にすると、焔は。

「……なるほど。本物らしいな、あんたは。あと、水晶玉は飾りと見た」
「バレバレですか」
「あんたがずっと見ていたのは俺の顔と俺の“後ろ”だからな。水晶はちらりと一瞥しただけだ。素人でもわかる」
「う……気を付けます」

 ポーズだとバレないように気を使ってはいたが、どうやらまだまだということらしい。別に水晶玉が飾りだとわかっても、相手の信用を損ねなければ特に問題はないのだけれど。

――ていうか、やっぱり。この人もあれか、見えるタイプか。

 彼の後ろに、何かが覆いかぶさっているように見える。ただ、それが“凄い力の何か”であることしか春にはわからなかった。元より、自分の力は人あらざるものを見抜くものではなく、生きている人間を見抜くものであるのだから。凄まじい力を感じても、それが正者か死者かも定かではない。あまり深く突っ込んで訊かない方がいい類だろうか。

「いくつか、質問させていただきますね。貴方は探し物をされている。それは……貴方が望まずして縁を切ってしまった大切な方と関係がある」
「当たりだ」
「……糸がとても綺麗で、貴方と密接に絡みついているのを見るに……ご家族でしょうか。色がよく似ていることからして魂の双子……位置からするに、貴方の妹さん、かな?亡くなられたのですよね。それも不慮の事故、のようなもので」
「そこまで分かるか。流石だな」

 その妹にまつわるものを探している。その探し物はなんだろう、と彼の後ろから伸びる糸をさらに観察した。
 春には、人が結んでいる縁を見る力がある。その位置や形状から、その人の現状を推察するのが主な“霊視”の方法だった。糸が繋がれている位置やその途切れ方から、経験則で大体のことが読み取れる。だからこそ、彼の“妹”との糸の途切れ方が非常に気になった。
 縁を自分から千切ったわけではない。彼は、妹や家族以外との縁は近年意図的に千切って回っているようだが、妹のそれは違う。切れたのは、数年前。寿命や病気で死んだのならばその先はボロボロにほつれている。殺人事件などで殺されたならそれはすっぱり刃物で切断されたような形状になる。――しかし、彼女のそれは。

――引き潰された、よう。……事故死に近いからそう言ったけど、これ正確には違うっぽいな。

 潰されて、殺された?いや、それにしては人為的ではないし、何かかび臭さが漂う。もしや、これは。

「――っ!」

 思わず、息を呑んだ。その糸の向こうにうっすらと茶色の壺を幻視したからである。おぞましい力。残滓だけで、これほど背筋を泡立たせるとは。

「……だ、駄目です!」

 自分の立場も忘れて、叫んでいた。

「そ、その“鬼”は、追いかけてはいけません。危険すぎます。に、人間が敵うような相手ではありませんよ……!!」

 彼に、悪いものが取り憑いているわけではない。恐らく憑依されていたのは彼の妹で、自分は縁を辿ってその気配をうっすら見ただけに過ぎないだろう。生きた“妹”に憑いていなければ、自分の“眼”が捉えるようなこともなかったはずである。むしろ、力の弱い存在ならばこんな具体的に像を結ぶこともなかったはずだ。
 それが、ここまで存在感が強いとは。
 今まで取り憑かれている気配がするような人間には何度かお目にかかったことがあるが――はっきり言ってこれは、規格外としか言いようがない。相手が悪すぎる。

「……そんなことは百も承知だ。それでも俺は、あいつを追いかけなくちゃいけない。妹の仇を取る為にな」

 がくがくと震える春を見て、自分の望む情報が手に入らないと察したのか焔はため息をついた。

「その様子だと、壷鬼がいる場所まではわからないか」
「む、無理です、そんな……っ」
「まあ、わかっても、あんたは教えてくれないんだろうな。お人よしが透けている」

 だからこちらからも忠告しておくよ、と彼は立ち上がりながら言ったのである。

「この職場、一刻も早く離れた方がいい。悪いことは言わない……このままだとあんたは、とんでもない災厄に巻き込まれることになるぞ」
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