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<22・ジュサツ。Ⅲ>
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空にはまだ青い色が見えるが、スカイラインを登れば登るほど周囲の霧は濃くなっていった。この暑い時期にこれだけ霧が出るのは珍しいのではなかろうか。それとも富士山にはこういうこともよくあることなのか。登山に関して知識がない美穂には、そのあたりのことがまったくよくわからなかった。
澪はワゴン車を、御殿場口の第三駐車場に停めた。登山ルートの新五合目とは少しばかり離れているせいか、車はまばらで人影はほとんどない。
「いい天気!」
やや霧がかかっているが、この駐車場は非常に眺めが良い場所に位置していた。青々とした山並みに生える青い空。自分達が辿ってきたスカイラインを見下ろして思わず美穂は呟く。
「呪いに来た、にしてはちょっと勿体ない景色かも」
同じことを思ったらしい彩花が呟く。
「まあ、呪殺は成功させるんだけど。許せない奴には、きっちり天誅を下してやらないと。ねえ、山口さん?」
「え。ええ。そうね」
思いあがった挙句、嫉妬で作家を殺そうとしているだけのあんたと一緒にしないでくれ。心の中ではそう思ったが、勿論表に出すことはない。このテの思いこみの強いタイプは、敵に回すと非常に厄介だと知っていた。曖昧に笑って、適当にやり過ごしておくに限るのだ。
そしてもう一人の“客”である善一には、別の感慨があったらしい。少し涙声になって、いい眺めだなあ、と呟いている。
「こういうところに家族で来て見たかった……うう、康子《やすこ》、秋乃《あきの》、どうして、どうして……」
こっちもこっちで触ると面倒そうである。自分はジジイの介護に来たわけではないのだから。ちらり、と澪を由羅の方を見れば、彼女達は手にコンパスのようなものを持って周囲を探っているようだった。登山道に用があるわけではないのは、こちらの駐車場に停めたことからしても明らかである。一体何を探しているのだろう。
「ああ」
声をかけようとした時、まるで図ったように澪が振り返った。その顔に、いつもの笑みを貼りつけて。
「見つけましたよ、皆さんこちらに来てください」
ちょんちょん、と手招きをする澪。なんだなんだと近づいてみれば、二人は駐車場の端の端で待機している。その向こうは森と崖しかないだろうと思っていた美穂は驚いた。駐車場の角に、ぽっかりと四角い穴が空いていたからである。そこにはうっすらと結露した灰色の階段があった。どうやら、地下に続いているということらしい。
「富士山のこんなところに地下道?聴いたこともないんだけど」
眉をひそめて言う彩花。すると澪は“それはそうでしょうね”と頷いて見せた。
「普段は塞がってますし、立ち入り禁止ですから。一部の修験者のみが通ることを許される、特別な道だそうですよ。……明かりはありますが、足元が暗いので十分に気を付けて降りてください。私が先導しますので」
「暗いのは苦手なんだけど……」
「ご心配なく、さほど長い道ではありませんので」
ぐちぐち言う彩花をスルーして、さっさと澪は階段を下りていってしまう。
「私がしんがりになります。皆さん、お先にどうぞ」
ずっと静かにしていた由羅という助手が、さあ、と美穂達を促した。ここでぐずぐずしていても仕方ない。あの男に思い知らせてやるために、自分はここまで来たのだから。意を決して、美穂は澪の後ろに続いた。暗い階段の底からは、ひんやりとした冷気が漂ってくる。今が夏場だからいいが、これが冬だったらキツい思いをしたことだろう。コンクリートの階段は結露していて滑りやすい。手すりはないので、壁に捕まりながら慎重に降りていく。
幸いにして階段はすぐ終わり、無機質なコンクリートの打ちっぱなしの壁に覆われた通路が目に入ることになる。点々と灯るランタンの明かりのおかげで完全な闇ではないが、一つ一つの光は弱く、足元を照らすには心もとない。しかも、壁も床も冷気のせいで冷え切っていて、あちこち湿っているようだ。転ばないように気を付けつつ、前へ前へと進んでいく。振り向いてみれば文句を言っていた彩花、高齢者の善一、助手の由羅も後ろからちゃんとついてきているようだった。
さほど長い道ではない、というのは本当だったようだ。
数分も歩けば、もう行き止まりに到着する。赤茶けた鉄製の扉の前で澪が待っていた。
「この向こうです。霊峰富士、その最も霊力が集まる空間がこの先にあります」
澪は穏やかな声で説明すると、その扉に手をかけてみせた。どうやら鍵はかかっていないらしい。やや錆びた重そうな扉が、ぎぎぎぎぎ、と鈍い音を立てて開いていく。その向こうに現れた光景に、思わず美穂は息を呑んだ。
「ど、何処、此処……!?」
森の中だ。それはわかる。しかしどこもかしこも真っ白な霧に覆われ、空を見ることさえ叶わない。木々の向こうからはうっすらと白い光が射しこんでいるように見え、天高く伸びる樹木の根本にはぽつぽつと淡い紅色の光が灯っていた。まるで、妖精でも佇んでいるかのように。
扉の外に出てみれば、やはり駐車場にいた時とは段違いに涼しい。まるで、異空間にでも迷いこんでしまったかのようだった。
「富士山にこんな場所があったのか……!」
「凄い!まるで異世界だわ!!」
善一と彩花も、それぞれ別方向にはしゃいでいるようだった。ふと振り返ってみれば、由羅が黒い手袋のようなものを嵌めている。そして、適当な樹の根元にしゃがみ込んだ。
「何してるの?」
思わず美穂が声をかけると、由羅は振り返ることなく“必要なんです”と言った。
「これが、儀式のために必要なものなのだと澪さんが」
手にもった籠の中に、足元の赤い光を拾っては入れるということを繰り返している。彼女が光を三つ集めたところで、こっちですよ、と澪が声をかけてきた。
「大体このあたりでいいでしょう。皆さん、このシートの上に座ってください」
澪は地面に大きなブルーシートを敷くと、向かい合う形になるように座って欲しいと客たちを促した。美穂は靴を脱ぐと、言われた通り善一、彩花と三角形の形に向かい合って正座する。澪は自分も手袋を嵌めると、樹木の下から赤い光を一つ拾って三人の中心に置いた。
それは、美穂の拳より二回りほど小さな物体であるようだった。螢のように、柔らかい赤い光を放っている。非常に幻想的で、うっとりするほど美しかった。
「それが力の源です。真ん中においたやつには触らないでくださいね」
「は。はい」
「儀式のやり方はけして難しくありません。一時的にこの光の力をもって、皆さんの霊力を高め、呪詛を成功させます。今から一つずつ光をお渡ししますので、せえの、で即座に飲み込んでください。そうしたら目を閉じて両手を合わせて、憎い相手の名前を三回唱え、恨みを思い出しながら強く強く呪い殺したいと念じるのです。いいですね?」
「わ、わかりました」
此処まで来たら、躊躇う必要も何もない。子供が欲しくてたまらない自分を無下にして、子供なんかいなくてもいいとぬけぬけと言ってのけたあの男。苦しんでいる自分を無視して浮気に走ったクズに、なんとしてでも思い知らせてやらなければ。
由羅から、一つずつ赤い光が手渡される。全員に行きわたると、さあ飲み込んでください、と澪から合図が出た。迷うことなく、美穂はその物体を口に入れる。むにり、とゴムのような柔らかい感触を覚えた。歯で噛むと、じわりと肉汁のようなものが溢れだしてくる。一口で飲み込みきれなかったため、何度か噛み砕いてから咀嚼した。なんだろう、口の中が熱いような、胃袋がほかほかするような不思議な感覚だ。
「それでは、念じてください」
言われるがまま、美穂は両手を合わせて祈りを捧げる。孝則が、少しでも苦しんで死にますように。死ぬ直前に自分への行いを後悔し、懺悔しますように。そして、あんなクソな姉や両親が、少しでも自分のことを認めますように。それから、それから。あんなクズどもよりも最高のパートナーを見つけて、幸せになる道が開かれますように――!
目を閉じ、訪れた真っ暗な闇の中。ぽっかりと浮かびあがったのは、倒れ伏す夫の姿だった。胸を抑え、泡を吹きながら苦しげにのた打ち回っている。何度も何度も繰り返すのは、美穂への贖罪の言葉だ。なんといい気味だろう。ああ、この場所は夫の務め先からは遠く離れている。彼が死んでいく様を、リアルタイムで見ることができないことだけが残念で仕方ない。
――苦しんで、苦しんで、苦しんで死んでいきなさい!私の苦しみは、こんな程度じゃないんだから……!
そこまで思った時だった。ふと、聴覚が奇妙な音を捉える。それは、人の呻き声だった。やがて、その声ははっきりとした言葉に代わる。そう。
「い、痛い……く、口が、お腹が……っ」
え、と思って思わず目を開いた。そして唖然とすることになるのである。
目の前で、彩花が体をくの字に折り曲げて苦しんでいた。痛い、痛い、と右手で口を、左手でお腹を押さえている。
「ど、どうし」
そう思った瞬間、地鳴りのような音が響いた。それが彩花の腹の音と放屁音であると察した次の瞬間、凄まじい悪臭が鼻をついて出ることになる。
「げ、げえええええ!」
彼女はひっくり返って、ビニールシートの外に嘔吐していた。そのスカートの尻部分が、びしゃびしゃと茶色のもので濡れていく。突然の嘔吐と下痢。一体何がどうしてそうなった、と思った時。ひぎゅ!?と潰れたカエルのような声が。
「い、いたっ……て、て手が、口がっ」
「え、え!?」
善一もだった。彼の場合は、右手も痛むのか、左手で手首を掴んで悶絶している。見ればその手はアレルギーでも起こしたかのように真っ赤に腫れ上がっていた。
何かがおかしい。そう思った瞬間、雷が落ちるような音が自分の腹の中からも聞こえてきた。次の瞬間、下腹部から突き上げるような激痛が。
「ぎ、ごぼぼぼぼぼぼぼおおおおおおっ!?」
痛い。痛いなんてものではない。気づけば美穂も同じように大量に嘔吐していた。我慢する暇もなく、尻の方もびしゃびしゃと濡れていく。人生でかつて味わったこともない、おぞましい苦痛。口の中も、手も、爛れるように痛い。何より腹が、まるで生きたまま腸を喰い散らかされているように痛む。
――な、なん、なんで、なにが、なにがっ!?
壊れたように、嘔吐と下痢が止まらない。真っ赤に染まる視界で美穂は、ビニールシートに置かれたままになっている“それ”をようやく目にした。自分達三人の中心に鎮座していた“光”は、今や光を失って大本だけを晒している。
そう。
まるで珊瑚のような形をした、真っ赤な物体。
――う、嘘、でしょ?
それが、至上最強にして最悪と呼ばれる毒キノコであると気づいた瞬間、口の中にさっきまでまったく気づいていなかった強烈な苦みが広がった。どうして、自分達はわからなかったのだろう。あれを、神聖なものだと勘違いしたのだろう。
いや。そもそも、彼女達はなぜ、そんな恐ろしいものを自分達に喰わせたのか。念入りに手袋をして採集していた時点で気づいていなかったはずがないのに。
「柿本善一さん。貴方は、自分のモラルハラスメントで妻を間接的に死に追いやっておきながら反省することもなく、残った家族に当たり散らした。老人ホームに入れて貰えるだけ、まだ有情だったというのに」
どこか楽しげに語る、澪の声がする。
「目白彩花さん。貴女はろくに小説を書く勉強もせず、誰かのアドバイスに耳を傾けることもなく、己の実力に思い上がるばかり。終いには、才能のあった別の若手作家に嫉妬して、彼女が自分の栄光を邪魔しているとばかり思い込んだ。己がするべき努力をしなかったことも棚上げして」
そうじゃない、とでも言いたいのか。ううう、と彩花が言葉にならない声で呻いている。そんな彼女を、籠を持ったままの由羅が冷たく見下ろしていた。
「そして、山口美穂さん。貴女は己の子供さえ家族を見返す道具にしようとした。そして子供ができないことを夫に責任転嫁し、ストレスを与え続けていた。それで少しばかり距離を取っただけの彼を、証拠もないのに浮気者扱い。本当に一番苦しんでいたのは貴女ではないというのに!……いやはや、人間とは実に醜く、興味深い生き物ですね」
違う、そんなんじゃない。吐瀉物にまみれた歯を食いしばりながら美穂は思う。自分は間違ってない。あの男は本当に浮気をしていたはずなのだ。こんな風に、苦しんで死ぬべきは自分ではなく、孝則であるべきで――。
「皆さんの情報は有効活用させていただきますよ。罪なき人間を、己の欲望のまま殺そうとした……その愚かさの代償。たっぷり味わって、地獄に堕ちてください。どうせ、この“どこでもない空間”では、貴女がたの遺体さえ誰にも見つけては貰えないのですから」
こんな理不尽、おかしい。自分は何も悪いことなどしていないはずなのに。
叫ぼうとした声は呻き声にしかならず、ついに美穂はぐるんと眼球を裏返して、意識を飛ばしたのだった。最後まで、己の罪を認めることもないままに。
澪はワゴン車を、御殿場口の第三駐車場に停めた。登山ルートの新五合目とは少しばかり離れているせいか、車はまばらで人影はほとんどない。
「いい天気!」
やや霧がかかっているが、この駐車場は非常に眺めが良い場所に位置していた。青々とした山並みに生える青い空。自分達が辿ってきたスカイラインを見下ろして思わず美穂は呟く。
「呪いに来た、にしてはちょっと勿体ない景色かも」
同じことを思ったらしい彩花が呟く。
「まあ、呪殺は成功させるんだけど。許せない奴には、きっちり天誅を下してやらないと。ねえ、山口さん?」
「え。ええ。そうね」
思いあがった挙句、嫉妬で作家を殺そうとしているだけのあんたと一緒にしないでくれ。心の中ではそう思ったが、勿論表に出すことはない。このテの思いこみの強いタイプは、敵に回すと非常に厄介だと知っていた。曖昧に笑って、適当にやり過ごしておくに限るのだ。
そしてもう一人の“客”である善一には、別の感慨があったらしい。少し涙声になって、いい眺めだなあ、と呟いている。
「こういうところに家族で来て見たかった……うう、康子《やすこ》、秋乃《あきの》、どうして、どうして……」
こっちもこっちで触ると面倒そうである。自分はジジイの介護に来たわけではないのだから。ちらり、と澪を由羅の方を見れば、彼女達は手にコンパスのようなものを持って周囲を探っているようだった。登山道に用があるわけではないのは、こちらの駐車場に停めたことからしても明らかである。一体何を探しているのだろう。
「ああ」
声をかけようとした時、まるで図ったように澪が振り返った。その顔に、いつもの笑みを貼りつけて。
「見つけましたよ、皆さんこちらに来てください」
ちょんちょん、と手招きをする澪。なんだなんだと近づいてみれば、二人は駐車場の端の端で待機している。その向こうは森と崖しかないだろうと思っていた美穂は驚いた。駐車場の角に、ぽっかりと四角い穴が空いていたからである。そこにはうっすらと結露した灰色の階段があった。どうやら、地下に続いているということらしい。
「富士山のこんなところに地下道?聴いたこともないんだけど」
眉をひそめて言う彩花。すると澪は“それはそうでしょうね”と頷いて見せた。
「普段は塞がってますし、立ち入り禁止ですから。一部の修験者のみが通ることを許される、特別な道だそうですよ。……明かりはありますが、足元が暗いので十分に気を付けて降りてください。私が先導しますので」
「暗いのは苦手なんだけど……」
「ご心配なく、さほど長い道ではありませんので」
ぐちぐち言う彩花をスルーして、さっさと澪は階段を下りていってしまう。
「私がしんがりになります。皆さん、お先にどうぞ」
ずっと静かにしていた由羅という助手が、さあ、と美穂達を促した。ここでぐずぐずしていても仕方ない。あの男に思い知らせてやるために、自分はここまで来たのだから。意を決して、美穂は澪の後ろに続いた。暗い階段の底からは、ひんやりとした冷気が漂ってくる。今が夏場だからいいが、これが冬だったらキツい思いをしたことだろう。コンクリートの階段は結露していて滑りやすい。手すりはないので、壁に捕まりながら慎重に降りていく。
幸いにして階段はすぐ終わり、無機質なコンクリートの打ちっぱなしの壁に覆われた通路が目に入ることになる。点々と灯るランタンの明かりのおかげで完全な闇ではないが、一つ一つの光は弱く、足元を照らすには心もとない。しかも、壁も床も冷気のせいで冷え切っていて、あちこち湿っているようだ。転ばないように気を付けつつ、前へ前へと進んでいく。振り向いてみれば文句を言っていた彩花、高齢者の善一、助手の由羅も後ろからちゃんとついてきているようだった。
さほど長い道ではない、というのは本当だったようだ。
数分も歩けば、もう行き止まりに到着する。赤茶けた鉄製の扉の前で澪が待っていた。
「この向こうです。霊峰富士、その最も霊力が集まる空間がこの先にあります」
澪は穏やかな声で説明すると、その扉に手をかけてみせた。どうやら鍵はかかっていないらしい。やや錆びた重そうな扉が、ぎぎぎぎぎ、と鈍い音を立てて開いていく。その向こうに現れた光景に、思わず美穂は息を呑んだ。
「ど、何処、此処……!?」
森の中だ。それはわかる。しかしどこもかしこも真っ白な霧に覆われ、空を見ることさえ叶わない。木々の向こうからはうっすらと白い光が射しこんでいるように見え、天高く伸びる樹木の根本にはぽつぽつと淡い紅色の光が灯っていた。まるで、妖精でも佇んでいるかのように。
扉の外に出てみれば、やはり駐車場にいた時とは段違いに涼しい。まるで、異空間にでも迷いこんでしまったかのようだった。
「富士山にこんな場所があったのか……!」
「凄い!まるで異世界だわ!!」
善一と彩花も、それぞれ別方向にはしゃいでいるようだった。ふと振り返ってみれば、由羅が黒い手袋のようなものを嵌めている。そして、適当な樹の根元にしゃがみ込んだ。
「何してるの?」
思わず美穂が声をかけると、由羅は振り返ることなく“必要なんです”と言った。
「これが、儀式のために必要なものなのだと澪さんが」
手にもった籠の中に、足元の赤い光を拾っては入れるということを繰り返している。彼女が光を三つ集めたところで、こっちですよ、と澪が声をかけてきた。
「大体このあたりでいいでしょう。皆さん、このシートの上に座ってください」
澪は地面に大きなブルーシートを敷くと、向かい合う形になるように座って欲しいと客たちを促した。美穂は靴を脱ぐと、言われた通り善一、彩花と三角形の形に向かい合って正座する。澪は自分も手袋を嵌めると、樹木の下から赤い光を一つ拾って三人の中心に置いた。
それは、美穂の拳より二回りほど小さな物体であるようだった。螢のように、柔らかい赤い光を放っている。非常に幻想的で、うっとりするほど美しかった。
「それが力の源です。真ん中においたやつには触らないでくださいね」
「は。はい」
「儀式のやり方はけして難しくありません。一時的にこの光の力をもって、皆さんの霊力を高め、呪詛を成功させます。今から一つずつ光をお渡ししますので、せえの、で即座に飲み込んでください。そうしたら目を閉じて両手を合わせて、憎い相手の名前を三回唱え、恨みを思い出しながら強く強く呪い殺したいと念じるのです。いいですね?」
「わ、わかりました」
此処まで来たら、躊躇う必要も何もない。子供が欲しくてたまらない自分を無下にして、子供なんかいなくてもいいとぬけぬけと言ってのけたあの男。苦しんでいる自分を無視して浮気に走ったクズに、なんとしてでも思い知らせてやらなければ。
由羅から、一つずつ赤い光が手渡される。全員に行きわたると、さあ飲み込んでください、と澪から合図が出た。迷うことなく、美穂はその物体を口に入れる。むにり、とゴムのような柔らかい感触を覚えた。歯で噛むと、じわりと肉汁のようなものが溢れだしてくる。一口で飲み込みきれなかったため、何度か噛み砕いてから咀嚼した。なんだろう、口の中が熱いような、胃袋がほかほかするような不思議な感覚だ。
「それでは、念じてください」
言われるがまま、美穂は両手を合わせて祈りを捧げる。孝則が、少しでも苦しんで死にますように。死ぬ直前に自分への行いを後悔し、懺悔しますように。そして、あんなクソな姉や両親が、少しでも自分のことを認めますように。それから、それから。あんなクズどもよりも最高のパートナーを見つけて、幸せになる道が開かれますように――!
目を閉じ、訪れた真っ暗な闇の中。ぽっかりと浮かびあがったのは、倒れ伏す夫の姿だった。胸を抑え、泡を吹きながら苦しげにのた打ち回っている。何度も何度も繰り返すのは、美穂への贖罪の言葉だ。なんといい気味だろう。ああ、この場所は夫の務め先からは遠く離れている。彼が死んでいく様を、リアルタイムで見ることができないことだけが残念で仕方ない。
――苦しんで、苦しんで、苦しんで死んでいきなさい!私の苦しみは、こんな程度じゃないんだから……!
そこまで思った時だった。ふと、聴覚が奇妙な音を捉える。それは、人の呻き声だった。やがて、その声ははっきりとした言葉に代わる。そう。
「い、痛い……く、口が、お腹が……っ」
え、と思って思わず目を開いた。そして唖然とすることになるのである。
目の前で、彩花が体をくの字に折り曲げて苦しんでいた。痛い、痛い、と右手で口を、左手でお腹を押さえている。
「ど、どうし」
そう思った瞬間、地鳴りのような音が響いた。それが彩花の腹の音と放屁音であると察した次の瞬間、凄まじい悪臭が鼻をついて出ることになる。
「げ、げえええええ!」
彼女はひっくり返って、ビニールシートの外に嘔吐していた。そのスカートの尻部分が、びしゃびしゃと茶色のもので濡れていく。突然の嘔吐と下痢。一体何がどうしてそうなった、と思った時。ひぎゅ!?と潰れたカエルのような声が。
「い、いたっ……て、て手が、口がっ」
「え、え!?」
善一もだった。彼の場合は、右手も痛むのか、左手で手首を掴んで悶絶している。見ればその手はアレルギーでも起こしたかのように真っ赤に腫れ上がっていた。
何かがおかしい。そう思った瞬間、雷が落ちるような音が自分の腹の中からも聞こえてきた。次の瞬間、下腹部から突き上げるような激痛が。
「ぎ、ごぼぼぼぼぼぼぼおおおおおおっ!?」
痛い。痛いなんてものではない。気づけば美穂も同じように大量に嘔吐していた。我慢する暇もなく、尻の方もびしゃびしゃと濡れていく。人生でかつて味わったこともない、おぞましい苦痛。口の中も、手も、爛れるように痛い。何より腹が、まるで生きたまま腸を喰い散らかされているように痛む。
――な、なん、なんで、なにが、なにがっ!?
壊れたように、嘔吐と下痢が止まらない。真っ赤に染まる視界で美穂は、ビニールシートに置かれたままになっている“それ”をようやく目にした。自分達三人の中心に鎮座していた“光”は、今や光を失って大本だけを晒している。
そう。
まるで珊瑚のような形をした、真っ赤な物体。
――う、嘘、でしょ?
それが、至上最強にして最悪と呼ばれる毒キノコであると気づいた瞬間、口の中にさっきまでまったく気づいていなかった強烈な苦みが広がった。どうして、自分達はわからなかったのだろう。あれを、神聖なものだと勘違いしたのだろう。
いや。そもそも、彼女達はなぜ、そんな恐ろしいものを自分達に喰わせたのか。念入りに手袋をして採集していた時点で気づいていなかったはずがないのに。
「柿本善一さん。貴方は、自分のモラルハラスメントで妻を間接的に死に追いやっておきながら反省することもなく、残った家族に当たり散らした。老人ホームに入れて貰えるだけ、まだ有情だったというのに」
どこか楽しげに語る、澪の声がする。
「目白彩花さん。貴女はろくに小説を書く勉強もせず、誰かのアドバイスに耳を傾けることもなく、己の実力に思い上がるばかり。終いには、才能のあった別の若手作家に嫉妬して、彼女が自分の栄光を邪魔しているとばかり思い込んだ。己がするべき努力をしなかったことも棚上げして」
そうじゃない、とでも言いたいのか。ううう、と彩花が言葉にならない声で呻いている。そんな彼女を、籠を持ったままの由羅が冷たく見下ろしていた。
「そして、山口美穂さん。貴女は己の子供さえ家族を見返す道具にしようとした。そして子供ができないことを夫に責任転嫁し、ストレスを与え続けていた。それで少しばかり距離を取っただけの彼を、証拠もないのに浮気者扱い。本当に一番苦しんでいたのは貴女ではないというのに!……いやはや、人間とは実に醜く、興味深い生き物ですね」
違う、そんなんじゃない。吐瀉物にまみれた歯を食いしばりながら美穂は思う。自分は間違ってない。あの男は本当に浮気をしていたはずなのだ。こんな風に、苦しんで死ぬべきは自分ではなく、孝則であるべきで――。
「皆さんの情報は有効活用させていただきますよ。罪なき人間を、己の欲望のまま殺そうとした……その愚かさの代償。たっぷり味わって、地獄に堕ちてください。どうせ、この“どこでもない空間”では、貴女がたの遺体さえ誰にも見つけては貰えないのですから」
こんな理不尽、おかしい。自分は何も悪いことなどしていないはずなのに。
叫ぼうとした声は呻き声にしかならず、ついに美穂はぐるんと眼球を裏返して、意識を飛ばしたのだった。最後まで、己の罪を認めることもないままに。
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