黒須澪と誘惑の物語

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<21・ジュサツ。Ⅱ>

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 登山なんて出来ないわよ、というのは素直に伝えた。美穂自身、もう四十代で若いわけではないし、元々体育会系とはほど遠い。学生時代も、運動部に所属したことなど一度もなかった。そんな人間が、いきなり富士登山など出来るはずもない。知識なんてこれっぽっちもないが、日本一の山が登山初心者向けとは到底思えないから尚更である。

『そこはご安心下さい。あくまで車で登るだけです。富士山の場合、五合目までは車で問題なく行けますからね』

 澪、という呪術師曰く。なんでも富士山には、特別なエネルギーが満ちているということらしい。確実に呪殺を成功させたいならば、そういった霊力の強い場所に足を運ぶのが一番簡単なのだそうだ。

『勿論、登山なんかしなくても呪殺ができるケースもありますが。そういうのは大概、よほど霊的な資質が高い方がやった場合に限られます。私はその道には明るいですが、山口さんのご主人とは一切面識もなく縁もありません。呪いとは、縁があるものがかけてこそ強い効果を示すもの。確実性を求めるならやはり、山口さん自身が行うのが最も簡単でしょう』

 胡散臭いとは思うが、確かに実際に呪い殺すなら他人任せにせず自分の手でやりたいとは思っていた。あの榛名春とかいう占い師にも“呪い殺してくれ”ではなく“呪殺のやり方を教えてくれ”と頼んだのはつまりそういうことである。
 自分の苦しみは、自分の手で晴らしてこそ意味があるものだ。
 霊的な能力がない自分がそれを補うため、というのなら。富士山に登るくらい、特に大きな対価ではないように思われた。お金も取らないというのなら尚更である。
 彼女が要求してきたのはただ一つ。あの、榛名春と、彼が所属しているという宗教団体『ロス・ユートピア』に関する情報のみだった。どうやら彼女の事業を例の教団が邪魔していて、大層困っているということらしい。商売敵の情報は少しでも欲しいとのことだった。――なるほど、あの占いの館から出てきた美穂に声をかけたのはそういうわけであったらしい。

――ま。そんな話だけで、予約もなくタダで呪殺が出来るんだから儲けものよね。

 そんな上手い話があるはずがない。普通はそう疑って然るべきところだろうが、何故か美穂は目の前の女の力を疑っていなかった。女の直感とも言うべきか。彼女はきっと本物に違いない、という確信があったのである。強者を嗅ぎ分ける本能、とやらに近いものがあるかもしれない。
 同時に。彼女だけが、夫を憎たらしいと思う美穂の気持ちに寄り添ってくれたというのもある。流れのまま、いかに孝則が自分に酷いことをしてきたのかを語れば、彼女は涙ぐむ美穂を抱きしめて優しく囁いてくれたのだった。

『わかります。貴女は本気で、彼を愛して尽くしてきたのですね。彼とともに、温かな家庭を築き、幸せになりたかった。ただ、それだけだったのですよね。自分の子供を作り、立派に育て上げ、自分を苦しめてきた両親や姉に復讐する……そうしなければ幸せを掴むことができない。そのように貴女を追い詰めたのは全て貴女の不理解な両親と姉、そして夫なのですね』
『そう、そうなの!私は、私はこんなに苦しんでいるのに誰も理解してくれないのよ……!』
『可哀想に。……大丈夫。呪いを成功させれば、きっと貴女にはもっと良い縁が見つかります。みんなが貴女を認めてくれるようになるに違いありません、そうでしょう?』
『ええ、ええ。そうよ、その通りだわ……!』

 まるで長年の友のよう。長い時間、美穂の苦しみの吐露に付き合ってくれた澪を信じたい――そう考えるようになるのは、ごくごく当たり前のことではなかろうか。
 故に、彼女と出会って三日後の今。美穂は急遽仕事を休んで此処にいるのである。澪が運転する、黒いワゴン車の後部座席に乗って。

「シーズンの関係もありますし、静岡県側から……御殿場口の方へ向かいますね」

 車は既に東名高速を降りて、一般道を走っている。青空とそれに映える山並みが実に眩しい。天気に恵まれたのは僥倖だったと言えるだろう。インターチェンジを降りて一般道を暫く走った後、富士山スカイラインに入ると澪は言った。そこから登山口である御殿場口新五合目に入れるのだとかなんとか。
 ちなみに、ワゴン車に乗っているメンバーは澪と美穂以外にも三人いて、全員が登山装備とはかけ離れた軽装である。澪と、助手席に座っている彼女の助手だという“西垣由羅”という少女。それから年配の男性が一人に、三十代くらいの女性が一人。彼らもまた美穂同様、誰かを呪い殺したくて澪に依頼をすることを選んだ“客”なのだそうだ。
 ちなみに、そもそも今から向かっている御殿場口の登山ルートは、ハイシーズンでも混み合うことが少ないことで有名らしい。だからマイカーの規制も緩い。理由は単純明快、他のルートと違ってかなりの玄人向けだからなのだそうだ。自分たちのように、車で登れるところまでしか行かない客には関係のない話ではあるが。

「あの教団に関する話をすれば、それが金の代わりになるんだよな?」

 そう話を始めたのは、どこか鬱屈した表情を浮かべた高齢の男性だった。いくら大きめのワゴン車とはいえ、後部座席に本来大人三人はなかなかきついところである。なんとか座ることができたのはひとえに、美穂以外の二人が太っていなかったことが大きい。特に、この男性は骨が浮き出そうなほど痩せており、目は暗い感情でぎょろりと濁っていた。
 一応自己紹介は簡単に受けている。柿本善一《かきもとぜんいち》。年は八十二歳だそうだ。なんでも自分への恩を忘れた娘と孫に、老人ホームに投げ込まれそうになっているらしい。それを恨みに思って呪殺を依頼したのだそうだ。

「今ここで話していいんだろ、ならそうさせてもらう。……そもそもロス・ユートピアにハマったのは、うちの家内だったんだよ。俺はなんとなく家内に付き合って、何度か教団の本部に通ってやってたんだ。なんとも胡散臭い施設に胡散臭い連中ばっかで、俺はちっとも信じてなんかいなかったんだけどな。……ムカついたのは、よりにもよって嫁が俺の貯金を勝手に持ち出して、教団なんかに寄付してたってことだ」
「おや、それはそれは」

 運転席から澪は振り返ることなく相槌を打つ。

「家のお金を使い込まれた、と。それはさぞかし、教団に恨みがおありでしょうね」
「ああ、まったくだ!俺は許せなくてな、妻の通帳を取り出して説教した。教団からも抜けろと命令した!しかしあの女、信仰を取り上げられたら生きていけないとかぬかしやがって……!あんまりにも融通が効かないから、俺から教団に行って“妻は二度と来ない、抜ける!お布施もやめる!”って宣言してきたわけだ。ふん、俺に逆らうからこうなるんだ!!あいつは泣いて許しを請うてたが、許すわけがねえな!!」

 不愉快な話だった。典型的なモラハラ夫ではないか、と美穂は思わず顔を背ける。幸い、善一はそんや美穂の反応にまったく気付いていないようだったが。

「あいつは目を離したら何をするかわからない、また勝手に教団に通うかもしれないからな。俺はあいつを四六時中監視して、俺が一緒でない時は家から出さないように徹底したんだ。そしたらあいつ、さくっと死にやがって……娘も孫もお前のせいだとばかり……くそくそくそ!」

 彼の妻というからには、それなりに高齢だったはずである。そんなストレスのかかる環境に置かれたら、あっさり亡くなるのも仕方のないことではなかろうか。こいつよりは自分の夫のがまだマシかもしれない、と少しだけ思ってしまった。まあ、浮気なんて大罪を犯した時点で死刑相当であることに変わりはないのだが。

「次はあたしね」

 善一の話が一区切りついたと思ったのか、もうひとりの女性が口を開く。目白彩花《めじろあやか》。華やかな見た目とは裏腹に、お世辞にも美人とは言い難いきつい顔立ちの女性だった。化粧の仕方を間違っているのが拍車をかけているとも言える。さすがにその真っ青すぎるアイシャドーと、太く塗りすぎた眉はいかがなものだろう。紫の口紅もまるで似合っていない――なんてことを堂々と口にするほど美穂も鬼ではないが。

「あたしは元ロス・ユートピアの信者よ。すぐやめたけど」
「おや、そうでしたか。ということは教団に関しても少しはお詳しいと?」
「まあ、そうかしらね。多くの純粋無垢な魂を集めて昇華させ、この世を救う救世主を呼び出すとかなんとか言ってたわ。なんじゃそりゃ、って話だけど一応私も信じようとはしたの。不思議な力を持ってる超能力者?みたいなのが実際所属してたみたいだからね」

 彼女はウェブ小説家なのだそうだ。とある投稿サイトで、書籍化を前提としたコンテストに繰り返し応募してきたのだという。しかし、彼女の“直木賞作家にも負けない”と自信を持って出した作品たちが尽く落選し、よりにもよって彩花が大嫌いな元大学の同級生が受賞。ズルをしているに決まっている、自分のことを嘲笑っているに決まっている、むしろ自分を蹴落とすように審査員に依頼したに違いない――そう思って何度も運営に訴えてきたのに聞き入れられなかったのだそうだ。
 この女がいる限り自分はプロにはなれない。こいつを殺すしかないが、そもそも今どこに住んでいるのかもわからない相手。呪殺しかない、そう思い至ったらしい。

「幹部らしき人が、サイコキネシスみたいなのを披露してて。どう見ても手品じゃなかったから……これは本物だとあたしも思っちゃったのよ。だから入信した。教団に忠誠を近い、お布施をして、修行をすれば……神様があたしの願いを叶えてくれる、特別な力を授けてくれる。連中のそんな甘言をついつい信じちゃったわけ」

 馬鹿だったわ、と彩花は鼻を鳴らした。

「一週間頑張ったけど、ちっともあたしに不思議な力が宿る気配もないし、あの女が死ぬ様子もない!あたしがいくら連中に訴えても、修行もお布施も信心も足らないとかぬけぬけと言いやがって!これは騙されたと思って、抜けてきたってわけよ」

 こいつも大概だな、と美穂は呆れてしまう。どれくらい粘ったのかと思いきや、たかが一週間とは。一体どれほどその不思議な力とやらに夢を見ていたのだろう。あるいは、それができるほどの素質が自分にあるはずとでも夢を見ていたのだろうか。
 妄想に取り憑かれた人間ほど恐ろしいものはない。いくらなんでも素人の作品がいきなり“直木賞レベル”だなんて、思い上がりも甚だしいではないか。多分、その受賞したという女性は逆恨みを食らっただけだろう。なんとも気の毒な話である。

――ていうか、私以外の二人は呪殺の理由がものすごく理不尽なものじゃない。ほんとに教える気なのかしら、黒須さんは。

 そんな美穂の気持ちを察してか、バックミラーをちらりと見て澪が告げる。

「山口さんからは……既に大体の話は聞いてますが。他にも何か教団についてご存知ならば教えて頂きたいですね」

 いつの間にか、窓の外には薄っすらと霧が出つつある。スカイラインに入った車が山道を進んでいくのを見ながら、そうね、と美穂は呟いた。

「私の心に寄り添ってくれる、本物の力を持った占い師を探していたら……あの榛名春に辿り着いたってだけなんだけど。……だから、榛名春が雇われているロス・ユートピアに関してはあまり詳しくないのよね」
「どこで榛名春を知ったのです?ネットの評判ですか?貴女は本物以外を求めていなかったのでしょう?」
「そうよ。……だから殆ど勘みたいなものね」

 ネットでちらほら、イケメン占い師だなんて評判は聞こえていたが。決定打だったのは、教団がアップしているヨウチューブの動画を見たことだった。

「ネットに上がってたロス・ユートピアの動画で……榛名春が、最近話題の“呪いの電車”動画について語ってたのよ。この動画を見るだけで呪われることはないけれど、この呪いの電車に乗ったら最後……電車の主に気に入られない限り降りる方法はないから、乗る方法が見つかっても絶対に乗ってはいけないって。あれをアップしたヨウチューバーのカンジ&ユカリは、窓の外にいた“巨大な鳥”に喰われて死んだんだろうって」

 あの動画には、窓の外に怪物がいるらしきことはわかっても、どんな怪物がいるのかまではさっぱり見えない構造になっていた。なんせ窓にびっしり黒い蟲が張り付いていたのだから。
 それでも榛名春は、その向こうにいるのが巨鳥であると断言したし、動画についてもやけに自信満々に解説してみせたのである。なんとなく、本物だと思えてしまったのだ。彼には人に見えないものが見えているのだろう、と。

「彼は本物だと確信した。だから予約取ってお金払って会いに行ったのよ。結局徒労だったけど」
「……なるほど」

 美穂の言葉に、澪はどこか楽しそうに相槌を打ったのだった。

「それはそれは。……彼はなかなか、面白い方のようですね」

 その言葉の正確な意図は、残念ながら図りかねたけれども。
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