黒須澪と誘惑の物語

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<20・ジュサツ。Ⅰ>

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 事情は懇切丁寧に説明したつもりだった。自分がどれほど追い詰められているか、彼がいかに自分に対して許しがたい行いをしたのかも。
 しかし、山口美穂やまぐちみほの懸命な説得は、その占い師の心には届かなかったらしい。榛名春はるなしゅんと名乗った若い男性の占い師は、美穂の言葉に静かに首を振ったのだった。

『山口さん、貴方が本気で悩んでいるのはよくわかりました。旦那さんの浮気がどうしても許せない、どうにかこらしめたいという気持ちも』
『だったら……!』
『ですが、いきなり“呪殺してやりたいから方法を教えてくれ”はやりすぎです』

 彼は穏やかな声で、それでもはっきりと拒絶の意を示してきたのだった。

『確かに、人に呪いをかける方法というものは存在しますし、僕もある程度嗜んではいます。でも、人を殺すまでの力なんかありませんよ。呪いで、遠隔で簡単に人を殺せる方法なんてものが本当にあったとしたら。それを教えたら、僕だって犯罪者です。いくらなんでも、人を殺す行為に加担したくなんてありません。犯罪として立証できないから罪にはならないなんて、そんな理屈はないでしょう』

 ロス・ユートピア、なんて胡散臭い宗教団体に雇われているくせに随分と常識人ぶるんだなと呆れてしまった。まあ、その胡散臭い占い師とはいえ、非常に強い力を持つという言葉を信じて頼ってしまった自分にどうこう言うことはできないのかもしれないが。

『それに、貴女の話を聞く限り、旦那さんが本当に浮気をしているという確たる証拠がありません。家に帰るのが遅くなるから、その仕事の内容が不明瞭だから。それだけで浮気と決めつけるのはいかがなものでしょう』
『なるほど、あんたも結局男だから、男の味方をするってわけ?』
『そうではなく、冷静な判断が下せない状況に自分がいる、ということを自覚なさった方がいいと思うのです。貴女はとても傷ついてらっしゃる。それはわかります。ですが苦しみのあまり、自分が本当に陥っている地獄が見えなくなりつつある。その気持ちを軽くする、本当の自分を取り戻すお手伝いなら僕にもできますが……その専門職は本来僕ではありません。得意とする方々にカウンセリングを受ける方がいいでしょう。病気にかかっていなくても、気持ちを穏やかにするために通院する人も少なくないご時世ですよ』

 それに、と彼は続ける。

『不倫行為は、確かに許しがたいものです。しかし、それを殺人と同等レベルの犯罪行為と捉えるのはいささか行き過ぎているのではありませんか。不倫や浮気をした人なら殺しても許されるなんて、そんなことはないんですよ』

 ああ、ここが最後の頼みの綱だと思っていたのに。
 その後のことはよく覚えていない。多分、榛名春に対して相当罵倒を浴びせたのは間違いないだろう。金返せ、なんてことも言ったような気がする。二十代と思しき青年の整った顔が悲しげに歪んだのを、微かに覚えている。ただ、辛うじて記憶に残っているのはそれだけだ。あまりにもショックで、気づいたら占いの館を飛び出していた。予約を取って、やっと話を聞いて貰えると思ったのに。やっと、あの男を呪い殺す方法が見つかると思ったのに、どうしてこんなことになったのだろう。

――何でこんなことになっちゃったの。

 館の前で、暫くぼんやりと立ち尽くしていた。目の前を通り過ぎる人々の顔さえ今は見たくない。自分より、少しでも幸せそうに見える人々がみんな憎たらしくてならなかった。誰も彼も、美穂がこんなに苦しんでいるのにそしらぬフリで笑っている。世界は、美穂の嘆きなど関係なく当たり前のように回り続けるのだ。

――何やってるの、私。

 三十歳で結婚。夫の孝則《たかのり》とは、結婚相談所で出会った。定職が見つからず、派遣社員で食いつないでいた美穂にとっては、一般的な時給のサラリーマンさえ十分すぎるほど魅力的な物件に思えたのである。二つ年下でありながら、彼は既に課長の地位を得ていた。営業職なので出張も多く、仕事も忙しいがそこそこ会社内で信頼されるくらいには優秀。顔立ちは地味だが、太ってもいないし女性に対しても優しい。はっきり言って、妥協した結果のようなものだった。二つ上の姉が結婚し、両親に“あなたも早く相手を見つけないとね”と急かされて焦っていたというのもある。
 幸いだったのは、孝則が出会った当初のイメージのまま、裏表のない人格であったことか。仕事でうまくいかなくて悩んでいる時、家族関係で揉めた時、いつも傍で寄り添ってくれるような人物だった。妥協から始まった結婚――それがどんどん本気になっていくのは、時間の問題であったように思う。
 ああ、彼本人に不満はない。不満はないはずだったのに、一体どこで歯車が狂ったのだろう。
 姉が結婚早々に妊娠。しかし、美穂は結婚から何年過ぎても、未だにその兆候が見えないのだった。年齢も年齢であるし、子供を産めるうちに産んでおきたい。そうしなければまた、すぐに自分達を比較する両親に“理穂ちゃんと同じように美穂ちゃんも頑張らないとね”なんて余計なことを言われてしまう。あんな、自分には似てもにつかない不細工な姉に負けるなんて耐えられなかった。ミスN大にも選ばれ、芸能界にスカウトされたこともあるこの自分がだ。

――焦ってたのは否定しない。毎日のように、あの人が帰ってくるたび体を求めたのは確かなんだから。

 公務員のイケメン夫と結婚し、言葉ではっきり言わなくてもマウント取ってくる気満々なのが透けているあの姉。夫のスペックでは負けているのだから、こうなったら子供の質や数で勝負してやるしかないのである。姉の子供よりもいい学校に入れて、優秀に育てて、それ見たことかと笑ってやりたい。そうしなければ、自分の自尊心が満たされることなどない。
 そう、思っていた。それなのに。

――何で、何で何で何で!何で私は妊娠しないの!私はこんなに頑張っているのに!!

 病院に行くのはプライドが許さなかった。夫の体に欠陥があると言われるならともかく、自分の方に問題があるなどと言われたら立ち直れる自信がない。がむしゃらに子供と愛情が欲しくて回数ばかりを求める妻に、夫は何を思ったのか。
 二人の間に、距離が出来始めたのは三十代も終わりを迎えようとした時だった。

『美穂。君が、お姉さんに対抗心を持っているのはわかってる。でも、人の幸せって一つじゃないだろう?子供がいなければ幸せになれないなんて、そんなことはないはずだ。俺は、子供がいなくても、君がいればそれで十分なんだよ』

 今まで文句ひとつ言わずに自分に従ってきた夫が、ある日疲れたような顔でそう言ったのだ。

『どんなに疲れて帰ってきても求められるのは、正直もうしんどいんだ。君も俺も、今後のことをちゃんと考えるべき年になってはきてるだろう?……俺は君の夫である以前に一人の人間だ。子供を作る為だけの機械じゃない』

 何故、そうまで言われなければいけないのか。子供が欲しい自分の気持ちを何故理解してくれないのか。
 どれだけ訴えても、二人の溝は埋まるどころか広がる一方だった。次第に、彼は仕事の忙しさを理由に、家に帰って来る日そのものが減るようになる。確かに勤め先が事業拡大をして、会社の規模も大きくなっていることは知っているが――理由がそれだけではないことは明白だった。明らかに、自分を避けている。四十歳半ばを越え、それでも毎日求めることをやめない自分を。
 いや、それだけじゃない。
 地味なサラリーマンの分際で、自分のような美人な妻に恵まれておきながら、浮気の一つでもしているに決まっているのだ。ただ疲れているというだけで、ちょっと年齢が行っているというだけで、妻の求めをここまで拒絶することなどあるはずもないのだから。

――許せない。孝則の分際で、私をコケにするなんて!!

 確かに、物的証拠があるわけではなかった。しかし、自分の勘がはっきりと告げているのである。彼は、自分よりずっと若い社員と浮気をしているに違いない。自分というものがありながら、その存在を陰で嘲笑っているはずなのである。
 このようなおぞましい行為が、許されていいはずがない。
 不倫を殺人と同等に扱うなんておかしい、なんて榛名春は言ったが。美穂のプライドをズタズタに拷問して殺したのだから、人殺しも当然の大罪ではないか。呪い殺されても仕方ないはずだろう。何故、何も知らない占い師ごときが知ったようなクチをきくのか。己の心の痛みを軽んじられたこと、それが何より美穂にとっては許しがたいことであったのである。

――孝則だけじゃない。あいつも大罪人だわ。そうよ、金だけ搾り取っておきながら、私の願いを聴かなかったんだから!

 二千円も払ったのに、なんて詐欺師だろう。
 ああ、呪殺の方法が手に入ったなら、孝則と一緒にやつもまとめて殺してやるというのに!

「あの、すみません」

 怒りのまま、イライラと爪を噛んだその時だった。唐突に声をかけられ、はっとして顔を上げると。

「今、そこの占いの館から出てこられましたよね。ロス・ユートピアの、榛名春さんという方の。……気になってるんですけど、当たるんですか、占い?」

 長いウェーブした黒髪に、黒いスーツ姿の若い女だった。珍しい金色の眼を持ち、肌は抜けるように白い。同性の自分でも、思わず息を呑むほど美しい女性だった。年は、二十代半ばといったところだろうか。平日の昼だというのに、こんなところで何をしているのだろう。

「……やめた方がいいですよ」

 どうせ、あとはもう家に帰るだけだ。美穂は半ば八つ当たりもかねて女性の言葉に返事をした。

「あの占い師、詐欺師なんで。浮気夫を呪い殺したいから力を貸してくれってお願いしたのに、全然聴いてくれないし。予約して、長いこと待って、高い金まで払って見て貰ったっていうのに!」
「浮気、ですか」
「ええ、そうよ。うちの夫が浮気していて許せないからなんとかしてほしかったのに。やっぱり男の占い師なんかアテにするもんじゃなかったわ、女の気持ちなんか全然分かってくれないんだから!!すごくよく当たる占いだって言うから信用してたのに!!」
「へえ……」

 女性の眼が、三日月のように細くなったのを見たような気がした。彼女は少し考えた後、こう呟いた。

「……なるほど、生贄はどこからでもいい、という人間ばかりではないということですか」
「は?」
「いえ、こっちの話です。……占い師って、あくまで人の未来を予測するものですから。呪いなどは専門外なのではないでしょうか」

 実はですね、と彼女は笑みを浮かべて続ける。それこそ、美穂が此処に来るのを待ち構えてでもいたかのように。

「呪いや儀式といったものの方なら……私の方が得意だったりするのです。良ければ、詳しいお話をお聞かせ願えませんか?私こそ、貴女のお力になれるかもしれませんよ」
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