黒須澪と誘惑の物語

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<10・ミチズレ。Ⅳ>

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 ヨウチューバー二人と話していた時間など、さほど長いものではなかったはずである。にもかかわらず目を離した僅かな間に、友理奈の視界から消えてしまった澪と由羅。

――む、向こうの車両に行った?それとも……。

「ちょっと、急に何慌ててるんっすかー?」

 情報が足らないカンジの暢気な声が聞こえるが無視だ。彼等は自分達の意思で、面白半分でこの列車に乗ったのだろう――あのツニッターでの、“黒須澪”なる人物が誘うままに。それこそ、突然生放送で赤の他人の顔を映そうとするような人間が、他人の迷惑や後先を考えているはずもない。炎上してもいい、利益さえ出ればいい――そんな連中と一緒にされたくはなかった。まあ、自分とて面白そうだと思ったのは否定しないが、一応教団の仕事という大義名分はあるのである。

――この場所が、あの澪って女の子のテリトリーっていうのはほぼほぼ間違いなさそうね。……やっぱり、あの子は人外認定して良さそうってことかしら。

 ただ、友人らしき由羅という少女を連れ込んでいるというのが気がかりである。本当に危険な場所ならば、親しくしているように見える少女を引っ張り込んだりするものだろうか。
 いや、二人とも姿を消してしまっている以上、そんな考えはやや楽観的すぎるのかもしれないが。

――とにかく、今は仕事が優先だわ。ある程度あの二人の正体を突き止めて、組織に報告しないと。口止め出来るような相手かどうか、始末できる存在かどうかも判断がつかないんじゃどうしようもない。

 尤も。
 自分がこの列車から、無事に帰ることができる保証はどこにもないのかもしれないが。

『お待たせしました』

 突然、軽快なメロディーと共に車内にアナウンスがかかった。

『次は、“しゃぬたく”。次は、“しゃぬたく”。この列車は、しゃぬたくを出ますと、のでご注意ください……次は、“しゃぬたく”。次は……』

 聴き間違えるはずがなかった。あの、澪、とかいうッ少女の声だ。鈴が鳴るような高く愛らしい声。大人の車掌ではなく、彼女がアナウンスをするとは――この車両は自分の記憶にある限り、電車の真ん中あたりに位置していたはずである。この短い時間に、最後部、まで行ったとうことなのだろうか。いや、自分達の方が後ろの車両であるはずだから、先頭車両までか?
 ぞくぞくと背中が泡立つような感覚。怖さと同じだけ、興奮が友理奈の全身を震わせていた。今自分は、日々のちょっとしたオカルト体験などとはくらべものにならない、恐ろしい怪異の渦中にいる。なんと刺激的なのだろう。生きて帰ったら、自分の能力と地位にさらなるハクがつくのはほぼ間違いあるまい。

――確か、この列車は“紗濡戳”行きって書いてあったっけ。あれ、しゃぬたく、て読むってことかしら。まったく意味がわからないのだけど。

 スマホが通じたら、ネットで該当しそうな用語を調べてみるのだが。そう思っていた時だ。

「ひいいいい!」

 悲鳴が上がった。見れば、ユカリが真っ青な顔で友理奈の後ろを見ている。その隣、カンジは完全に凍りついた顔で、口をぱくぱくと開け閉めしていた。まるで金魚にでもなってしまったかのように。

「何……?」

 尋常ではない様子に、友理奈が問いかけるも二人から返事はない。たただた、何かを訴えるようにユカリが友理奈の後ろを指さした。正確には、友理奈が座っているシートの上――窓の向こう側を。

「何かいるの?」

 立ち上がって振り返ってみたが、相変わらず窓の向こうは真っ暗闇一色だった。何も見えそうにはない。友理奈が理解していないことに気づいてか、ユカリが金切声に近い声で叫んだ。

「よ、よ、よく見てよ、ねえ!」
「え?」
「う、うご、うごめ……」

 その言葉に、窓に近づいてまじまじと様子を見た友理奈は――彼女が何言わんとしているのかに気づいて、さすがに絶句した。
 自分は、恐らく彼女達もきっと、窓の向こうは真っ暗闇だと信じていたはずだった。だから何も見えないのだと。勿論それはそれで恐ろしいことではあるが、元々大阪メトロという地下鉄でスタートしていたことを踏まえるなら特におかしなことでもない。真っ暗なトンネルのような場所を通ることも別段珍しくはないからだ。車内の明かりはついているから、室内が暗くなってしまうこともない。
 だが。
 その、闇だと思っていたものが、実は全くの別物だったなら話は別である。
 その暗闇は、よく見れば細かく蠢いていた。そう、自分達が見ていたのは窓の向こうの“闇”ではない。
 それは、蟲。
 窓にびっしりと貼りついた、真っ黒な無数の足を持つ蟲を、闇と勘違いしていたのである。うぞうぞ、うぞうぞと硝子一枚隔てた向こうで、大量の蟲が窓に張りついてあらゆる光を遮っていたのだ。一匹一匹は、やや大きな蟻程度のサイズしかないのに、数が尋常でなく多い。内側からの光でてらてらと硬い外殻が照らされている様がなんとも不気味だった。

「!」

 変化は唐突に訪れる。
 蟲たちが、一気にざわめくような奇妙な鳴き声を上げた。次の瞬間。ピンク色に滑着いた肉の塊が、ずるううう、と窓を斜めに横切っていった。窓にへばりついた、無数の蟲をこそぎおとしながら。

「ひいっ」

 まるで、何か巨大な生き物が外にいて、窓に張りついた蟲達を舌で舐めあげていったよう。ピンクの肉塊は何度も窓の向こうを行き来して、蟲達を美味しそうになめしゃぶっていく。逃げ惑う大量の蟲の向こう、真っ赤な二つの光がぎらりと瞬いたように見えた。
 何かがいる。
 明らかに、人の理解の範疇を越えた何かが。巨大な怪物らしき物体が。

「い、嫌ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「お、おい、ユカリぃ!!」

 そこで、完全にタガが外れてしまったのだろう。ユカリが絶叫して、別車両の方へと走り出した。

「だ、だから、だから私は嫌だったんだって!こんな、こんな帰る方法もはっきりしないような電車に乗りたくなんかなかったのに!あんたが、あんたが無理に乗ろうって言うからああ!」
「おい、俺のせいだってのかよ、お前だってノリノリだったじゃねえか!!」
「うるさい!うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!もう嫌、こんな気持ち悪いなんて聴いてないんだからっ!」

 カンジを突き飛ばし、隣の連結部分のドアを開けようとする。しかし、ユカリが押しても引っ張っても、隣の車両に続くドアは開かないようだった。さっき、彼等は確かにそちらの方からこの車両に移動してきたはずだというのに。

「なんでなんでなんで!なんで開かないのよ、なんで、なんでえっ!」

 ガンガンと窓硝子を叩くも、ドアは空間に固定されているかのごとくびくともしない。そもそも、隣の車両の窓もびっしりと黒い蟲に張りつかれているというのに、隣の車両に逃げることになんの意味があるのだろうか。冷静さを失った彼女は、逃げる際にスマホを落としていったことにも気づいていないようだった。

「ああああ、なんで、なんで、なんでえ!」
「落ち着けよユカリ、生放送してんだぞ、これみんなに見られてるんだぞ!」
「あのね、そんなことまだ言ってる場合なわけ!?」

 食ってかかったところで、ユカリは自分達がまだネットと繋がっているという事実を思い出したらしい。カンジの持っている自撮り棒を強引に奪うと、その先にくっついているスマホに向けて叫びだした。

「み、みんな、お願い助けて!ま、窓の向こうに、蟲とか、ば、バケモノとか、よくわかんないのがいて、ほんんとここヤバくて!このまんまじゃマジで殺されるかもしれないの、おねが、帰る方法教えて、おしっ」

 彼女の声は、中途半端に途切れた。がしゃん!と音を立ててその手から投げすてられる棒とスマホ。おい!とカンジが怒りの声を上げたのさえ、聞こえていない様子で、ユカリは頭を抱えて泣き出す。

「もうやだ、やだ、やだあああああああ!」

 友理奈は恐る恐る、彼女が投げ捨てたカンジのスマホを覗き込んだ。若干隅に罅が入ってしまったようだが、まだ液晶は映っている。ヨウチューブの生放送画面だ。コメントが流れていくのと同時に、画面の中をうぞうぞと這い回るものがあった。

「は、ははっ……」

 乾いた笑みが零れる。液晶の中でも、蟲が蠢いている。心配するコメント、面白がるコメント、日常的なヨウチューブの画面を覆い隠すような勢いで。
 それと同時に、列車の速度が急激に落ち始めた。どこかに停車しようとしているのだ。どうやらやっと駅に到着するということらしい。

『“紗濡戳”、“紗濡戳”ー。お降りの方は、お急ぎくださいー』

 もはや、殆ど正気を保てていなかったのかもしれない。とにかくこの電車から逃げなければ、それしか考えることができなかったのかもしれない。金切声を上げてユカリは立ち上がると、ドアの方に走った。

「ま、待てよユカリ!待てってば!」
「ちょ、ちょっと!」

 そのユカリを追いかけて走る、カンジ。さすがの友理奈も止めようとした。頭が回っていないのか。あの怪物は、窓の向こうにいたのである。今列車を降りたら。

「ひぎゅっ!?」

 開いたドアに近づいた男女の体に、長くぬめぬめしたピンクの肉塊が絡みついた。先ほど、窓の向こうで蟲を舐め取っていたのと同じ“舌”が。

「い、いや、いやあ!」
「う、嘘だろ、やめっ」

 一瞬の出来事だった。二人組のヨウチューバーは抵抗する暇もなく、列車の外に引きずり出されていく。
 次の瞬間、バキボキ、だのぐちゃぐちゃ、だの、骨と肉を咀嚼するような壮絶な音が響き渡った。びちゃびちゃびちゃ、とドアの向こうから車内に、真っ赤な液体が飛び散っていく。まるで、ドアの向こうで口を開けてまっていた怪物に、人が生きたまま喰われたとでもいうように。

『“紗濡戳”、“紗濡戳”ー。お降りの方は、お急ぎくださいー』

 生臭い臭いが充満していく。気づけば友理奈は自分がその場に座り込み、完全に固まっていた事実に気づいた。股間がじっとりと湿っている。全身が冷たい汗でぬるついている。は、ははは、と喉と口元が勝手に乾いた笑い声を上げていた。

――ほ、本物。本物の、怪物だわ、これが、これが……!

 ああ、あの二人組。自分達が調べた情報だったというのに、忘れていたのか。
 呪いの列車が生きつく先は怪物の巣らしいと、そう言ったのは確かに彼等であったというのに。

『“紗濡戳”、“紗濡戳”ー。お降りの方は、お急ぎくださいー。繰り返しますが、紗濡戳を出ますと、この列車は何処にも止まりませんー』

 アナウンスが流れる。
 どこか笑いを含んだ少女の声が、流れる。

『“紗濡戳”、“紗濡戳”ー。お好きな方をお選びください。紗濡戳の餌と、永遠の闇。現世に退屈なさっていた皆様には、どちらもぴったりな末路にございますー……さあ』

 ああ、最高の体験だ。なんという恐怖、なんという絶望。
 悔やむべきは、自分はこの心境をもう、誰にも話すことができないということだけだろう。

――いいじゃない、選んでやるわよ。

 今の自分は泣いているのか、それとも笑っているのか。友理奈はふらふらと、ドアに向かって歩き始めたのだった。
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