黒須澪と誘惑の物語

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<3・ユウカイ。Ⅱ>

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 これはまたとない絶好のチャンスだ。それは耕平にもよく分かっていた。
 なんせ“黒須澪くろすみお”と名乗る目の前の少女は、危機感の欠片もないのである。自分が生贄を誘拐してこいなんて命令を受けている、カルト教団の構成員でなかったとしてもだ。見目も良くない、見知らぬ独身の中高年を相手に。のこのこ声をかけてきて、家までついてくるなんて本当にどうかしているとしか思えない。それを許容した、保護者らしきもう一人の少女もだ。

――しかも、遅くならないうちに帰れとか、普通に言ってたよな。

 我ながらお世辞にも綺麗とは言えないアパートに少女を招きながら、耕平は思う。

――つまり、俺が無事にこいつを家に帰すと思ってるってわけだ。何考えてやがんだ、人を信用しすぎだろ。

 ただ、それにしては澪の最期の言葉に引っかかりは覚えるのである。彼女は確かにこう言った――私みたいな子供を探していたんでしょう、と。
 世の中には、自分が知らないだけで不可思議なことなどいくらでもあると知っている。それこそ、超能力の類が実際にあっても不自然ではない――自分の所属しているロス・ユートピアの教主様とやらが、その手の魔法使いであるとはまったく思っていないが。ただ、彼女が本当に自分の正体を特殊な能力で見抜いていたなら、ますますくっついてくる理由がない。耕平本人が手を下さなくても、誘拐された後殺されるであろうことは容易く想像がつくだろうに。
 それともあれか。本当に、まったく勘違いをしてものを言っただけなのか。
 相手は小学生低学年が精々であろう幼い子供なのに、何故自分はこんなにも頭を混乱させているのだろう。

「……ペットボトルの茶しかねえぞ」
「お構いなく。というか、意外です」

 衣服やゴミが散らばったワンルームからどうにか座る場所を確保して、テーブルの前(椅子なんかないので、座布団だが)に座らせると。彼女はこてん、と首を傾げて言った。どうやらそれがこの少女の癖らしい。

「客人にお茶を出す、という心得があったのですね、おじいさんにも」
「馬鹿にしてんのか?」
「してないですよ、意外だと思っただけで」

 見た目はどう見ても小さな女の子なのに、恐ろしく綺麗な顔をしているからか大人びた物言いからか、舌ったらずな声が随分ちぐはぐな印象を受ける。あれだ、どこぞで流行していたライトノベル。サラリーマンの男が死んで異世界に転生したら幼女になってしまいました、とかいうあれ。目の前の少女がそういう存在でも不自然ではないな、という印象だった。まあ、例のラノベをちゃんと読んだこともなく、無駄に広告が目に入ってくるのであくまで所感程度ではあるが。

「お前を連れてきたのは、訊きたいことがあったからだ」

 まだ、組織に連絡は入れていない。それよりも確認しなければならないことがあったからである。

「お前、何で俺にくっついてきた。俺がお前みたいなガキを探してるっつったな。何か知ってんのか、ええ?」

 そう。彼女が超能力者の類であるか、そうでないかは別として。問題は、自分達の情報が一般人に漏れているかもしれないということである。
 つまり、ロス・ユートピアが誘拐事件を起こしている、という事実。
 自分がその構成員だとバレているならそれも問題だが、組織がやっている犯行がどこぞに漏れているならそれもそれで大問題だ。奴らが他にも自分のような下っ端に、誘拐の手伝いをさせていることは既に察していることである。大阪近辺で、ちょこちょこと起きている誘拐事件。恐らくうちの教団関係だろう。拉致されたであろう子供達は誰一人として見つかっていない。全員とっくに殺されている、と考えるのが筋だ。つまり、現在進行形で起きているのは大量殺人というわけである。
 教団の奴らは、悪魔を食い止めるため!という正義を掲げているが。そんなもの、健常な一般人と法治国家に通用するとは到底思えない。教団の仕業だとバレたら一発で終わりだ、大量に逮捕者が出て組織は瓦解するだろう。例え耕平本人が捕まらなくても、忌々しいことにこの組織がなくなったら終わりであることに変わりはないのである。なんせ、この組織から貰っているささやかな給金で、自分はどうにか飯を食っている状態なのだから。
 そして、この子供を生贄として差し出せば、さらなるボーナスが期待できる。少なくとも、当面はこのアパートの家賃を滞納せずに済むのは間違いないだろう。
 組織の秘密がどこかから洩れていて、この娘の耳に入ったというのなら――なんとしてもその出所を確認しなければいけない。あの由羅、という少女からだろうか。でも彼女も、普通の中学生か高校生にしか見えなかった。まあそんな少女が、妹(?)が見知らぬおっさんにくっついていくのを黙認するのもおかしな話であるのだが。

「私は何でも知ってるんですよ」

 少女はちょこん、と汚れた座布団の上に正座して言った。

「おじいさんが、悪いことをしようとしていることにも気づいてました。だから、止めようと思いまして」
「悪いこと?」
「良くない神様を呼び出す手伝いをしようとしてるんでしょう?それとも、存在しない神様でしょうか。どっちにしても、生贄なんてナンセンスです。今時の神様で、そんなものを喜ぶ人なんかそうそういないと思いますよ。面白がる人はいるでしょうけど」
「……どっから聴いた、その話」
「聴いたんじゃなくて、私が自分で知ったんです」

 じわじわ血の気が引いていく耕平とは反対に、澪はどこまでも楽しそうである。

「知ることができるんです、私は。あ、由羅さんは関係ないのでそこは勘違いしないように。彼女は私みたいにいろんなことを知ることができる人なんかじゃないし、ましてや私のお姉さんとかでもないので。ただ楽しいから一緒にいる、それだけなんです」

 舌ったらずな声で、大人のような言葉遣いをする。しかも、あの由羅とかいう少女は姉ではないと言った。どういう関係なのか、さっぱりわからない。いや、今はそんなことはどうでもいい。
 誰かに聞いたえではなく、知った。超能力者説、の方が濃厚になったと言うべきか。勿論この少女が、超能力者ムーブをかまして、誰かに聞き及んだ話をさもサイコメトリか何かで知りましたという顔で話しているだけなのかもしれないが。

「……あのな、お嬢ちゃんよ」

 頭痛がしてくる。焦りと、混乱と、あまりにも理解しがたい彼女の行動に。

「俺が、仮にお前の言う通り悪い神様?とやらの手伝いをしてたとするだろ。で、生贄を探してるってのも本当だとするだろ。……お前、自分がその生贄の筆頭になったって自覚はねーのか。俺が今、この場でお前をぶっ殺して生贄にしちまうとは思わねえのか」

 勿論、自分の仕事はこの少女を家まで連れてきて、監禁しておくところまで。殺せとは命じられていない。ただこのまま彼女を家に留めて、教団に連絡を入れて引き渡せばそれでいい。
 ただ、普通はそんな突飛な可能性より、別の危険を危惧するだろう。それこそ、見知らぬ幼女に声をかける中高年なんて、目撃されただけで警察を呼ばれかねない事案だ。自分が通り魔なら、いかにも弱弱しい幼女など格好の標的に他ならない。そしてロリコンならば、家に連れ込んで酷いことをするかもしれない。この聡明そうな少女が、それらの可能性を全く考慮していないとは思えないのだが。

「死ぬのは怖くないので」

 一瞬、少女の眼に寂しそうな光が過った気がした。

「死ぬことより、死ねないことの方が私は嫌なので。私を誰かが殺してくれたら、それでもいいのです」
「……お前、まだ小一とか小二とかそれくらいの年だろ。何でそんな年で世界に絶望してんだよ。学校でいじめられてでもいんのか」
「そういうのではないです。絶望より、私は希望の方が嫌いです。中途半端に何かに希望を持ったら、それを奪われた時ずっと苦しい思いをする。おじいさんは、そういう経験はありませんか?そういうものが怖いから、人はいるかどうかもわからない神様に縋るし、おじいさんが所属しているようなカルトな教団が存在するのではありませんか?」
「…………」

 言いたいことは、なんとなく分かる。ただ、自分が何かに希望を持ったことなど、一体いつだったかと思えるほど昔であるというだけだ。
 子供の頃は、こんな自分にもキラキラした夢があったような気がするのである。政治家になるぞ!なんてカッコつけた気もする。野球選手になりたい、なんて不相応なことを唱えた気もする。そんな自分を、両親は笑顔で見守っていてくれたような気もする。
 いつからだろう。どこで、自分の人生は歯車が狂ってしまったのだろう。
 もうこんな年になってしまって、まともな仕事ひとつできなくて、犯罪とわかっていながらカルト教団に手を貸して。その罪悪感よりも、自分が犯罪者になって捕まることの方が嫌だなんて思ってしまう、そんな自分は。

――けっ……今更、何かを悔やむような性格じゃないだろうが、俺はよ。

「……おじいさん」

 長い沈黙に、彼女は何を思ったのか。彼女はちらり、と部屋の奥を見て言った。

「水道、止められてないんですよね。シャワー借りてもいいですか」
「はあ?」
「汗かいちゃったんです。いいでしょ?」
「……お前なあ」

 楽天的すぎるだろ、と流石に呆れてしまった。自分を殺すかもしれない男の家で裸になるだろうか、普通。やっぱりどれほど大人ぶっていても子供ということか。時分としては、彼女を気絶させてふんじばるチャンスと言えばそうなのだが――いや、正直彼女が何か抵抗したところで、力の差は歴然であるし、特に問題なくぶっ飛ばせてしまうだろうが。

「……そこの奥だ。シャンプーとかリンスとか、あんま使うんじゃねえぞ。金ねえんだからな」

 それでも許可を出したのは。彼女がシャワーを浴びている隙に、教団に電話をかけてしまえばいいと思ったからに他ならない。こんなお気楽で綺麗な幼女を、あんな意味不明な教団に差し出すのが本当に正しいのか、とちらりと思わなくもなかったが。
 多少の同情や罪悪感で、腹は膨れない。どれだけ忌々しくても、今更自分の生き方なんぞ変えられないのだ。

「ありがとうございます。ちょっと浴びさせて頂きますね」

 彼女は立ち上がると、とことことバスルームの方へ向かった。汚いワンルームだ。バスルームとトイレ、洗面所は完全に一体化している。あまり掃除も頻繁にしていないし、あんな小さな子が入りたがるタイプのお風呂とは到底思えないのだが。

「ああ、そうだ、宇治沢耕平さん」

 風呂場のドアに手をかけたところで、彼女は振り返った。

「人の過去は変えられないけれど、未来は変えられる。人は人間にも悪魔にも天使にも神にも、一度の決意だけで転じることができる。選ぶのは一瞬、されど爪痕は死ぬまで残る」
「あ?」
「私の持論です。選ぶのは、貴方ですよ」

 一体、何が言いたいのだろう。まだ踏みとどまれる、とでも彼女は伝えたかったのか。
 彼女がバタンとドアを閉めたところで、耕平は深く深くため息をついたのだった。

「……くだらねえ」

 感想はそれだけだ。
 人生が、そんな単純なものだったなら。自分だってここまで堕ちてなどいないのだから。
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