黒須澪と誘惑の物語

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<2・ユウカイ。Ⅰ>

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 もうすぐこの世に、悪魔が来る。その降臨を、なんとしても我が神の力で食い止めなければいけない――一体何度、そのような妄言を聴かされてきたことだろう。
 宗教団体『ロス・ユートピア』。
 今年で六十一歳になる宇治沢耕平《うじさわこうへい》は、その構成員の一人だった。ただし、神様とやらを本気で信じたことは一度もない。本気でロス・ユートピアの教義を信じていたのは、耕平ではなく耕平の両親だった。いわゆる宗教二世というものである。
 幼い頃から、意味不明なお経?のようなものを聴かされる施設に連れて行かれるのが、たまらなく苦痛だった。なんせ、二時間以上もじっと座って、お祈りのポーズを続けないといけないのである。幼い子供にとっては退屈以外の何物でもないし、トイレだって我慢しなければいけない。何度もそれができずに逃げ出そうとし、そのたびに“教主様”とかいう男性に平手打ちを食らった。そして両親が自分の頭を床にこすりつけ、何度も何度も謝らされた上、家に帰ったあともまた殴られるのである。そんな宗教に、良いイメージがつくはずもないのだ。
 それでもいい年の大人になった耕平が、ロス・ユートピアに所属し続けている理由はただ一つ。この教団の支援なくして、まともな生活をすることができないからである。

――くそ、何で、何で俺がこんなことしなくちゃいけねえんだ。

 ああ、せっかく大阪まで来たのに。美味しいもの巡りもできず、笑顔で通り過ぎる観光客を横目で見るだけなんて拷問が過ぎるというものである。道頓堀の橋の上、イライラと足踏みをしながら行き交う人々を見つめるこの時間が無駄で仕方ない。高い“給金”を約束されていなかったら、絶対こんなところになど来なかったというのに。
 耕平は、いわゆるニートというものだった。
 正確には、全く仕事をしたことがないわけではない。しかし、どうしても仕事先でトラブルを起こしてしまい(何故無能なくせに、偉そうな命令ばかり下す連中の言うことを聴かなければならないのか)、仕事を始めたかと思えば数日でやめるということが何度も何度も繰り返され、完全に嫌になってしまったのである。煙草を吸えない職場が増えたのも大きな理由だった。何故、客が殆どいない時間帯に、コンビニの裏でちょっと煙草を吸っていただけで大目玉を食らわなければいけないのか、さっぱり理解できない。野良猫をイライラして蹴っ飛ばしただけで通報されたのも謎すぎる。一体、世間は自分の何が足らないというのだろう。
 今まで暮らして来れたのは、両親の年金があったからだった。しかしその両親が去年相次いで他界。一気に収入を失った耕平に声をかけてきたのが、ロス・ユートピアの幹部だったというわけである。

『宇治沢耕平さん。貴方のご両親は、大変敬虔な信者でした。ご両親は、貴方の将来をとても心配しておられた。……全ての信者は、皆一つの神の下に生まれた家族。私どもは、その大切な家族の一人である貴方を見捨てたくはありません』

 十以上は年下の、坊主頭の男は。にこにこと胡散臭い笑みを浮かべて、耕平に告げたのだった。

『ですので、宇治沢さん。もし貴方さえ良ければ……我らの下で働きませんか?幹部候補生として正式に雇用させていただきますよ。多少特殊なお仕事が多いのは事実ですが……貴方は体も大きいですし、年のわりに体力もおありのご様子。成功していただければ、かなり高額なボーナスも弾みますが……いかがでしょう?』

 職を転々としすぎて、もはやどこに雇って貰えない、そもそも年齢制限に引っかかるようになりつつあった耕平にとって、ほぼほぼ選択の余地のない誘いだった。とにかく、金がなければ食っていくことができないのだ。特殊な仕事、というのが非常に気にはなったが、提示されたのは推しアイドルのライブに大いに貢いで余りある金額である。
 やります、やらせてください、と耕平は言った。
 まさかその仕事内容が――神を呼び出すための生贄を見つけて来い、なんてとんでもないものだとはつゆほども予想していなかったわけだが。

『我が神は、長い長い眠りについておられます。近年その同胞達の封印が解かれ、眠りから醒める兆候が見受けられてはいますが……我が神にまだその兆しなし。しかし、この世界に降り立とうとする恐ろしい悪魔を前に、人間はあまりにも無力なのです。対抗するためには、我らが神の力が必要不可欠となるでしょう』

 そのために、と幹部の男は続けた。

『必要なのは、生贄。それも、なるべく無垢な魂であればあるほど望ましい。……やって頂けますね?宇治沢耕平さん』

 何がやっていただけますね、だ。しかも本部に少しでも近い、大阪近辺で事を行えと注文をつけてきた。何で不慣れな土地で、自分が誘拐事件なんてものを起こさなければいけないのか。教団に与えられた賃貸アパートに連れ込んで監禁すればいい、そうしたら迎えに行くから――なんてことを言われても。

――交通費と、前払い金を貰ってなけりゃ、こんな仕事絶対断ってたってのに……!

 楽しい大阪観光もできず(楽しそうな連中を見ているだけで腹が立っているので、果たして資金があったところで観光なんかできたかどうかは定かでないが)、タダムカムカしながら通り過ぎる人々を品定めしなければいけない屈辱。金を貰えるなら赤の他人がどうなってもいいとは思うが、遠回しに“子供を狙え”と言われているのがかえってハードルを上げている印象だった。そんな浚いやすそうな子供が、一人でふらふら歩いているとも思えないからである。
 いや、歩いていたところで、人目につく場所で無理やり車に連れ込むことなどできない。もう少し土地勘があったら、登下校中の子供が通るような“ちょっと人気のない道”で待ち伏せするというやり方もあったかもしれないというのに――。

――くそっ……くそくそくそくそ!何で俺が犯罪に加担しなくちゃいけねえんだ。見つかったら俺が捕まるんだっつーに!

 ああ、でも金は欲しい。
 教団からの“給金”は定期的に入っているが、ライブやグッズを楽しむためにはもっともっと金がいる。あのボーナスは正直惜しい。何が何でも手に入れたい。

――どっかにいねえか。浚ってもバレないようなガキ。んでもって、うまいやり方……!

「ねえ、おじいさん」

 都合の良い奇跡なんぞ、起きるはずもない。ゲームやアニメの世界ではないのだから――そう思っていた矢先だったのである。

「へっ!?」

 その少女が、目の前に現れたのは。

「おじいさん、どうしたんですか?すっごく怖い顔してる」

 いつからそこに立っていたのだろう。黒い長い髪に、紫色のワンピースを着た少女が、じっとこちらを見上げていたのである。
 何かを言うよりも前に、その猫のような金色の瞳に射抜かれて息が止まった。
 日本人離れした、彫の深い顔立ち。白皙の肌、長い睫毛。子供とは思えないほど美しい顔をした少女である。恐らくは、まだ小学校低学年程度の年齢と思われるにも関わらず。

「……な、なんだよお嬢ちゃん。俺になんか用か」

 まるで、自分の目的が見透かされたようで焦った。ドギマギしながら視線を逸らし、ひっくり返った声で返事をする。まだ何も悪い事なんかしていない、自分は通りを歩く人々を眺めていただけなのだから――そう心の中で言い訳をしながら。
 ひょっとしたら自分は、白昼夢でも見ているのかもしれないと思う。
 いかにも生贄に相応しそうな、そして清純そうな幼女に向こうから声をかけられるなんて。金欲しさに、幻でも見たのだろうか。

「お、俺。金なんか持ってねえぞ」
「うん。持ってなさそう、おじいさん」
「ていうか、おじいさんって呼ぶんじゃねえ。俺はそんな年じゃねえぞ」

 自分で言ってから、そういえば六十代に足を突っ込んでいたのだった、と思い出した。いつまでも若いつもりだったが、最近は白髪どころか頭にもハゲが目立ってきたし、それ以上に眉毛や髭まで白くなってきたなとは感じていたところである。このくらいの年の女の子からすれば、六十五歳を超えていなかろうと十分おじいさんに見えてしまう年なのかもしれなかった。
 ああ、昔はまだ、就職活動で失敗しても“あなたはまだ若いんだから”と言って貰えたのに。今では雇って貰うことさえ難しい年だなんて、本当に馬鹿げているとしか思えない。

「ちょっと、澪さん!何してるんですか!」

 パタパタと駆けてくる足音がして見れば、中学生か高校生くらいの女の子がいた。少し明るい髪色にボブカット、丸顔のこちらも可愛らしい少女である。澪、と呼ばれたこの少女の姉か何かだろうか。それにしてはさんづけは奇妙だし、似ても似つかない顔立ちではあるが。
 橋まで駆けてきた少女の手には、スーパーの袋に入ったお惣菜があった。うっすらと透けているその形状から察するに、たこ焼きか何かを買ったばかりということらしい。

「もう、人がたこ焼き買ってる間にどっか行っちゃうし!知らない人に声かけてるし!」
「すみません、由羅さん。でも、どうしてもこのおじいさんが気になっちゃって」
「ええ……?」

 由羅、と呼ばれた少女は戸惑ったように彼女と耕平を交互に見る。そりゃこういう反応になるわな、としか言えない。そもそも、この澪とかいう少女が自分に声をかけてきた理由が謎でしかないのだ。

「このおじいさんが、とっても寂しそうだから。お話しようと思ったんです。ダメですか?」

 澪はこてん、と小首を傾げて言う。可愛らしい所作だが、いかんせん本人があまりにも人間離れした美貌なので現実味がない。そんなこと言われても、と由羅という少女の方も戸惑い気味だ。きっと“ダメです、すぐ帰りますよ”とでも言いだすのだろう、とやや蚊帳の外になった気分で耕平は思っていた。
 この人形のような少女が行ってしまうのは少しだけ名残惜しい気もするが、どのみちこの状況で元の目的なんぞ果たせるはずもない。ため息をつこうとした、まさにその時である。

「……仕方ないですね」

 なんと由羅が一歩引いた。たこ焼きの入っている袋を抱え直し、こう続けたのである。

「一足先に、ホテルに戻っているべきですか?私」
「はい、由羅さん。そうしてくれると助かります。私はこのおじいさんとお話をしてから帰ります!」
「……今夜はたこ焼きパーティの予定なんですからね。あんまり遅く帰らないでくださいよ」
「ええ、わかってますよ」

 耕平の意思をよそに、勝手に話が進んでしまう。あっけにとられているうちに、何をどう納得したのか、由羅という少女は一人でさっさと立ち去ってしまった。二人の関係性も謎ならば、澪が何故この場に一人で残ったのかもさっぱりである。
 ぽかん、とする耕平に、澪は。

「おじいさん、そういうわけで、時間はあります。私とお話をしましょう」
「お、おい。何勝手に決めて……っ」
「その方が、おじいさんも嬉しいような気がするんですけど、違いますか?」

 心臓が止まるかと思った。やや斜め下から、じいっとこちらを見つめる澪の眼が――きゅっと三日月型に歪むのを見たがゆえに。
 そして。

「おじいさんは、私みたいな子供を探していたのでしょう?顔にそう書いてありますよ」

 まるで、耕平が生贄として誘拐する子供を探していた――それを分かっていたかのような、その口ぶりに。
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