レーゾン・デートルの炎上

はじめアキラ

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<第二十話>

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 足が無くなるのが、こんなに不便であるなどとは思わなかった。小百合が、己の失ったものの大きさをきちんと実感したのは、結局事故から一ヶ月近くが過ぎてからのことだったと言っていい。
 最初は、腕があれば執筆できるし、自由に歩けなくなってもさほど問題ないだろうと思っていたのである。元々小百合はさほどアウトドア派というわけではない。ショッピングもそこまで頻繁にしないし、精々近所で本屋巡りをするのが好きであったことくらい。少し不便にはなるだろうけれど、自分の人生にそこまで大きな影響を齎すことはないだろうとタカを括っていたのは事実だ。それは、車椅子なんて簡単に乗りこなせるようになるものと、そう信じていたというのもあるのである。
 恐らく、かつてよりはかなり車椅子も動かしやすくはなったのだろう。だが、両足の膝から先を失ってしまい、まだ幻肢痛に悩まされることも多い小百合はまず、自力でベッドから車椅子に乗り移るまでが困難だった。車椅子に乗れるようになれさえすれば、排泄やらシャワーやらで人の手を煩わせることもないはずだ――なんて考えがまず甘かったのである。乗り移るには、まずある程度リハビリで、残った腿の部分だけでもきちんと動かせるような訓練をすることが重要だった。いくらガードしても、治療しても、だからといって切断された足から先が生えてくるわけではないし、元々足がなかった人のように綺麗なつるりとした肌で覆われているわけでもない。そして、車椅子に自力で乗り移れるようになったところで、その車椅子で自力で移動するのは相当な苦労を要することであったのである。
 元々インドア派で、腕力などけしてある方ではない普通の女性である小百合である。車椅子を少し動かすだけで汗だくになり、そして今までは全く気にしていなかった小さな段差の一つ一つに悩まされることになった。両足がない自分は、松葉杖で動くということもできない。普通のやり方で階段が一切使えないともなれば、移動はエレベーターに頼ることになる。だが、車椅子はベビーカー以上に幅を取るもの。小百合が成人女性で、子供よりはずっと身体が大きいのから余計にそうである。エレベーターが来ても、人が多く乗っていれば乗り込めない。場合によっては、無理矢理詰めることになって嫌な視線を浴びることになる。――全ては、今まで小百合が一切車椅子移動者に関して意識をかけることもしてこなかった現実だった。今までの自分ならば、間違いなく非難の目を向ける側であったに違いないのだから。

――どうしてこんなに辛いの。なんでこんなに大変なの。もういや、もういや……!

 トドメになったのは。あの、大好きだった古書店に――入ることができなくなってしまったことである。あの古い店は、本棚と本棚の間も狭く、とてもじゃないが車椅子で侵入できるほどの通路の幅はない。むしろ、入口の高い段差さえも小百合には越えられないのだ。こんなもの、今までの自分ならラクラク気にすることもなく踏み越えていっていたというのに。
 今まで出来たことが、一つ、また一つと出来なくなっていくのを感じる。それを当たり前のように数えてしまう。きちんと訓練できるようになるまでは、一人で外出することも困難だということを思い知っていた。車椅子用のトイレは増えたが、それでも必ずどこの駅や施設でもあるというわけではない。あっても、便座に移動するだけでもたついてしまい、危うく排泄が間に合わなくなりそうな時さえあった。それらを思い知る頃には、小百合はもう“腕が残っていれば大丈夫”だなんて、楽観的に割り切ることなどできなくなっていたのである。
 確かに執筆はできる。でも。もう自分は一人で好きな場所に行くことはできない。出来るようになるとしても、一体それはどれだけ先になることだろうか。
 バリアフリーだのユニバーサルデザインだのと言われていても、まだまだこの国は身体障害者にとって大変なことが多い。健常者が気づかないような小さな段差や隙間、デコボコやちょっとした距離にまで悩まされる始末である。ある多目的トイレで、ペーパーが遠すぎて手が届かないことに気づいた時には、一体どうすればいいのかと泣きそうになったものである。



『反論したいならちゃんと自分の中で、反論できる理屈組み立ててからにしなさいよ。いい年した大人が感情だけで喚かないでくれる?……それにあんたが願ったのはそれだけじゃない。むしろ、こっちの対価が大きくとられたんじゃなくて?……あんたは自分が大賞を取ることだけ願えば良かったものを、あろうことか自分のライバルだった初音マイを魔法の力で蹴落とすことまで望んだ。自分の手を汚すこともなく、彼女がありもしない汚名を被せられ、作家生命を断たれるようにね。人を呪わば穴二つって言葉も知らないのかしら』



 姫子の言葉が、何度も何度も小百合の脳裏に蘇り、繰り返されては消えていく。
 人の不幸を願い、しかも自分の手を汚さなかった。それが、たったそれだけのことが――こんな目に遭わされなければならないほどの罪だったというのだろうか。

――そんなに私、悪いことした?だって初音マイが悪いのよ、あいつだって空気読まないから!私を見下すから!何もかも私だけが悪いわけじゃないでしょ、ねえそうでしょ……!?

 まだ、己の罪がそこまでのものだったなんて信じられない――信じたくない。
 しかし、小百合はあの魔導書を、結局自宅の引き出しにしまったままにしてしまっている。アルルネシアに何もかもを問い詰めることが、恐ろしくてできそうになかったのだ。
 もし、姫子が言った言葉が全て真実であったとしたら。これが因果応報というものだったというのなら。本当に――本当にあの小説が、アルルネシアの改編を受けなければ大賞を取ることができないほどの出来だったというのなら。アルルネシアにまで、そう言われてしまったら。

――そんなのもう……立ち直れない……。

 自分にはもう、何も残らなくなってしまう。
 今の自分に残された希望は、作品が書籍化されたという事実。そして物語を書くという、この行為以外に何もないというのに。

――もうそれしか……小説しか、私にはない……っ!

 今は仕事の方は休職ということで対応してもらっているが。恐らく続けていくことは厳しいだろうということもわかっていた。なんせ、あの会社のオフィスは二階で、エレベーターがない。車椅子の小百合では、務め続けるのがあまりにも厳しい。そして、自宅で出来る業務かと言われればそれも微妙である。
 自分の拠り所はもう、小説だけ。それだけが自分の希望であり、未来であるのだ。だから。
 小百合は打ち合わせに訪れてくれた出版社の人に、結局言い出せなかったのである。自分の本来の文章はあれではないのだと。『神に愛された娘・ネール』の本来の原稿はこちらなのだと。書籍化は、自分の本来の文章の方でして欲しい、と。

『綺羅星サヨさんの事は、スターライツの方でもよく話題になっていました。六年間も登録し、ほとんどのコンテストに応募してくださってましたからね』

 出版社の方の編集と、スターライツの方の担当。そうにこにこと笑いながら告げてきたのは、後者の男性である。

『非常に熱意のある方だと思っていましたが、残念ながら今までの綺羅星サヨさんの作品では書籍化に足る技量ではないと判断しておりました。話の展開も一辺倒、主人公がひたすら愛される展開ばかりが続き、変化もなければ現実の世界が舞台であっても殆ど時代考証がなされていない。文章のスキルも、残念ながら非常にお粗末という印象で。……しかし、今回のコンテストは本当に素晴らしかった。大幅なスキルアップをして、同じ逆ハー転生ヒロインのジャンルであっても今までのご自身の作品とは明確な差別化を図ってらっしゃいました』

 彼は、アルルネシアに改稿された原稿を大いに褒め称えた。

『キャラクター一人一人の描写が非常に繊細になっていましたね。特に、リオンのキャラが立つことによって、ネールに共感を呼び込みやすくなっている。迫り来る脅威を前にした葛藤シーンも非常に良かった。まだまだ荒削りですが、キラリと光るものを感じました。リオンが最初はネールのことをまるで意識しないばかりか、嫌悪感さえ抱いているところから少しずつ印象が変わっていくのも大変良かったと思います。特に好きなのはあの台詞でしてね……』

 褒められたのはみんな、小百合には記憶のない箇所ばかり。記憶にないシーンばかり。アルルネシアによって手を加えられたところばかりを盛大に褒める担当者に対して、もはや小百合は怒る気力さえも失っていたのだった。
 本当の原稿はそれじゃない、自分のネールはあんな作品じゃない――結局言いそびれてしまったまま、書籍化のための話は進んでいったのである。

――私は、何をしてるの。……私が欲しかった名誉って、こういうものだったの……?

 事故から三ヶ月後。『神に愛された娘・ネール』は書籍化された。
 しかし、ネット通販サイトでのレビューも売上もイマイチの状態。神絵師を使って表紙を作ったのに、中身が薄味すぎる――文章力はそれなりだけど、ストーリーそのものはありきたりでつまらない。他の転生モノと愛されモノと何が違うのかわかんない。そんな辛辣な言葉が当然のように溢れた。そもそも本当にこんなのが大賞受賞作としてふさわしかったのか、とさえ言い出す者も現れる始末。
 初音マイの方の書籍化の話は、保留されたまま音沙汰がない。だが、もう彼女の様子を気にしている余裕など、小百合からはなくなっていたのである。
 売上が伸びない。このままでは、続編を書かせて貰うのは難しい。
 ならば新しい小説を持ち込んで、出版社に出して貰うしかない。小百合は必死で新作の執筆に勤しんだ。アルルネシアに改編されたネールを超える、誰もを唸らせることのできる素晴らしい作品を書き上げた――そのつもりだったのだ。だが。

『どうしちゃったの、綺羅星さん。文章酷いですよ、ネールの前に戻っちゃったみたいだ。どうして前のに戻しちゃったんですか?凄く読みづらいというか、2ページ目以降を読もうと思えないんだけど……』

――ねえ、どうして。私の作品は、誰より凄いはずで……他の奴らの目が曇ってる、それだけだったはずで……。



『ネールと同じ文体に戻してくださいよ。話が面白い面白くない以前に、これじゃ読む気になれませんって』



――私は、天才で、選ばれて当然の、はず、なのに……。

 以前なら、そう突っぱねることができたはずの編集者の非難の言葉が。もう、小百合には嫉妬だの荒らしだの嘘だのと――そんな言葉で、聞かないフリをすることができなくなっていたのである。
 ネールと同じ文体に戻して。これじゃ読む気にもならない――そんな言葉が現実で、真実だなんて思えない。思いたくもない。でも。



『はっきり言わせて貰うわよ。……アルルネシアがあんたの作品に手を加えたのは、そうでもしなきゃ大賞受賞なんて有り得ないほどあんたの作品がお粗末だったからよ。あんたは自分が認められる環境以外の何も望まなかった。あんたが叩かれかねない要素を徹底的に排除して受賞させるためには、それくらい物語に手を加えなきゃ不自然だったってことでしょ。まさかあんた、本気で自分は天才だとか、自分の作品はプロで通用するレベルだとか、そう思い上がってたってわけ?あのお子様レベルの原稿で?バッカじゃないの?』



『他に、アルルネシアが手間暇かけて原稿を改稿し、あんたの名前のまま発表する意味があるのかどうか。そのお粗末な頭で、もうちょっとちゃんと考えてみれば?』



 小百合はもう、目を逸らせなくなりつつあった。
 目を曇らせていたのは本当は――自分の方だったのかもしれないという、その現実から。
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