レーゾン・デートルの炎上

はじめアキラ

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<第十八話>

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 目を覚ました時、小百合に待っていた現実は――激痛。そして取り返しのつかない喪失感だった。
 点滴に繋がれてベッドで眼を覚ました小百合は、自分が今置かれている状況がいかに過酷なものであるのかを知ることになるのである。両親は泣いていた。特に母の号泣ぶりは凄まじいものがあった。――それでも、生きていてくれただけで良かったと、そう言われて小百合はどう返していいかわからなかったものである。
 小百合の膝から下は、なくなっていた。
 赤信号で横断歩道を渡ろうとしてしまった小百合は、乗用車に撥ねられて、ただ撥ねられただけでは済まなかったのだった。小百合の両足は車輪の下敷きになり、骨も肉も粉々のぐちゃぐちゃに潰されてしまったのである。幸いにして頭を打つのが早く、その激痛を知るよりも前に小百合は意識を失ったが――それでも、目覚めた時の状況からすれば、なんら救いになるものではないのである。
 小百合の足は、切断する以外の選択肢がなくなっていたそうだ。むしろ、命を守る為にはそれ以外にはなかったという。小百合はたった一度の信号無視の結果、二度と自力で歩くことのできない身体になってしまったのである。

――何で、私がこんな目に遭わなくちゃいけないの……。

 痛み止めが切れるたび、激痛が小百合を襲った。幻肢痛に苦しめられながらも唯一救いとなったのは、怪我をしたのがまだ両足であったということだろうか。
 集中治療室を出れば、制限付きとはいえパソコンと携帯を触ることもできた。両目と両手が無事ならば、歩くことはできなくても小説を書くことはできる。恐ろしい現実の中、それだけが今の小百合のとってたった一つの幸いであることに違いはなかった。

――全部、全部あいつのせいだわ。あの桜とかなんとかっていうあの女を追いかけなければ、こんな眼に遭わなかったのに……!

 いや、そもそも、アルルネシアが自分の呼び声を無視したことが発端ではあるのか。
 どうして彼女は、あの時小百合の声に答えてくれなかったのだろう。小百合は苛立ちまぎれに、病室の中でパソコンを開く。“神に愛された娘・ネール”に関して、書籍化に関する相談をしたいという連絡が来ていた。恐らく出版社に直接出向くことになるのだろう。
 今までの小百合ならば、問題なく普通に会社に向かうことができたが――もう、この身体では、行ける場所が限られてしまっている。両親はきっと自分を助けてくれるだろうが、それでもだっこして運んでもらうわけにはいかない以上、車椅子で電車も何も乗り降りするしかないのだ。出版社にエレベーターなどがなければ、大変面倒なことになるのも目に見えている。
 そもそも、まだ当面は入院しなければならないし、退院しても幻肢痛から開放されるには相当時間がかかるだろうとも言われていた。なんとかして、向こうに折り合いをつけてもらうしかない。電話とメールだけでやり取りができるよう打診するしかあるまい。――小百合ほどの実力を持った作家だ。向こうも逃したくないに決まっている。相談すれば、間違いなく同情して、きちんとした対応を協議してくれることだろう。
 そう、小百合の素晴らしい作品を、書籍化するためならば――。

――素晴らしい、作品……。

 自分で思った言葉に、小百合は唇を噛み締める。
 結局事故に遭ったせいで、原稿を修正することはできずじまい。ネールは結局、一週間そのまま放置されてしまうことになった。結果、その間にネールの原稿はそのまま書籍化の話が進んでしまう状況になっていたらしい。
 確かに、これに関しては受賞した時点で浮かれてしまい、自分の作品の再確認しなかった小百合にも問題はあったのだろう。だからって、受賞段階であんなにも原稿が、意図しないところで書き換えられているだなんて一体誰が予想するだろうか。

――私の作品、だったはずなのに。

 褒められていたのは、書き換えられてしまったネール、だった。
 小百合の本来の実力と、本来の作品が評価されていたわけでは、なかった。
 そして今も、小百合のオリジナルではない、小百合の本来の色が大幅に失われてしまった原稿が、小百合のものとして次の段階に回されようとしているのである。そうではないのだと、どうにか止めなければならない。だが、せっかく受賞したのに、もし小百合の本来の原稿を出して出版社側が苦い顔をしてきたら。改悪された原稿より、小百合本来のネールの方が“書籍化できないクオリティだ”だなんて判を押されてしまうことになったなら、それは一体どうすればいいのか――。

――ば、馬鹿!そんなはずないじゃない!私の本来の原稿の方が素晴らしいに決まってる!正しく受賞するべきはこっちだったって、出版社の人だってちゃんと認めるはずなんだから!!

 おかしい、と小百合は思った。自分自身が、おかしいのだ。確かに両足をなくしてしまったのは悲劇だった。それでも自分は小説家で、小説を書く両腕が残っていればまだ何もかも終わったわけではないというのに。何故、こんなにも気弱になっているのだろう。少し前までは、己の正しい実力は必ず評価されるはずだと、そう胸を張って言うことができていたはずなのに。
 受賞は自分の実力であって、楽をした結果などではないと。あの桜にだって、そう宣言したのは他ならぬ小百合だというのに。

――あんな夢を、見たせいだわ。

 事故に遭って、死に瀕しながらさまよっていた過去の世界。
 幼い頃の自分を思い出してしまったせいで、きっとこんなにも弱気になっているのだ。あの頃よりも、今の自分の方がずっと文章力も、あらゆる技術も向上しているはずだというのに。いくら年の割には才能があったのだとしても、あんな拙くて幼い、そんな作文に今の自分が揺さぶられる要素など何もないはずなのに。

――馬鹿げてる。あの頃出来ていたことで、今出来ないことなんか何もない!私は、今だってちゃんと小説を書くことを楽しんでる!いろんなものを見て、吸収して、ちゃんと自分の作品に生かして……そういう努力をしてきたはずじゃないの!!

 どうして劣等感のようなものを感じているのだろう――あの頃の自分に。
 幼い頃の、自分自身に嫉妬するようなことなんて――何一つない、そのはずなのに。

――足はなくなったけど、小説は書ける……書けるんだから!私は何も間違ってない。これからだって作家としてやっていくの……もっともっと本を出してたくさん売れて、みんなに私を、綺羅星サヨを認めてもらうんだから!こんなところで躓いてなんかいられない……絶対ネールを改稿して、アルルネシアにはちゃんと説教して、それでっ……!

「まさか、まだ懲りてないのかしら、貴女は」
「!」

 突然、病室に声が響いた。小百合ははっとしてドアの方を見る。――誰もいない。そうだ、ドアが開くような音などしなかった、誰かがいるはずもないではないか。

――空耳よ、そうに決まって……っ!

 次の瞬間、悲鳴を上げそうになった。――窓枠に寄りかかるようにして、少女が佇んでいたからである。
 一体いつからそこに。どうやって此処に?ドアは開かなかったし、この病室は五階のはずだというのに――!

「だ、だ、誰っ……!?」

 不審者を目にしたら、大声で叫べ。そう教育されるのが常だが、人は本気で驚くと存外声など出せないものなのである。
 目の前の相手は、まだ十代半ばに届くかどうかの娘に見えた。桜と名乗った彼女ではない。あの少女よりはすらりと背が高い印象だが、しかしその上に乗っている顔にはまだあどけなさが残っている。きりっとしたつり目の、桜とは真逆の方向の美人だった――腹立たしいことに。

「日ノ本桜の仲間よ。白鷺姫子。今のあんたには、その説明で十分でしょ。アルルネシアの魔導書、返して貰いにきたわ。そこの引き出しに入ってるんでしょ?」

 そして少女はあっさりと言い放ち、パソコンが乗っている机に歩み寄ってくる。小百合は慌てた。

「だ、駄目よ!」

 ばっと机に縋りつき、引き出しが開かないように両手で押さえた。姫子、と名乗った少女の足が止まる。

「わ、私は!アルルネシアに言わなきゃいけないことがあるの!あいつ、勝手に私の作品の原稿弄ったんだから、元に戻して貰わないと困るのよ!それに、彼女は……っ」
「まだその魔導書の力が必要になるかもしれない、とでも思ってるのかしら?」
「そ、そうよ!必要よ、いけないの!?」

 思わず声がひっくり返ってしまう。一人部屋であったのは幸運だったのか不運だったのか。誰かの迷惑になることもないが、看護師が異変に気づいて飛んでくる様子もない。

「この世界は理不尽だらけだもの……おかしなことばかりまかり通って、本来評価するべき人間が評価されないんだもの!私はこの魔導書に、正しい世界を取り戻すためのきっかけを貰ったの!これからだってきっと“きっかけ”が必要な時が来るわ!私を見る奴らの眼がまた曇ってきた時には、アルルネシアの力で目を覚まさせてやるしかない、そうでしょ!?」
「でも、そうやって受賞した作品は、あんたの本来の作品じゃなかったでしょ?」
「そ、それは!アルルネシアの間違いってやつで……っ」
「本当に何もわかってないのね。都合のいい頭だわ、いい年した大人のくせに」

 私は桜みたいに優しくないから、と少女は冷たく言い放った。

「はっきり言わせて貰うわよ。……アルルネシアがあんたの作品に手を加えたのは、そうでもしなきゃ大賞受賞なんて有り得ないほどあんたの作品がお粗末だったからよ。あんたは自分が認められる環境以外の何も望まなかった。あんたが叩かれかねない要素を徹底的に排除して受賞させるためには、それくらい物語に手を加えなきゃ不自然だったってことでしょ。まさかあんた、本気で自分は天才だとか、自分の作品はプロで通用するレベルだとか、そう思い上がってたってわけ?あのお子様レベルの原稿で?バッカじゃないの?」

 ガンッ!と頭を殴られたような気がした。
 自分の作品が――お子様レベル?そうでなければ、受賞が有り得ないほどお粗末だった?そうしなければ、周囲に認められるどころか叩かれかねなかった?

「は……ははっ!あ、ああ!わかった、あんた私の才能に嫉妬してるのね!?だからそうやって私の作品と実力をこき下ろすのね、そうでしょ!?」

 引きつった笑みで答える小百合。あれ、と自分自身で思った。自分は今、当たり前のことを言っているだけのはずである。自分を認めない奴は、眼が曇っているか荒らしであるかのどちらかのはず。今までずっとそう考えてここまで来たはずだ、なのに。
 どうして自分の声は、こんなに裏返っているのだろう。怒りだけではない何かで、頬がこんなにも引き攣るのだろう。

「そう思いたいなら勝手にすれば?私はあんたみたいに腐った人間、助けてやる義理なんかないし。……でもね」

 姫子は、冷たい眼差しで桜を見据える。

「他に、アルルネシアが手間暇かけて原稿を改稿し、あんたの名前のまま発表する意味があるのかどうか。そのお粗末な頭で、もうちょっとちゃんと考えてみれば?」
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