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<第十七話>
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「お帰り小百合ちゃん。ど、どうしたの?」
帰ってきた小百合を見て、母が何事かと声をかけてきた。彼女の様子からして、どうやら今の自分は本当に人に見せられないような形相をしているということらしい。
だが、小百合にはそれを厭う暇も余裕もなかった。まだ母が心配そうな声をかけてきているが、申し訳ないと思いつつも返事をしている暇がない。帰ってきたまま手を洗うことも上着をかけることもせず、とにかく引き出しに縋りついていた。
自分の“一番のファン”に違いないと信じていた、アルルネシア。そのアルルネシアが自分を裏切っていたかもしれないなんて、そんなことは考えたくもなかった。そんなはずがない、あれは何かの手違いなのだとそう言って欲しかった。そうだ、きっと彼女はそう笑ってくれるはずなのである。彼女は自分を選んでくれたのだから。何でもできる、素晴らしい魔女なのだから。
「アルルネシア!アルルネシア!返事をして、どういうことか説明してっ!!」
引き出しから叩きつけるように魔導書を取りだし、魔女の名前を呼んだ。しかし小百合の期待とは裏腹に、本は沈黙したままうんともすんと言う気配がない。
「アルルネシア、聞こえないの!?何で私の小説が書き変わってるのよ、どうして書き換えたのよ!説明してよ、あんたがやったんでしょ!?あんたにはそれを説明する義務ってヤツがあるはずでしょ、だってそんなこと私は望んでないんだからっ!!」
ページが破れんばかりの勢いで扉を開いた。だが、いくら小百合が声を張り上げても、本から魔女の声が聞こえることはなかった。そればかりか、真っ白な扉には何の文字も浮かんでくる様子がない。
――何で、何で何で何で何で!?何で返事をしてくれないのよ、アルルネシアはっ!!
イライラが募る。自分は一秒でも早く、今の状況を改善したいというのに。
確かに、投稿したネールの物語は小百合のアカウントで書かれたもの。編集権限は小百合にある。手を加えようと思えば、加えられないわけではない。でも。
改編された箇所が、多すぎるのだ。登場人物が追加されたわけではない。大筋の粗筋も変わったわけではない。しかし、登場人物の性格に台詞に描写にと、全体的に改悪されてしまった箇所が多すぎる。ネールはあんなこと言わない。リオンはあんなことしない。カルヴァドス、アロン、ジェーシェ、アメルダ、みんなみんなみんな――確かに小百合が考えて小百合が作ったキャラクターであるはずなのに、もはや小百合の手を離れて完全に思い思いに動いてしまっている。バックアップはあるとはいえ、あれを自力で元に戻すなどどれだけ時間があっても足らないのだ。何より。
あんなものは、小百合が書きたかったネールじゃない。
あんなもの、小百合の小説だなんて呼べない。
それなのに、その作品こそが大賞だという。運営が絶賛している。今だからわかる。裏掲示板に出ていた少し奇妙な自分への称賛の言葉――今回の作品は見違えるように素晴らしかったと、そう書き込まれていた誰かの言葉はつまり。
この、改編された作品が評価された結果で。
それは――小百合の、本当の作品が評価されたわけではなくて。
――何でこんなことになってるの!私はほんのちょっぴり魔法の力を借りたけど、それは楽したわけなんかじゃない!だって、私が評価されない世界の方が間違っていて、それを正しい形に戻しただけなんだから!そのはずなんだから!……なのにっ!
それなのに、己の実力が評価されたと、その証拠だと思っていた自分の作品は――誰かによって手を加えられた、紛い物と化していた。
そんなこと、自分はこれっぽっちもアルルネシアに頼んでいない。それなのに、何でアルルネシアはこんな馬鹿な真似をしたのだろうか?小百合の本来の作品と実力で充分に評価されて当然であるはずなのに、それこそが小百合の求めた真実の世界であったはずなのに――!
――くそっ……くそくそくそくそっ!あの女ならっ!
ガタン!と椅子を蹴倒して小百合は立ち上がる。本を抱えてバッグに放り込むと、そのまま再び部屋の出口にとんぼ返りしていた。
「さ、小百合ちゃん……?」
心配そうに部屋の前でおろおろしていた母を、危うく突き飛ばしそうになってしまう。さすがに罪悪感が募る。母は、数少ない自分の味方。この状況が誰のせいであっても、自分を心配してくれる母に罪はない。
「ご、ごめんなさいお母さんっ」
何が起きたか、なんて母に説明する余裕はない。むしろいくら自分の理解者である母と言えど、こんな事態を簡単に信じてもらえるとは思えない。
「急いで確認しなきゃいけないことがあるの!すぐ、戻るからっ!」
あの桜、とかいう女。どうやらこの本を取り戻しに来た様子だったではないか。ということは、自分よりもアルルネシアと魔導書に詳しいのはまず間違いあるまい。本を渡す気はさらさらないが、それでも話を聞かせてもらう権利が自分にはあるはずである。そして、本を取り返したいのなら――この本を持って歩けば必ず姿を現すはず。あるいは、さっきの路地にまだいるかもしれない。
慌てていた自覚はあるが、どうせなら全部話を聞いてから突っぱねれば良かった。情報はネットでも現実でも、搾り取れるだけ搾り取るのが効率的だというのに。
「日ノ本桜とやらっ!何処にいるの!?」
さっきの小学校の角まで、すぐに小百合は戻ってきた。しかし、それらしい人影は何処にもない。まさか、小百合が帰ったとみて諦めていなくなってしまったのか。
――冗談じゃないわ……!こんな、こんな訳のわからない状態で何もかも終わってたまるもんですかっ!!
何がなんでもあの女を探すしかない。あの女に解決方法を聞いて、アルルネシアを問い詰めて、小百合の小説を正しく小百合のものに戻すのだ。
アルルネシアに戻させて、その“本来の小百合の小説”こそが世間に認められるように状況を改編させるのである。本来の自分の望みはそれだったのだ。むろ、最初からそれしか望んでいない。これはアルルネシアのミスである。それを責めるのは、願った“お客様”として当然のことではあるまいか。
――何処よ!何処にいるってのよ!?本を取り戻したいんでしょ、姿を現しなさいよっ!!
小百合は、狭い路地から勢いよく飛び出した。目の前には横断歩道。信号など見ていなかった――見る余裕など、なかった。
瞬間、閃光。
「え?」
眩しい光が自分のすぐ右から放たれる。何だ、と思った瞬間耳をつんざいたのは、自動車の激しいクラクションだ。
小百合は見た。自分のすぐ目の前に迫る乗用車と、そのヘッドライトを。
『このままでは、貴女は何もかも失うことになる。自らの命も、自らの存在価値も、貴女の本当の理解者さえも全て焼き尽くしてなくなってしまう。……そうして嗤い声をあげるのは、人間の不幸を楽しむアルルネシアという魔女一人。貴女は自分が今どれほど危険な状況にあるのか、まるで理解していないのです』
桜の言葉を思い出したか、思い出さなかったの――刹那。
小百合の全身を、凄まじい衝撃が襲っていたのだった。
***
揺蕩うように――夢を、見ていた。
小百合がまだ小学生であった時の夢を。作家になりたいと、そう思うようになった最初の切っ掛けを。
『きのうは、しもの公えんに行きました。お母さんと、お父さんといっしょでした』
作文の発表会だ。懐かしいな――と小百合は思い出す。小さな小さな自分が、両親と遊びにいった休日のことを思い出して作文を書き、みんなの前で発表しているのである。
テーマは確か、大好きな人との楽しい思い出、であったはずだ。少し前の時代なら多分、“お父さんの思い出”とかそんなことを指示されていたのだろうが。近年は母子家庭などに配慮してか、作文のテーマも幅が広く取られるようになったと聞いたことがある。お父さんでも、お母さんでも、おじいちゃんでもおばあちゃんでも友達でも。誰でも、“大好きな人”なら構わない。そういう説明を、先生からも受けたような記憶がある。
『しもの公えんには、はとがたくさんいます。わたしは、はとが大好きです。はとはとってもかわいいです。目がくりくりしています。でも、さわってみようとすると、いつもにげられてしまいます。お父さんとお母さんにも、おいかけたらかわいそうだから、やめてあげてねと言われます』
そんなこともあったなあ、と小百合はしみじみ思う。小さな頃の小百合が好きなものの一つが、鳩だったのである。そのへんを歩いている灰色の鳩を追いかけて遊ぶのが好きで、それはやめなさいと両親に注意を受けたのはよく覚えている。ほとんど小百合を叱らない両親が、こればかりはやめなさいと怒ったことの数少ない一つ。だから余計に記憶に残っていたのである。
理由は――そう、確か。
『どうしてかわいそうなの、とわたしはお母さんにききました。わたしははとを、いじめようとはおもっていません。かわいいので、なでなでしてあげたいだけなのに、どうしてそれがだめなのかわかりませんでした。そしたら、お母さんがいったのです。「はとさんより、さゆりちゃんのほうが大きくて力もちだから、とってもはとさんはこわいのよ。やさしくなでなでしようとしても、けがをさせちゃうこともあるよ。それに、はとさんも、自由にお空をとびたいから、じゃましたらかわいそうなのよ」と』
――そんなことも、言ってたなあ。……私、感動したんだっけ。全然そんな発想無かったから。お母さんは優しくて凄いって思ったし、知らなかったことをたくさん知れて……なんだか、それだけで嬉しかった気がする。
『わたしは、なるほど、とおもいました。お母さんはすごいです。やさしいし、わたしが知らないことをたくさん知っています。はとさんをおいかけて、つかまえるのはやめようとおもいました。わたしも、大人になったら、お母さんみたいにやさしいひとになりたいです』
読み終えた途端、先生と子供たちから拍手が沸き起こる。素敵な作文ですね、とみんなが小さな小百合を誉めた。小さな小百合も嬉しそうに笑っている。今の小百合からすれば、平仮名だらけで、あまりにも拙い文章とも呼べぬ文章だというのに。小百合ちゃんは凄いね、と先生は本心からそう言っているのが見てとれるのである。
『小百合ちゃんは、本当にたくさんのことを見て、感じて、それを自分の中にどんどん取り込んでいっています。みんなも、小百合ちゃんみたいに、たくさんの経験をして、たくさん楽しいことを見て、自分を大きくしていってください。そうやって成長していくことが、大人になるということ。人生を、楽しく生きるということなんですよ』
人生を、楽しく。
たくさんのことを見て、感じて、自分の中に取り込む。
――昔は、そうだったな。……何を見ても新鮮で、楽しくて、面白くて……それを作文にしたら先生もお母さんもみんな喜んでくれて……。
いつからだろう、と小百合は思う。周囲の世界から、自分の中に新しいものを取り込んで、それを楽しむということをしなくなったのは。
何を見ても新鮮さを感じることなく、どこか冷めた眼でばかり流すようになったのは。
――あの時は。誉められるのも嬉しかったけど……それ以前に。作文のネタを、見つけるだけで嬉しくて…………書くことそのものが、楽しくて。
小さな自分と、優しい世界が遠ざかっていく。夢が終わるのを、小百合はどこかで感じ取っていた。
小百合は気付く。話を書くことそのものが、楽しかった時期もあったのに。
いつからだろう。――評価されなければ楽しくないと、そう思うようになってしまったのは。
帰ってきた小百合を見て、母が何事かと声をかけてきた。彼女の様子からして、どうやら今の自分は本当に人に見せられないような形相をしているということらしい。
だが、小百合にはそれを厭う暇も余裕もなかった。まだ母が心配そうな声をかけてきているが、申し訳ないと思いつつも返事をしている暇がない。帰ってきたまま手を洗うことも上着をかけることもせず、とにかく引き出しに縋りついていた。
自分の“一番のファン”に違いないと信じていた、アルルネシア。そのアルルネシアが自分を裏切っていたかもしれないなんて、そんなことは考えたくもなかった。そんなはずがない、あれは何かの手違いなのだとそう言って欲しかった。そうだ、きっと彼女はそう笑ってくれるはずなのである。彼女は自分を選んでくれたのだから。何でもできる、素晴らしい魔女なのだから。
「アルルネシア!アルルネシア!返事をして、どういうことか説明してっ!!」
引き出しから叩きつけるように魔導書を取りだし、魔女の名前を呼んだ。しかし小百合の期待とは裏腹に、本は沈黙したままうんともすんと言う気配がない。
「アルルネシア、聞こえないの!?何で私の小説が書き変わってるのよ、どうして書き換えたのよ!説明してよ、あんたがやったんでしょ!?あんたにはそれを説明する義務ってヤツがあるはずでしょ、だってそんなこと私は望んでないんだからっ!!」
ページが破れんばかりの勢いで扉を開いた。だが、いくら小百合が声を張り上げても、本から魔女の声が聞こえることはなかった。そればかりか、真っ白な扉には何の文字も浮かんでくる様子がない。
――何で、何で何で何で何で!?何で返事をしてくれないのよ、アルルネシアはっ!!
イライラが募る。自分は一秒でも早く、今の状況を改善したいというのに。
確かに、投稿したネールの物語は小百合のアカウントで書かれたもの。編集権限は小百合にある。手を加えようと思えば、加えられないわけではない。でも。
改編された箇所が、多すぎるのだ。登場人物が追加されたわけではない。大筋の粗筋も変わったわけではない。しかし、登場人物の性格に台詞に描写にと、全体的に改悪されてしまった箇所が多すぎる。ネールはあんなこと言わない。リオンはあんなことしない。カルヴァドス、アロン、ジェーシェ、アメルダ、みんなみんなみんな――確かに小百合が考えて小百合が作ったキャラクターであるはずなのに、もはや小百合の手を離れて完全に思い思いに動いてしまっている。バックアップはあるとはいえ、あれを自力で元に戻すなどどれだけ時間があっても足らないのだ。何より。
あんなものは、小百合が書きたかったネールじゃない。
あんなもの、小百合の小説だなんて呼べない。
それなのに、その作品こそが大賞だという。運営が絶賛している。今だからわかる。裏掲示板に出ていた少し奇妙な自分への称賛の言葉――今回の作品は見違えるように素晴らしかったと、そう書き込まれていた誰かの言葉はつまり。
この、改編された作品が評価された結果で。
それは――小百合の、本当の作品が評価されたわけではなくて。
――何でこんなことになってるの!私はほんのちょっぴり魔法の力を借りたけど、それは楽したわけなんかじゃない!だって、私が評価されない世界の方が間違っていて、それを正しい形に戻しただけなんだから!そのはずなんだから!……なのにっ!
それなのに、己の実力が評価されたと、その証拠だと思っていた自分の作品は――誰かによって手を加えられた、紛い物と化していた。
そんなこと、自分はこれっぽっちもアルルネシアに頼んでいない。それなのに、何でアルルネシアはこんな馬鹿な真似をしたのだろうか?小百合の本来の作品と実力で充分に評価されて当然であるはずなのに、それこそが小百合の求めた真実の世界であったはずなのに――!
――くそっ……くそくそくそくそっ!あの女ならっ!
ガタン!と椅子を蹴倒して小百合は立ち上がる。本を抱えてバッグに放り込むと、そのまま再び部屋の出口にとんぼ返りしていた。
「さ、小百合ちゃん……?」
心配そうに部屋の前でおろおろしていた母を、危うく突き飛ばしそうになってしまう。さすがに罪悪感が募る。母は、数少ない自分の味方。この状況が誰のせいであっても、自分を心配してくれる母に罪はない。
「ご、ごめんなさいお母さんっ」
何が起きたか、なんて母に説明する余裕はない。むしろいくら自分の理解者である母と言えど、こんな事態を簡単に信じてもらえるとは思えない。
「急いで確認しなきゃいけないことがあるの!すぐ、戻るからっ!」
あの桜、とかいう女。どうやらこの本を取り戻しに来た様子だったではないか。ということは、自分よりもアルルネシアと魔導書に詳しいのはまず間違いあるまい。本を渡す気はさらさらないが、それでも話を聞かせてもらう権利が自分にはあるはずである。そして、本を取り返したいのなら――この本を持って歩けば必ず姿を現すはず。あるいは、さっきの路地にまだいるかもしれない。
慌てていた自覚はあるが、どうせなら全部話を聞いてから突っぱねれば良かった。情報はネットでも現実でも、搾り取れるだけ搾り取るのが効率的だというのに。
「日ノ本桜とやらっ!何処にいるの!?」
さっきの小学校の角まで、すぐに小百合は戻ってきた。しかし、それらしい人影は何処にもない。まさか、小百合が帰ったとみて諦めていなくなってしまったのか。
――冗談じゃないわ……!こんな、こんな訳のわからない状態で何もかも終わってたまるもんですかっ!!
何がなんでもあの女を探すしかない。あの女に解決方法を聞いて、アルルネシアを問い詰めて、小百合の小説を正しく小百合のものに戻すのだ。
アルルネシアに戻させて、その“本来の小百合の小説”こそが世間に認められるように状況を改編させるのである。本来の自分の望みはそれだったのだ。むろ、最初からそれしか望んでいない。これはアルルネシアのミスである。それを責めるのは、願った“お客様”として当然のことではあるまいか。
――何処よ!何処にいるってのよ!?本を取り戻したいんでしょ、姿を現しなさいよっ!!
小百合は、狭い路地から勢いよく飛び出した。目の前には横断歩道。信号など見ていなかった――見る余裕など、なかった。
瞬間、閃光。
「え?」
眩しい光が自分のすぐ右から放たれる。何だ、と思った瞬間耳をつんざいたのは、自動車の激しいクラクションだ。
小百合は見た。自分のすぐ目の前に迫る乗用車と、そのヘッドライトを。
『このままでは、貴女は何もかも失うことになる。自らの命も、自らの存在価値も、貴女の本当の理解者さえも全て焼き尽くしてなくなってしまう。……そうして嗤い声をあげるのは、人間の不幸を楽しむアルルネシアという魔女一人。貴女は自分が今どれほど危険な状況にあるのか、まるで理解していないのです』
桜の言葉を思い出したか、思い出さなかったの――刹那。
小百合の全身を、凄まじい衝撃が襲っていたのだった。
***
揺蕩うように――夢を、見ていた。
小百合がまだ小学生であった時の夢を。作家になりたいと、そう思うようになった最初の切っ掛けを。
『きのうは、しもの公えんに行きました。お母さんと、お父さんといっしょでした』
作文の発表会だ。懐かしいな――と小百合は思い出す。小さな小さな自分が、両親と遊びにいった休日のことを思い出して作文を書き、みんなの前で発表しているのである。
テーマは確か、大好きな人との楽しい思い出、であったはずだ。少し前の時代なら多分、“お父さんの思い出”とかそんなことを指示されていたのだろうが。近年は母子家庭などに配慮してか、作文のテーマも幅が広く取られるようになったと聞いたことがある。お父さんでも、お母さんでも、おじいちゃんでもおばあちゃんでも友達でも。誰でも、“大好きな人”なら構わない。そういう説明を、先生からも受けたような記憶がある。
『しもの公えんには、はとがたくさんいます。わたしは、はとが大好きです。はとはとってもかわいいです。目がくりくりしています。でも、さわってみようとすると、いつもにげられてしまいます。お父さんとお母さんにも、おいかけたらかわいそうだから、やめてあげてねと言われます』
そんなこともあったなあ、と小百合はしみじみ思う。小さな頃の小百合が好きなものの一つが、鳩だったのである。そのへんを歩いている灰色の鳩を追いかけて遊ぶのが好きで、それはやめなさいと両親に注意を受けたのはよく覚えている。ほとんど小百合を叱らない両親が、こればかりはやめなさいと怒ったことの数少ない一つ。だから余計に記憶に残っていたのである。
理由は――そう、確か。
『どうしてかわいそうなの、とわたしはお母さんにききました。わたしははとを、いじめようとはおもっていません。かわいいので、なでなでしてあげたいだけなのに、どうしてそれがだめなのかわかりませんでした。そしたら、お母さんがいったのです。「はとさんより、さゆりちゃんのほうが大きくて力もちだから、とってもはとさんはこわいのよ。やさしくなでなでしようとしても、けがをさせちゃうこともあるよ。それに、はとさんも、自由にお空をとびたいから、じゃましたらかわいそうなのよ」と』
――そんなことも、言ってたなあ。……私、感動したんだっけ。全然そんな発想無かったから。お母さんは優しくて凄いって思ったし、知らなかったことをたくさん知れて……なんだか、それだけで嬉しかった気がする。
『わたしは、なるほど、とおもいました。お母さんはすごいです。やさしいし、わたしが知らないことをたくさん知っています。はとさんをおいかけて、つかまえるのはやめようとおもいました。わたしも、大人になったら、お母さんみたいにやさしいひとになりたいです』
読み終えた途端、先生と子供たちから拍手が沸き起こる。素敵な作文ですね、とみんなが小さな小百合を誉めた。小さな小百合も嬉しそうに笑っている。今の小百合からすれば、平仮名だらけで、あまりにも拙い文章とも呼べぬ文章だというのに。小百合ちゃんは凄いね、と先生は本心からそう言っているのが見てとれるのである。
『小百合ちゃんは、本当にたくさんのことを見て、感じて、それを自分の中にどんどん取り込んでいっています。みんなも、小百合ちゃんみたいに、たくさんの経験をして、たくさん楽しいことを見て、自分を大きくしていってください。そうやって成長していくことが、大人になるということ。人生を、楽しく生きるということなんですよ』
人生を、楽しく。
たくさんのことを見て、感じて、自分の中に取り込む。
――昔は、そうだったな。……何を見ても新鮮で、楽しくて、面白くて……それを作文にしたら先生もお母さんもみんな喜んでくれて……。
いつからだろう、と小百合は思う。周囲の世界から、自分の中に新しいものを取り込んで、それを楽しむということをしなくなったのは。
何を見ても新鮮さを感じることなく、どこか冷めた眼でばかり流すようになったのは。
――あの時は。誉められるのも嬉しかったけど……それ以前に。作文のネタを、見つけるだけで嬉しくて…………書くことそのものが、楽しくて。
小さな自分と、優しい世界が遠ざかっていく。夢が終わるのを、小百合はどこかで感じ取っていた。
小百合は気付く。話を書くことそのものが、楽しかった時期もあったのに。
いつからだろう。――評価されなければ楽しくないと、そう思うようになってしまったのは。
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