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<第十四話>

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 初音マイ――基樹舞からの最後のメールを見て、桜は携帯の画面をスリープに落とした。
 こんなことをしても何になるのだ、と思わないでもない。公園のベンチに座り、一人息を吐く。完全に自己満足だった。だって、自分は彼女と深い仲の友人というわけでもない。彼女のことなど何も知らないと言っても過言ではないのだ。いくら姫子が調べてくれたプロフィールを見て、舞の作品を見たところで、それがどこまで知ったことになるかと言えば大いに疑問である。
 だから、こんな風に彼女へ励ましの言葉を送っても、そんなものただの自己満足でしかないとわかっているのだ。桜はけして、口が上手い方ではない。メールにしたって、気の利いた言葉が言えるほど文章力やら感受性やらなんやらが豊かなわけでもないのだ。もしかしたらこんな気を回してみたところで、かえって舞を追い詰めてしまっただけなのかもしれない。励ましの言葉が、時にかえって人を傷つけ、苦しめてしまうなんてのはよくある話である。
 それでも。

――少しでも、僅かでも。届けばいいと思ってしまうのは、エゴなんでしょうか。

 舞の作品を、読んだ。特に彼女が大賞を受賞した作品は、隅から隅まできっちりと読み込んだのである。それが彼女という存在を、何より知る手段になると思ったからだ。
 芸術作品には、そのままの本人の本質が出る、と桜は思っている。
 何故なら人は、自分の中に全く存在しないものは書けないからだ。人に優しくし、思いやり深くできる主人公も。誰からも嫌われ、人間そのものを憎む魔王も。いけすかない態度ばかり取って人を傷つけ、それに後悔するライバルも。全ては作者の中に存在する別の人格か、あるいは理想や想定する“何か”を切り貼りして築き上げるものである。だから、“知らない”ものは書けない。“想像さえできない”ものは物語に登場しない。物語は何より、その作者の本質を語る。それがどれほど脚色されていても、本人の意思によって遠まわしになっていても、あるいは歪んでいても。
 そこには、書いた人間の心が宿る。
 むしろ心が殆ど宿らない作品が評価されることは、稀だ。そこに必死で描いた心が誰かの眼に止まり、脳を揺さぶり、心臓を震わせることで評価を受けて世間に出る。小説なんてものは、きっとそうやって世間に放たれていくのである。ただ技術が良いだけ、綺麗なだけの言葉では誰かの心に響くことがないように。

――基樹舞は、ただただ書くことが好きで、描くことが好きで……それが評価されるかどうかなんて完全に二の次で。物語にはそんな、彼女の“創作”への愛が溢れていた。……想いが、いっぱいに詰まっていた。

 彼女自身に自覚はなかったかもしれないが。彼女は評価など気にしないと思いつつも、自分自身の想いが誰かに届けばいいと思って、一心不乱に何かを伝えようとキーボードを叩いてきたのだろう。
 光の少女と、闇の少年。
 それは彼女自身の憧れる誰かと、それから彼女自身の持つ薄暗い感情がいっぱいにつめこまれた――そんなダブル主人公だった。
 いつの間にか彼らに、そして舞自身に。報われて欲しい、と願っている桜がそこにいたのである。それは、ただ入賞だとか評価だとか、そういう話ではないのだ。彼女自身の想いが、一人でも多くの誰かに届いて欲しい。書籍化とは、そいういう手段の一つであったはず。書籍化することで、その世界はより大きく広がり、届けられる人もまた増えることになったはずなのである。それが、彼女にとっては何よりの幸福であり、夢が叶うということであったはずのなのに――。

「あんたって、ほんと分かり易いわよね」

 はっとして桜が顔を上げれば、いつの間に戻ってきたのか姫子がそこにいた。はい、と缶ジュースを手渡される。――桜が大好きな、ホワイトソーダ。冷たくてズバズバものを言うようでいて、こういうところで姫子は本当に気遣い上手だ。
 桜がメールでやり取りしていた時間は、かなり長いものであったはずである。自販機はすぐそこで、ジュースを買って戻るだけならそうそう時間がかかるわけでもないのに。わざわざ時間をかけて戻ってきて、桜に一人になる時間をくれた。揺れた気持ちを落ち着ける時間をくれたのだ、姫子は。
 本当はとても優しい――まだ十四歳の、そんな少女。

「仕事に感情移入しすぎちゃ駄目だって、自分でもわかってるんでしょ。確かに基樹舞のことは気の毒だし、慰めたいと思うのもわからないわけじゃないけど」
「そうですね。……でも意味がないことだと思わなかったから、姫子さんも止めないでくれたんでしょう?」
「……別に。それであんたが満足するなら、それでいいと思っただけよ」

 押し付けがましいことを一切言わないのが、彼女の良いところである。まあ、そんな態度が誤解されることもあるのだけれど。

「初音マイの叩かれぶりはひどいもんだし、掲示板や彼女のプロフィールページは未だに大炎上状態よ。それこそ、あの画像から彼女の本名なんかを突き止めて、晒し上げてやろうって動きもあるくらい。……アルルネシアが仕掛けたこととはいえ、人間って本当に怖いわよね。証拠になるのなんて、あの画像くらいなもんだし……あの画像を流したっていう“スターライツ関係者”って誰よ?ってかんじだし。何であれがフェイク画像だと誰も思わないのかしら。あれくらいの合成、フォトショ一個で私でもできるわよ」
「……そうですね」
「基樹舞は会社にも行けなくなるくらい追い詰められてる。……それこそ、自殺する可能性がないわけじゃなかった。そういう意味では、あんたが止めようとするのも合理的ではあるし、良かったんじゃないの。まあ、あんた程度の言葉で彼女がそういう気を思いとどまれると思ってるわけじゃないけど」
「姫子さんって、優しいですよね。微妙に」
「微妙って何よ微妙って」
「ふふ」

 今の言葉はアレだ。――止められなくても、責任を感じる必要なんてない、と。そういう事を言ってくれているのだろう。
 その気持ちだけで、桜がどれだけ救われているか。きっと姫子は気づいていないのだろうけど。

――これは仕事。毎回こんな風に被害者を思って思いつめてたら、心がいくつあっても足りないのはわかっていますのに。何年戦っても……慣れませんね、こういうのは。

 そういうところが、姫子いわく“人間じゃないのに妙に人間くさいのよ、あんたは”と言われるところなのだろうが。

「人間の闇は、恐ろしいです。自分が正義だと信じたなら、それを執行することになんの躊躇も持てなくなってしまう。いざ、それが冤罪だとわかっても……一体どれだけの人間が謝罪をする勇気を持つでしょうか。多くの者は、自分の悪意が人を追い詰めて、時に命を奪っても……当たり前のように言うのです。“自分は悪くない、だってみんなが言っていたのに乗っかっただけだし、他の人もやってたんだし”と」

 その悪意が、己に向けられることを全く想定できない。因果応報として、その痛みがいつか自分に返ってくるとも思えない。
 ネットいじめで己が逮捕されて、世間から社会的制裁を受けた時初めて理解するのだろうか。あるいは――そうなってさえ、理解しない人間が多いのだろうか。
 いずれにせよあまりにも、虚しい。それが人間の本質の全てではないことくらい、わかっているというのに。

「……舞さんのことも心配ですけど。私は、自分にも失望したんです」
「失望?」
「ええ」

 とすん、と姫子が自分の隣に座る。彼女の綺麗な指がオレンジジュースの蓋を開けるのをちらりと見て、桜は空を仰いだ。

「舞さんは、宇田川小百合のことを全く恨んでいないばかりか……今でも応援したい、仲直りしたいと言っていました。その理由も、メールで聞きました。……彼女の言葉を聞いて気づいたんです。自分の眼もまた、世間の人達と同じように曇っていたということを」

 宇田川小百合のした事は、許されるようなことではない。自分の名誉のためだけに魔法で不正に賞を受賞し、そして罪のない人間の名誉を傷つけ、社会的に抹殺しようとしているのだから。
 だけど、その事実と――同時に、宇田川小百合の周囲の評判と、その小説だけを見て。桜はその時点で、心のどこかで決め付けていた己に気づいたのである。
 小百合は努力もせずに、楽して受賞しようとしているだけの汚い人間でしかない。そんな人間、本当に助ける価値などあるのだろうか――と。

「宇田川小百合の作品は、お粗末なものだと思いました。文章の基礎もできていない。小説として読み続けるのがしんどいほど、キャラクターに共感できない。心理描写も何もかも薄く、構成もまるでなっていない。……でも、それはあくまで、技術だけの問題です。私は彼女のその“技術面”だけを見て、同時に他の人達の評価だけを見て……宇田川小百合が必死にこめた作品への愛と主張を、完全に見落としていました。……私に、彼女と彼女の作品への愛が一切なかったから、見えなかったんです」



『……サヨさんは、私と同じくらい……ううん、私以上に、創作に真剣でした。だから、批判されることが許せなくて、トラブルになることが多かったけれど。そこまで作品に誇りを持って、戦い続けることのできる強さは……コンテストに落ちてそんなに悔しいのに、それでも諦めない彼女の意思が。私には、本当に眩しかったんです』



 宇田川小百合――綺羅星サヨにだって、ちゃんとファンがいた。
 その作品の良さを、彼女の想いを、受け取ってくれる一番のファンがちゃんといたのだ。

――それに。宇田川小百合にだって家族がいる。甘やかしすぎてしまうほど彼女を愛している両親がいる。……娘にもしものことがあったら、彼らがどれほど悲しむことになるか……。

 愛がなければ、見えない真実がある。桜もあと少しのところで、大切なことを見落とすところだったのだ。
 自分にできることが何であるのかはわからない。わからないけれど、まだ出来ることはきっとある。――小百合にはきちんとケジメを取って、その上で正しく生きてもらうべきなのだ。
 彼女を愛する両親と、彼女の一番のファンである彼女のために。

「世の中には、本当の正義も本当の悪もいない。見方を変えれば全ては簡単にひっくり返る。……まあ、それも事実といえば事実よね。個人的には、それでもなお宇田川小百合が制裁されてもそれはそれで、って思うけど」

 姫子はきっぱりと言い放つ。桜の意見も聞きながら、自分自身がブレないのはさすが彼女と言うべきだろうか。

「あんたがそう言うなら、まあ仕方ないと思ってあげる。……助けるんでしょ、宇田川小百合のことも」
「……ええ」

 桜は立ち上がる。思い切りホワイトソーダの中身を飲み下し、よし、と気合を入れ直した。
 知るべきであるはずだ。宇田川小百合は、己の一番のファンの気持ちを。自分が一体、誰を切り捨ててしまったのかを。
 そして生きて、するべき償いをしなければなるまい。――もう二度と、こんな悲しいすれ違いなどしないように。
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