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<25・応報。>

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 あいつは一体何処に行ったんだ。
 斉藤権蔵は辺りを見回して舌打ちをした。戸建の家で追い駆けっこをした上、竹林に入ったあたりからあの男を見失ってしまった。

――なんと逃げ足が速い……!我々を相手に、こうもあっさりと……!

 あの御堂の人間を名乗る男には、いろいろ訊きたいこともあった。
 ジャクタ様に仕え、最もジャクタ様の意思に忠実であるべき人間が。一体どういう理由でジャクタ様を裏切り、儀式の邪魔をしようとしているのか。自分としてはどうしても気になるところである。
 同時に、ああいう手合いを始末するのに使者様の手を煩わせたくはない。裏切り者を消すのは、ジャクタ様に選ばれた人間の役目だ。だからこそ、自分達の手でケリをつけたかったというのに。

「駄目だわ、おじいちゃん!」

 竹藪の影から顔を出す美紅。

「あいつ、何処にもいない!マジで逃げやがったっぽい!……おじいちゃん、なんかこう、不思議な力とかで探せないの?」
「残念ながら、おじいちゃんは御堂家の人間ではないから、特殊能力を持っているわけではないんだよ」

 彼女の言葉に、権蔵は眉を寄せた。

「御堂家から、この魔術武器を借り受けただけでなあ。……しかもこの武器も、オリジナルではなく模造品だしな」

 美紅の前に、血に塗れた日本刀を掲げて見せる。普通、人をたくさん斬れば斬るほど刃は油と鉄で汚れ、切れ味が悪くなるというものである。しかし、気の力を帯びているというこの刀は、どれほど人間の骨と肉を断っても一向に刃こぼれしたり切れ味が鈍る様子はなかった。
 やるつもりはまったくないが、この刀ならばある程度使者相手でも戦うことができるという。
 ただしそれは、刃に気の力が宿っている間ならば、の話。あまり乱用しすぎると力がどんどん剥がれ落ちていくから気を付けるようにと指示は受けている。そろそろ、普通のニンゲンを殺す時は他の武器で代用した方が良いのかもしれない。さっきの御堂の男はこちらを攻撃してこなかったが、万が一抵抗されたら厄介な存在でもある。御堂ということは、なんらかの魔術武器を所持していたり、特殊能力を持っている可能性が高いのだから。

「まだそんなに遠くには行っていないはず。近くの家の敷地に逃げ込んだのかもしれん。もう少し三人で辺りを探して……」

 権蔵がそこまで言った時だった。ふと振り返ると、少し後ろを歩いていた美姫が上の方を見上げてぽかーんと口を開けている。唖然としていると言えばいいのか、理解が追い付かなくて固まっているといえばいいのか。元々童顔の彼女が、完全に子供に戻ってしまったような表情だった。

「美姫、どうしたんだい?」

 何か気づいたことでもあったのだろうか。権蔵は彼女の傍に近づこうとする。

「上には竹しかないと思うが……」

 竹林の中なのだから当然だ。彼女の視線を辿ろうとした、まさにその瞬間。美姫の唇が、思いがけない言葉を発した。

「綺麗……あれがひょっとして、使者様、なのかな?」
「え」

 刹那。何か大きなものが、上から降ってきた。丁度、権蔵と美姫の間に降り立つように。

「ぎっ」

 悲鳴が果たして聞こえたかどうか。一瞬鈍い声がしたかと思うのと同時に、ぶしゅううううう!と真っ赤な液体が噴水のように噴き上がっていた。美姫が立っていた、まさにそのあたりから。

「え」

 それは、さながら昔話の桃太郎を想起させるような光景。
 桃太郎は、おじいさんが包丁で真っ二つに割った桃の中から出現した。桃だというのだからきっと果汁もたくさん詰まっていただろうなとか、真っ二つにした時に果物の汁が飛び散ってべたべたになっちゃったんだろうな、なんて子供の頃に思った記憶がある。結局、そういうリアリティなることにまったく触れられないまま昔話が進んだので、自分の疑問に答えてくれる人は誰もいなかったわけだが。
 そう、まさにそんな感じだと言えばいいのか。
 美姫の体は、頭から縦に――真っ二つに割れて、左右に崩れ落ちていったのである。その間から、どろどろと肉片と臓物の断片を溢れさせながら。大量の血液を、あたりに飛び散らせながら。

「み、美姫……?」

 それをやったのが、たった今権蔵に背を向ける形で降り立った謎の生き物であるのは明白だった。そいつは、灰色の長い鬣のような髪をなびかせ、背中を丸めてしゃがんでいる。全裸で、肌は異様なほどドス黒かった。鬣以外に毛らしきものは生えていない。少なくとも後姿は、猿よりも人間に近いそれ。
 そいつが、ゆっくりと権蔵を振り返った。ぎょろんとした、真っ赤な目玉をこちらに向けて。その鋭い爪を湛えた手に、美姫の腸らしき臓物を絡ませて。

「ひいっ……!」

 ギリギリのところで、腰を抜かすことだけは免れた。これが使者様と呼ばれる存在なのだ、と早々に解答を得たからというのもある。
 だが、その次に湧き上がったのは疑問だ。使者は、あくまでジャクタ様の儀式を早々に完了させるために放たれるものではなかったか。何故、儀式に協力的で、多くの人間を常世に送る手伝いをしていた美姫を殺すのか。

「い、いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!美姫、美姫いいいいいいいいいいいいいいいい!!」

 数秒遅れて、美紅の絶叫が上がった。二人は仲の良い姉妹だった。だからこそ、揃って権蔵についてきてくれたとも言う。まさかそれが、突然真っ二つという無惨な形で、あっさりと殺されるなんて思ってもみなかったことだろう。

「み、美紅!後ろ!」
「え」

 頭を抱えて叫んだ美紅は、刀を抜くことさえ忘れていたようだ。そして、真後ろに降り立ったもう一体に気づかなかった。彼女が振り向くよりも先に、後ろから両腕を怪物に掴まれてしまう。
 ああ、そうだ。神聖な“使者様”に違いないとわかっていながら――たった今権蔵は、孫娘を殺したそいつらを怪物だと思ったのだ。それほどまでに、真っ赤な目と、黒く焦げた猿ようのような見た目と、その残酷性が恐ろしかったがゆえに!

「な、何す」

 美紅が何かを言おうとした次の瞬間、ぼぎり、と嫌な音が鳴っていた。猿の怪物が、思いきり美姫の右腕を後ろに捩じり上げたからである。それは、肩の可動域を著しく無視したものだった。あっさりと骨が砕ける音。彼女の喉があまりの苦痛に掠れた音を漏らすばかりのところ、さらに怪物は追い詰めるように動き始める。
 なんと、砕けた方の骨を起点に、ぐいぐいとハンドルでも回すように彼女の腕を捩じり始めたのだ。ぶちぶちぶちぶち、と肩のあたりから筋が千切れる嫌な音がして、破れた皮膚から折れた骨が覗いた。

「ぎ、ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?痛い痛い痛い痛い痛い!う、うでっ……私の手、手えええええ!」
「み、美紅ー!!」

 ぶちぶちぶちぶち。
 筋と肉が引きちぎれ、彼女の右肩から腕がもぎとられた。ぶしゅうう、と激しく噴出す血。怪物はそれでも飽き足らないと思ったのか、今度は左腕に手をかける。

「いだい、いだい、いだいよおお……やべで、だず」
「い、今行くからっ」

 恐ろしいことに、美紅はまだショック死できずに白目をむいて呻いている。そのジーンズの股間が、ぶしゅうう、と苦痛で大量の尿を吐いていた。早く病院に連れていってやらなければ。そうだ、使者様はきっと何か勘違いしているのだ、自分達は儀式に刃向う愚か者ではなくて――。

「ごぼっ!?」

 しかし。権蔵は、美紅の元に辿りつくことは叶わなかった。それよりも前に目の前に美姫を殺した使者が立ちふさがっていたからだ。
 衝撃とともに、己の腹に使者の右腕が埋まっていた。激痛。体内で、ぐねぐねと何かの指が蠢く途方もない不快感と異物感。ゆっくりとその腕が引き抜かれていくのを見ながら、ごぼごぼと権蔵は血を吐いた。
 怪物が引きずり出したのは、美姫のそれと同じ。ぬめぬめと赤黒く照り光る、腸管だった。しかも、それをゆっくり自分の口元に運ぼうとする。
 生きたままはらわたを喰われるのだ。そう実感した時、ようやく激痛を上回るほどの恐怖が権蔵の前身を襲った。

――い、嫌だ、死にたくない!

 内臓を引きずり出されながら、地面に倒れる最中。権蔵は真っ赤になった頭で思い続けていたのだった。


――死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!ジャクタ様、何故ですかっ……!?わ、私達は、儀式の協力をしていたというのに、だから、現世で、お助けを……それなのに、な、ぜ。



 ***



「いやあああああああああああああああああああああっ!」

 先生達に協力することも、彼等の為に死ぬこともできるはずなんてなかった。
 悲鳴を上げて、花林は死屍累々の教室から逃げ出す。逃げ出しながら、自己嫌悪で消えたくなっていた。ひょっとしたらまだ、教室で生きている人もいたのかもしれない。それなのに、自分は、自分だけあの場所から逃げ出すのかと。深優も、それ以外の人達もみんな見捨てて。

――ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!

 先生達に違和感を覚えたあの時、会議に使われていた部屋を覗いたら。星野先生が殺されていることに気づいていたら、企みに気付けていたかもしれないいのに。
 もっと言えば、最初に先生達が“使者から身を守る”ことばかり考えて、人間同士の殺し合いが起きる可能性を考慮していないことがおかしかったのだ。彼等はきっと、ほぼほぼ最初から集まった人達をみんな殺して、一気に生贄の数を稼ぐつもりでいたのだろう。

「!」

 玄関から逃げようとしたものの、それは想定通りだったらしい。バリケードでがっちりと靴箱の前は塞がれている。

――そ、そうだ……!それで、一階の他の窓は全部……!

 さっき、自分達で全部塞いでしまったのではないか。それを外していたら、確実に先生達に追いつかれてしまうだろう。

「一階から脱出なんてできない、わかってるだろうー?」
「!」

 すぐ後ろから教頭先生らしき声が聴こえてきた。花林ははっとして、玄関からの脱出を諦めると二階への階段を登り始める。
 背中から、笑い声。

「無駄なのに。一体君は、何処に逃げるというんだい?」
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