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<2・朝食。>

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「えー、いいなあミソカツ。私も食べたいよー」

 電子レンジを開けながら、平塚花林ひらつかかりんは思わず本音が漏らしていた。
 現実は無情だ、関東には冷凍食品でさえソースカツが精々である。がんばってもソースのかかってないカツに、みそソースをかけることしかできない。胸ポケットのスマホに向かってぶーぶーと文句を言うと、イヤホンの向こうから軽やかな母の笑い声が聞こえてきた。

『残念でしたぁ!……まあ、花林ちゃんテスト期間だったんだからしょうがないでしょ。今度連れてってあげるわよ、名古屋。名古屋城も良かったわよお』
「私がテストの時に行くのがいけないんだー。次は私と亜林ありんもちゃんと連れてってよね。置いていくなんて酷いんだから」
『はいはい。ていうか、他にも旅行先の候補挙がってるから、次に行くのが名古屋とも限らないんだけどね。那須高原も距離のわりに行ってないし』
「そりゃ、那須も素敵だけどさあ。私は新幹線に乗りたいんだよ、新幹線に」
『女の子なのに電車が好きなんだから、花林ちゃん変わってるわよね』
「もう」

 現在、花林は自宅で朝ごはんとお弁当の準備中である。キッチンには、弟の亜林が踏み台を使って立っていた。彼の手には、その小さな掌に似つかわしくない大きなフライパンが握られており、じゅーじゅーと軽やかな音を立てている。まだ小学五年生なのに、弟は随分器用だった。低学年の時から母を手伝って料理をしていたのが大きいのだろう。
 今、この家には花林と亜林の姉弟しかいない。両親は揃って遠く名古屋の土地に旅行に行ってしまっている。父が、“そうだ、名古屋城を見よう”と突如として言いだしたのが問題だった。良くも悪くも行動力の塊である彼は、そのまま思い立ったが吉日でホテルなんかをぱぱぱぱっと予約してしまったのである。
 問題は、その時丁度花林がテスト期間で、とてもじゃないが旅行に行けるタイミングではなかったこと。
 優しくてしっかり者の弟が花林に付き合って一緒に家に残ってくれて、今に至るというわけである。相変わらず空気が読めない母は、朝の忙しい時間帯スマホに電話をかけてきてこの状況というわけだった。

「せめてお土産買ってきてよね。ミソカツそのものが無理なら、せめてミソカツ味のお菓子とか。あ、手羽先味のポテチとかも!ていうかういろも食べたいー」

 熱々になった冷凍コロッケを、器用に弁当箱に詰めていく。今日は、花林も亜林も共に弁当が必要な日だった。明後日になれば二人とも家に帰ってくるし、それまではほぼ冷凍食品の弁当でやりくりするつもりでいる。花林も弟も冷凍食品は大好きなので、さほど問題はない。ちなみに、花林が弁当を作っている間朝食の用意をするのは亜林の仕事である。

「私と亜林の分、山のようなお土産を所望であるぞー。でないと許さないなり!」
『はいはい、わかってるわよ。あ、そろそろ急がないと遅刻するんじゃない?』
「わかってるならこの時間に電話してくんなし!じゃあ、切るからねー」
『はいはーい』

 まったくもう。と花林はため息をついた。十七歳の娘と十一歳の息子を自宅に置いて旅行にいきながら、罪悪感の欠片もないとは。まあ、それもこれも、置いて行かれたところで自分達ならどうにかなるという信頼の証なのかもしれないが。

「姉貴、目玉焼きできたけど」

 皿に朝食を盛りつけながら、亜林が言う。

「今日は塩?ソース?醤油?」
「今日はソース派になるー」
「おっけ」

 目玉焼きにかけるものの一番は何がいいか?花林も亜林も、その日によって変わるタイプである。
 お弁当にご飯を詰めたところで、こっちを忘れるなと言いたげに洗濯機がピー!と音を立てた。さっさと食べて洗濯物を干さなければ。



 ***



「亜林、ガスとか見てくれた?」
「見た。姉貴こそ、窓の鍵チェックした?」
「したした。じゃあ行ってきまーす」
「行ってきますー」

 誰もいなくなった一軒家に一応挨拶だけして、二人は仲良く家を出た。
 まだ七時半という時間。それなのに、朝練もない二人が一緒に家を出るのには理由がある。学校が、徒歩で四十分もかかる距離にあるからだ。これでもまだ自分達は近い方である。
 T県T群、尺汰村しゃくたむら
 此処が、自分達が生まれ育った故郷だった。
 広大な敷地の割に、住んでいる住人の数は数百人程度。それでも時々東京から移住者が来るのは、この村が自然豊かで過ごしやすい場所であるから、らしい。東京のごみごみとした都会の空気に疲れた人からすると、この村は半ば天国のように映るらしかった。
 実際、両親はそんな村の雰囲気に憧れて、花林が生まれる前にこの村に移住してきた人間である。自分達はこの村しか知らないが、両親からはことあるごとに“東京よりよっぽどストレスもたまらないし、時間に縛られなくて良い”という話を聴く。父は現在、自宅から少し離れた場所にある工場で働いているのだった。母の方は専業主婦である。

「いい天気ー!」

 うーんと伸びをしつつ、弟と並んで学校へ向かう。この村に、学校と呼ばれる場所は二つしかない。一つは農業の専門学校で、もう一つが自分達が通う尺汰村分校だ。村の人口が人口なだけあって、子供の数は多くない。小学生から高校生まで、みんな同じ学校で勉強しているのだった。
 学校までの距離こそあるが、この長い距離を歩く時間が花林は好きではない。元々歩いたり走ったりが好きで、同い年の友達と二人だけの陸上部もやっているくらいなのだ。
 雀がちょこちょこと歩いている田んぼのあぜ道。
 五月蠅いほどの蝉の鳴き声。
 肌にじっとりと感じる湿気さえ、季節を感じさせてくれると思えば悪くない。もうすぐ、大好きな夏休みがやってくる。去年は夏休みに、尺汰山へみんなでハイキングに行った。自分達の通学路からでも、青空をバックに聳えたつ山がよく見える。まあ、こうして見ると大きくみえるものの、実際は山というより丘と言った方が良いほどの小さなものなのだが。

「今日のうちに布団干しておけばよかったかもなあ」

 隣を歩く亜林が、スマホを見てぼそりと言った。

「明日、天気崩れるかもしれないって。朝は大丈夫だけど、昼以降は雨が降るかもしれないって言ってる」
「マジで!?こんなにいいお天気なのに?」
「マジマジ。まあ、今日の夜にはまた予報変わってるかもしれないけどさ」
「そっかぁ。雨は嫌いだなあ」

 よいしょ、と学校の黒い鞄を背負い直し、花林は深々とため息をつく。
 田んぼの横の道を抜け、小川の橋を渡ると――丁度、T字路の右手から歩いてくる少女の姿が見えた。長いしっぽのようなポニーテールに長身。花林と同い年で同じ陸上部員の、国枝深優くにえだみゆである。

「深優ちゃん、おはよう!」
「あ、おはよう花林」

 こっちを見た深優は、やや曖昧な顔で笑った。いつも明るく元気な深優らしからぬ態度である。顔色もあまり良くないような気がする。どうしたの?と花林が尋ねれば。

「……いやさあ、朝、ちょっと嫌な話を聴いちゃって。うちのおばーちゃんが凄い怯えてて、大変だったのよ」

 深優はぽりぽりと頭を掻いた。

「花林ちゃんは聞いてないかな、死体が見つかった話」
「死体ィ!?なんじゃそりゃ!?」
「その様子だと二人とも知らないっぽいか」
「し、し、知らないよね、亜林?」
「知らない」

 思わず、弟と顔を見合わせてしまう花林。晴天の爽やかな朝に似つかわしくない、なんとも物騒な単語である。どこかで誰かが死んだ、というだけでもバッドニュースだというのに、死体という言い方ならば――それは真っ当な自然死ではなかったということなのだろう。

「私の家、一昨日からお父さんもお母さんも旅行行っちゃってるから……大人達の話とか全然耳に入ってこないんだよ」

 花林が言うと、それもそうか、と頷く深優。

「知らなくても無理ないね。大人の間じゃ結構大騒ぎになってるの。……なんかね、禁域に入った馬鹿がいて、何かとんでもないことをやらかしてくれたんじゃないかって」
「禁域って」

 その言い方で、思い当たる節は一つしかない。
 この尺汰村が、かつてあった場所――旧尺汰村である。六十年ほどまで、“何らかの理由”で尺汰村は移転を余儀なくされたと聞いている。山の上の方にあったのが、突然山の麓に移されたというのだ。何故そうなったのか、については知らない。いかんせん花林が生まれるずっと前のことだし、なんなら両親もこの村に移住してくる前のことである。

「旧尺汰村って、危ないから絶対入るなって言われてるはずだろ」

 亜林が呆れたように言った。

「村の人ならみんな知ってるはずだ。建物は崩落しかかってるし、土砂崩れで潰れてるところもあるし、道も整備されてないからって。それなのに、足を踏み入れた馬鹿がいたのか?」
「いたみたいよ、それが。つか、この近隣に住んでる人間じゃないんだって」

 やれやれ、というように深優が肩を竦めて言った。

「あたしも、ざっくりとした話しか聴いてないんだけどさ。何でも、東京からきたユーチューバーってやつらしいの。そいつらが禁域に勝手に入り込んだ挙句、死んでたっていうのよね」
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