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<最終話>
しおりを挟む「お、やっと晴れてくれたよ」
窓を開けて、フレイアは声を上げた。ここ数日降り続いた雨が嘘のような快晴である。からりとした空は、水色というより薄青色のグラデーションだ。どんな絵の具を重ねてもここまで鮮やかな色を出すことは出来ないだろうとフレイアは思う。木々なビルの軒先から垂れる雨の滴に、青色が反射してぽたりぽたりと滴り落ちる。前の大通りからは、子供たちがはしゃぎながら水溜まりで跳ねている。
――そーゆーことて服濡らすと、お母さんに叱られっぞーガキどもー。
わざと長靴を履いて水溜まりに嵌まりに行く小学生達を見ながら、心の中で呟いた。どうしてこう、子供というのは珍しくもなんともない水溜まりにはしゃぎ、長靴を履くだけでテンションが上がるのだろうか。まだ道はぬかるんでいる場所が多い。子供達の多くが長靴履きなのはごく自然な流れだろう。ただし、大人ならやらないようなことをわざわざやりに行くのが子供というものだ。乾いた道路を歩くより、わざわざぬかるみを歩いて進むことを好むのである。
そして、意図的に歩きにくい場所を選んだ結果、転ばなくてもいいところで転んで靴や服を汚すのだ。一体どれほど世間のお母さん達がそれで頭を悩ませたことだろうか。――ごく一般的な“悪ガキ”だったフレイアは、そうやって親を困らせてはゲンコツを食らったクチなので、よく分かっているのである。
「フレイ、窓を開けたらフォークと皿用意してくれ。まだ食器棚の配置は把握してないんだ」
事務所の奥――キッチンから声がかかる。パンとベーコン、目玉焼きが調理される美味しそうな音と、いい臭いが漂ってる。――漂ってるのはいいのだが。
「…………いろいろツッコミてぇんだけど、何故に当たり前のようにトリアスはそこにいんの?」
フレイアはひきつった笑みで答えて、そして。
「んでもって、どうして近くにいるテクノ氏ではなくて俺に頼むのデスカ」
「そりゃそうだろう。テクノはお前がブン投げた経理の仕事で忙しい。お前の方が遥かに暇だろう?」
「フレイアさん、経理の方がやりたいなら遠慮なく言ってくださいねー徹夜しまくってめっちゃイライラしてる僕の気持ちが少しはわかるんじゃないですかねコンチクショウ」
「コンチクショウって言った!?今!?」
キッチンでしれっとエプロン姿のトリアスと、パソコンに向かって真っ赤に充血した目で薄ら笑いを浮かべているゾンビも真っ青なテクノ。なんだこの謎の布陣。そしてテクノさんそういうキャラでしたっけ怖いんですけど。フレイアは部屋の隅に避難してガタガタと震えるしかない。
「お酒が残らない奴はいいな。昨日は散々迷惑かけてくれたくせに。本当に何も覚えていないのか。俺とテクノにあんなことやこんなことやいっぱいやってくれたくせに、なあ?」
よく見ると、トリアスもご機嫌斜めである。これは相当まずいのでは、とフレイアは必死で昨夜の記憶を思い出そうとした。そして、僅かに記憶の端に引っ掛かってきたサンフラワーワインの空のボトルと、脱ぎ散らかされたスーツ、としてよくわからない蛇のようなものがのたくっているカンバスやら資料の裏紙やら――。
――……やべえ。覚えてるようで、覚えてねえぞ。
トリアスの裁判の判決が出てから、今日で三日になる。
昨日はお祝いだー、と言ってボトルを開けて――そうだ、行くところのないトリアスがしばらく事務所に厄介になりたいと言ってきて、料理や洗濯などの家事もできるというから快諾して――しかし、そこから先がまるで記憶にない。
呻きながら見つめる先には、カレンダーの横にデカデカと貼られた紙がある。“絶対禁酒!!”の四文字は、誰がどう見てもテクノの文字だ。そうだ、フレイアも自覚していたのだ、己の酒癖が壊滅的に悪いことくらいは。十八歳ならば法律上は酒を飲める年齢ではある。あるのだが。
「…………スミマセン、デシタ?」
カタコトかつ疑問系で告げれば、二人揃って恐ろしく冷ややかな視線が投げ掛けられた。しかもテクノが血眼になってパソコンに向かっているということは――どう見ても自分は、彼の仕事を邪魔してしまったのだろう。パソコンがさほど得意ではないフレイアに代わり、資料作成や経理を担ってくれているのはパラリーガル兼事務員のテクノの仕事になっている。本来は、フレイア自らやらなければならないことであるにも関わらず。
「フレイは今後一滴の酒も飲むな。俺に魔法で消し炭にされたくなかったらな」
慈悲もなくトリアスは言い放った。ああそんな殺生な、と思いつつも反論できないフレイアである。仕方なく、言われた通り食卓の準備をすることになる。狭い食事スペースに詰まれた本やらティッシュ箱やらを片付けて皿を並べにかかった。――少しだが収入もあったのだし、そろそろ欠けた皿を処分して新しいものを買うべきかもしれない。
皿とコップを並べると同時に、フライパンを持ったトリアスがやってくる。長い髪が邪魔らしく、後頭部でくるくると丁寧に一纏めにしてくくられていた。綺麗な白いうなじが見える。後ろから見ると普通に女の人に見えるかもなあ、とぼんやりと思った。元より、魔王ジョブの人間は見目が綺麗なだけではなく、大抵が体格に特徴を持っているものなのである。男女どちらであっても、さほど体格が屈強であることはない。筋肉がつきにくい体質が多いらしい。そして細腕のわりに、大剣を振るえる程度の腕力はあり、そして女性であってもそれなりに長身であることが多いのだとか。
一般の成人男性より少し背が高いトリアスは、見事なモテル体型だ。エプロンをしていても様になるのだから、イケメンというやつは凄い。
「フレイ」
そしてそのトリアスは。フレイアのことを、今は愛称で呼ぶ。
「……そうやって呼ぶと、子供の頃に戻ったみたいで少し不思議な気分だな」
「確かになあ」
「しかもお前は、子供ながらになんとなく気付いてたんだろ?俺の正体に。それでも何も、言わなかった」
「まあ、なぁ」
法廷では、けして明かさなかったこと。
フレイアは子供の頃の一時期だけ、アネモニ村に住んでいたことがあったのである。両親の仕事の都合だった。当時からフレイアは変わり者で、皆と遊ぶより一人で絵を描いている方が好きな子供であったのである。
男の子は活発な方がいい、絵を描くのが好きだなんて女の子みたいだ、男らしくない――子供達にも、先生にさえそう言われて諭されたフレイア。虐められるほどではなかったが、いつも悲しくてならなかったのである。どうして、男の子は外で遊ばないといけないのだろう。絵を描いたり、可愛いものを好きになったりしてはいけないのだろう。そんなフレイアのことを、唯一認めて応援してくれた友人が――トリアスだったのである。
『フレイは、将来絵描きになればいいと思うな!』
あの頃のトリアスは、フレイアよりもずっと元気一杯で活動的な子供だった。誰よりも格好よくて、誰よりも運動ができる彼はみんなの人気者で――馬鹿にされてきたフレイアを、唯一庇ってくれたのが彼だったのである。
『人がなんて言おうと関係ないさ。お前はお前が好きなものを貫けばそれでいいだろ。いいじゃん、絵を描くのが好きな男の子がいたってさ』
フレイアが、両親とアネモニ村に住んでいたのは本当に短い期間に過ぎなかった。だが、フレイアはずっと、自分を助けてくれた彼のことが気になって仕方なかったのである。
それは、フレイアが早い段階で、みんなの人気者であったトリアスが――人とは違う存在であることを察知していたからに他ならない。
魔王と呼ばれる存在は、両性具有であるがゆえ体の悩みを抱えることが多いとされている。トリアスもそうだった。多分彼は当時はまだ自らが魔王であることを両親から知らされていなかったのだろう。八歳の時、男だと信じていた自分の体に生理が来た時。彼は誰にも相談できずに泣いていたのである。そして、気がついてしまった。自分が普通の男の子ではないらしい、ということを。
トリアスが唯一悩みを相談してくれたのはフレイアで。フレイアの方はたまたまテレビで見ていて“魔王”というものを知っていたがゆえ――薄々察して、彼を励まし、こっそりと彼の母親を呼びに行ったのである。
そして、自分は普通の子供ではないかもしれない。気持ち悪いとみんなに思われたらどうしよう――そう嘆いていた彼に、フレイアは言ったのだった。
『お前は何も悪くないだろ。……忘れんなよ。お前の味方は、ここにちゃんといるんだぜ』
それが、おおよそ十年前のこと。
フレイアはトリアスのことも、名前もよく覚えていた。しかしトリアスの方は、辛いことが多すぎたせいもあって、事実は覚えていてもフレイアの顔や名前は忘れてしまっていたらしい。初見の、妙につっけんどんな態度はそういうことだったわけだ。
「俺は。お前がくれたものを返しただけだ。……自分は、自分らしくしていていいんだって。たった一人の自分として、好きなように生きればいいんだって。……いつか俺も、お前にそうやって返してやりたいって、ずっとそう思ってたってだけさ。魔王として生まれた以上、いずれ壁にブチ当たるのは目に見えてたしな。…………けど」
目の前に置かれる、ほかほかの目玉焼きとベーコン、バタートースト。その温かい料理に目を落としながら、フレイアは告げる。
「もう少し……もう少し早くお前を見つけてりゃ、こんな苦しい思いはさせずにすんだのにな」
魔王トリアスの無罪は、証明された。政府の息がかかっているはずの裁判長は、裁判員達の強い意思を尊重し――初めて、魔王が絡んだ裁判において正しい判決を下したのである。
だが、裁判で無罪判決が下ったにも関わらず、世間にはまだまだ厳しい声が少なくない。本当にやっていないのか、本当に政府が裏で糸を引いていたなんて信じられない、スナップドラゴン盗賊団が捕まるまでは到底信じられない――そう叫ぶ者達やリリー教の信者などは、未だにトリアスが真犯人だと信じて疑いの目を向けてくる始末である。
それに。――今回の一連の事件だけでも、トリアスは最低でも二度性犯罪の被害に遭っている。どれだけ恐ろしかったことか。どれだけ痛かったことか。特に二度目の、取り調べ官――何故奴が懲戒解雇処分を受けただけで済んだのか。忌々しいにも程があるではないか。
――こんなことなになる前に、トーリアを見つけてりゃ……こいつは、そんな目に遭わずにすんだってのに。
後悔してもしきれない。
立場の弱い人達の真実を照らすために、一人でも多く弱い人達の心を救うために――弁護士になった、はずだったというのに。
「充分だろう。……お前は充分、俺を救ってくれたさ。お陰でやっと、ウンディーネの墓参りにも行けたしな」
アネモニ村で唯一両親以外の理解者だったという、恋人の女性の名を呟いてトリアスは微笑む。
「先代魔王、ルネが。どんな理由があったとしても、許されざる大虐殺を起こしたのは事実。そしてどれほど迫害されたとしても、他にも実際に犯罪に走ってしまった魔王がいたのも間違いのないことだ。修羅の道であることは最初から明白だった。それでも、お前は俺を信じて、その道を走ってくれると決めたんだろう。……俺にとって、それ以上の幸福はない」
世界が、急激に変わることなど有り得ない。
あの裁判を一部のマスコミが記事にし、一部は人伝に情報が拡散したことから一般に広く知られることとはなかったが。それでも、だから急に魔王への偏見がなくなるということはないのだ。
こうしている間にも、ルネやトリアスのように苦しみ、地獄の中で最悪の選択をしようとしている魔王がどこかに存在するかもしれない。そして、あの裁判を経てなお、まだ“世界の平和のために、魔王という生け贄が必要だ”と考える高官達が存在するのも事実なのだろう。
だが、それでも。――誰か一人、何か一つ変わることがあれば。それは未来に、確かな意味を残すはずなのである。
検事を努めたボルガが、上の圧力を撥ね付けて上告を取り止めたように。
無罪を勝ち取ったトリアスが、自分も弁護士になりたいという夢を持つようになったように。
『最後に。どうか、皆さんにはもう一度、心の底から考えて欲しいのです。たまたま、生贄の羊に選ばれたのは魔王だった。でも、その矛先は、誰が選ばれてもおかしくないものなのです。目の色が違う、肌の色が違う、住む土地が違う、話す言語が違う、ジョブや職業が違う……それだけで、たったそれだけで人は簡単に人を差別して、悪意を向けることが出来てしまいます。ルネがしたことはけして許されることではなかった。それでも……そんな人々の悪意が彼女を追い詰めなければ、きっとあの悲劇は起きなかった。キャサリンさんやマチルダさんが、政府に依頼されるまま……嘘の証言をでっち上げるような真似をすることもなかったかもしれません』
最終弁論で、フレイアは皆に向かって語った。
どうか一人一人が、己の中の真実を見極めて、そしてどうか少しでも人の痛みに敏感になってくれることを願って。
『本当の魔王は、私達全員の心の中にいる。私達がそれを認め、心の中の魔王に打ち勝てば……きっともう、この世界で同じ惨劇は繰り返されないはずです』
綺麗事だとしても、貫いてしまえば真実になる。
遠い遠い未来だとしても、自分達が願い続ければ――きっといつか、それを本物にすることができるはずである。
「じゃあ」
フレイアは手を合わせると、焼きたてのパンにかじりついて、笑った。
「トーリアは、これからはもっともっと幸せになれるな?……よろしく頼むぜ、新しいパラリーガルさん」
想いがつまった朝御飯は、トリアスが笑ってくれたのと同じくらい――最高に美味しい、宝物になった。
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