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バケモノの理由
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「あたし、バケモノなの」
僕の受け持ちクラス、三年二組の少女――木本舞花はそう言って俯いた。少しぽっちゃりとした、されどボブヘアーがとても可愛らしい女の子である。
だからこそ、僕は言われた言葉の意味がわからなかった。彼女は何をもってして、自分を“バケモノ”などと呼ぶのだろうか。
「え、えっと……」
担任の教師として、相談に乗った一人の大人として。生徒とは真正面から、対等な気持ちで向かい合うのが筋だと思っている。勿論理想通りに行かないことも今まで多々経験はしているが、こっちが生徒をナメてかかったり面倒だと少しでも思えばそれは必ず彼らに伝わってしまうものだ。
理想に燃えた一人の教員として、僕にも譲れないものはある。僕らは同い年にはなれないし、“家族”や“友達”と呼べるほど近い距離には行けないかもしれないけれど。同じ場所で過ごす、言わばとしの違う仲間と呼んでも差し支えない存在だ。僕はそれくらいには彼らを尊重してきたつもりだし、クラスの子供たちもそれなりに自分のことを認めてくれたように思うのである。
実際小さなトラブルはいくつかあったが、この十月になるまで大きな問題らしき問題は起きていない――はずだ、少なくとも僕が知る限りでは。
こうして毎日放課後に一人ずつ相談に乗る“高橋先生相談室”を企画してからは、よりみんなとの距離も縮まったように感じていたところだ。そう、こうして目の前の彼女、舞花が話をしに来てくれたのも、自分のことを信じてくれた結果に違いないのである。
だからこそ、応えたい気持ちは僕とて強い。強いのだが。
「バケモノなの、あたし」
僕が戸惑ったことが伝わってしまったのか。先程より少し強い口調で、舞花は繰り返した。
これではいけない、と僕は自分を戒める。なんのために小学校の先生を志したのか忘れたか、高橋稔。一人でも多くの子供達が、笑って未来に羽ばたけるよう精一杯のサポートがしたいと、そう誓いを立てたのではなかったのか。
「……バケモノって、どうしてそんな風に思うのかな?」
こういう相談で大切なことは、相手の言葉を頭から否定しないこと。なるべくどんな言葉であろうと受け入れて、肯定的な姿勢を見せることだ。僕はカウンセラーではないけれど、それくらいは教師として心得ているつもりである。
「先生から見ていると、舞花ちゃんはとっても可愛い女の子だと思ってるけど」
「……ほんと?」
「うん、本当。お洒落さんだし、笑顔がとっても素敵だと思うよ」
舞花の顔が少しだけ明るくなる。彼女は髪飾りから筆箱やキーホルダーにも拘りがある、お洒落や可愛いものが大好きな女の子だ。髪の毛も毎日きっとかなり丁寧にブローしてきているのだろう。長い時には自分でみつあみも作れたんだよ、と以前教えてくれたことがある。
「じゃあ……!」
だから、彼女は可愛いと言われることがとても嬉しい筈で。実際一瞬、わかりやすいほど顔を輝かせてくれたのだが。
「…………ごめんなさい。やっぱりいい」
「え?」
「あたし、先生が絶対答えられないようなこと、今訊こうとしちゃった。だからあたし……やっぱりバケモノ、なんだと思う」
彼女の中でどんな結論がぐるりと回って出されたのかはわからない。ただ、何かを言いかけて押し黙った彼女の顔は、先程までよりもずっと暗く沈んだものになってしまった。
そこで何となく理解する。彼女が“バケモノ”と思ったのは、外見ではなく内面の問題であるらしい、と。何か嫌なことを考えてしまったのだろうか――例えば、嫌いな子がいなくなってしまえばいい、とか。だから、そんな自分の考えが嫌で、バケモノ見たいに恐ろしいものと思えたのか。
「嫌なことや悪いことを考えてしまうとか、それで失敗したなって思うのは誰でもあることだよ?誰だって、綺麗な心だけ持ってるわけじゃないんだからさ。先生だって、毎日結構酷いこととか、情けないこと考えてるよ?」
だからね、と。頭を撫でられるのが大好きな、舞花の頭をよしよしと撫でる。今のご時世、男性教諭が下手なスキンシップをすると、それだけで騒がれることも少なくないのが厳しいことだが。目の前の彼女に限らず、うちのクラスの生徒は男女問わず僕に抱きついてきたり、よしよしをせがむ子が少なくない。三年生という年齢は微妙だから尚更だろう。精神的にまたまだ幼い子と成熟した子が、両方入り交じっているのがこれくらいの年頃なのだから。
「舞花ちゃんが、自分をバケモノだなんて思う必要はないと思うんだけど、どうかな。それとも、他にも何か理由があったりするのかい?」
なるべく目線を合わせて、優しい声を出したつもりだった。けれど舞花は再度、“ごめんなさい”を繰り返し、そのまま押し黙ってしまう。
残念ながら、それ以降彼女から何かを聴くことは叶わなかった。
***
「高橋先生って、彼女とかいないんですかー?」
すっかり外は暗くなってしまった時間帯。それでもまだ学校に残っている教師は少なくない。むしろ夜八時からが本番であることも多いほどだ。
生徒たちの小テストの採点をしていると、後ろから声がかかった。三年一組の担任である、久米真純教諭だ。一応はこの学校に先に赴任してきた先輩教師なのだが――教師のわりに化粧が濃く、ちょっと良くない噂もあるのであまり好きな人物ではない。この時間までちゃんと残って日誌をつけているあたり、きちんと仕事をしていることは見てとれるけれど。
「……いませんよ。そんな暇もないし、今は生徒たちのことで手一杯なので」
またか、と僕はややうんざりしながら返した。この人物は平気でセクハラギリギリのことを聞いてくるししてくることで有名だった。というか、先日やめた松江先生も、彼女に“食われた”挙げ句酷い扱いをされたせいで退職したなんて噂があるほどである。
元より好みのタイプからも遠いし、いくらスタイルが良くてそこそこ美人でもお付き合いはしたくない。というか、こちらは本当に仕事でいっぱいいっぱいで、今は女性と付き合うとか結婚だとかは考えられない状態なのだ。出来れば放っといて欲しい、常日頃からアピールしているつもりだというのに。
「それ、ほんと勿体無い!高橋先生、せっかくイケメンなのにさ!」
ガラガラ、と椅子を引っ張ってきて僕の肩に腕を回してくる彼女。おい仕事はどうした、ていうか完全にセクハラだぞ――と僕は思うが、後輩の立場である以上強く言えないのが実情である。
これで僕と彼女の性別が逆だったなら、誰かは心配するなり声をかけるなりしてくれたのだろうか。――なんて、情けないことを少しばかり思ったしまう。他の職員室の先生たちは、明らかにわかっているのに助けてくれる気配がない。
「なんなら私が教えてあげてもいいよぉ?大人の味ってやつ!高橋君可愛い顔してるから童貞っぽいし!」
「久米先生、セクハラはやめてくれませんか」
「えーセクハラじゃないよぉ、ちょっとからかっただけじゃん!ノリ悪いー!」
「採点終わらないです、離れてください」
「ぶー」
本当に、こういう人は困る。自分が男に“お前処女だろ”と言われたら絶対セクハラだと喚き立てるくせに。
僕は深く深く息を吐いて、再び答案と向かい合った。ふと見えた名前は――木本舞花。
――久米先生のことなんかで悩んでるくらいなら、君の悩みについて考えてた方が遥かに建設的だよ。
久米のみならず、正直相性の悪い人間は身近に何人もいる。それで辟易させられることも正直少なくない。けれど、それでも殆ど気にせず、夜遅い帰宅も珍しくない教師を続けていられるのは――ひとえに支えてくれる子供たちの存在があるからに他ならない。
彼らを救っているつもりで、気がつけばいつも救われているのはこちらの方だ。舞花に関してもそう。少しでも恩返しをしていけたらと常に思っている。
彼女に限らず。子供たちはやっぱりみんな、心から笑っているのが一番似合っているのだから。
***
事件が起こったのはそれから約一週間後のこと。
何を勘違いしたのか暴走したのか知らないが、この頃はいつにもまして久米のアピールが激しくなり、正直困り果てていたのだ。昼休み、職員室に行く途中の廊下で声をかけられたのは本当にどうしたものかと思ったものである。
確かに、はっきりと断ったり嫌いだと告げたわけではないし、それが言えずにいた自分も臆病なところがあったのは事実だろう。たが、立場上下手に強気な態度に出て不興を買いたくないのは事実であったし、相手が根も葉もない噂を平気で撒き散らすタイプと知っていれば尚更である。
「そろそろさ、デートしてくれてもいいと思わない?私がこんなに誘ってるのに、ちょっと酷すぎませんかぁ?」
猫なで声に加えて、しれっとお尻を触られて悲鳴をあげそうになった。なんなのだこの女は。いくらなんでも度が過ぎている。神聖な学舎をなんだと思っているのか、ここは小学校の校舎の中だというのに!
そう、はっきり言ってフリーズしていた、まさにその時だ。
「先生!大変、大変なの!新倉君が!」
パタパタと走ってきて、僕の腕を掴んだのは――あの舞花だった。廊下を走るな、なんて言葉も出てこない。おもわずポカン、としてしまった僕の代わりに余計なことを言うのは、僕の反対の手をしっかり握っている久米だ。
「ごめんなさいね、高橋先生は今、久米先生と大事なお話をしてるの。後にして貰える?」
おい!と僕は流石に突っ込みたくなった。大事な話?セクハラぶちかましていただけではないか。生徒より己のナンパを優先させようなんて、いくら受け持ちの生徒ではないとはいえ教員としてあまりにも終わっている。
僕が反論しようとした、その時だった。
「高橋先生は……あたし達と久米先生、どっちが大事なの」
冷たくて、どこか寂しい声。舞花のその言葉が、臆病だった僕を突き動かしていた。
僕は、教師だ。
一番大切なことがなんなのかなんて――わかりきったことではないか。
「久米先生、離してください」
それを見失ってしまったら最後、僕らは教師を名乗る資格を失うだろう。
「僕が一番大切なのは、子供たちなので」
固まった久米の腕を、強く振り払った。――勇気をくれた舞花の手を、しっかりと握りしめながら。
***
「嘘ついて、ごめんなさい」
校庭まで出てきたところで、舞花に頭を下げられた。
「先生、すごく困ってるように見えたから……それで」
「なんとなくそんな気はしてた。本当にありがとうね、舞花ちゃん」
「うん……」
あまり人が通らない、花壇の前。彼女は僕の手を握ったまま、少し視線をさ迷わせた。そして。
「……ごめんなさい。あたし、また、嘘ついてる。酷いことばっかり考えてる」
僕は気がついた。彼女の手が震えていることに。
「ほんとはね。あたし達と久米先生、じゃなくて。“あたしと久米先生のどっちが大事なの”って、言おうとしてた」
「え」
「この間、相談に乗って貰った時も。あたし酷いこと訊こうとした。……“あたし、クラスの他の女の子よりも可愛い?”って。そんなの、先生答えられるわけないのに……」
まさか、と。僕は頭を殴られたような衝撃を受ける。ショックを受けたのは彼女の言葉にではない。ずっと彼女はサインを出し続けていたのに――今更それに気付いてしまった自分に、だ。
「あたし、先生が好き。恋人になったり、結婚したり、キスしたりしたいって意味で、好きなの……っ」
震える手には、彼女の不安と熱。
いつからなのだろう。いつから彼女はこんなにも、はち切れそうな思いを抱えてそこにいたのか。
成績も良く、とてと賢くて、クラスではみんなのお姉さん役の彼女が――自分の前だけは幼子のように甘える理由。
「だから、あたしバケモノなの。先生のこと好きになっちゃいけないのわかってたのに……!こんなことばっかり考える自分、消えちゃいたいの……!!」
「舞花ちゃん……」
所詮子供の恋。あるいは幻想。そう切り捨ててしまうのはあまりにも簡単で、残酷だ。そしてそれをしてしまうのは、僕が救うべき一人を切り捨てたも同然の行為だった。
だから、僕は。
「情けないけど。……僕はいい年の大人なのに、まだ恋っていうのがよくわかってないんだ」
しゃがんで、彼女と目を合わせて、正直な気持ちを伝えることにするのだ。
「だから、舞花ちゃんのことを好きなのかどうかはわからない。はい、ともいいえ、とも言えないんだ」
「うん……」
「それにね。厳しいことを言うようだけど、舞花ちゃんはまだ八歳。まだまだこどもだし、僕とは二十歳近くも年の差がある。僕達が本気でお互いを好きでも、僕が先生で君が生徒でなくても。僕が君と付き合ったら、僕はお巡りさんに捕まってしまうかもしれないんだ。子供とは付き合ってはいけない。よからぬことをしてはいけない。それが法律だからね」
「それは……いや。先生に、嫌な思いしてほしくない……」
「それがちゃんと理解できるなら、君は頭が良くて優しい子ってことだ」
まっすぐな真実で向き合い、目を見て己の心を伝える。
そうすればいつかはきっと、子供たちはわかってくれる時が来るのだ。僕は今までそう信じてきた。これからもきっとそう信じて生きていくことだろう。
目の前の少女にも、確かに通じるものがあったように。
「だから、僕のことを本気で好きだと思うなら……舞花ちゃんが二十歳になった時に、もう一度伝えに来て欲しい。それでも君が好きだと言ってくれたら、僕ももう一度真剣に考えて答えるから。……まあ、その時にはもう僕はいい年のおじさんになっちゃってるわけだけど」
そう告げると舞花は。ぽろり、と宝石のような涙を溢しながらも、うんうん、と何度も頷いた。
バケモノなど、この場所には最初から存在していない。ただ、どこまでも美しいケモノが、一生懸命に小さな足を踏ん張ってここに立っていただけなのだ。
己の想いより、誰かの幸福を本気で願える彼女なら、きっとどんな未来であっても自分で選んで走っていけることだろう。
僕はいつものように舞花の髪を撫でて、笑った。ほんの少し、ちくりと痛んだ胸の奥を誤魔化しながら。
僕の受け持ちクラス、三年二組の少女――木本舞花はそう言って俯いた。少しぽっちゃりとした、されどボブヘアーがとても可愛らしい女の子である。
だからこそ、僕は言われた言葉の意味がわからなかった。彼女は何をもってして、自分を“バケモノ”などと呼ぶのだろうか。
「え、えっと……」
担任の教師として、相談に乗った一人の大人として。生徒とは真正面から、対等な気持ちで向かい合うのが筋だと思っている。勿論理想通りに行かないことも今まで多々経験はしているが、こっちが生徒をナメてかかったり面倒だと少しでも思えばそれは必ず彼らに伝わってしまうものだ。
理想に燃えた一人の教員として、僕にも譲れないものはある。僕らは同い年にはなれないし、“家族”や“友達”と呼べるほど近い距離には行けないかもしれないけれど。同じ場所で過ごす、言わばとしの違う仲間と呼んでも差し支えない存在だ。僕はそれくらいには彼らを尊重してきたつもりだし、クラスの子供たちもそれなりに自分のことを認めてくれたように思うのである。
実際小さなトラブルはいくつかあったが、この十月になるまで大きな問題らしき問題は起きていない――はずだ、少なくとも僕が知る限りでは。
こうして毎日放課後に一人ずつ相談に乗る“高橋先生相談室”を企画してからは、よりみんなとの距離も縮まったように感じていたところだ。そう、こうして目の前の彼女、舞花が話をしに来てくれたのも、自分のことを信じてくれた結果に違いないのである。
だからこそ、応えたい気持ちは僕とて強い。強いのだが。
「バケモノなの、あたし」
僕が戸惑ったことが伝わってしまったのか。先程より少し強い口調で、舞花は繰り返した。
これではいけない、と僕は自分を戒める。なんのために小学校の先生を志したのか忘れたか、高橋稔。一人でも多くの子供達が、笑って未来に羽ばたけるよう精一杯のサポートがしたいと、そう誓いを立てたのではなかったのか。
「……バケモノって、どうしてそんな風に思うのかな?」
こういう相談で大切なことは、相手の言葉を頭から否定しないこと。なるべくどんな言葉であろうと受け入れて、肯定的な姿勢を見せることだ。僕はカウンセラーではないけれど、それくらいは教師として心得ているつもりである。
「先生から見ていると、舞花ちゃんはとっても可愛い女の子だと思ってるけど」
「……ほんと?」
「うん、本当。お洒落さんだし、笑顔がとっても素敵だと思うよ」
舞花の顔が少しだけ明るくなる。彼女は髪飾りから筆箱やキーホルダーにも拘りがある、お洒落や可愛いものが大好きな女の子だ。髪の毛も毎日きっとかなり丁寧にブローしてきているのだろう。長い時には自分でみつあみも作れたんだよ、と以前教えてくれたことがある。
「じゃあ……!」
だから、彼女は可愛いと言われることがとても嬉しい筈で。実際一瞬、わかりやすいほど顔を輝かせてくれたのだが。
「…………ごめんなさい。やっぱりいい」
「え?」
「あたし、先生が絶対答えられないようなこと、今訊こうとしちゃった。だからあたし……やっぱりバケモノ、なんだと思う」
彼女の中でどんな結論がぐるりと回って出されたのかはわからない。ただ、何かを言いかけて押し黙った彼女の顔は、先程までよりもずっと暗く沈んだものになってしまった。
そこで何となく理解する。彼女が“バケモノ”と思ったのは、外見ではなく内面の問題であるらしい、と。何か嫌なことを考えてしまったのだろうか――例えば、嫌いな子がいなくなってしまえばいい、とか。だから、そんな自分の考えが嫌で、バケモノ見たいに恐ろしいものと思えたのか。
「嫌なことや悪いことを考えてしまうとか、それで失敗したなって思うのは誰でもあることだよ?誰だって、綺麗な心だけ持ってるわけじゃないんだからさ。先生だって、毎日結構酷いこととか、情けないこと考えてるよ?」
だからね、と。頭を撫でられるのが大好きな、舞花の頭をよしよしと撫でる。今のご時世、男性教諭が下手なスキンシップをすると、それだけで騒がれることも少なくないのが厳しいことだが。目の前の彼女に限らず、うちのクラスの生徒は男女問わず僕に抱きついてきたり、よしよしをせがむ子が少なくない。三年生という年齢は微妙だから尚更だろう。精神的にまたまだ幼い子と成熟した子が、両方入り交じっているのがこれくらいの年頃なのだから。
「舞花ちゃんが、自分をバケモノだなんて思う必要はないと思うんだけど、どうかな。それとも、他にも何か理由があったりするのかい?」
なるべく目線を合わせて、優しい声を出したつもりだった。けれど舞花は再度、“ごめんなさい”を繰り返し、そのまま押し黙ってしまう。
残念ながら、それ以降彼女から何かを聴くことは叶わなかった。
***
「高橋先生って、彼女とかいないんですかー?」
すっかり外は暗くなってしまった時間帯。それでもまだ学校に残っている教師は少なくない。むしろ夜八時からが本番であることも多いほどだ。
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「……いませんよ。そんな暇もないし、今は生徒たちのことで手一杯なので」
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「それ、ほんと勿体無い!高橋先生、せっかくイケメンなのにさ!」
ガラガラ、と椅子を引っ張ってきて僕の肩に腕を回してくる彼女。おい仕事はどうした、ていうか完全にセクハラだぞ――と僕は思うが、後輩の立場である以上強く言えないのが実情である。
これで僕と彼女の性別が逆だったなら、誰かは心配するなり声をかけるなりしてくれたのだろうか。――なんて、情けないことを少しばかり思ったしまう。他の職員室の先生たちは、明らかにわかっているのに助けてくれる気配がない。
「なんなら私が教えてあげてもいいよぉ?大人の味ってやつ!高橋君可愛い顔してるから童貞っぽいし!」
「久米先生、セクハラはやめてくれませんか」
「えーセクハラじゃないよぉ、ちょっとからかっただけじゃん!ノリ悪いー!」
「採点終わらないです、離れてください」
「ぶー」
本当に、こういう人は困る。自分が男に“お前処女だろ”と言われたら絶対セクハラだと喚き立てるくせに。
僕は深く深く息を吐いて、再び答案と向かい合った。ふと見えた名前は――木本舞花。
――久米先生のことなんかで悩んでるくらいなら、君の悩みについて考えてた方が遥かに建設的だよ。
久米のみならず、正直相性の悪い人間は身近に何人もいる。それで辟易させられることも正直少なくない。けれど、それでも殆ど気にせず、夜遅い帰宅も珍しくない教師を続けていられるのは――ひとえに支えてくれる子供たちの存在があるからに他ならない。
彼らを救っているつもりで、気がつけばいつも救われているのはこちらの方だ。舞花に関してもそう。少しでも恩返しをしていけたらと常に思っている。
彼女に限らず。子供たちはやっぱりみんな、心から笑っているのが一番似合っているのだから。
***
事件が起こったのはそれから約一週間後のこと。
何を勘違いしたのか暴走したのか知らないが、この頃はいつにもまして久米のアピールが激しくなり、正直困り果てていたのだ。昼休み、職員室に行く途中の廊下で声をかけられたのは本当にどうしたものかと思ったものである。
確かに、はっきりと断ったり嫌いだと告げたわけではないし、それが言えずにいた自分も臆病なところがあったのは事実だろう。たが、立場上下手に強気な態度に出て不興を買いたくないのは事実であったし、相手が根も葉もない噂を平気で撒き散らすタイプと知っていれば尚更である。
「そろそろさ、デートしてくれてもいいと思わない?私がこんなに誘ってるのに、ちょっと酷すぎませんかぁ?」
猫なで声に加えて、しれっとお尻を触られて悲鳴をあげそうになった。なんなのだこの女は。いくらなんでも度が過ぎている。神聖な学舎をなんだと思っているのか、ここは小学校の校舎の中だというのに!
そう、はっきり言ってフリーズしていた、まさにその時だ。
「先生!大変、大変なの!新倉君が!」
パタパタと走ってきて、僕の腕を掴んだのは――あの舞花だった。廊下を走るな、なんて言葉も出てこない。おもわずポカン、としてしまった僕の代わりに余計なことを言うのは、僕の反対の手をしっかり握っている久米だ。
「ごめんなさいね、高橋先生は今、久米先生と大事なお話をしてるの。後にして貰える?」
おい!と僕は流石に突っ込みたくなった。大事な話?セクハラぶちかましていただけではないか。生徒より己のナンパを優先させようなんて、いくら受け持ちの生徒ではないとはいえ教員としてあまりにも終わっている。
僕が反論しようとした、その時だった。
「高橋先生は……あたし達と久米先生、どっちが大事なの」
冷たくて、どこか寂しい声。舞花のその言葉が、臆病だった僕を突き動かしていた。
僕は、教師だ。
一番大切なことがなんなのかなんて――わかりきったことではないか。
「久米先生、離してください」
それを見失ってしまったら最後、僕らは教師を名乗る資格を失うだろう。
「僕が一番大切なのは、子供たちなので」
固まった久米の腕を、強く振り払った。――勇気をくれた舞花の手を、しっかりと握りしめながら。
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「嘘ついて、ごめんなさい」
校庭まで出てきたところで、舞花に頭を下げられた。
「先生、すごく困ってるように見えたから……それで」
「なんとなくそんな気はしてた。本当にありがとうね、舞花ちゃん」
「うん……」
あまり人が通らない、花壇の前。彼女は僕の手を握ったまま、少し視線をさ迷わせた。そして。
「……ごめんなさい。あたし、また、嘘ついてる。酷いことばっかり考えてる」
僕は気がついた。彼女の手が震えていることに。
「ほんとはね。あたし達と久米先生、じゃなくて。“あたしと久米先生のどっちが大事なの”って、言おうとしてた」
「え」
「この間、相談に乗って貰った時も。あたし酷いこと訊こうとした。……“あたし、クラスの他の女の子よりも可愛い?”って。そんなの、先生答えられるわけないのに……」
まさか、と。僕は頭を殴られたような衝撃を受ける。ショックを受けたのは彼女の言葉にではない。ずっと彼女はサインを出し続けていたのに――今更それに気付いてしまった自分に、だ。
「あたし、先生が好き。恋人になったり、結婚したり、キスしたりしたいって意味で、好きなの……っ」
震える手には、彼女の不安と熱。
いつからなのだろう。いつから彼女はこんなにも、はち切れそうな思いを抱えてそこにいたのか。
成績も良く、とてと賢くて、クラスではみんなのお姉さん役の彼女が――自分の前だけは幼子のように甘える理由。
「だから、あたしバケモノなの。先生のこと好きになっちゃいけないのわかってたのに……!こんなことばっかり考える自分、消えちゃいたいの……!!」
「舞花ちゃん……」
所詮子供の恋。あるいは幻想。そう切り捨ててしまうのはあまりにも簡単で、残酷だ。そしてそれをしてしまうのは、僕が救うべき一人を切り捨てたも同然の行為だった。
だから、僕は。
「情けないけど。……僕はいい年の大人なのに、まだ恋っていうのがよくわかってないんだ」
しゃがんで、彼女と目を合わせて、正直な気持ちを伝えることにするのだ。
「だから、舞花ちゃんのことを好きなのかどうかはわからない。はい、ともいいえ、とも言えないんだ」
「うん……」
「それにね。厳しいことを言うようだけど、舞花ちゃんはまだ八歳。まだまだこどもだし、僕とは二十歳近くも年の差がある。僕達が本気でお互いを好きでも、僕が先生で君が生徒でなくても。僕が君と付き合ったら、僕はお巡りさんに捕まってしまうかもしれないんだ。子供とは付き合ってはいけない。よからぬことをしてはいけない。それが法律だからね」
「それは……いや。先生に、嫌な思いしてほしくない……」
「それがちゃんと理解できるなら、君は頭が良くて優しい子ってことだ」
まっすぐな真実で向き合い、目を見て己の心を伝える。
そうすればいつかはきっと、子供たちはわかってくれる時が来るのだ。僕は今までそう信じてきた。これからもきっとそう信じて生きていくことだろう。
目の前の少女にも、確かに通じるものがあったように。
「だから、僕のことを本気で好きだと思うなら……舞花ちゃんが二十歳になった時に、もう一度伝えに来て欲しい。それでも君が好きだと言ってくれたら、僕ももう一度真剣に考えて答えるから。……まあ、その時にはもう僕はいい年のおじさんになっちゃってるわけだけど」
そう告げると舞花は。ぽろり、と宝石のような涙を溢しながらも、うんうん、と何度も頷いた。
バケモノなど、この場所には最初から存在していない。ただ、どこまでも美しいケモノが、一生懸命に小さな足を踏ん張ってここに立っていただけなのだ。
己の想いより、誰かの幸福を本気で願える彼女なら、きっとどんな未来であっても自分で選んで走っていけることだろう。
僕はいつものように舞花の髪を撫でて、笑った。ほんの少し、ちくりと痛んだ胸の奥を誤魔化しながら。
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