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<第二十四話・ブレイブ・ハート>
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現実感の無い廊下をゆっくり歩いていく。有純は、地図にあった次の目的地は家庭科室であったはずだ、ということを思い出していた。そこに行けばもしかしたら、夏騎と合流できるかもしれないということも。
――最初が理科室スタートであった理由は、なんとなく想像ついた。多分メモを“堂々と”隠しておくのに最適だったんだろうし……あの通路の場所を設定できるところが限られてたとか、そういう理由なんだろうさ。
では、家庭科室というのは何なのだろう。有純は首を捻る。あそこも本来、使われていない時は鍵がかかっていてもおかしくない筈である。生徒が授業外でそうそう出入りできる場所でもないはずなのだが――。
「あ」
やがて有純は、今港が向かっている方向こそ、その家庭科室であることに気付く。なんといっても先ほど男子トイレを出てからは廊下や階段に特に歪みもなく、有純が知っている学校の構造をそのまま再現してあるからである。
「安心してよ」
もしかしたら夏騎と合流できるかもしれない。それはいい。
だから、問題があるとすれば。
「きっと、家庭科室で夏騎君も待ってるからさ」
「あ、うん、それはいいけど……」
「いいけど?」
「…………手」
さっきからずっと、港が有純の手を握ったままということである。男子トイレから連れ出される時、手を差し伸べられて握られて、そのままになってしまっているのだ。
「困る?」
何がややこしいって、港はこんな調子。有純の心中を、頭がいいはずなのに察してくれる気配がない。あるいは、わかっていて惚けているだけなのだろうか。
「困るっていうか、必要性はあるのかというか。……そもそも、俺みたいな男女の手、握ってて楽しいのかよ?」
夏騎も男の子であるはずなのだが、手の感触は港とはだいぶ違うと気づいていた。夏騎の指は細くて繊細で、正直女の子のそれにだいぶ近いものがあるのだが、目の前の港は違う。ふっくらとしていて子供っぽいけれど、でも意外と指ががっしりした少年の手なのだ。この子も運動はそんなにしてないように見えたんだけどな、と有純は思う。とはいえ、手の形などは親の遺伝も大きいと聞くから、一概に運動するとかしないとかが関係してくるものではないのかもしれない。
「楽しいよ?言ったじゃないか、僕は君が好きだから此処に呼んだんだって」
「それ、冗談だと思ってた……」
「酷いなあ、さすがの僕も傷つくよ?」
少しだけしょんぼりした声を港が上げたので、有純はさすがに申し訳なくなり、ごめん、と肩を下げた。
純粋な好意を、ジョークとして流されることほど辛いことはない。自分だって万に一つ夏騎に告白する勇気が持てたとして、それを“冗談だろう?”で流されたら間違いなくショックを受けると知っているからである。
「……悪い。でも、俺その……そんな女の子としての魅力なんて、ないって知ってるし。だって夏騎と遊んでると大抵、男の子と勘違いされんだよな。いや、俺自身そうやって振舞ってるのも事実だけどさ。スカートなんか履きたいと思わねーし。……男子が好きなのって、おしとやかでいかにも女の子らしい女の子、だろ?喋り方も男言葉とかじゃなくてこう、柔らかかったり、女言葉だったりして、上品で……家事とか得意そうな、大和撫子というかなんというか」
「有純さんはちょっと昔の漫画でも読みすぎたの?そりゃ、昔の男性はそういう人が多かったんじゃないかと思うよ。良妻賢母って言葉があるみたいにね」
「りょうさいけんぼ?」
「良い妻、良い母親になる女性が理想とされたってことさ。家で家事育児に徹して、男性にモノを申さず、男性を立てて一歩後ろに下がってついていくような女性がいいって考えてた人たちがいたってこと。まあ昔であっても、そういうんじゃない女性が好きって人もいたとは思うけどねえ」
やっぱりそうだったんじゃないか、と有純は少々落ち込む。昔の人、という言い方はしたが、それでも男性は男性、だ。本質的な好みがそうそう変わるとは思えない。有純が、自分が持っていないものを持っているからこそ夏騎に惹かれたように――男性だって、自分にはない“女性らしさ”を持っている女性の方が、今だって好きに決まっているではないか。
有純はお淑やかじゃないし、外を走り回って男子とやんちゃしているのが大好きであるし。そもそも、大人になったところで、家に入って家事や育児に徹する自分など全く想像がつかないのである。家庭科の成績はいつも低空飛行だ。酷いと煙突が立って、先生や親に頭を抱えさせているほど料理も裁縫も出来ない有様。知識のテストの点数も酷い。小さな子供が可愛いという気持ちはなくもないが、そもそも将来子供を持ちたいと思うようになるかは全く別問題である。
男の子でないのに、明らかに女の子ではない。
それでも夏騎の傍にいられる自分でいたいと望んでこうなったのは事実だけれど、それでも時々思うのだ。本当は、もっと別の“自分”を選ぶ余地もあったのではないか、と。
「だから、それが古いんだってば」
港は苦笑しながら言う。
「確かに、自分に持ってないものに惹かれる人は多いと思うよ?恋愛感情に限った話でもないさ。でも、男性が持っていないものって、いわゆる“女性らしさ”だけなのかな?」
「え?」
「それに、“女性らしさ”の定義だって、今は一種類ではないと思うんだ。家事や育児をして、男性の後ろを一歩下がって歩くお淑やかさ……だけが“女性らしさ”でもない。そして今はLGBTQとか、いろんな性的趣向とか個性とか、そういうものが尊重されるように時代が動き出している。まだ差別は多いけど、そのうち“男性らしさ”“女性らしさ”なんて押し付けがましい言葉もなくなってくるんじゃないかと思うよ。それよりも大事なのは“その人らしさ”だ。……君の大好きな夏騎君が、そうやって君や、幼稚園の時の女の子を尊重して認めたようにね」
その人らしさ。有純は、向けられた言葉を自問自答する。
自分らしさとは、何だろう。男の子のような見た目と言葉遣いだろうか?ヒーロー気取りなところだろうか?おてんばで外で遊ぶ方が好きなことだろうか?
あるいは。夏騎を好き、という気持ちもまた――有純らしさ、なのだろうか。
「僕がね、有純さん」
まだ、自分達の手は握られたまま。
「有純さんのことを知ったのは、小学校二年生の時だったんだよね。本来いじめっていうのは、事前に防ぐのが本当に難しいものだと思うんだけど……有純さんはその時、起きそうになったいじめを水際で阻止した。覚えてないかな。クラスの友達の顔を描いた絵を、クラスに貼り出してた時期があっただろ?」
「あー……」
思い出した。そういえば、あの出来事は廊下で起きたものであった気がする。他のクラスの港が見ていてもおかしくはなかっただろう。
まだ二年生に上がってすぐのことだった筈である。みんなの顔を覚えるため、仲良くなるためという名目で、授業で自分の顔と紹介を書いた紙を廊下に貼り出していたのだ。ちなみに有純は絵も下手くそなので、みんなに“ゾンビ描いたの?”と目を丸くされすっぱい気持ちになったのをよく覚えている。成績の大半壊滅している有純だが、例のごとくそれは芸術関係でも同じであり。特に、絵を描くと夏騎にさえ“爆発している”と称されるほどの画伯ぶりを発揮してしまうのだ。
そんな時、誰よりも絵が上手な子が一人クラスにいたのである。
水谷優悟。一年生の時の写生会で金賞を取り、二年生に上がってからも絵を描くたび先生やクラスのみんなに絶賛されていた少年だった。
「誰だって、自信のあるものや好きなものでは一番でいたいよね。……君のクラスには、優悟君以外にも絵が得意な女の子がいた。鯨井茜さん、だよね?」
そう。少しプライドが高く、気が強かった彼女がトラブルを起こしてくれたのだ。
「彼女は図工の時間に描いた優悟君の絵がみんなに褒められて、自分の絵に見向きもされなかったことに腹を立てていた。実際、彼女は一年生の写生会では銀賞、金賞の優悟君には一歩及ばない成績だった。……ムカついた彼女は、優悟君に仕返しをしてやろうと思ったんだね。あるいは、優悟君がいなくなれば、自分が一番になれると思ったのかな」
「そういう考え方、死ぬほど嫌いだわ」
「だろうねえ。あの時の君の声、廊下中に響いてたから」
そんなにか、と有純は赤面する。確かに相当な勢いで怒鳴った記憶はあるが。
――だって、どうしても許せなかったんだ。だってあいつ、優悟の絵に落書きしようとしてやがったんだから。
廊下に貼り出された紹介の絵も、優悟のものはかなり上手な出来栄えだった。多分、他の子達と比べても頭一つ飛び抜けていたように思う。その絵に、油性ペンで茜とその友人達が落書きをしようとしていたのだった。彼の絵が、台無しになるように。そして自分の――優悟がいなくなれば一番になれるはずの自分の絵が、一番目立つようにするために。
間一髪その現場を目撃し、止めに入ったのが有純である。
『みっともないと思わねーのかよ!』
有純は怒鳴った。
『一番になりたいって気持ちはわかる!だったら、人を下げるんじゃなくて、努力で自分を押し上げて一番になったらどーなんだ!自分が一番になるために、才能あるやつを汚い手使って蹴落そうとか間違ってるだろ!!そんな奴が、本当の意味で一番になんかなれるもんかよっ』
その時の会話の流れは、あまりよく覚えていない。ただ、まさかここまで派手に非難されると思わなかったのだろう茜が、やや支離滅裂なことを叫んでいたのはよく覚えている。
最終的に彼女が反論の材料として持ってきたのは――性別を盾にした、あまりにも情けない理論だった。
『何よ!男のくせにあんたみたいな男女に庇われるこいつまじでかっこわるい!私に落書きされたくらいで落ち込んだり泣いたりするようなみっともない男なら、その時点で負けてるし!男ならせーせーどーどー勝負するのが男なんでしょ?喧嘩でもなんでも挑んできたらいいのに、それもしない腰抜けじゃないの!!』
『意味わかんねーことになってるけど一つ言っとく。女のお前を殴ったら、男のあいつが悪者にされちまうことが多いってのわかってるのかよ。そうやって持ち込む時点で、お前はほんとうにヒキョーだと俺は思う!』
そう、対等の戦いであったとしても、そこに男女の不平等はある。
女が男を殴るのは許されるのに、男が女を殴るのは許されない。おまけに何故かそれが、力の差が殆どないはずの(下手をしたら女子の方が体格が大きいはずの)小学生でさえ適用されるのだ。
男子が女子に喧嘩をふっかけることが少ない最大の理由は――そういう無意識の大人の圧力と、偏見が原因なのではないだろうか。そしてこういう議論になると何故だか誰も「男も女も相手を殴ってはいけない」という一番平等な結論に落ち着かないのがおかしなところではある。
『でもまあ、一応女の俺が女のお前を殴る分には多分問題ないと思うんだよなあ』
だから有純は、分かりやすく拳をボキボキ鳴らしつつ。
『というわけで、喧嘩したいなら代理ってことで俺が相手になってやるぞ。今ここでヤッてもいいけどどうだ?』
話は、それで決着した、と思う。そういえばあの時いつの間にか周囲にはギャラリーが出来上がっていたので、それに気づいた茜が気まずくなって退散したというのもあったのだろうが。しれっと拍手を浴びてしまった有純も、少々恥ずかしい気持ちになったのは確かである。
「あれ、見てたのかよお前」
「うん、すごく格好良かった」
港は笑って、そしてあっさりと告げたのである。
「あの時の君を見て。……僕は、有純さんが好きになったんだよね」
――最初が理科室スタートであった理由は、なんとなく想像ついた。多分メモを“堂々と”隠しておくのに最適だったんだろうし……あの通路の場所を設定できるところが限られてたとか、そういう理由なんだろうさ。
では、家庭科室というのは何なのだろう。有純は首を捻る。あそこも本来、使われていない時は鍵がかかっていてもおかしくない筈である。生徒が授業外でそうそう出入りできる場所でもないはずなのだが――。
「あ」
やがて有純は、今港が向かっている方向こそ、その家庭科室であることに気付く。なんといっても先ほど男子トイレを出てからは廊下や階段に特に歪みもなく、有純が知っている学校の構造をそのまま再現してあるからである。
「安心してよ」
もしかしたら夏騎と合流できるかもしれない。それはいい。
だから、問題があるとすれば。
「きっと、家庭科室で夏騎君も待ってるからさ」
「あ、うん、それはいいけど……」
「いいけど?」
「…………手」
さっきからずっと、港が有純の手を握ったままということである。男子トイレから連れ出される時、手を差し伸べられて握られて、そのままになってしまっているのだ。
「困る?」
何がややこしいって、港はこんな調子。有純の心中を、頭がいいはずなのに察してくれる気配がない。あるいは、わかっていて惚けているだけなのだろうか。
「困るっていうか、必要性はあるのかというか。……そもそも、俺みたいな男女の手、握ってて楽しいのかよ?」
夏騎も男の子であるはずなのだが、手の感触は港とはだいぶ違うと気づいていた。夏騎の指は細くて繊細で、正直女の子のそれにだいぶ近いものがあるのだが、目の前の港は違う。ふっくらとしていて子供っぽいけれど、でも意外と指ががっしりした少年の手なのだ。この子も運動はそんなにしてないように見えたんだけどな、と有純は思う。とはいえ、手の形などは親の遺伝も大きいと聞くから、一概に運動するとかしないとかが関係してくるものではないのかもしれない。
「楽しいよ?言ったじゃないか、僕は君が好きだから此処に呼んだんだって」
「それ、冗談だと思ってた……」
「酷いなあ、さすがの僕も傷つくよ?」
少しだけしょんぼりした声を港が上げたので、有純はさすがに申し訳なくなり、ごめん、と肩を下げた。
純粋な好意を、ジョークとして流されることほど辛いことはない。自分だって万に一つ夏騎に告白する勇気が持てたとして、それを“冗談だろう?”で流されたら間違いなくショックを受けると知っているからである。
「……悪い。でも、俺その……そんな女の子としての魅力なんて、ないって知ってるし。だって夏騎と遊んでると大抵、男の子と勘違いされんだよな。いや、俺自身そうやって振舞ってるのも事実だけどさ。スカートなんか履きたいと思わねーし。……男子が好きなのって、おしとやかでいかにも女の子らしい女の子、だろ?喋り方も男言葉とかじゃなくてこう、柔らかかったり、女言葉だったりして、上品で……家事とか得意そうな、大和撫子というかなんというか」
「有純さんはちょっと昔の漫画でも読みすぎたの?そりゃ、昔の男性はそういう人が多かったんじゃないかと思うよ。良妻賢母って言葉があるみたいにね」
「りょうさいけんぼ?」
「良い妻、良い母親になる女性が理想とされたってことさ。家で家事育児に徹して、男性にモノを申さず、男性を立てて一歩後ろに下がってついていくような女性がいいって考えてた人たちがいたってこと。まあ昔であっても、そういうんじゃない女性が好きって人もいたとは思うけどねえ」
やっぱりそうだったんじゃないか、と有純は少々落ち込む。昔の人、という言い方はしたが、それでも男性は男性、だ。本質的な好みがそうそう変わるとは思えない。有純が、自分が持っていないものを持っているからこそ夏騎に惹かれたように――男性だって、自分にはない“女性らしさ”を持っている女性の方が、今だって好きに決まっているではないか。
有純はお淑やかじゃないし、外を走り回って男子とやんちゃしているのが大好きであるし。そもそも、大人になったところで、家に入って家事や育児に徹する自分など全く想像がつかないのである。家庭科の成績はいつも低空飛行だ。酷いと煙突が立って、先生や親に頭を抱えさせているほど料理も裁縫も出来ない有様。知識のテストの点数も酷い。小さな子供が可愛いという気持ちはなくもないが、そもそも将来子供を持ちたいと思うようになるかは全く別問題である。
男の子でないのに、明らかに女の子ではない。
それでも夏騎の傍にいられる自分でいたいと望んでこうなったのは事実だけれど、それでも時々思うのだ。本当は、もっと別の“自分”を選ぶ余地もあったのではないか、と。
「だから、それが古いんだってば」
港は苦笑しながら言う。
「確かに、自分に持ってないものに惹かれる人は多いと思うよ?恋愛感情に限った話でもないさ。でも、男性が持っていないものって、いわゆる“女性らしさ”だけなのかな?」
「え?」
「それに、“女性らしさ”の定義だって、今は一種類ではないと思うんだ。家事や育児をして、男性の後ろを一歩下がって歩くお淑やかさ……だけが“女性らしさ”でもない。そして今はLGBTQとか、いろんな性的趣向とか個性とか、そういうものが尊重されるように時代が動き出している。まだ差別は多いけど、そのうち“男性らしさ”“女性らしさ”なんて押し付けがましい言葉もなくなってくるんじゃないかと思うよ。それよりも大事なのは“その人らしさ”だ。……君の大好きな夏騎君が、そうやって君や、幼稚園の時の女の子を尊重して認めたようにね」
その人らしさ。有純は、向けられた言葉を自問自答する。
自分らしさとは、何だろう。男の子のような見た目と言葉遣いだろうか?ヒーロー気取りなところだろうか?おてんばで外で遊ぶ方が好きなことだろうか?
あるいは。夏騎を好き、という気持ちもまた――有純らしさ、なのだろうか。
「僕がね、有純さん」
まだ、自分達の手は握られたまま。
「有純さんのことを知ったのは、小学校二年生の時だったんだよね。本来いじめっていうのは、事前に防ぐのが本当に難しいものだと思うんだけど……有純さんはその時、起きそうになったいじめを水際で阻止した。覚えてないかな。クラスの友達の顔を描いた絵を、クラスに貼り出してた時期があっただろ?」
「あー……」
思い出した。そういえば、あの出来事は廊下で起きたものであった気がする。他のクラスの港が見ていてもおかしくはなかっただろう。
まだ二年生に上がってすぐのことだった筈である。みんなの顔を覚えるため、仲良くなるためという名目で、授業で自分の顔と紹介を書いた紙を廊下に貼り出していたのだ。ちなみに有純は絵も下手くそなので、みんなに“ゾンビ描いたの?”と目を丸くされすっぱい気持ちになったのをよく覚えている。成績の大半壊滅している有純だが、例のごとくそれは芸術関係でも同じであり。特に、絵を描くと夏騎にさえ“爆発している”と称されるほどの画伯ぶりを発揮してしまうのだ。
そんな時、誰よりも絵が上手な子が一人クラスにいたのである。
水谷優悟。一年生の時の写生会で金賞を取り、二年生に上がってからも絵を描くたび先生やクラスのみんなに絶賛されていた少年だった。
「誰だって、自信のあるものや好きなものでは一番でいたいよね。……君のクラスには、優悟君以外にも絵が得意な女の子がいた。鯨井茜さん、だよね?」
そう。少しプライドが高く、気が強かった彼女がトラブルを起こしてくれたのだ。
「彼女は図工の時間に描いた優悟君の絵がみんなに褒められて、自分の絵に見向きもされなかったことに腹を立てていた。実際、彼女は一年生の写生会では銀賞、金賞の優悟君には一歩及ばない成績だった。……ムカついた彼女は、優悟君に仕返しをしてやろうと思ったんだね。あるいは、優悟君がいなくなれば、自分が一番になれると思ったのかな」
「そういう考え方、死ぬほど嫌いだわ」
「だろうねえ。あの時の君の声、廊下中に響いてたから」
そんなにか、と有純は赤面する。確かに相当な勢いで怒鳴った記憶はあるが。
――だって、どうしても許せなかったんだ。だってあいつ、優悟の絵に落書きしようとしてやがったんだから。
廊下に貼り出された紹介の絵も、優悟のものはかなり上手な出来栄えだった。多分、他の子達と比べても頭一つ飛び抜けていたように思う。その絵に、油性ペンで茜とその友人達が落書きをしようとしていたのだった。彼の絵が、台無しになるように。そして自分の――優悟がいなくなれば一番になれるはずの自分の絵が、一番目立つようにするために。
間一髪その現場を目撃し、止めに入ったのが有純である。
『みっともないと思わねーのかよ!』
有純は怒鳴った。
『一番になりたいって気持ちはわかる!だったら、人を下げるんじゃなくて、努力で自分を押し上げて一番になったらどーなんだ!自分が一番になるために、才能あるやつを汚い手使って蹴落そうとか間違ってるだろ!!そんな奴が、本当の意味で一番になんかなれるもんかよっ』
その時の会話の流れは、あまりよく覚えていない。ただ、まさかここまで派手に非難されると思わなかったのだろう茜が、やや支離滅裂なことを叫んでいたのはよく覚えている。
最終的に彼女が反論の材料として持ってきたのは――性別を盾にした、あまりにも情けない理論だった。
『何よ!男のくせにあんたみたいな男女に庇われるこいつまじでかっこわるい!私に落書きされたくらいで落ち込んだり泣いたりするようなみっともない男なら、その時点で負けてるし!男ならせーせーどーどー勝負するのが男なんでしょ?喧嘩でもなんでも挑んできたらいいのに、それもしない腰抜けじゃないの!!』
『意味わかんねーことになってるけど一つ言っとく。女のお前を殴ったら、男のあいつが悪者にされちまうことが多いってのわかってるのかよ。そうやって持ち込む時点で、お前はほんとうにヒキョーだと俺は思う!』
そう、対等の戦いであったとしても、そこに男女の不平等はある。
女が男を殴るのは許されるのに、男が女を殴るのは許されない。おまけに何故かそれが、力の差が殆どないはずの(下手をしたら女子の方が体格が大きいはずの)小学生でさえ適用されるのだ。
男子が女子に喧嘩をふっかけることが少ない最大の理由は――そういう無意識の大人の圧力と、偏見が原因なのではないだろうか。そしてこういう議論になると何故だか誰も「男も女も相手を殴ってはいけない」という一番平等な結論に落ち着かないのがおかしなところではある。
『でもまあ、一応女の俺が女のお前を殴る分には多分問題ないと思うんだよなあ』
だから有純は、分かりやすく拳をボキボキ鳴らしつつ。
『というわけで、喧嘩したいなら代理ってことで俺が相手になってやるぞ。今ここでヤッてもいいけどどうだ?』
話は、それで決着した、と思う。そういえばあの時いつの間にか周囲にはギャラリーが出来上がっていたので、それに気づいた茜が気まずくなって退散したというのもあったのだろうが。しれっと拍手を浴びてしまった有純も、少々恥ずかしい気持ちになったのは確かである。
「あれ、見てたのかよお前」
「うん、すごく格好良かった」
港は笑って、そしてあっさりと告げたのである。
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