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<18・花火。>

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 下ろせ、と夜空が言うのでその通りにした。相変わらず血は止まっていないし、花火としては心配だったが――壁の前に降り立った夜空の足取りは随分としっかりしているように見える。彼は壁の前に両手を掲げると、何やら呪文を唱え始めた。

「――……!――……――――、――……!!」

 多分英語ではなさそう、ということしかわからない。フランス語なのか、ロシア語なのか、ドイツ語なのかイタリア語なのか、それともまったく未知の言語なのか。謳うような彼の言葉とともに、強い風が巻き起こった。なびく髪を抑えながら、花火はただひたすら彼の作業を眺めていた。黒くぽっかりと開き、周囲を赤く光らせたその穴が――ゆっくりと、着実に小さくなっていく姿を。

――あの向こうに、異世界ってやつがあるのか。

 もし、今。花火が血迷ってその穴の向こうに飛び込んだら、きっと未知なる異世界に転移することができるのだろう。ただし、それはライトノベルで見るような夢と希望と魔法に満ち溢れた世界ではない。さきほど自分達が戦った白魔――白衣の先生の“フリ”をしていた怪異の本当の顔を、一瞬だけれど花火は見ているのだから。口が耳まで裂け、血走った三日月型の眼で笑い、関節を無視した首でこちらを向いたその様を。
 きっと、本当の姿はもっとおぞましいものなのだろう。アレでさえ、見た瞬間恐怖で固まってしまった自分だ。この穴の向こう、本当の邪神なんてものを目の当たりにしたらどうなってしまうか。
 クトゥルフ神話TRPGで発狂するプレイヤーキャラクターと、きっと同じ事が起きるのだろう。場合によっては、もっと悲惨なことも。

――この地球の人間は。この世界で暮らしやすいように……そうやって進化した存在、なんだっけ。だから異世界に行ってはいけない、そっちには適応できないんだって。

 自分で実際に、戦ってみてよくわかった。
 あんな怪物は、けしてこちら側に来て良いものではない。そして自分達もまた、けしてあちら側に踏み込んではいけない。お互いの領分を守ることこそ最大の平和であり、退魔師と騎士にできることはただその領域を守ることだけであるのだと。
 小さくなっていく穴の向こう、もぞりと何かが蠢いたことに気づいて花火は背筋が冷たくなった。黒い闇だと思っていたものが、たくさんの小さな生き物だと直前で知ってしまったからだ。その奥ではさらに、星のように無数の目が光っている。あんなところで適応し、こちらにやってきた生物が――地球の常識と照らしてまともであるはずがないのだ。

――そしてその境界を守るために……こいつは、ずっと命を賭けてきたのか。

 ちらり、と花火は夜空の姿を見る。少し不思議には思っていたのだ。五月も半ばを過ぎた暑い時期。花火たちクラスメートのほとんどが半袖を着るほどの暑さが続いているのに、夜空は手足をきっちりと隠しているのである。半袖の下に、薄いスパッツやシャツを着こんでいて、肌が見えないようになっているのだ。日焼けするのが嫌なのかな、くらいに思っていた――さっきまでは。
 強い風が、あちこち破れた夜空のシャツをまくりあげる。脇腹と、両手足。さきほどの戦闘でついた傷だけではなかった。あきらかに、治りかけの古傷が、その跡が無数に残っている。赤い光に照らされてそれは生々しく浮かび上がっていた。

――教室で腕を掴んだ時、反応が妙だった。多分、腕にまだ傷があったんだ。

 ぎゅっと、花火は小さくなった剣のキーホルダーを握りしめた。



――この学校に転校する前にも、こいつは一人で戦ってたんだろう。……騎士もなく、たったひとりで。



『俺は、退魔師としての最終過程を六歳でほぼ修了した……のに、騎士が六年も見つからなくて一人前の免許を貰えなかったんだ。こればっかりは運でしかない。騎士の能力を持つ人間は、退魔師と同じくらいレアだからな。まあ、騎士の力なしで今まで事件は解決してしまったんだが』



――解決してしまったんだが、じゃねえよ。涼しい顔して本当は……滅茶苦茶苦労してたんじゃねえか、お前。



『基本的には、騎士が戦って時間を稼いでいる間に、退魔師がうしろで門を封印したり、トドメを刺す魔法を唱えるっていうのが基本的なバトルスタイルなんだ。さっきはあの魔物が俺の力を知らなかったから先手を打って攻撃してこなかっただけ。俺一人だったら、術を打つ前に倒されてるよ』



――それなのに、あたし相手にだって……無理やり騎士になれとは言わなかった。相変わらずエラそうではあったけど、逃げてもいいとあいつは言った。本当は、一人で戦ったら滅茶苦茶死ぬ確率が上がる癖に。それで絶対、危ない目に遭ってきたくせに。



 確かに、今回夜空が大きな怪我をしてしまったのは花火が足を引っ張ったせいではあるが。
 それさえ、さっきから一言も夜空は責めてこない。自分の任務を遂行するのを優先している。
 そうしなければいけないとわかっているからだ。自分がやらなければ、命を賭けなければ。この学校の、ひいては地域の、国の、世界の。名前もない大勢の人々の命を危険にさらすとわかっているから。

「……さっき」

 意を決して、花火は口を開く。

「助けてくれて、ありがとな。……あたしとお前の位置を入れ替えたの、お前の魔法なんだろ。……調子に乗って作戦無視して……足ひっぱって、本当に、ごめん」
「……そんなことは気にしていない。むしろ、最終的に助かったのはこっちだ。礼を言う」
「なんでこんな時だけ素直かなお前は……!」

 穴は、綺麗に塞がっていた。その僅かに赤いシミが残る壁に夜空が白いチョークで魔法陣のようなものを書いていく。どうやらそれが封印の仕上げらしい。

「……何でさっき、剣が出せたのかわかんねーんだ。それに、自分の中に妙な記憶?景色?みたいなものが蘇った理由も。……あれ、あたし達の前世か何かだったのかな。あたし達、前世で会ってたりしたとか、そういう?」
「力の系譜は、血と魂によって紡がれていく。騎士と退魔師は子孫や来世でも縁が繋がることが多い。そういう記憶が蘇ることがある、という話は聞いたことがあるけどな」
「そっか。……じゃあ、ああいうものを思い出していったら、あたしももっと強くなれるのかな」

 足をひっぱったことを謝罪した口で言うのも何だけれど。
 思ったのだ。自分にも出来ることがしたいと。むしろ、自分にしかできないことならばしなければならないと。



「あたし、ちょっとはあんたの役に立てる?……あんたを守る、騎士として」



 怪物たちと戦うのはとても怖かったけれど。でも。
 守りたいと思ったのだ。友達を、家族を、先生を。それから、傷だらけになっても自分たちを助けようとしてくれた――戦い続けてくれた、目の前の彼を。

「……騎士の訓練は、甘くないぞ」

 そんな花火に。夜空はにやりと笑って言ったのだった。怪我をしているくせに、相変わらず生意気な口調で。

「組織で厳しき鍛えてやる。頑張ってついてこいよ、デカ女」
「だーかーらー!いい加減名前で呼べっつーの!!」

 いつものように怒りながら、花火は心の中で思っていたのだった。

――ふーんだ。……本当はあたしの名前、ちゃんと覚えてるくせに!

 忘れてなんかない。
 さっき確かに、彼は言ってくれたのだから。



『上出来だ、加賀花火!』



 ほんのちょっと得意気な気持ちで、花火はふふん!と鼻を鳴らしたのだった。



 ***



 その後。
 事件の後始末で、少々面倒があったことは追記しておく。
 学校のあちこちが壊れてしまったことで、翌日は臨時休校。一階でガス爆発があった、と学校側は発表したらしい。花火と夜空はそれに巻き込まれた、ということになったようだ。まあ、花火はともかく夜空は重傷だったので、その言い訳も必要だったからなのだが。
 また、美郷もあのあと一階の廊下で倒れているのが発見された。幸い本人は無傷で、その日のうちに意識を回復。しかも自分が消えた夜に起きた出来事をほとんど覚えていないというご都合ぶりときた。これに関しては、退魔師の組織とやらが何かをした結果であったのかもしれないが。

「秘密の地下室?みたいなのがあるっていう七不思議を聞いて、確かめようとしたところまでは覚えてるんだけど……」

 数日後の朝。再開された学校で、美郷は首をひねりながら話した。

「結局そこから何も覚えてなくて、気づけば数日過ぎてましたってオチ。神隠しにでもあった気分。結局起きたのはガス爆発だったていうし、学校の怨霊って本当にいたのかもわかんないっていう。ねえ、花火ちゃんはどう思う?私を見つけてくれたの、花火ちゃんなんだよね?」
「あー、まあ……」

 一応、そういうことにはなっている。しかし、花火も花火で事情を何もかもわかっているわけではないし、そもそも言えない話が多すぎて曖昧にしか説明できないのだ。
 というか、説明したところで信じないだろう。学校にいたのは怨霊じゃなくて、異世界のゲートを通じてやってきた魔物でした、なんて。その魔物を自分と夜空で撃退して、ゲートを封印してきました、なんてことは。

「あたしも、ガス爆発のあたりから記憶があいまいで。たまたま早く目覚めて、涼風の奴とか美郷が倒れてるの見つけたってだけだから……」

 そう話した途端。美郷と、その両脇に並んだ麻巳子、莉紗の目が揃ってきらりと光った。あ、これはまずい。花火がそう思った次の瞬間。

「それそれそれ!何で二人で学校にいたのか訊いていい!?訊いていいー!?」
「クラス一の美少年!ミステリアス転校生といつの間にお近づきになったんですかっ!」
「恋愛フラグ建った?ねえ建った!?」
「建ってねえよ!誰があんなクソ生意気な奴のことなんか!」

 どうしてそうなる。確かに、たまたま夜の学校で遭遇して、たまたま彼が倒れているのを発見しましたとするのはだいぶ苦しいのは承知しているが。何で、小学生が夜の学校で怪しいデートをしなければならないなんてことになるのか!

「怪しいなあ、怪しいなあ!」

 が。花火が否定すれば否定するほど、三人はぐいぐちと顔を近づけてくるわけで。

「とりあえず、根掘り葉掘りそのへんの事情をきかないことには引き下がれませんね!」
「以下同文!」
「右に同じ!!」
「ちょっとお!?」

 早く予鈴鳴ってくれ!祈りつつ、花火はまだ入院中の夜空のことを考えたのだった。

――あいつめ!退院したらぜってー、クラスのみんなに弁解させてやるからな!

 なお。
 翌月に退院してきた夜空の説明で、さらなる誤解を招く羽目になるなんてことを――この時の花火はまだ、知る由もない。
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