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<第二十七話・救>

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 洞窟の暗い道。砂を踏みしめる足音は、人間のそれとは似て非なるものだ。うまくは説明できないが、足を持ち上げて歩いているというより、引きずりながら砂をかき分けて歩いているように聞こえる、とでも言えばいいか。
 じゃり、ずり、じゃり、とゆっくりと聞こえるそれは確実にこちらに近づいて来ている。美園は座りこんだまま動けずにいた。この凄まじい悪臭の漂う場所から、一刻も早く逃げ出したいと思っていたはずなのに。そして何より、この状況で洞窟の奥からやってくるものが、“普通の人間”であるとは到底思えないというのに。

――に、逃げない、と。

 自分が今、何処にいるのかもよく分かっていないけれど。恐らく村の近隣、少なくとも盆地のどこかであろうということしかわかっていないし、そもそもこの洞窟に本当に出口というものがあるのかも怪しいけれど。
 それでも、とにかく此処に居てはいけないということはわかる。こんな思考を回している余裕があるならさっさと立ち上がり、我武者羅にでも不格好にでも悲鳴を上げてでも遠くへ逃げ出さなければいけないということは。
 そうしなければきっと、自分もそこに転がっている“人間であったもの”と同じ末路を辿るに違いない。それだけは避けなければいけなかった。少なくとも、同じくこの洞窟の何処かにいるかもしれない、琴子を探して助け出すまでは。きっと今、彼女を助けられるとしたらそれは自分だけなのだから。

――あ、足……私の足!震えてんな馬鹿!なんで動かないのっ……!!

 叱咤する声さえ出ない。がくがくと膝が笑い、じんわりと股間が湿る。悪臭に目眩がし、べったりとした汗が背中を伝ってさらに不快感を増幅させる。
 どうにか動けたと思えば、尻餅をついたまま――ずりずりと後ずさることだけだった。こんなものでは、逃げのうちにも入らないというのに。

――動いて……動け動け動け動け動け動け!動けってば、私……!

 やがて。
 鼻腔が腐臭とは違う臭いを、嗅ぎ取った。
 それは焦げた臭い、だ。何かが燃えるような、焦げ臭さ。覚えがあった。あの駐車場で出会った少女と、同じ――。

「あ……」

 暗闇の中。ぼんやりと、少女の首が浮かび上がった。薄闇の向こうから歩いて来たというより、黒く塗りつぶした液体の中からぬっと顔を出すような不自然さ。首だけを浮かび上がらせた少女が、ゆっくりと全身し、その闇という名の泥沼からこちらに這い出してくるのが見える。
 白い顔におかっぱ頭。
 赤い着物に同系色の帯。
 全身が見えた――そう思った次の瞬間。

「ひい!!」

 一気に少女は――美園の目の前に、いた。
 まるで空間を吹き飛ばして、瞬間移動でもしてきたかのような不自然さで。

「い、いい……ひいい……!」

 後ずさり、どうにか少女から距離を取ろうとする美園。目の前のこの子はきっと、あの“みかげさま”だ。自分にずっと呼びかけてきた少女であるはずだ、と頭の冷静な部分は言っていた。だが、だからといってそれを目の前にして、どうして恐怖を感じずにいられるだろうか。
 彼女は、救済を求めているのかもしれない。
 でも大前提として、自分と琴子を呼び寄せ、生贄になるように仕向けた張本人は彼女であるはずである。彼女の求める救済が、“美園と琴子を生贄にすることで達成される”可能性もまだ十分にあることだ。そもそも彼女が全く邪悪な意思に飲み込まれ、取り憑かれていないというのなら。きっとこんな恐ろしい儀式が、繰り返されることなどなかったはずなのだから。

「!」

 目を見開く美園の前で、少女の体が足先から音を立てて燃え上がった。
 肉が焦げる臭いがする。愛らしい白い顔の少女の腕が、足袋と草履の足が、着物が、真っ赤な焔に包まれて燃え上がり無残に焼け爛れていくのが見える。皮がぱりぱりと縮こまり、引き攣れ、どろりと溶けるように焼け落ちて真っ赤な肉を晒し、やがて焦げていく。凄惨――あまりにも、残酷。美園は震えながら、再びこみ上げてきた吐き気を堪えるように口元を抑えて耐えていた。耐えていたのはただの気持ち悪さ、ではなかったけれど。

――酷い。酷いよ、こんなの。

 美園は、理解した。
 みかげさまになるということは。それも、初代の柱として、次の柱を永遠と呼び込む立場になるということは、つまりこういうことであったのだと。
 神隠しに憧れを抱き、神様の国に行けることは愛されることに違いない――そんな甘い幻想を抱いていた少し前の自分を、殴り殺したい気持ちになった。確かに、この少女は何かに選ばれたのかもしれない。彼女を選んだ、人以外の力も何処かに働いていたのかもしれない。
 だが、これほどまでに苦しく、痛い思いをして死んだ筈だというのに。村の者達のための生贄になったはずなのに。結局彼女は、何一つ報われてなどいないのではないか。

――死んだあとも、燃やされ続けてる。燃やされる痛みを、忘れられないんだ……この子。

 何も悪いことなどしていないのに、地獄に括られ、業火に炙られ続ける少女。
 何故彼女は、ただ不思議な力を持っていたというだけで、これほど惨い目に遭わなければいけなかったのか。

――私、馬鹿だ。……何も、わかってなかった。不思議な力を持つことは、幸せなんかじゃない。みんなと違う……“幸せをもたらす才能”だと認められない限り。それは多くの人にとっては、異端なことで……恐怖とか、差別の対象になってしまうことが、大半なんだ。

 きっと、それは大昔に限った話でもないのだろう。
 現代の、多くの人がそうなのだろう。
 自分とは違うモノ、足並みが揃わないものを恐れ、排除することで安寧を得ようとする。多数決で世界を回し、水からが多数派側であることに安堵する。そのくせ、己がその多数に埋没することを退屈と呼び、特別な存在となった少数の異端児を羨んでますます辛く当たったりもするのだ。なんという矛盾。なんという身勝手。――まさに、今までの美園と同じではないか。
 自分は姉を羨むばかりで、本当に彼女の才能を、努力を理解しようとしただろうか。劣等感ばかり抱えて努力を投げ捨て、それで認められない認められないと喚いていただけではなかったか。
 特別な者には、才ある者には、平凡な者にはわからない苦悩や苦痛があり、恐怖がある。この少女ほど、極端なものでなかったとしてもだ。何故、そんな当たり前のことがわからなかったのだろう。

「……ずっと」

 じり、と燃え盛る少女が一歩こちらに近づく。可愛らしい筈の顔が無残に焼け、目玉が溶け、どろりと眼窩を伝い落ちる様を見ていられず――美園は俯いた。

「ずっと。苦しかったんだよね。……痛くて、痛くて、でもその苦しみを……誰にも分かってもらえなかったんだよね……?」

 特異な霊能力を持つ者が傍にいたら、多くの人の反応はまず否定から入る。そんなもの嘘っぱちに違いないと蔑み、拒絶する。それはそんなものが持てる相手への嫉妬か、そんなものが存在したら恐ろしいから見て見ぬふりをしたいという恐怖ゆえ。
 ゆえに、その力が本物だとわかれば、感情は次の段階にシフトするのだ。待っているのは多くが畏怖ゆえの差別。その能力を信じて貰え、尊敬されたり認められたりすることはきっとさほど多いものではない。実際この少女が、望まぬ幽閉の挙句生贄を押し付けられることになったように。

「……貴女は、とても頑張った。頑張ったの」

 ずっと動かなかった美園の足が、やっと――力を取り戻していた。泥と、ちょっと漏らしてしまったものやらなんやらで汚れて、だいぶ酷いことにはなっていたけれど。

「本当の地獄は地面の下でも異世界でもない、最初から地上にあった。貴女は本当はそれをわかっていたけど……自分で自分を、止められなかったんだよね。あんまりにも苦しくて、それしか縋るものがなかったから」

 美園は。逃げるのではなく、自分から――少女の方へと、歩き出していった。
 幼くしてこの村を救い、命をもって人々の心に安寧を齎し、人間の“呪い”を身守り続けた少女を。
 祭御影《まつりみかげ》を。

「もう、いいよ。……もう、貴女一人で、苦しまなくていいよ。悪い夢はもう、終わりにしなきゃ。貴女が誰より、それを望んでいるように」

 熱風が美園の長い髪を揺らし、ちりちりと頬を焦がした。それでも美園は、少女の方へと手を伸ばす。焼け爛れ、殆ど焦げた骨だけになりつつある少女に向かって。

「終わらせよう。全ての悲しいことを、此処で。……貴女が守ってくれた世界を、今度はちゃんと私達の力で守っていくから」

 勢い良く地面を蹴って美園は、今まで一度も抱きしめられたことのない少女の体を抱き寄せていた。
 “みかげさま”の声がする。幼い少女は、美園にだけ聞こえる声で訴えている。
 美園は満足げに目を閉じて、全身を包む熱さに身をゆだねた。

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