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<第二十三話・夏>

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 どれくらい時間が過ぎたのか。もはや感覚は、殆ど失われつつあった。ただ琴子の右手は勿論、左手もほとんど機能しないほど指を潰された後、次は足に以降するかと連中が話し始めた時――ふと、筆頭神官が動きを止めたのである。

「祭祀様、緊急の報告が」

 やや焦ったような別の男の声が聞こえる。声は小さく、くぐもっていて聞きづらかったが――それでも一部はどうにか聞き取ることができた。

「……なるほど、やはり今回も生贄は二人であったのですね。確かに、大至急そちらも準備せねばなりません。本人に村から逃げ出そうとする意志があるなら尚更です。既に、罪もない村人が一人犠牲になっているようですし、これ以上彼女に自由を許してはさらなる被害者が出る可能性があります」
「では、こちらの儀式はどういたしますか」
「両腕までは完了しましたし、儀式は半分以上終わっております。苦痛の水が十分足りているかはわかりませんが、一時中断してもさほど問題はないでしょう。それがみかげさまのご意思です。あちらが完了次第再開するということで」
「了解致しました」

 何がどうなっているのだろう。周囲でバタバタと足音が聞こえる。そしてそれが、何かを運び出す音と共に遠ざかっていくではないか。一時中断、と言っていた。ならば自分は、とりあえず一時この恐ろしい儀式から開放されたと思ってもいいのだろうか。
 残念ながら――既に受けた痛みが、消えてくれることなど全くないわけだが。

――あたし、ばか。……もうやめて、痛いの嫌……ってずっと叫んでたけど。よく考えたら、新しい傷が増えなくなっても……今痛いのは、治療してもらわないと消えないわけじゃん……?

 体を倒された状態で固定されている今、去っていく連中を目で追うこともできない。ちらり、と先ほどまで苛まれていた自分の左手を見た。右手と同じように中心に釘を打たれ、指を一本ずつ金槌で打たれたそれは、もはや健康的な肌の色を見せる場所が一箇所もない。折れ曲がり、本来の厚みもなく潰れ、あるいは粉砕された骨や肉をぶちゅぶちゅとはみ出させ――よくぞこの有様に耐えたものだと自分でも思うほど凄まじい状況だ。
 紫色に晴れ上がった肌と、飛び出した骨や割れた爪からあふれる鮮血。どこもかしこも、紫と赤。奴らが松明を回収せずに残していったので、その凄まじい有様だけは皮肉にもしっかりと観察できてしまう。
 早く医者に連れていって、この痛いのから開放して。そう思いながら涙を流すも、既に琴子は己が助からないだろうことを理解しつつあった。これだけ血を流して、痛いのを我慢し続けて。もう心身ともに限界が来ている。いっそ、もっと早く狂ってしまえたらどれほど楽だったことだろう。琴子は己の、不必要に頑丈な体が恨めしくてならなかった。
 ものすごい痛い思いをすると人はそれだけで神経が耐えられなくなり、ショック死することもあるらしい。例えば腕を切られるとか、股間を潰されるとか。なら自分も、さっさとショックで即死してしまうことができたら楽だったのに。あるいはそれを避ける為に、彼らは指を一本ずつ潰すなんてやり方を選んだのだろうか。神経は集まっていて痛みは感じるけれど、出血は腕より少なくて済むだろうから、と。

――痛いよ。痛い。……どうして、こんな目に遭わないといけないの。あたし、このまま何も出来ないで死んじゃうの……?

 さっきの神官達の言葉。もしかしたら、あれは美園のことだったのではなかろうか。
 今から美園を攫いに行ったのだとすると、美園はまだ無事であるのかもしれない。そして、琴子のこの恐ろしい現状はまだ知らないのかもしれない。
 どうすればいい、と思う。せめて、どうすれば美園に“逃げて”と伝えられたなら。伝えたところでどうにもならないかもしれないけれど、でも。ここで美園にむざむざ死なれるようなことになったら、琴子はもう――己がまだ生きている意味さえも、見失うような気がしてならなかった。
 助かりたい。生き延びたい。もう苦しいのは嫌。痛いのは怖い。でも。
 その願いが無理ならせめて――せめて、友人のことだけは。なんとか救い出す方法が見えないだろうか。せめて、これほど恐ろしい思いをした経験が報われる意味が欲しかった。完全にそんなもの、琴子の自己満足でしかないのだとしても、だ。

「無駄よ、そんなこと考えたって」

 すぐ近くから、声がした。琴子ははっとして顔を再び上へと向ける。
 誰かが、自分の事を覗き込んでいた。その姿には見覚えがある。そう、美園の祖父母の家にいた時。夜中に起きた琴子を攫うべく、廊下に現れたあの女性。ピンク色のパジャマ半袖のパジャマのようなものを着た、髪の長い女性だ。
 恐らくはあのツニッターの呟きで――篠崎秋乃、を名乗る人物が“おねえちゃん”と呼んでいた、人物。
 だが今の彼女は、あの時ほど凄惨な姿をしていない。青白く痩せた顔をしてはいるものの、その服が血や泥やらで汚れ手いるということもなく、骸骨というほどやせ細っているわけでもない。
 恐らくそれが、本来の彼女の姿なのだ、と琴子は悟る。そしてそれが見え、声が聞こえるのは、きっと。

「私だって助けられなかったんだから。きっと、あなたにも無理」

 きっと――もう琴子が、“そちら側”に足を突っ込んでいる、その証拠に違いない。

「貴女は……篠崎秋乃、とかいう……子の、お姉さん?」

 叫び続けた喉はガサガサに乾いて、酷く聞き取りづらい声しか発してはくれなかった。しかし、彼女に通じるにはそれで十分だったらしい。やや目を伏せて、そうよ、と告げた。

「篠崎夏音。……貴女を迎えに行ったことに関しては、謝らない。私だって、仕事なの。“みかげさま”の一部になった以上、お役目は全うしないといけないの。そうじゃなきゃ、私も妹も永遠に開放されないんだから。……それでも、初代の“みかげさま”よりはマシだけれど。彼女はずっとその役目に殉じて、人柱を増やし、地獄の蓋を閉じる要を担い続けているのだから」

 初代のみかげさま――あの御影、とかいう少女のことだ。あの少女は、幼くして強い力があるために幽閉され、最後は生贄として体よく差し出されて生きたまま火炙りにされて殺されてしまった経緯がある。だが、それでも村人達を恨まず、仕事を忠実にこなしていると思うといたたまれなかった。きっと、それだけが自分が産まれて来た意味であり、そうし続けなければあんな苦しい思いをして殺された意味がないとでも考えているのだろう。
 あまりにも、やるせない。だって、琴子はもう気づいてしまっている。
 もしかしたら、この場所にこの世とあの世の境界線なんてものはなかったのかもしれないと。あったとしても、それを塞ぐ役目は彼女でなくても良かったかもしれないし、他にも方法はあったかもしれないと。
 それなのに当時の村人達は、持て余していた少女に体よく役目を与えて、理由をつけて殺したのである。それも生きたままじりじりと焼くなどという、常軌を逸したやり方で。恐ろしく苦痛を伴う方法で。人を人とも思わぬ所業で。
 自分達が生贄になるのが嫌だったから――厄介者の少女に、全ての苦痛を押し付けることにしたのだ。それが、理不尽でなくて何だというのだろう。

「この村は、おかしい……っ」

 琴子はぽろぽろと涙を零しながら言う。

「過去に、恐ろしいことは……あったのかもしれない。でも、地獄なんて、悪魔なんて誰も見たことないのに……小さな女の子に、あんな酷いことして……!あたし達に、こんな役目押し付けて……!夏音、さん。あんたはおかしいと思わないの?理不尽だと、感じないの?本当にそれで、いいの、ねえ……!?」

 村人達にだってきっと事情はあったのだろう。わかっている。でも、それが一体、拷問されて殺される側になんの意味があるというのか。自分達にとっては、苦しめられて痛めつけられて殺される、それ以上の事実など無いというのに。

「お願い、あたし……あたしはもう、ダメっていうなら、もういいから」

 嘘だ。琴子だって本当は助かりたい。本当はまだ生きていたい。やりたいことは山ほどある。でも。
 だけどもう、頭の冷静な部分はわかっている。夏音が迎えに来たのも、こうして彼女の姿が霊感も何もない自分に“正常に”見えているのも全部、自分が既に“みかげさま”の一部になりかけているせいなのだということは。
 だから、自分が生き残るのが無理と言うならばせめて。
 せめて――この最期に、確かな意味を。

「美園だけでも、助けて……!地獄の蓋を閉じる、生贄とやら。あたしが、美園の分まで頑張れば、なんとかなるんじゃないの……?あたし、馬鹿だけど……面白半分でこんなとこまで来ちゃった、ほんとアホだけど……!でも、でも」

 琴子は必死で訴える。目の前の、既に“みかげさま”の一部となり、神に同化している女性ならば。自分に出来ないこともできるかもしれない、そう信じて。

「でも!友達の……一人も、助けられないで、死ぬなんて絶対やなの……!あんたも、妹を助けたかったなら……誰かのために、必死になる気持ち、わかるでしょ……!?」

 琴子を見下ろす、夏音の眼が。僅かに揺らいだような、そんな気がした。
 彼女はもう死者かもしれない。自分ももう、そこに片足を突っ込んでいるのかもしれない。でも。
 それでも、誰かを想い、幸せを願う気持ちは消えない筈だ。そのまま続くはずだと信じたいのだ。
 それがきっと、人が人たりうるもので――最期まで持ちうるたった一枚のカードであるはずなのだから。
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