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さよならという復讐

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 アデルは窓からさしこむまぶしい西日のせいで目を覚ました。

(晴れてる……? 雨……、やっと、あがったのね……)

 見慣れない部屋で、馴染まない紫煙の香りに包まれている。
 ハッと気づいて隣を見やると、激しい通り雨のあいだじゅう抱き合っていた男は、アデルではなくシーツを抱えて穏やかな寝息をたてていた。

 ──まだ、彼に起きられては困る。

 アデルは裸のままそっと寝台から抜け出し、急いでカーテンを閉めた。寝台を照らしていたオレンジ色の光は遮られ、部屋は心地よい薄暗さを取り戻す。

 気怠い身体を引きずって、アデルはそのまま静かに着替えをはじめた。
 床に脱ぎ捨てられた下着と、抜け殻になっていた外出着のドレスを拾って、ため息をつく。
 いつもなら侍女に任せる着替えも、今ばかりは自分一人で身につけなくてはいけない。
 さいわいこの宿には小さな姿見があったので、なんとか自力でコルセットを締め直してドレスを着ることができた。

 ──早く、早く。彼が目を覚まさないうちに。

 シルクのガーターリボンは焦るアデルをからかうみたいに震える指をすり抜ける。
 苦労して結び直し、ブーツの編み上げ紐を締め、アデルは最後にもう一度、鏡で自分の姿を確認した。

(……このキスマークが、最悪だわ)

 鏡にうつるアデルは、ぐっと眉を寄せて不快感をあらわにした。
 下着《ビスチェ》でふっくら押し上げられた胸の谷間に散る赤い痕。
 癖のない銀色の髪を手ぐしで整え、なるべく胸元に集めてなんとかごまかす。
 屋敷に帰ったら、すぐに着替えよう。

 そうしないと、いつまでたっても思い出してしまう。
 この赤い痕が、ベッドで眠っている男にどのようにしてつけられたのかを。さんざん彼を受け入れた下腹部はまだ甘くうずいている。

 背後でぎしりと寝台が鳴って、アデルは薄暗い部屋を振り返った。
 寝返りをした男は──フェイロンはまだ、シーツを抱いて眠っている。

 最後に目に焼き付けようと思ったわけでもないのに、彼の寝顔から目が離せなくなる。

 見惚れるほどに長い睫が縁取る、切れ長の一重。
 すっきりとした鼻梁と薄い唇。細く三つ編みに編んだ長い黒髪は、裸の背中からベッド下にまで垂れている。

 寝顔ですら息を呑むほどに端正なのだから、彼が目をさましたら大変なことになってしまう。

 あの神秘的な黒い瞳に見つめられるだけで。
 低くて甘い声で名前を呼ばれるだけで。
 アデルは忘れかけた恋に、もう一度、落ちてしまうところだった。

(でも今度こそは……私から、彼を捨てるんだ)

 アデルは強く唇を引き結び、眠るフェイロンから無理やり視線を引き剥がした。

(少しは傷つくかしら。5年前の、私みたいに )

 眠る彼の名前を呼ぶことはしない。
 それはもう、アデルの人生に必要のない音だからだ。

(私の初恋……これで、終わりにするんだ)

 滲んだ視界を、手の甲で一度だけぬぐう。

 顔をあげたときに、まるきり別人のようになれたらいいのに。
 長い長い雨が上がるように。
 窓の外の夕日が沈んで新しい朝が来るように、アデルの心も生まれ変わればいい。

(……さようなら)

 アデルは足音をたてないよう慎重に部屋を横切り、数時間滞在しただけの宿の扉を静かに閉めた。



 ◇◇



 ──今日も、また雨。


 執務室の窓を叩く雨音をわずらわしく思いながら、アデルは黙々と羽根ペンを動かし書類にサインをし続けた。

  フレイル王国の辺境領、隣国ペイスンに面するクラランテ領では、社交シーズンの始まる春季に入ってから2ヶ月ものあいだ、例年以上の大雨が降り続いている。

 長雨は作物を枯らし、交易の足を鈍らせる。
 そのため領主名代をつとめるクラランテ伯爵令嬢アデルは、社交もそこそこに、領民たちから届く山積みの嘆願書に目を通しては領地を奔走する日々を過ごしていた。

 妙齢の女性の過ごし方としてはふさわしくないけど、社交を断るのにこれ以上の口実はない。多忙であればあるほど雑念も消える。アデル本人はそんな日常に満足していた。

「アデルお嬢様、お手紙が届いておりますよ」

 執務机に向かっていたアデルは羽ペンの動きを止め、入室した老執事をじっとり睨みつけた。

「アンバー? いつも言っているけど、今は私がクラランテ領主名代よ。お嬢様ではなく、旦那様とお呼びなさいな」

 クラランテ家に長年仕えてきた老執事は、そんな彼女をまぶしいものでも見るかのように目を細めて笑顔をつくる。

「私にとってお嬢様はいつまでもお嬢様でございますゆえ」

「んもう。……それは、絵葉書?」

 差し出された銀盆からカードを手に取る。
 触れた紙がしっとりと湿気を含んでいるように感じるのは、降りしきる雨のなか、今まさに屋敷に届いたばかりということだろうか。
 アデルは裏へ表へとカードをひっくり返して眺めた。

「旅先のお父様たちから──では、ないのよね?」

「ええ、こちら、差出人の書かれていないカードでございます。以前は定期的に送られてきましたが……3ヶ月ぶりでしょうか、このようなものが届くのは」

「……いいえ。6か月よ、アンバー」

「おやおや、時がたつのは早い。どうりで私も年をとるはずです」

「これ、不思議なイラストね……川……いいえ、滝かしら?」

「こちらはきっと、隣国ペイスンの大水車でございましょう。私も実物を見たことはございませんが、旦那様が……クラランテ伯爵が、外交官としてペイスンに訪れたときの話を聞いたことがございます」

「お父様が? ふぅん……。大水車かぁ……。涼しげでいいわね」

 切り取られた外国の風景に気を取られたのは一瞬。

 アデルはそっと絵葉書を机に置くと「さぁ、次にサインをしなくてはいけない書類はなに?」と、机に山積みの決済待ち書類を前に姿勢を正した。

  

 アデル・クラランテといえば、フレイル国の外交官であるクラランテ伯爵の一人娘で、多国語を話すことができる聡明で美しい令嬢として社交界で評判の少女だった。
 冷たい月光色の髪色をしたアデルのことを、フレイルの銀花とか、月から下った真珠姫なんて呼ぶ者もいたぐらい。

 そのアデルはいまや23歳、独身。ちょっと引きこもり。

 女と花の盛りは短いと戯曲にも謳われているとおり、今のアデルときたら、父親のかわりに領地を切り盛りしたがる変わり者として貴族や領民たちからおもしろがられているにちがいなかった。

 そもそもクラランテ家といえば外交官の父を筆頭に、慣習に縛られない変わり者として社交界で有名な一家だ。
 アデルの近況を聞いた友人たちが「アデルはふつうのレディでいるのが窮屈なのよね」と納得してしまうのもそういう理由があるからだ。

 自分の性分を言い当てられていい気はしないけれど、こうして執務机に向かっていると、たしかに彼女らの言う通りだと実感してしまう。

(領民のために奔走する生活のほうが、伯爵令嬢として過ごす日常より、ずっと楽しいのよね……自分でも意外だったけど)

 パーティに行けばアデルの訪問に喜んでくれる人はたくさんいた。けれど、アデル自身は特別に人付き合いが上手だったわけではない。

 その証拠に、独り身で領主名代として忙しくしているアデルを気遣ってくれる友人は片手で足りるほどしかいない。それを寂しいと思うひまもないのがちょうどいい。

 今のアデルは人付き合いよりも、自分自身を育てることでいっぱいいっぱいなのだ。

 もっと知りたい。調べないといけない。
 寝ても覚めても、アデルの頭は知識欲のためにめまぐるしく働いている。

 領主名代として過ごす今なら、父が周辺諸国から有望な若者を招いてクラランテ家の食客にしていた理由がわかる。
 社交界は、この国は、アデルの知識欲の前には窮屈なのだ。

(でも、こんなことを考えるようになった原因の大半は、きっと、あの人のせいだわ……)

 アデルは机に置いたままにしていた届いたばかりの絵葉書をちらりと見やった。

 異国の風景。しぶきをあげる大水車。
 回る歯車のきしむ音が聞こえてきそうな躍動感のあるイラストだ。

(かっこいい。……そのうち、この長雨があがったら、見に行ってみたいな……)

 アデルの私室の引き出しにはこのほかにも、一面の花畑や、汽車や蒸気船といった最新の乗り物や、フレイル国では見ることのできないものたちが描かれた絵葉書が何十枚と保管されている。

 そのどれもに差出人の名前はない。
 けれど送り主はきっと『彼』だろうと、アデルだけはわかっているつもりだった。

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