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■本編 (ヒロイン視点)
9.お夜食にあつあつのうどんはいかが
しおりを挟むスーツの男性が、自分の部屋のキッチンに立って、うどんを煮込んでいる……。
「せんせー、できましたよー」
「あ、あり、ありがとうございます」
ふらふらとダイニングテーブルにたどりつく。ふわんふわんとやわらかな湯気をたてるうどん、多めに散らした小口ネギ、かまぼこ……それからぷりっとした、ゆでたまご?
「なんでうどんに、ゆでたまご……?」
首をかしげる。鳴瀬は「あはは」と腕まくりを直しながら苦笑いした。
「とき卵にするつもりが、何を思ったか殻ごとドボンしてしまったという事故の産物すね……」
「ドボン……! ひひ……鳴瀬さんでもそんなドジするんですね……ふ、ふふ」
「しますよ、します。顔に出にくいだけで緊張だってします」
「すみません、作ってもらったのに笑っちゃって。人のキッチンって使いにくいですよね」
「まぁ、……それもあるような、ないような」
「大丈夫、大好きですよ、茹で卵」
「……俺も好きですよ」
食の好みが似ているというのはなんだかくすぐったいものがある。たちのぼる出汁の香りが食欲をそそるし、あたたかい食卓に心まであたたまる気持ちがした。
「冷めないうちにどうぞ」
「はい、では」
二人は湯気をはさんで向かいあって、手を合わせた。
「いただきます……!」
まずはあつい汁に口をつける。鼻に抜ける鰹節の香り。熱い汁が胃に流れ落ちていくのがわかる。
ああ、と息をついて、香りの余韻を味わう。
太い麺をすする。よく煮えていて、やわらかい。
湯気で眼鏡が曇る。鼻水が出てしまうほど熱々で、一気に体温があがる気がする。
そしてこのぷりぷりのゆでたまごだ。がぶりと噛みついて、うんうんと満足する。黄身がしっかり固まった、固ゆでが一番好きだ。
出汁、たまご、出汁。うん、よき。
「くっ、ふふ……」
一心不乱に食べていたら、鳴瀬が口元を押さえて笑いをこらえていた。
「な、鳴瀬さん……」
「すみませ、気配消すって言ったのに」
「い、いえ、それはいいですけど……」
ずり落ちた眼鏡を押し上げる。そういや今の琴香はひどい有様なのだ。すっぴんだし、髪の毛もこんなだし。おまけに鼻水まで出そうで、獲物を前にした空腹のオオカミみたいにうどんをがっついて。
女として最悪の状態の琴香を前に、鳴瀬はなぜか楽しそうだ。
「美味そうにしてくれてうれしいっす。このあいだの洋菓子店じゃ食が進まなそうな感じだったんで、心配で」
「……あ、ああ。先週のは、なんか、……緊張しちゃってて」
よく考えれば、こっちのぼろぼろの琴香のほうが、彼もよく知っている状態なのかもしれない。
今まで修羅場なんていくらでもあった。デビュー直後なんて、もう描けないですって彼の前で泣いたこともあった……ような気がする。
連鎖的に今までの情けない場面が思い出される。かっこわるいところも恥ずかしいところも、今更なのだ。
「……私、ちょっと、鳴瀬さんのこと意識しすぎてたかも、しれません」
「うん、だからなおさら気になって、また会いたくなった。いろんな先生が見たくて」
は? と琴香は箸を持ったまま硬直した。
──会いたくなった?
うどんがつるんと出汁の中にすべり落ちる。
鳴瀬はどんぶりに視線を落としたまま、穏やかな声音で喋り続ける。
「俺としては、ファンとして遠巻きに見守ってるだけでよかったんですけどねぇ。やっぱ近ければ近いほど見えるものはあるよなぁって。ホテルでの先生なんて初めての連続だったし、先生だって俺をご指名な時点でたぶん、まんざらでもないんだろうなと、期待してもいいのかなぁと思ったら、ああこれは攻め時なのかもなぁと。それが俺の中の結論で」
いつもより砕けた口調で饒舌に喋る彼をぽかんと見つめる。
今、これは、何を言われたのだろう。
攻め時ってなんだ。
琴香には彼の言う『結論』のはしっこも見えてこない。
ぐるぐると考え込む琴香をよそに「うどん、のびますよ」なんて言ってくる。誰のせいだ。
こんなに美味しいお夜食は初めてだと思ったのに、もう味なんてわからなくなってしまった。
……責任、とってくれないかな。
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