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第12話:捨てた過去が追い付いて

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 いつもの様にカーラーンへ迎えに来て、家に戻っても一言も語らずにソファに座ったっきり、ずっとリアは黙って床を見つめている。彼が多弁な性質ではないのは共に暮らす中で何となくだが気づいてはいるけれど、この沈黙はいつもの静寂とは少し異なる。
 ひとまずはリアの沈黙を尊重する事にして、レイは違和感に押し黙りテーブルを拭いたり、食器を洗ったりと様々に沈黙を紛らわせていたが、やるべき事もなくなりリアの方へと視線を向けた。
 
「リアさん。お茶、淹れましょうか?」
 
「……」
 
「リアさん?」
 
 もう一度レイが呼びかけると、短く硬質な黒髪がゆっくりと上げられる。周囲を見回しレイの姿を確かめると、リアのアイスブルーの瞳が、戸惑うように僅かに揺れた。
 
「具合、悪いんですか? だったら、紅茶じゃなくてレモネードでも作って……」
 
「レイ」
 
 短く名を呼ばれ、レイはリアの目の前まで近づいた。椅子に座っているリアは、背中を曲げて俯いているためか。立った自分の姿よりも小さい。そのためか、頭を上げたリアは、自分の顔を見上げる体勢で自分をじっと見つめている。
 罪人が許しを乞うような、奈落の底で希望の糸を求める囚人のような。
 そうした、自分のような『弱い』人が浮かべるような眼差しをリアが浮かべている事が信じられず、レイは思わず問いかけた。
 
「リアさん、どうしたん……です、か?」
 
「ーーウェイトリー家の次期公爵位継承者、レティシア・ウェイトリーが、屋敷から逃げ出したようだ」 
 
 突然リアの口から飛び出た名前に、レイは息を強く飲み、反射的に一歩後ずさった。不審に思われないように、乱れた鼓動を打つ心臓を悟らせないように。レイは視線をリアの足元へと向けた。
 
「そう、なんですね。知らなかった」
 
「同じ屋敷から、近いタイミングでお前も逃げたのにか?」
 
「爵位継承者が逃げるのと、使用人が逃げるのじゃ難易度もルートも、違って当然じゃないですか?」
 
 一歩、一歩。猛獣から逃げるようにレイはリアから距離を取った。だが、数歩だけ稼いだ距離は、立ち上がったリアの大きな一歩で一気に詰められ、逃げようとするレイの腕を、リアは掴んだ。
 痣にならないように、痛みを与えないように。掴む手にはレイへの気遣いを感じさせるが、決して逃さないと意志の強さを感じさせる程に、レイが腕を振り払おうとしても微塵にも動けない。己の視線は未だに床に向けられているのに、アイスブルーの瞳が己の反応の一つ一つに目を光らせているのがよく分かる。
 
「レティシアは、どんな生活をしていたんだ?」 
 
『レイ』となってから聞いたその名前は、酷く空々しいものだと思うのに。リアは、まるで二度と会えない恋人の名を呼ぶように、哀切が籠もっている。リアが悲しんで、苦しんでいるなら力になりたい。その気持ちには、嘘も偽りもない。
 だが、『レティシア』という名が胸の内側から掘り起こそうとしているものが、レイには重くて大きすぎて。視線を逸らしたまま、逃げを口にすることしかできなかった。
 
「知らない……です」
 
「レティシアは、次期公爵位の継承者だ。その義務を放ってでも逃げなくちゃならねぇ事が、あの屋敷で起きたのか? 一体彼女に、何があったんだ。噂話でも良い。それさえも聞いていないのか?」
 
「……」
 
 リアの一言一言が、レイの胸を深々と刺す。『レイ』が過ごす日々が幸せで、満たされているからこそ。ウェイトリーの屋敷を思い出させるようなリアの言葉に、両の耳を塞いで目を閉じて、全力で目を逸らしたくなる。
 当初は、目的の為だけに名乗った偽りの名であるけれど。今までと全く違う自分として生きる日々は、夢よりも尚輝いて、楽しくて、久しぶりに幸せだと思えたのだ。
 だからまだ、もう少しだけで良い。『レイ』である夢を見せて欲しい。声に出して、リアにそう訴えたかった。
 だが、リアが漂わせる空気が放つ息苦しさが、レイから言葉を封じ込めただリアの言葉を聞くことしか出来なくさせる。
 沈黙を続けるレイの様子に、リアの疑惑はどんどんと削ぎ落とされる。ずっと伏せまま顔や拘束から逃れようと藻掻く様からも、『レイ』が明らかにこの話題から避けたがっている。その対応こそが、レイが自分の追い求めている答えを持つ事を示唆するように思え、リアは最も尋ねたかった問いかけを投げかけた。
 
「お前はーーレティシア、なのか?」 
 
「っ……」 
 
 問いかけながらも、半ば確信を込めた声色に、胸の底に押し込んでいた記憶が吹きあがる。
 詰まった煤の所為で籠もり、淀んだ黴とホコリが混じった空気。窓どころかカーテンさえも開ける事を許されなかったため、昼までもどこか薄暗い部屋の中。空腹による死から逃れるために、あらゆる痛みを味わいながら、震える手でスプーンで掬い、喉に通した冷めた食事。マナーや淑女としての振る舞いを教わる事さえ許されぬのに、無知による失敗を叱咤するために嬉々として上げられる手が持つ鞭と、手の甲が腫れてしまう程の痛みで学ぶ『躾』の数々。
 
「あ……」
 
 外にも出れない後継の身なら、爵位を示す品々も不用だろうと、目の前で奪われ続けた形見達。次期継承者には不用だからという理由で、目の前で壊された母の肖像画や、プレゼントされた人形や『二人』で見つけた宝物が壊され様を、目を逸らす事さえ許されずに見届けさせられ、『ゴミ』としても手元に残されずに、失われたモノ。
 
「あ、ああ、あああ……」
 
 奪われ壊されてきた思い出の中から、唯一守れたシグネットリング。それさえも奪われてしまったらと、何度も魘され目覚めてはシグネットリングを確認して、それでも安心できずに眠れなかった夜。
 苦しくて、辛くて。逃げ出そうと震えながら目の傍までペン先を近づけながらも、それをひと思いに突き立てる事ができない己の弱さに涙を流し続けた日々。
 
「あああああああああああっ!!」
 
 無意識のうちに胸の内に押し込み目を逸らし続けていた。屋敷で味わってきたありとあらゆる悲しみが。痛みが。レイの心を一瞬で塗り潰す。
 積もり積もった哀しみは涙として目から溢れ、声として喉から叫ぶだけでは足りない。尚も胸の内側から噴き出し続けた思いは、『魔力』に変わり、手を掴んでいたリアに一気に注ぎ込まれた。
 
「あ……あああ」
 
 何かが大きく倒れる音。叫びすぎてヒリヒリと痛む喉と魔力を一気に放った事による疲労が、レイに我を取り戻させた。手の拘束が無くなった事に気づき、レイが手の先へと視線を向けると、床にはリアが昏倒していた。
 
「リア、さん?」
 
 ふらふらと近づき、肩を揺すって呼びかけるが、何も反応がない。目の前で失われた宝物達のように、彼もまた失われるのか。恐怖にかられ、レイは揺する力を強めて再び呼びかけた。
 
「リアさん、リアさん!! やだ。嫌だ。ねえ、起きて、お願いだから」
 
 あの屋敷で生き抜く為、魔力の使い方を独学で必死に覚えた。それがなければ、自分はとうに死んでいただろう。でも、あの屋敷では、いつも自分は一人きりだった。
 だから人間に魔力を注いだことなんてないし、注いだら相手がどうなるか。それが全く分からない。そんな未知で、危険な事を。リアにしてしまった。だが、自らの愚かさよりも、レイの胸は深々と新たな痛みに血を流し、涙となって点々とリアの頬を濡らしてゆく。
 
「ごめん、なさい……ごめん、なさい……!! お願い、起きて。リアさん……!!」
 
 熊のように大きな男と対峙しても負けなかった。そんなリアの額からは、冷や汗が多量に浮かび、何度揺すっても苦し気な呻き声が漏れるだけで、意識が戻らない。
 
「違うの……違うの、貴方が、信じられなかったんじゃないの。ねえ、お願い。全部言う。説明するから。だから起きて……ねえ!!」 
 
 屋敷の中の誰もそうしなかったのに、屋敷の外の彼だけが『レティシア』を気にかけてくれていた。『レティシア』の名を、心を込めて呼んでくれた、
 問われていた時に気づいていれば。リアはこんな事にはならなかったのに。
 怯えた己を安心させるように頭を撫でてくれた手が。照れると赤くなる耳が。鋭いながらも、労りを持って見つめてくれるアイスブルーの瞳が。傷つけられる事は無かったのに。
 後悔がいくら押し寄せてきても、自分には彼を救う術が見つからない。
 喉から絶望が込上がり、息を詰まらせかけた時。天啓のように一人の男の名前が思い浮かんだ。
 
「アシュレイ、さん」
 
 自分と同じ、魔力持ち。自分よりも、遥かに知識のある魔力持ち。彼の元へ行けば、レイを助けてくれるかもしれない。彼ができなくても、救う術を知っている誰かを知っているかもしれない。
 胸に浮かんだ一筋の希望に、無理矢理鼻を啜って涙を拳で拭り、レイはシグネットリングを取り出した。
 己が次期ウェイトリー家の爵位を継ぐ証にして、亡き母との繋がりを示すシグネットリング。彼の求めていた『答え』そのものであり、自分にとっての拠所。
 自分があげられる、ただ一つの価値のあるもの。
 レイは掌にそれを包むと、強く祈った。
 
「お母様ーーお願い。リアを守って」
 
 祈りの籠ったリングを、レイはリアの拳に握らせた。彼が求めていたものが、奪われる事のないように。母の加護が、彼を死から遠ざけるように。
 
「すぐに、戻るから。だから、待ってて」 
 
 苦しげに眉を歪め、呻いているリアに一言呟くと、レイはアシュレイの元へ向かうべく、扉を開いて駈け出した。
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