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8話:悪魔の名前を持つ男 1
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枝を踏む音に、ベートが迎えに来たかと思いヴィンスは俯かせていた頭を上げ、硬直した。褐色の肌にストンと伸びた長い黒髪。彫りの深い端正な顔は異国的な情緒を与え、何かを楽しむように歪んでいる暗褐色の瞳は、危機感を抱かせる。着ているコートも屋敷の主が着るものよりも上質で、コートの下の礼服の生地もまた闇のように黒く品があり、森の中よりも夜会に居る方が適切であろう。
自分の目の前で立っている男は、明らかにこの国の人間ではない。そんな相手が何故こんな森に居るという。警戒に眉を歪ませ黙っているヴィンスに対し、男は芝居がかった様子で両手を広げると、大きく声をあげた。
「やあやあやあ、なんと美しい人だ!! ああ、怖がらなくても良いよ。私は美しいものには、親切にするタイプだからね」
「それを信じる程、世間知らずに見えるか?」
「まあ、私の風貌は、この国の人間には物珍しく見える事は否定しない。『悪魔』だなんだと言われて、聖水をかけられた事もあるからね。信じて欲しいが、私は此処に商品の買付に来ただけだ。この見た目だけでも、勝手に厄介事がやってくる。喩え君が指名手配犯だろうとも、この国の良識と法律に従って、わざわざ厄介事を抱える気は無い」
「こんな所で、何を買い付けると言う」
「毛皮だとか希少なキノコや鉱石だとかを、腕の立つ狩人からね」
男の言葉に、ベートの姿が一瞬脳裏に浮かんだ。ベートの家には、シーツや衣服に鍋など、彼では作れないものも取り揃えていた。この男から買ったのかと思うと納得ができる。だが、この男への警戒が薄れたというワケではない。顔を見上げて黙ってヴィンスが睨みつけていると、男は小さく肩を竦めた。
「このままずっと見つめ合うだけなのは、何とも味気ない。まずは名乗る所から始めよう。私はルンペルシュルツルツキン、どうぞルンペルと呼んでくれ。美しい人、貴方のお名前をお聞かせいただいても?」
「ヴィンスだ」
「ふむ。バラの棘のように、他人に触れられる事を許さない凛とした響きだ。貴方によく似合う」
好意的な口調に反し、顎を撫でながら笑うルンペルの暗褐色の瞳は、値踏みをしているような冷ややかさが感じられる。ベートもまた己の名前を良いものだと言っていたが、彼の表情には憧憬が込められていて、不快ではなかったのに。眉間に皺を刻ませている己へ近づこうと、ニコニコと友好的に見える表情を浮かべるルンペルへ、ヴィンスは小さく吐き捨てるように笑った。
「偽名を言う男の甘言ほど、苦々しいものはないな」
「何故そうだと?」
「『ルンペルシュルツルツキン』とは、『この国』のおとぎ話に出てくる悪魔の名前だ。まさか偶然だとでも言うつもりか?」
「そこはほら、私がその童話で語られている『悪魔』かもしれないよ?」
おどけた様子で目を見開き、自分を見つめるルンペルの視線が不愉快でならず、ヴィンスは我知らず拳を握った。
「……私の前で、冗談でも『悪魔』などと口にするな」
「おや、貴方は悪魔がお嫌いですかな?」
「私が嫌うのは、『悪魔』と軽々しく口にする――お前のような人種だ」
「おやおや。随分と嫌われてしまった」
大仰に悲しげな表情を浮かべながらも、ルンペルはヴィンスへの距離を詰めている。地面を踏む度、森の暗く深い匂いが彼の周囲に漂い、威圧するかのようにヴィンスの身体に伸し掛かってきて、先程まで意識せずとも聞こえていた虫や鳥の声さえ、彼を恐れてなのかピタリと止んだ。真っすぐにこちらへ向く暗褐色の瞳と目が合うと、触れられているかのような気持ち悪さに立ち上がり逃げ出してしまいたいが、肉の匂いを嗅いだ事による拒絶反応が身体にまだ残り、足腰に力が入らない。ついに足と足が触れ合う程に近づくと、ルンペルは腰を屈めじっくりとヴィンスの顔を見つめた。
「近くで見ると、益々貴方の美しさが見て取れる――拒む様さえ、手折りたくなるほどに官能的だ」
無遠慮に肩を掴むルンペルの手は大きく、氷のように冷ややかだった。ヴィンスは肩に置かれた手を振り払おうと力を込めて引き剥がそうとしたが、ルンペルの褐色の手はびくりとも動かず、暗褐色の瞳も己の抵抗を楽しんでいるように細まった。
「簡単には手折らせないような棘のある仕草も、甘く漂うかぐわしい香りも本当に惹きつけられる」
ねっとりとした低く甘い声色に、父を焼いた紅々とした炎が脳裏に蘇る。劇場のままヴィンスは拳を握りしめ思い切り殴りつけようと腕を上げると、肩を押さえつけていた手があっけなく離れて ルンペルの頬へと振り下ろそうとした腕を掴んだ。この男を殴れなかった口惜しさに口内に苦みが広がるが、口はまだ封じられていない。せめてもの皮肉に、ヴィンスは口元を歪めると、怒気を露に笑みを浮かべた。
「まるで私が、お前を惑わしているかのような言い草だな」
「違うのかい? 私に仕事を忘れさせて、君の事を味わってみたくなるようにさせているだろう――その香りで」
「香り?」
「君、体臭が『甘い』だとか『良い匂い』だとか、言われた事があるだろう? 君の心はそうではないかもしれないが、君の身体は、雄を求めて惹きつけているんだよ」
「っ……」
ルンペルの指摘に、ルナールやベートの顔が思い浮かんだ。気さくだったルナールは、『良い匂いがする』と言った途端急に己の手へと口を近づけると、犬歯で皮膚を割いた。 ベートは、何度も『甘い匂い』と言い、己の項に何度も顔を埋めてはその匂いを嗅いでいた。
あれは彼らが情欲を抑えられない非を、ヴィンスに押し付けているものだと今まで考えていた。自身で責を取ろうとしない醜さに、父を死に追いやったモノ達を視て、己の容貌を褒め、欲情を向けられる度に、怖気が立ってしかたがなかった。
だが、それが真実己の体臭によって、彼らの理性が狂わされた結果だとしたら?
彼らは人の皮を被った獣ではなく、自分の香りによって獣に変じてしまったとしたら?
父が、己が――男を惑わす『悪魔憑き』に他ならないと言う事になる。
迷信だと信じていものが事実であるかもしれない可能性に押し黙り、視線を逸らしているヴィンスに対して、ルンペルは唇をやんわりと釣り上げた。
「全ての生物は、繁殖する事に貪欲だよ。花は受粉のために甘い香りを放って虫を誘い、果実は種を運ぶ為に甘く美味になることで動物に食べられるーー人間だけが、それから外れている方が不自然とは思わないかい?」
「人間が動物や植物と同等だと?」
反射的に顔を上げてヴィンスが問いかけると、揶揄するように暗褐色の目が細まり演技がかった様子で肩を竦められた。
「お宅の所は、人は神により作られた完璧なる存在で、人を生かすために神が不完全な動物や植物を作られた。だから人が正しい道から外れるはずなどない。人が過ちを犯したのならば、悪魔が惑わしたからだって信じているんだろうけど、私の国じゃあ全ての生き物の命は神によって作られた。これだけ多くのものを作ったなら、多少の間違いもまた御愛嬌って信じられているからね。宗教観がこれだけ違えば、物事の捉え方もまた異なることも不思議じゃない」
「っ……」
ルンペルが口にした考えを、彼の口から聞くまでヴィンスは思いもしなかった。この男の言う事が正しいかどうか、それは問題ではない。重要なのは、父を火あぶりにして殺した迷信を、ヴィンスは己の全てを賭けて憎んでいた。その自分の思考が、父を奪った『迷信』を生んだモノから抜け出せていなかった。全く異なる宗教観を聞かされるまで、その事さえ気づけなかった己の愚かさが、腹立たしくて仕方がない。
「……」
胃の底から不快感が込み上がり、ふるふると小刻みに身が震え、血を滲ませる程に強くヴィンスは唇を噛んだ。足元が崩れる程の衝撃ど動揺を耐えているヴィンスを慰めるように、ルンペルは太い眉を下げ、頬を指の先でそっと撫でた。
「君の国は閉鎖的な所があるし、私の国より相当信心深いからねぇ。その教えを好いているにしろ嫌っているにしろ、頭の中に根付いてしまっているのは仕方ないは事だろう」
「っ……」
仕方ない、と己の愚かさを許容する毒のように甘い。だが、その甘さに従い己の愚かさを許してしまえば、父を殺した迷信を許す事にも繋がりそうな危うさも秘めている。その危うさを隠し、即物的な慰めに誘おうとするルンペルの言葉や慰撫する手つきは、悪しき道へと手招きする悪魔のようだった。
(……悪魔、か)
己の頭に浮かんだ比喩に、ヴィンスは思わず自嘲の笑みを浮かべた。
(愚かさを自覚して尚私の思考はーー縛られたままだ)
己から醸し出される香りが、真実雄を狂わせるものだとしても、それが『悪魔』によるものではない。
その証明のためにはまず、己の思考を縛る鎖から解放されねばならない。口惜しいが、ルンペルの語る異国の概念と知識が、自分には必要だ。苦々しい思いを噛み締めつつもゆっくりと顔を上げたヴィンスに対して、ルンペルはねっとりとした悦びに浸る目を細めた。
「お前が今持つ他国の知識を、私が買う事は出来るか?」
長い沈黙の後、しっかりと暗褐色の瞳を見つめて問いかけるヴィンスに、ルンペルの瞳が妖しく輝く。上機嫌に両手を合わせると、ルンペルは右半分の口角を上げた。
「勿論、私は商人だ。君に支払う覚悟があるなら、喜んで売ろうじゃないか」
「覚悟?」
「私の手で君の身体を暴かせてくれるのであれば、売買に応じよう」
「私は……痛み止めや熱冷ましなどを処方する事が出来る。商人ならば、こんな痩せこけた男の身体よりも、市場価値のある技術の方に魅力を感じるんじゃないか?」
「痛み止めや熱冷ましなら、君に頼まなくても手に入れられる。私が求めるのは、オンリーワンの逸品だ」
ヴィンスが出した代案を、間髪淹れずにルンペルは断った。他者に身体を蹂躙される。今こうして、劣情と好奇の混じった目で見られているのも嫌なのだ。この男の欲を満たそうとする手で触れられるとしたならば、どれほど厭わしくおぞましいものだろうか。口ごもり、決断を迷っているヴィンスに対し、追い打ちがかけられる。
「この国の童話の『ルンペルシュルツルツキン』の二の舞は踏みたくないからね。売買において私は後払いに応じるつもりもなければ、長々君の決断を根気よく待つつもりもない。どうする? ヴィンス君」
嘘の混じった笑みがピタリと止み、彫刻のように整った顔がひたりとヴィンスの方を向く。今この機会を逃してしまえば、他国の知識に触れる機会は、現れないかもしれない。焦燥がヴィンスから冷静さを奪い、ルンペルが作り上げた一本道の選択肢だと気づきつつも、自分には、それを選ぶしかない。諦めと共に握った拳を緩めると、力なく頭を垂れた。
「お前の取引に――応じる」
自分の目の前で立っている男は、明らかにこの国の人間ではない。そんな相手が何故こんな森に居るという。警戒に眉を歪ませ黙っているヴィンスに対し、男は芝居がかった様子で両手を広げると、大きく声をあげた。
「やあやあやあ、なんと美しい人だ!! ああ、怖がらなくても良いよ。私は美しいものには、親切にするタイプだからね」
「それを信じる程、世間知らずに見えるか?」
「まあ、私の風貌は、この国の人間には物珍しく見える事は否定しない。『悪魔』だなんだと言われて、聖水をかけられた事もあるからね。信じて欲しいが、私は此処に商品の買付に来ただけだ。この見た目だけでも、勝手に厄介事がやってくる。喩え君が指名手配犯だろうとも、この国の良識と法律に従って、わざわざ厄介事を抱える気は無い」
「こんな所で、何を買い付けると言う」
「毛皮だとか希少なキノコや鉱石だとかを、腕の立つ狩人からね」
男の言葉に、ベートの姿が一瞬脳裏に浮かんだ。ベートの家には、シーツや衣服に鍋など、彼では作れないものも取り揃えていた。この男から買ったのかと思うと納得ができる。だが、この男への警戒が薄れたというワケではない。顔を見上げて黙ってヴィンスが睨みつけていると、男は小さく肩を竦めた。
「このままずっと見つめ合うだけなのは、何とも味気ない。まずは名乗る所から始めよう。私はルンペルシュルツルツキン、どうぞルンペルと呼んでくれ。美しい人、貴方のお名前をお聞かせいただいても?」
「ヴィンスだ」
「ふむ。バラの棘のように、他人に触れられる事を許さない凛とした響きだ。貴方によく似合う」
好意的な口調に反し、顎を撫でながら笑うルンペルの暗褐色の瞳は、値踏みをしているような冷ややかさが感じられる。ベートもまた己の名前を良いものだと言っていたが、彼の表情には憧憬が込められていて、不快ではなかったのに。眉間に皺を刻ませている己へ近づこうと、ニコニコと友好的に見える表情を浮かべるルンペルへ、ヴィンスは小さく吐き捨てるように笑った。
「偽名を言う男の甘言ほど、苦々しいものはないな」
「何故そうだと?」
「『ルンペルシュルツルツキン』とは、『この国』のおとぎ話に出てくる悪魔の名前だ。まさか偶然だとでも言うつもりか?」
「そこはほら、私がその童話で語られている『悪魔』かもしれないよ?」
おどけた様子で目を見開き、自分を見つめるルンペルの視線が不愉快でならず、ヴィンスは我知らず拳を握った。
「……私の前で、冗談でも『悪魔』などと口にするな」
「おや、貴方は悪魔がお嫌いですかな?」
「私が嫌うのは、『悪魔』と軽々しく口にする――お前のような人種だ」
「おやおや。随分と嫌われてしまった」
大仰に悲しげな表情を浮かべながらも、ルンペルはヴィンスへの距離を詰めている。地面を踏む度、森の暗く深い匂いが彼の周囲に漂い、威圧するかのようにヴィンスの身体に伸し掛かってきて、先程まで意識せずとも聞こえていた虫や鳥の声さえ、彼を恐れてなのかピタリと止んだ。真っすぐにこちらへ向く暗褐色の瞳と目が合うと、触れられているかのような気持ち悪さに立ち上がり逃げ出してしまいたいが、肉の匂いを嗅いだ事による拒絶反応が身体にまだ残り、足腰に力が入らない。ついに足と足が触れ合う程に近づくと、ルンペルは腰を屈めじっくりとヴィンスの顔を見つめた。
「近くで見ると、益々貴方の美しさが見て取れる――拒む様さえ、手折りたくなるほどに官能的だ」
無遠慮に肩を掴むルンペルの手は大きく、氷のように冷ややかだった。ヴィンスは肩に置かれた手を振り払おうと力を込めて引き剥がそうとしたが、ルンペルの褐色の手はびくりとも動かず、暗褐色の瞳も己の抵抗を楽しんでいるように細まった。
「簡単には手折らせないような棘のある仕草も、甘く漂うかぐわしい香りも本当に惹きつけられる」
ねっとりとした低く甘い声色に、父を焼いた紅々とした炎が脳裏に蘇る。劇場のままヴィンスは拳を握りしめ思い切り殴りつけようと腕を上げると、肩を押さえつけていた手があっけなく離れて ルンペルの頬へと振り下ろそうとした腕を掴んだ。この男を殴れなかった口惜しさに口内に苦みが広がるが、口はまだ封じられていない。せめてもの皮肉に、ヴィンスは口元を歪めると、怒気を露に笑みを浮かべた。
「まるで私が、お前を惑わしているかのような言い草だな」
「違うのかい? 私に仕事を忘れさせて、君の事を味わってみたくなるようにさせているだろう――その香りで」
「香り?」
「君、体臭が『甘い』だとか『良い匂い』だとか、言われた事があるだろう? 君の心はそうではないかもしれないが、君の身体は、雄を求めて惹きつけているんだよ」
「っ……」
ルンペルの指摘に、ルナールやベートの顔が思い浮かんだ。気さくだったルナールは、『良い匂いがする』と言った途端急に己の手へと口を近づけると、犬歯で皮膚を割いた。 ベートは、何度も『甘い匂い』と言い、己の項に何度も顔を埋めてはその匂いを嗅いでいた。
あれは彼らが情欲を抑えられない非を、ヴィンスに押し付けているものだと今まで考えていた。自身で責を取ろうとしない醜さに、父を死に追いやったモノ達を視て、己の容貌を褒め、欲情を向けられる度に、怖気が立ってしかたがなかった。
だが、それが真実己の体臭によって、彼らの理性が狂わされた結果だとしたら?
彼らは人の皮を被った獣ではなく、自分の香りによって獣に変じてしまったとしたら?
父が、己が――男を惑わす『悪魔憑き』に他ならないと言う事になる。
迷信だと信じていものが事実であるかもしれない可能性に押し黙り、視線を逸らしているヴィンスに対して、ルンペルは唇をやんわりと釣り上げた。
「全ての生物は、繁殖する事に貪欲だよ。花は受粉のために甘い香りを放って虫を誘い、果実は種を運ぶ為に甘く美味になることで動物に食べられるーー人間だけが、それから外れている方が不自然とは思わないかい?」
「人間が動物や植物と同等だと?」
反射的に顔を上げてヴィンスが問いかけると、揶揄するように暗褐色の目が細まり演技がかった様子で肩を竦められた。
「お宅の所は、人は神により作られた完璧なる存在で、人を生かすために神が不完全な動物や植物を作られた。だから人が正しい道から外れるはずなどない。人が過ちを犯したのならば、悪魔が惑わしたからだって信じているんだろうけど、私の国じゃあ全ての生き物の命は神によって作られた。これだけ多くのものを作ったなら、多少の間違いもまた御愛嬌って信じられているからね。宗教観がこれだけ違えば、物事の捉え方もまた異なることも不思議じゃない」
「っ……」
ルンペルが口にした考えを、彼の口から聞くまでヴィンスは思いもしなかった。この男の言う事が正しいかどうか、それは問題ではない。重要なのは、父を火あぶりにして殺した迷信を、ヴィンスは己の全てを賭けて憎んでいた。その自分の思考が、父を奪った『迷信』を生んだモノから抜け出せていなかった。全く異なる宗教観を聞かされるまで、その事さえ気づけなかった己の愚かさが、腹立たしくて仕方がない。
「……」
胃の底から不快感が込み上がり、ふるふると小刻みに身が震え、血を滲ませる程に強くヴィンスは唇を噛んだ。足元が崩れる程の衝撃ど動揺を耐えているヴィンスを慰めるように、ルンペルは太い眉を下げ、頬を指の先でそっと撫でた。
「君の国は閉鎖的な所があるし、私の国より相当信心深いからねぇ。その教えを好いているにしろ嫌っているにしろ、頭の中に根付いてしまっているのは仕方ないは事だろう」
「っ……」
仕方ない、と己の愚かさを許容する毒のように甘い。だが、その甘さに従い己の愚かさを許してしまえば、父を殺した迷信を許す事にも繋がりそうな危うさも秘めている。その危うさを隠し、即物的な慰めに誘おうとするルンペルの言葉や慰撫する手つきは、悪しき道へと手招きする悪魔のようだった。
(……悪魔、か)
己の頭に浮かんだ比喩に、ヴィンスは思わず自嘲の笑みを浮かべた。
(愚かさを自覚して尚私の思考はーー縛られたままだ)
己から醸し出される香りが、真実雄を狂わせるものだとしても、それが『悪魔』によるものではない。
その証明のためにはまず、己の思考を縛る鎖から解放されねばならない。口惜しいが、ルンペルの語る異国の概念と知識が、自分には必要だ。苦々しい思いを噛み締めつつもゆっくりと顔を上げたヴィンスに対して、ルンペルはねっとりとした悦びに浸る目を細めた。
「お前が今持つ他国の知識を、私が買う事は出来るか?」
長い沈黙の後、しっかりと暗褐色の瞳を見つめて問いかけるヴィンスに、ルンペルの瞳が妖しく輝く。上機嫌に両手を合わせると、ルンペルは右半分の口角を上げた。
「勿論、私は商人だ。君に支払う覚悟があるなら、喜んで売ろうじゃないか」
「覚悟?」
「私の手で君の身体を暴かせてくれるのであれば、売買に応じよう」
「私は……痛み止めや熱冷ましなどを処方する事が出来る。商人ならば、こんな痩せこけた男の身体よりも、市場価値のある技術の方に魅力を感じるんじゃないか?」
「痛み止めや熱冷ましなら、君に頼まなくても手に入れられる。私が求めるのは、オンリーワンの逸品だ」
ヴィンスが出した代案を、間髪淹れずにルンペルは断った。他者に身体を蹂躙される。今こうして、劣情と好奇の混じった目で見られているのも嫌なのだ。この男の欲を満たそうとする手で触れられるとしたならば、どれほど厭わしくおぞましいものだろうか。口ごもり、決断を迷っているヴィンスに対し、追い打ちがかけられる。
「この国の童話の『ルンペルシュルツルツキン』の二の舞は踏みたくないからね。売買において私は後払いに応じるつもりもなければ、長々君の決断を根気よく待つつもりもない。どうする? ヴィンス君」
嘘の混じった笑みがピタリと止み、彫刻のように整った顔がひたりとヴィンスの方を向く。今この機会を逃してしまえば、他国の知識に触れる機会は、現れないかもしれない。焦燥がヴィンスから冷静さを奪い、ルンペルが作り上げた一本道の選択肢だと気づきつつも、自分には、それを選ぶしかない。諦めと共に握った拳を緩めると、力なく頭を垂れた。
「お前の取引に――応じる」
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