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1話:悪魔憑き

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 立ち上がった途端、ズキリと大きく骨同士が軋むような痛みが奔り、ヴィンスは床に座り込んだ。
 
「く……」
 
 顔を顰めながら立ち上がる度に骨ばかりではなく内臓までも何かに捕まれるような痛みも追加され、吐きそうになる程気持ちが悪い。ふらつきながらも机を杖代わりにして立ち会がると、血色の悪い自分の顔が、窓に映って苦々しい表情で見つめている。
 
 少し癖のある長い髪を後ろに括り、ニガヨモギ色の瞳はジンワリと苦痛で滲んだ涙により濡れ光る。体躯は細く痩せ肌も白く、髭も禄に生えていない。ズボンとシャツを着ていなくては、線の細い顔立ちも含めて女性に間違えられても可笑しくない。
 実際、何度となく間違えられた。
 
「……」 
 
 窓に映る自分の顔を、何度眺めた所でこの痛みも、男性性とは程遠い容姿も変わるわけではない。痛みを堪えながらヴィンスは瑞々しい採りたての薬草を千切りポットの中に入れると、沸々と沸き立つ湯を注いだ。
 
「よう、ヴィンス。また骨が痛んでいるのか?」
 
 ガーデナー用の休憩室の扉を開けて遠慮なしに入ってきた男に、ヴィンスは苦々しい表情を浮べた。
 
 猟場管理者として猟犬と共に森を何日も駆け続けられる程に鍛えられた身体。半袖のシャツから見える太い腕は、筋肉が詰められており、そして足もまた引き締め鍛えられている。
 短く刈られた栗色の髪と、全く同じ栗色の目。精悍さと共に、彼の持つ愛嬌の良さを感じさせる。身体も、心も。全て、全て自分とは異なるこの男―ルナール―に非は無いとは知りながらも、ヴィンスは反発をどうしても抑えられなかった。
 黙って薬草のエキスが湯に沁み込むのを待つ己に対し、ルナールは肩をすくめてヴィンスの隣に立った。
 
「腰が痛むのは、魔女か悪魔が呪って一撃食らわせてる所為だって聞いたぜ? 何なら今度、一緒に教会にでも行って悪魔祓いでも受けてみないか?」
 
 ルナールの提案に、ヴィンスは苦々しく眉を歪めると、吐き捨てるように息を吐いた。
 
「はあ? そんな迷信を信じて治るようなら、医者なんぞ要らんだろう」
 
「でもさ。畑の不作やら獣が捕れない事だとか。人間じゃどうしようも無い事だってあるし。それに男の身体なのに悪魔みたいに甘い香りで男を惑わして、その上子を孕む奴が居るんだ。そういう奴らを夢魔の落とし児やら悪魔憑きと言えなくて、どう説明するっていうんだ」
 
 ルナールの反論にヴィンスの心に髪と肌の焼ける嫌な匂いと赤々と燃える炎が蘇り、ピクリと指が跳ねた。喉がつかえて息苦しくなり、すぐさま目を閉じ、深々と吐息を吐けばそれらは掻き消えた。だが、代わりに腹が沸々と苛立ちで掻き乱される。
 子を孕む事が出来るのは、女のみであるはずなのに。男の身体で子を孕むという現象は、この世界が確かに存在している。
 だがそれは彼らが夢魔の落とし児であるからだとか。悪魔が憑いているからだとか。そんな非論理的な理由であるはずがない。
 その現象の理由は分からない。自らの身を苛む痛みが、ヴィンスにはまだ解明できないように。彼らの身体の仕組みもまた、ヴィンスには解明出来てはいない。己の知識不足への苦々しさを感じながら、ヴィンスはルナールから顔を逸らした。
 
「彼らに責があるんじゃない。その現象を究明できず、彼らに咎があると責める私達の方にこそ責がある。目先の安堵に縋った所で得られるものなど、一瞬の安らぎだけで本質的な解決になどならん」
 
 ポットの蓋を開き、充分に抽出が終ったのを確かめると、ヴィンスはカップに湯を注ぎゆっくりと身体に染み渡るように中の液体を飲み続けた。
 
「……」
 
 胃の腑に収まると、暖かな液体が自分の身体に染み入るような気がして、腰の痛みが少しばかり治まった。そうして痛みから解放されると、自分が細い喉がゆっくりと上下して液体を嚥下する様を、ルナールが黙って見つめている事に気が付いた。
 
「何だ?」
 
「あ、そ、その……美味そうって、思ってさ」
 
「美味い訳があるか。苦くて青臭くて、腰の痛みが無ければ、誰がこんな不味いものなんざ飲むか」 
 
 飲み終わったカップとポットを流し場に持って行くと、親鳥にくっつく雛鳥の様に、ルナールもまたついて来る。
 
「おい、何の用で此処に来た?」 
 
「あ、ああ。畑と薬草園に、野兎が出たから駆除を頼んだろ? 仕留めたから、夕飯にどうかなって思ってさ」
 
「それなら、コックにでも渡せ。この土地で出来たものは、旦那様のものだろう。使用人の俺達が勝手に頂いて良いものじゃない」 
 
「ヴィンスだって畑や薬草園で採れたもの、今もこうして勝手に使っているだろ?」
 
 ルナールの文句に、ヴィンスは皮肉たっぷりに頬を歪めて笑みを向けた。
 
「私の場合、旦那様や奥方様のお求めになる効果を持つ薬草をお出しするまで仕事のうちに入っているからな。自分が飲めないようなものを、旦那様にお出しするわけにはいかないだろ」 
 
「お前、本当に口が回るなぁ」
 
 どこか感心したようにルナールが呟くと、名残惜しそうにヴィンスへと視線を向けている。どこかねっとりと肌に纏わり付くような濃密な目つきに危機感を感じ、ヴィンスは不快さを露にした視線を向けるが、ルナールの眼差しは益々に強くなる。
 
「ヴィンス、やっぱり良い匂いがする」
 
「はあ?」
 
「甘くて、柔らかくて――美味そうだ」  
 
 まるで酒でも食らったように、ルナールの栗色の瞳は情熱的に濡れている。頭の中で警報が鳴り、危機感に従って一歩ヴィンスは距離を取るが、それよりも自分へと一歩近づくルナールの方が足幅が大きい為に距離は逆に縮まった。
 
「――ヴィンス」 
 
 熱っぽく名前を呼ばれる悍ましさに、ヴィンスはもう一歩足を引く。逃げるヴィンスを追い詰めるよう、ルナールの手が強く握り、それ以上の距離を取らせる事を許さない。
 
「ヴィンス」 
 
 熱っぽい声色で呼びかけ、片手で掴める程の細い手首をルナールは自らの口元へと近づいた。
 
「本当に――美味しそうだよ。ヴィンス」 
 
「っ……!!」
 
 捕食の危機にヴィンスは本能的に腕を振り払おうと力を込めた。乱暴に引き剥がそうと無茶苦茶に力を込めた為、手の甲に犬歯が掠り、皮膚が裂かれた。
 ヴィンスの手の血が口の中に入り、まるで甘露でもあるようにうっとりとルナールは目を細めた。
 
「ああ、やっぱり。匂いのとおり、ヴィンスは美味い」 
 
 舌を出し、手の甲から滲む血を舐め取るルナールは、肉食獣が獲物を貪る姿をヴィンスに思わせる。
 こちらにまで吹きかかる程の熱を込めた吐息を放ち、痛む腰へとルナールが手を回そうとする姿には、明らかに性的な意図を含んでいる。自身の身の危機と痛みにヴィンスの身体に自由が戻り、渾身の力でルナールを突き飛ばした。
 
「……ヴィンス?」 
 
 我に返ったルナールが口を拭うと、手がヴィンスの血とルナールの唾液で薄い赤色で濡れている。先程自分が何をしたのかを思い至ったのか、手を汚す紅色と警戒を露わにするヴィンスの姿を、ルナールは交互に見た後、段々と栗色の瞳に恐れの色が現れ始めた。
  
「お前……あ、くま――憑き……なのか?」 
  
 ルナールの言葉に、ヴィンスは息を止めた。悪魔憑きだと疑われた人間は、その真偽に係わらず良くて修道院送り、悪くて悪魔を『祓う』為に火あぶりにされる。ただでさえ、自分の見た目は女性的なのだ。十中八九、悪魔憑きとして扱われる。
 無知と思考停止の二つが人の正気を失わせ、残酷にさせるかをヴィンスはよく知っている。その愚かが自分に向けられる。
 
「っ――!!」
 
 本能的な恐怖に、ヴィンスは反射的に近くにあったポットを掴んでルナールの頭に勢いよく叩きつけた。茫然としていた為か、それとも反撃されるはずがないと舐められていたのか。どちらかは分からないが、ヴィンスの一撃をマトモに食らったルナールは、倒れて静かに横たわっている。
 
「っ……ルナー、ルッ……」
 
 我に返ったヴィンスが、ルナールの様子を確かめる。出血はしているが、死んではいない。その事に安堵したが、すぐに周囲を見回した。ルナール以外に、人間はいない。悪魔憑きとしての疑いを持っているのは、彼しかいない。
 
(……今のうちに、逃げないと……)
  
 初めて人を傷つけてしまった動揺で、心臓が勝手に鼓動を打ち息苦しくて堪らなく、治まったはずの痛みがぶり返す。
 だが、その痛みと動揺に呑まれてしまえば、己に待つのは終わりだけ。ヨロヨロとふらつきながら、ヴィンスはローブを被り顔を隠すと、森の奥へと逃げるべく仕事部屋から立ち去った。
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