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本編
冥府での歓待 1
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暗い。寒い。音がしない。
どのくらいへたりこんでいただろう。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。最初は呆然としていたが、じわじわと冷静さを取り戻すと周囲の状況を把握する余裕が出来た。
洞窟の中でアネモネは必死に思考を巡らせた。このままここにしゃがみこんでいては本当に死んでしまう。どうにかしなければ……。
だが、生きようとする冷静な思考の隅で、もう死んでもいいんじゃないか? 楽になれるのではないか? そんな絶望的な甘い囁きが鳴り止まない。
……くらくらする。
手探りで閉じた岩壁を探り当てると、アネモネはそこに背を預けた。
……もうこのまま立ち上がりたくない……。
目を開けていても閉じていても変わらない暗闇の中。目を閉じて静かに呼吸する。
ここが冥府だというのなら、ここで死んでも構うまい。絶望に身を委ねることは、消耗した心と体にとってとてつもなく良い提案のように思えた。
うん、そうだ、終わりにしよう。もう疲れた。ここで眠ろう。
そう考えたら、馬車の中で俯いていたときよりうんと楽になった。
……ああ、わたくしずっと死にたかったのね。
結論が出た。出てしまった。ふふ、と思わず笑みが漏れる。死んだほうがマシ、死んでもいい、そう思ってばかりの毎日だった。いざ実行に移しても構わないのだと気付いたら、それが思っていたよりも本気であったことを理解してしまった。
自分の気持ちすら正しく理解できていなかったのね。愚かだわ。
可笑しくて可笑しくて……少しだけ、涙が出た。数滴の涙を指先で拭うと、思考は嫌な方向に前向きになり始めた。どうやって死ぬか、である。いろいろ逡巡した末、一番手っ取り早い方法をとることにした。アネモネは家系の魔法こそ上手く使えなかったが、それ以外の生活に関する魔法はかなり得意だ。それを利用することにした。
呪文を唱えて、まずは周囲に明かりを灯す。淡く光る光の玉が薄ぼんやりと辺りを照らした。次に手の中に冷気を集める。それを薄く尖ったナイフの形へとイメージで変化させてゆく。あっという間に氷で出来たナイフが出来た。
縛られたままだがもうどうでもいい。これを喉に一突きすれば全てが終わる。息を吸い、吐き、両手で握ったナイフを振りかぶった。
その時だ。
「ちょ、ちょっと待てい!!」
雷かと思うような大声が辺りに響いた。
驚いて思わずナイフを取り落とす。見れば大柄な体躯の男と、黒いローブを目深に被った背の高い男がぎょっとした顔でアネモネを見ていた。
「だっ、誰!? ……! 来ないでください!」
氷のナイフを慌てて拾い上げ、男たちに向ける。アネモネが入ってきた洞窟の入り口は変わらず固く閉ざされている。男たちはその反対側、洞窟の奥、暗闇の中から急に姿を現した。警戒するなというほうが無理だ。
「落ち着け! 怪しい者ではない。オレはツィアドルフ。こちらはノア。そちらはグリンフィンガー公爵令嬢のアネモネ・グリンフィンガー嬢とお見受けするが、相違ないか!」
雷のような大声の男が、手に持ったランタンを顔の前に掲げながら名乗る。そしてアネモネの名前を呼んだ。そのことで、アネモネの体は更に強張りを深めた。何故この見知らぬ男は自分の素性を知っているのだろう。
目立つほうを警戒していると、もう一人の男が音もなくアネモネのすぐ近くまで来ていた。握った手から、手品のようにするりとナイフを抜き取る。
「危ない危ない。ダメだよ」
いつの間に近くに寄っていたのか、全く気付かなかった。気配の静かな男は至近距離でにこり、と微笑んだ。
「あっ……! 返してください!」
「ダメだってば。痛いよ、こんなの刺さったら」
「痛くてもいいんです、もう死なせて……!」
死なせて、と聞いた途端、背の高い男は手の中で弄んでいた氷のナイフを消滅させた。そしてふうと息をつく。
「危なかったー。もう少し遅かったら間に合わないとこだった。ねえ、怖がらせてごめんね。もう一回だけ確認させて。君が、『冥府の花嫁』のアネモネ・グリンフィンガー嬢?」
座り込んだままのアネモネに合わせ、男は自らもその傍らにしゃがみこみ顔を覗き込む。目線が合って初めて、赤い瞳が美しいことが分かった。
「…………はい、そうです」
凪いだ赤い色の瞳に促されるようにアネモネが答えると、ノアと紹介された男は嬉しくてたまらないといった表情になった。そして突然アネモネのことを、力いっぱい抱きすくめた。
「えっ!? あ、あの……!?」
「ようこそ! 待ってたよ、俺の花嫁!」
困惑するアネモネをよそに、ノアという男は腕の力を緩めない。ぎゅうぎゅうと圧迫される男性の力強い抱擁にアネモネがドギマギしていると、ツィアドルフと名乗ったほうが近づいてきて腕力でノアを引き剥がした。
「こら! ノア! 困ってしまうだろう」
「あっ、ご、ごめんね」
しゅん、と項垂れるノアに、何が何だか分からないという顔をするしかないアネモネ。何もかもが飲み込めずに困惑したままノアの顔を見ていると、その視線に気付いたのか、優しく微笑まれた。そしてノアはふとアネモネの縛られたままの手首に目をとめ、優しい手つきで結び目に手をかけた。
「痛いでしょ、これ。解くからじっとしてて」
そう一声かけてから極めて丁寧に細紐を緩めていく。程なくして完全に解き終えると、縛られて痕のついたアネモネの手首を指先でそっと撫でた。痛ましげに眉根を寄せる。
「ひどいな。令嬢への扱いとは思えない。後で薬を塗ろう」
少し後ろでうんうんと深く頷くツィアドルフが見える。
……何だかよく分からないけれど、少なくとも、今すぐ自分を害するつもりはないと判断してもいいのかもしれない。
「……あ、ありがとうございます」
「うん、どういたしまして。さて、ここにずっといたら風邪を引くね。行こうか」
恐る恐る礼を口にすればノアの顔にはまた柔らかな微笑みが戻ってくる。立てる? と促されたので足に力を込め立ち上がると、すぐさまぐらつく身体を支えるように背と手を支えてくれた。エドモンド以外の男性とこんなに近づいたことはない。寄り添うような形になって恥ずかしく思ったアネモネだったが、ノアの方は顔色ひとつ変わらない。
「いつもなら歩くんだけどそのドレスじゃちょっと辛いよね。目を瞑ってじっとして。そのまま俺から離れないでね」
声をかけてくれたかと思うと、添える程度だった腕が肩に回り力が込められる。思いのほか強く引き寄せられて驚く。密着したローブからは甘いような辛いような芳しい香りがして、アネモネの鼻をくすぐった。
左腕でアネモネを抱くノアは、空いている右手で空中を軽くノックするような動きをとった。すると足元に紫に光る幾何学模様が現れ、そこから風が流れてくる。
下から吹き上げる強風にアネモネは思わずぎゅっと目を瞑る。ほんの一瞬、体験したことのない浮遊感が身体を包んだ。その感覚が消えると後を追うように風がやんだ。
「もういいよ。目を開けてごらん」
ノアの優しく落ち着いた声に導かれて目を開けると、景色は一変していた。
さっきまでは明かりが無いと何も見えない完全な暗闇の洞窟だった。それが今は薄暗い夜の空があり、どこまでも広がる地平線がある。足元にはすべらかな石畳が敷かれ、白い光を放つ街灯が規則正しく一列に並んでいる。真っ直ぐに伸びた街灯の先には、だだっ広いその場所で最も異質な建造物。それほど大きくないながらも立派な洋館が建っている。
「転移魔法……!?」
「そうだよ。驚いた?」
「ひぁっ」
アネモネが思わず驚きの声を上げると、ノアがそれに答えた。しかしその声の主はアネモネの顔を覗き込むように屈んでいたため、とても近いところで声がしてそのことにまた驚いてしまった。
「あ、ごめん! ……何だか俺は君のことをおどかしてばかりだ。ごめんね」
申し訳なさそうに目を伏せるノア。何か返事をしなくては、とアネモネは口を開いたがそこから言葉は出てこなかった。
「くしゅん!」
くしゃみをしてしまったからだ。
「えっ可愛い……じゃなかった、そうだよね冷えたよね中入ろうか!?」
慌てたノアがアネモネを抱き上げる。お姫様抱っこだ。ドレスを苦にもせず軽々と持ち上げると、ノアは洋館へと走った。後ろからツィアドルフが追い越してきて、ドアを開けて待ってくれる。
「ありがとツィア! ティアー! あったかい飲み物! あと着替えある!?」
大急ぎでドアを駆け抜けツィアドルフに礼を言いながら、ノアは洋館の奥へと進んだ。あっという間に暖炉のある部屋のソファに辿り着き、そこへそっとアネモネを降ろす。
暖炉は炎が力強く揺れていてとても暖かい。ノアはそれを確認すると今度はソファに畳んで置いてあったブランケットを広げてアネモネの肩にかけた。そしてしゃがみ込むと、アネモネの靴を脱がせにかかった。
「えっ、あの、じ、自分で……!」
抱き上げられたときから驚きすぎて声も上げられなかったアネモネが、恥ずかしさから言語中枢機能を取り戻しノアを制止する。するとそこへ、新しい人物が現れた。
「無駄ですよ。ノアは甲斐甲斐しいので。ご迷惑でなければ好きにさせてやってください」
落ち着いたトーンの女性の声。目を向けると白銀の長い髪をポニーテールに結い上げた、褐色の肌に紫の瞳の女性がいた。
女性はカップの載ったお盆を持ち、静かな足取りでアネモネの座るソファまで来ると、どうぞ、とカップを差し出した。湯気の立つカップの中には澄んだ水色の紅茶が注がれている。
発作的にカップを女性からアネモネが受け取ると、意識が逸れた隙にノアがヒールに手をかけ脱がす。あ、と思う頃には両足が冷たい靴から解放されていた。
「ありがとうティア。ナイスフォロー」
ノアが女性に向かって親指を立てる。女性も同じようにノアへサムズアップを返した。
アネモネはいたたまれない気持ちで紅茶に目を落とす。次から次へと、いったい何が起こっているというのか。
ノアはそんなアネモネの様子に目を留めると、ソファの足元へと跪いた。両手で紅茶のカップを包むアネモネの手に、自分の手を上から重ねる。
「アネモネ嬢、まだ上手く状況が飲み込めてないよね。ちゃんと順を追って説明するよ。でも、とりあえずお茶飲んで一息つこう? すごく冷えてる」
言われてみれば確かに寒い。カップのぬくもりが指先からじんわりと広がる。いただきます、と小さく断ってカップに口を付けた。
「……甘くて、美味しいです」
砂糖がたっぷり入った温かい紅茶が喉を流れて胃へ落ちていく。ほう、と息を吐くアネモネを見て、ノアはとびきり優しく微笑むのだった。
どのくらいへたりこんでいただろう。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。最初は呆然としていたが、じわじわと冷静さを取り戻すと周囲の状況を把握する余裕が出来た。
洞窟の中でアネモネは必死に思考を巡らせた。このままここにしゃがみこんでいては本当に死んでしまう。どうにかしなければ……。
だが、生きようとする冷静な思考の隅で、もう死んでもいいんじゃないか? 楽になれるのではないか? そんな絶望的な甘い囁きが鳴り止まない。
……くらくらする。
手探りで閉じた岩壁を探り当てると、アネモネはそこに背を預けた。
……もうこのまま立ち上がりたくない……。
目を開けていても閉じていても変わらない暗闇の中。目を閉じて静かに呼吸する。
ここが冥府だというのなら、ここで死んでも構うまい。絶望に身を委ねることは、消耗した心と体にとってとてつもなく良い提案のように思えた。
うん、そうだ、終わりにしよう。もう疲れた。ここで眠ろう。
そう考えたら、馬車の中で俯いていたときよりうんと楽になった。
……ああ、わたくしずっと死にたかったのね。
結論が出た。出てしまった。ふふ、と思わず笑みが漏れる。死んだほうがマシ、死んでもいい、そう思ってばかりの毎日だった。いざ実行に移しても構わないのだと気付いたら、それが思っていたよりも本気であったことを理解してしまった。
自分の気持ちすら正しく理解できていなかったのね。愚かだわ。
可笑しくて可笑しくて……少しだけ、涙が出た。数滴の涙を指先で拭うと、思考は嫌な方向に前向きになり始めた。どうやって死ぬか、である。いろいろ逡巡した末、一番手っ取り早い方法をとることにした。アネモネは家系の魔法こそ上手く使えなかったが、それ以外の生活に関する魔法はかなり得意だ。それを利用することにした。
呪文を唱えて、まずは周囲に明かりを灯す。淡く光る光の玉が薄ぼんやりと辺りを照らした。次に手の中に冷気を集める。それを薄く尖ったナイフの形へとイメージで変化させてゆく。あっという間に氷で出来たナイフが出来た。
縛られたままだがもうどうでもいい。これを喉に一突きすれば全てが終わる。息を吸い、吐き、両手で握ったナイフを振りかぶった。
その時だ。
「ちょ、ちょっと待てい!!」
雷かと思うような大声が辺りに響いた。
驚いて思わずナイフを取り落とす。見れば大柄な体躯の男と、黒いローブを目深に被った背の高い男がぎょっとした顔でアネモネを見ていた。
「だっ、誰!? ……! 来ないでください!」
氷のナイフを慌てて拾い上げ、男たちに向ける。アネモネが入ってきた洞窟の入り口は変わらず固く閉ざされている。男たちはその反対側、洞窟の奥、暗闇の中から急に姿を現した。警戒するなというほうが無理だ。
「落ち着け! 怪しい者ではない。オレはツィアドルフ。こちらはノア。そちらはグリンフィンガー公爵令嬢のアネモネ・グリンフィンガー嬢とお見受けするが、相違ないか!」
雷のような大声の男が、手に持ったランタンを顔の前に掲げながら名乗る。そしてアネモネの名前を呼んだ。そのことで、アネモネの体は更に強張りを深めた。何故この見知らぬ男は自分の素性を知っているのだろう。
目立つほうを警戒していると、もう一人の男が音もなくアネモネのすぐ近くまで来ていた。握った手から、手品のようにするりとナイフを抜き取る。
「危ない危ない。ダメだよ」
いつの間に近くに寄っていたのか、全く気付かなかった。気配の静かな男は至近距離でにこり、と微笑んだ。
「あっ……! 返してください!」
「ダメだってば。痛いよ、こんなの刺さったら」
「痛くてもいいんです、もう死なせて……!」
死なせて、と聞いた途端、背の高い男は手の中で弄んでいた氷のナイフを消滅させた。そしてふうと息をつく。
「危なかったー。もう少し遅かったら間に合わないとこだった。ねえ、怖がらせてごめんね。もう一回だけ確認させて。君が、『冥府の花嫁』のアネモネ・グリンフィンガー嬢?」
座り込んだままのアネモネに合わせ、男は自らもその傍らにしゃがみこみ顔を覗き込む。目線が合って初めて、赤い瞳が美しいことが分かった。
「…………はい、そうです」
凪いだ赤い色の瞳に促されるようにアネモネが答えると、ノアと紹介された男は嬉しくてたまらないといった表情になった。そして突然アネモネのことを、力いっぱい抱きすくめた。
「えっ!? あ、あの……!?」
「ようこそ! 待ってたよ、俺の花嫁!」
困惑するアネモネをよそに、ノアという男は腕の力を緩めない。ぎゅうぎゅうと圧迫される男性の力強い抱擁にアネモネがドギマギしていると、ツィアドルフと名乗ったほうが近づいてきて腕力でノアを引き剥がした。
「こら! ノア! 困ってしまうだろう」
「あっ、ご、ごめんね」
しゅん、と項垂れるノアに、何が何だか分からないという顔をするしかないアネモネ。何もかもが飲み込めずに困惑したままノアの顔を見ていると、その視線に気付いたのか、優しく微笑まれた。そしてノアはふとアネモネの縛られたままの手首に目をとめ、優しい手つきで結び目に手をかけた。
「痛いでしょ、これ。解くからじっとしてて」
そう一声かけてから極めて丁寧に細紐を緩めていく。程なくして完全に解き終えると、縛られて痕のついたアネモネの手首を指先でそっと撫でた。痛ましげに眉根を寄せる。
「ひどいな。令嬢への扱いとは思えない。後で薬を塗ろう」
少し後ろでうんうんと深く頷くツィアドルフが見える。
……何だかよく分からないけれど、少なくとも、今すぐ自分を害するつもりはないと判断してもいいのかもしれない。
「……あ、ありがとうございます」
「うん、どういたしまして。さて、ここにずっといたら風邪を引くね。行こうか」
恐る恐る礼を口にすればノアの顔にはまた柔らかな微笑みが戻ってくる。立てる? と促されたので足に力を込め立ち上がると、すぐさまぐらつく身体を支えるように背と手を支えてくれた。エドモンド以外の男性とこんなに近づいたことはない。寄り添うような形になって恥ずかしく思ったアネモネだったが、ノアの方は顔色ひとつ変わらない。
「いつもなら歩くんだけどそのドレスじゃちょっと辛いよね。目を瞑ってじっとして。そのまま俺から離れないでね」
声をかけてくれたかと思うと、添える程度だった腕が肩に回り力が込められる。思いのほか強く引き寄せられて驚く。密着したローブからは甘いような辛いような芳しい香りがして、アネモネの鼻をくすぐった。
左腕でアネモネを抱くノアは、空いている右手で空中を軽くノックするような動きをとった。すると足元に紫に光る幾何学模様が現れ、そこから風が流れてくる。
下から吹き上げる強風にアネモネは思わずぎゅっと目を瞑る。ほんの一瞬、体験したことのない浮遊感が身体を包んだ。その感覚が消えると後を追うように風がやんだ。
「もういいよ。目を開けてごらん」
ノアの優しく落ち着いた声に導かれて目を開けると、景色は一変していた。
さっきまでは明かりが無いと何も見えない完全な暗闇の洞窟だった。それが今は薄暗い夜の空があり、どこまでも広がる地平線がある。足元にはすべらかな石畳が敷かれ、白い光を放つ街灯が規則正しく一列に並んでいる。真っ直ぐに伸びた街灯の先には、だだっ広いその場所で最も異質な建造物。それほど大きくないながらも立派な洋館が建っている。
「転移魔法……!?」
「そうだよ。驚いた?」
「ひぁっ」
アネモネが思わず驚きの声を上げると、ノアがそれに答えた。しかしその声の主はアネモネの顔を覗き込むように屈んでいたため、とても近いところで声がしてそのことにまた驚いてしまった。
「あ、ごめん! ……何だか俺は君のことをおどかしてばかりだ。ごめんね」
申し訳なさそうに目を伏せるノア。何か返事をしなくては、とアネモネは口を開いたがそこから言葉は出てこなかった。
「くしゅん!」
くしゃみをしてしまったからだ。
「えっ可愛い……じゃなかった、そうだよね冷えたよね中入ろうか!?」
慌てたノアがアネモネを抱き上げる。お姫様抱っこだ。ドレスを苦にもせず軽々と持ち上げると、ノアは洋館へと走った。後ろからツィアドルフが追い越してきて、ドアを開けて待ってくれる。
「ありがとツィア! ティアー! あったかい飲み物! あと着替えある!?」
大急ぎでドアを駆け抜けツィアドルフに礼を言いながら、ノアは洋館の奥へと進んだ。あっという間に暖炉のある部屋のソファに辿り着き、そこへそっとアネモネを降ろす。
暖炉は炎が力強く揺れていてとても暖かい。ノアはそれを確認すると今度はソファに畳んで置いてあったブランケットを広げてアネモネの肩にかけた。そしてしゃがみ込むと、アネモネの靴を脱がせにかかった。
「えっ、あの、じ、自分で……!」
抱き上げられたときから驚きすぎて声も上げられなかったアネモネが、恥ずかしさから言語中枢機能を取り戻しノアを制止する。するとそこへ、新しい人物が現れた。
「無駄ですよ。ノアは甲斐甲斐しいので。ご迷惑でなければ好きにさせてやってください」
落ち着いたトーンの女性の声。目を向けると白銀の長い髪をポニーテールに結い上げた、褐色の肌に紫の瞳の女性がいた。
女性はカップの載ったお盆を持ち、静かな足取りでアネモネの座るソファまで来ると、どうぞ、とカップを差し出した。湯気の立つカップの中には澄んだ水色の紅茶が注がれている。
発作的にカップを女性からアネモネが受け取ると、意識が逸れた隙にノアがヒールに手をかけ脱がす。あ、と思う頃には両足が冷たい靴から解放されていた。
「ありがとうティア。ナイスフォロー」
ノアが女性に向かって親指を立てる。女性も同じようにノアへサムズアップを返した。
アネモネはいたたまれない気持ちで紅茶に目を落とす。次から次へと、いったい何が起こっているというのか。
ノアはそんなアネモネの様子に目を留めると、ソファの足元へと跪いた。両手で紅茶のカップを包むアネモネの手に、自分の手を上から重ねる。
「アネモネ嬢、まだ上手く状況が飲み込めてないよね。ちゃんと順を追って説明するよ。でも、とりあえずお茶飲んで一息つこう? すごく冷えてる」
言われてみれば確かに寒い。カップのぬくもりが指先からじんわりと広がる。いただきます、と小さく断ってカップに口を付けた。
「……甘くて、美味しいです」
砂糖がたっぷり入った温かい紅茶が喉を流れて胃へ落ちていく。ほう、と息を吐くアネモネを見て、ノアはとびきり優しく微笑むのだった。
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作品紹介の所にベラが王子と姉を潰す計画を立てるとあるが婚約破棄された姉が計画立てるのではなく妹が計画立てるの?
作品紹介を読んでいただけて嬉しいです!
意味の切れ目が分かりにくかったですね、すみません…!
ベラが「王子と姉」を潰そうとするのではなく、ベラが王子と「姉」を潰そうとします。ベラと王子はグルです!
お言葉を基に、作品紹介を少し修正いたしました。分かりやすい表現が出来るよう精進します。
これからもよろしくお願いします!