悪役令嬢に仕立て上げられ婚約破棄された薄幸公爵令嬢は、冥府の主から溺愛され幸せになる

小津 悠理

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プロローグ2 Side:N

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「ノア? ……こんなにたくさんある書類を放り出してどこへ行ったの」

 白い髪をポニーテールに結わえた女性が辺りを見回す。
 腰まである長い髪に褐色の肌、それに漆黒の軍服のような服を身に纏った女性は、仕事用の眼鏡をかけ、両手いっぱいに書類を抱えている。彼女の腰からは、しなやかな鞭のような尾が生えていて、ゆらゆらと動いていた。
 その後ろからぬっと太い腕が伸びてきて彼女の書類を持ち上げ、近くの机へと下ろした。

「ノアはまた『散歩』か? まあいいじゃないか。そのうち帰ってくるだろうよ」

「そのうちでは困る。今やってほしい……」

 太い腕の持ち主は背の高いしっかりした体躯をしており、快活な雰囲気を持った男性だ。こちらも女性と同じように白い髪に褐色の肌、黒い軍服を身につけていて、同じように長い尾がある。
 女性は疲れたように肩を落とすと、眼鏡を外し右手を右目に押し当て塞いだ。塞がれていない左の瞳が、アメジストのように怪しく光る。

「……ああ、いた。また魂の様子ばかり見て……。ノア! 書類が溜まってる。早く片付けて」

 女性の左目は、ここにいないノアという人物の姿を捉えていた。
 彼は黒いローブのような服のフードを目深に被り、天井の高い洞窟のようなところをうろうろと歩いている。
 洞窟の中は真っ暗だが、光る花のようなものが地面を埋めつくしていてほの明るい。青白い光に照らされたそこは、花籠とも鳥籠ともつかない籠が真っ黒な若木のようなものに鈴なりにぶら下げられ、それが何本も立っている。背の低い木が作った林のようだ。籠には飾りなのか真っ白な花が蔓を這わせて咲いていた。大輪だが密やかなその花は、甘く清涼感のある香りを放っている。異様な雰囲気を醸し出している不思議な場所だ。
 籠の中にはひとつずつ炎のように揺らめく色とりどりの丸いものが収められていて、ノアという男性はそれを慈しむように籠の縁を撫でていた。
 そしてふと女性の声に気づいたようにフードを脱ぎ顔を上げる。

「ああ、ティア。もう少ししたら戻るよ。ツィアもそこにいるかな、ちゃんと戻るから連れ戻しに来ないでね」

 声の主は若い男性のようだ。くせのある黒髪はうなじまで頭を丸く覆い、それに縁取られた小さな顔は作り物のように整っている。柔和そうな声と話し方に似合わない最高級のルビーのような妖艶な赤い瞳だけが、青白い暗がりの中で浮き上がっている。
 ノアの視線の先にはコウモリが1匹天井からぶら下がっていた。その目は紫に輝いている。そこからまたノアにティアと呼ばれた女性の声が聞こえてきた。

「分かった。ちゃんとすぐ戻ってね」

 ノアがコウモリに向かって笑顔でひらひらと手を振ると、コウモリは紫の光を失った。それきりふっつり何も聞こえない。
 
「さて、戻るか」

 ノアはそう呟くと、洞窟の更に奥へと進んだ。地下全てが複雑に入り組んでいる独特の地形を彼は全て把握しており、常人なら迷ってしまう道を明かりもなくすいすいと歩みゆく。
 ここは冥府。死んだ人間の魂が、次の輪廻に至るまで安息を得る場所。
 そしてノアこそが、冥府の主なのであった。


「はーいただいまー。お待たせツィア、ティア。さあ、書類仕事やろうか」

 呑気な声で女性と男性が先程話していたところへノアは現れた。
 女性はティアリーン、男性はツィアドルフといい、双子の優秀なノアの側近である。

「おお、帰ってきたな。ノアが戻ってきたことだしオレは職務に戻るとするか。ただし、ノアが本腰を入れてからだ」

「遅い。さあ、これを捌ききるよ」

 ツィアドルフは冥府の門番で、武力衝突を担当職務としていた。とはいえ、冥府は平和なもので侵入者も脱走者もいない。地上との境である固く閉ざされた「戒めの門」を守護することがツィアドルフの主な仕事であった。
 その妹ティアリーンは反対に、ノアの補佐、頭脳労働を担当している。書類仕事を嫌がりすぐにふらふら冥府内を徘徊する癖のあるノアにいつも困らされているが、それに本気で辟易することなく極めて冷静に書類を捌くことができる貴重な人材であった。
 そしてノアは、冥府の主としてやらなければいけない仕事をほとんどたった1人で担う冥府の要だ。彼がいなくなればここは回らない。そのせいか、見た目は若者ながら老成した雰囲気を持ち、ゆるゆるとした中にもどこか油断のならない空気が混じる。一言で言えば、切れ者となるだろうか。
 切れ者、といっても今の彼は執務室の机にだらりと顎を預けて、仕事したくないオーラ満載だ。

「今日もすごい書類の数だねえ……。やらなきゃダメかな」

「ダメ。ちゃんとやって」

「はあ。分かったよ」

 冥府は地下にあり、日が差すことのない陰気な場所だ。ペタル王国を含めた大陸の地下に広がり、王国と近隣諸国の魂を一手に預かっている。激務は当然のことであった。
 地上で人が死ぬと、冥府にはその人間の一生や死因などを事細かに記した書類が自動的に生成され届く。この書類は紙ではなく、魔素と呼ばれる空気中に含まれる魔力の粒で出来ている。それにノアが確認しサインを入れることで、魂は地上の死んだ身体から抜け出して冥府へと下りてくる。下りてきた魂は籠の中で眠りにつく。数日で済む者もいれば数百年眠りっぱなしのものもいる。眠りの長さは魂の消耗具合で決まっていて、へとへとに疲れているほど長く眠る。眠り終えて魂が輪廻に耐えられる強さまで回復したら、籠から自然に解き放たれて新しい命になる。
 その一連の流れを全て管理しているのが冥府という場所だ。
 冥府の中でも、ノアとティアリーンが今いるのは地下に建っている洋館だ。地下空間は冷たい岩やら鍾乳石やらでうろのようになっており、書類仕事には向かない。それで彼らはずっと昔に館を建てて、主な仕事はそこでするようになった。
 執務室の調度品は室内を照らす柔らかなオレンジ色のライトに照らされ、青白い外とはまた違った趣だ。

「やれやれ、今日もよく死ぬねえ」

「そうね。仕事は減らないんだからいい加減落ち着いて仕事して」

「落ち着いて仕事かあ。そうだねえ、お嫁さんとか来れば変わるかもしれないね」

「無茶言わないで。ここは冥府だよ。こんなところに嫁いでこようとする奇特な女性なんていない」

 冥府には国交がない。かつては地上の国々と交流があったものの、魂を扱う、国とは違う分類であるが故に、古い時代から畏れられていた。その畏れは永い時を経ておとぎ話へと姿を変えた。今では地上の人間は皆、冥府が本当にあるとは知らない。

「そうだな、外……特にこの上のペタル王国では冥府は世にも恐ろしい場所だと言われているし。もしそんな女性がいたとしてもよっぽどの訳アリに違いない! はっはっは!」

 ツィアドルフが豪快に笑い飛ばす。

「……ペタル王国といえば一応大昔に『冥府の花嫁』なんて盟約を結ばなかったっけ」

 再び眼鏡をかけたティアリーンがくうを見上げ思い出すように言った。

「ええ? ……ああ、そんなこともあったね。でもこの数百年誰も来ないし形骸化してるんだよきっと」

 だるだるとした状態からようやく背筋を伸ばしたノアが、書類に目を通しながら言う。
 数百年、いやもしかしたらもっと以前に当時のペタル王国国王とノアは盟約を結んだ。「冥府の花嫁」。実情は花嫁とは名ばかりの人身御供だが、幸か不幸かその盟約はまだ果たされていない。

「花嫁でもなんでも、ノアがちゃんと仕事してくれるなら縋りたい」

「まあ、その気持ちも分からんではないな。よし、ノアも仕事を始めたことだしオレは職務に戻る!」

「頼むね、ツィア」

「おう!」

「いやあ、花嫁ね。うん、花嫁……」

 大きな体躯で歩いていくツィアドルフ、ノアの机の隣で自らも書類に取りかかるティアリーン、そして花嫁花嫁とぶつぶつ呟きながら凄まじい速度で書類を済ませていくノア。
 洋館の外では手乗りサイズの黒猫にコウモリの羽が生えたような悪魔、幼魔がふわふわにゃあにゃあと飛び回っている。
 しばらくして、執務机に山積みになっていた書類が半分以下になると、ノアは一旦手を止めてぐっと伸びをした。

「休憩! 俺はコーヒー淹れるけどティアも飲むかい」

「飲む。ありがとう」

 ノアもティアリーンもツィアドルフも人ではない。
 ティアリーンとツィアドルフは冥府のおりから生まれた悪魔だ。
 ノアは分からない。冥府にいる誰も知らない。誰より先に冥府にいたということしかはっきりしない。
 ツィアドルフもティアリーンも含めて、見た目と実年齢が比例していないことだけは確かだ。
 彼らは栄養摂取としての食事を必要としなかったが、長過ぎる生の楽しみにときどき嗜好品として何かを口にした。
 今日のノアとティアリーンのおやつはコーヒーとフィナンシェだ。
 もぐもぐと口を動かしてそれを咀嚼し飲み込んだ後、ノアはティアリーンに向かって口を開いた。

「さっきの花嫁がどうのって話だけどね」

「うん」

「俺のところに来てくれるならきっとどんな人でも愛してしまうと思うよ。ほら、俺結構尽くす方だし」

「尽くすかどうかは知らないけど。でも、そうだね。ノアが迎えるなら私もツィアも歓迎するよ。……そんな日が来るかは別の話として」

「う、厳しい」

 冥府という名からは想像も出来ない和やかな暗がり。冷たく恐ろしいとされる場所は、仲間たちの信頼によって満ちていた。
 そんな彼らに公爵令嬢アネモネの流刑地要請……「冥府の花嫁」の打診の手紙が届くまで、あと。
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