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#20:Home sweet home
Leave from sweet dream. 01
しおりを挟む青天の霹靂――――。
その日は、撥香が話があるというので渋粋の部屋で会うことにした。
いつ来ても渋粋の部屋は物が多くて乱雑だった。本棚は本が立っていたり寝ていたりグチャグチャ。クローゼットは開け閉めが面倒なのか、開け放たれていることが多い。壁際には趣味の雑誌や漫画が何冊も積まれている。部屋の隅にバイクのものと思われるパーツが寄せられ、床にはかぶらなくなったヘルメットが転がっている。
撥香は、渋粋の部屋に足を踏み入れるのは初めてではないのに、非常に緊張した面持ちだった。渋粋がおはようと声をかけても、愛想笑いの一つも見せなかった。恋人である渋粋でなくとも、何かおかしいと気付くはずだ。
撥香と渋粋は、折りたたみ式の小さなテーブルを挟んで座った。撥香は長い時間、顔を上げなかった。渋粋は何度もどうした、何かあったか、と尋ねたが、話があるといったその本題は始まらなかった。
撥香は項垂れた姿勢で、震える声で告げた。
「あ? 今、何て?」
渋粋は低いテーブルに肘を突いて撥香へと躙り寄った。威嚇の意味はなく、純粋に聞き間違えかと思った。
「産まへんから!」
撥香はテーブルに向かって大きな声で放言した。
「絶対ッ……産まへん……」
撥香は割れてしまいそうだった。自分の手で自分の手を力一杯握り締め、両肩を小刻みに震わせていた。渋粋と好き合ってから忘れていた恐怖にまた飲み込まれそう。誰からも価値を認められず、お前が悪いと呪われ続け、自身の因縁に縛り付けられる、孤独、寂寥、自己嫌悪、即ち無限に続く恐怖。地上に這い上がってきたはずなのにまた奈落に落ちてゆく。一度陽の当たる暖かな暮らしを知ってしまったから、今度の奈落はかつてとは比べものにならないほど深くて暗くて冷たい。
嫌だ。もう無理だ。耐えられない。愛し愛される幸福を知ってしまったから、今度はもう立ち直れない。渋粋に去られたら壊れる――――。
ようやく手にした幸運を手放したくなくて、無心に、無責任に、無覚悟に、互いを貪り合ったツケが回ってきた。神様はやはり見ていて、助けてほしいときに助けてはくれないのに、気紛れにこの二人を選んで罰を与えようとしている。腹のなかに授かった生命は、天罰の証。
自分の幸福の為だけに小さい生命を犠牲にしようとする自分を心底浅ましいと思う。浅ましさを自覚しながら正そうともしない。浅ましくて卑怯で弱い。二人の運命も、神様の天罰も、受け止める覚悟はない。
ふと、視界の隅に子どもの足が見えた。ほんの少し目線を上げてその子の顔を確認すると、幼い頃の自分自身に似ていてギクッとした。頬を少々張らして恨めしそうな鼈甲色の二つの瞳で此方を睨む。その姿は、自分の腹のなかの小さな生命の行く末にも見えた。
ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。恋人の愛情が枯渇することに耐えられないこのように弱いわたしが身籠もって。絶対にこんな女が母親になったりしないから許して、許して、許して。
「ごめんっ……堪忍、イッキ君。子どもできてしもてっ……ほんま堪忍してっ……!」
撥香は目からボロボロと溢れ落ちる涙を拭いもしなかった。
「ほな俺働こか」
撥香は一瞬、心臓が止まるかと思った。恐る恐る目線を上げると、渋粋がいつものように笑っていた。
渋粋は撥香と目が合った瞬間を逃さない為に、青白い頬に両手を添えた。撥香の細い顎先がふるふると震えていた。
「俺とお前の子ォや。何で殺すんや。俺シャカリキ働くさかい、産んでくれ」
「イッキ君……イッキ君……ッ」
「泣かんでええ。俺が守ったるから」
撥香の瞳から涙が止め処なく零落して渋粋の手を濡らした。筋張った手の甲を生温かい涙が伝う度、弱い撥香をこんなにも苦しめていたのだと思い知らされる。
撥香は弱い。弱くて脆くて可哀想で、愛しい。この愛しささえあれば何でもできる。この愛しさを守れるのであれば何も惜しくはない。
渋粋はテーブルの上に身を乗り出し、撥香の額に自分の額を合わせた。
「産んでくれ」
§ § § § §
それからの記憶は幸福で満たされている。
渋粋は高校を辞めて働き出した。元々勉強が得意ではなくアルバイトにばかり明け暮れており、寧ろ学業を気にせずに労働に勤しめることを喜んでいるようですらあった。結婚式も挙げず、プロポーズの言葉もなかったが、親しい人々には祝福された。二人でクタクタになりながら余裕はなかったが、夫婦としての暮らしは成り立った。
学校を辞め社会人としての生活が始まると悪友たちとはやや疎遠になってしまったが、攘之内や剛拳、祥太朗との縁は切れたわけではなかった。そう頻繁ではないが連絡を取り合い、時には顔を合わせ、互いの近況を報告し合った。卒業式を終えたこととか、家業を継ぐこととか、結婚観とか、それぞれに完全なる大人になる為の歩みを進めた。
撥香の母親からの援助は勿論皆無だった。撥香は初めから期待もしておらず、望んだことも一度もなかった。連絡さえ途絶えて絶縁状態だった。幸いにも渋粋の兄は二人に協力的であり、渋粋の両親は身重の撥香に対して親切だった。父親については妊娠を報告した当初、渋粋に向けて勘当寸前まで激昂していたけれど。
お腹の中にいるのが男の子だと分かってからは、生まれるまで二人で何やかんやとはしゃぎながら準備をした。あれやこれやとベビー用品を買い揃え、一晩中名前を考えた日もあった。ついに子どもが生まれたとき、あの渋粋が兄と泣き笑いしながら大喜びしたのを鮮明に覚えている。健康に生まれてきた子どもと一緒にお風呂に入ったり遊んだり叱ったりしながら、渋粋も撥香もいつも笑っていて、クルクルと笑い声が回っているようだった。
神流家の長男は「渋撥」と名付けられた。生まれたときから賑やかで明るい両親との生活しか知らない彼は、この生活がずっと続いてゆくのだと疑ったことなどなかった。神流家の親子三人の生活は、愉快で幸福で平穏だった。
あの日、あの瞬間、撥香があの電話を取るまでは――――。
Trrrrr……Trrrrrr……。
自宅に鳴り響く電話の音。いま在宅しているのは、夕飯の支度に忙しい撥香と、学校から帰宅してテレビ鑑賞中の渋撥。勿論、渋撥は着信音に気付いていたがテレビの前から一歩も動こうとはしなかった。
「電話出てーや、ハッちゃん」
「嫌や。どうせイッキやろ。ハッカ出ろや」
「もー」と撥香は不満そうに零しながらも軽い足取りで電話機のほうへ向かった。
渋粋は毎日必ずと言ってよいほど帰宅する前に到着予想時刻を電話してくる。毎日の定時連絡のようなものにすら心躍らされるほど、撥香は渋粋に恋をしていた。恋人同士から夫婦になり、学生から社会人になり、子どもから大人になり、親になってもずっと恋をし続けている二人だった。
撥香が受話器を耳に当て、何かしら会話を交わしているようだった。渋撥は其方を見向きもせず、気にも留めなかった。どうせいつもの定時連絡だと思っていたから。
ガチャン、と突然受話器を取り落とす音。ようやく渋撥が振り返ると、撥香が床に座り込んでいた。
「ハッカ?」と渋撥はテレビの前から立ち上がって撥香に近付いた。幼い渋撥でも異変に気付くほど、撥香の態度は明らかに不審だった。天井を仰ぎ、顔面は蒼白で、目の焦点は合っていない。鼈甲色の瞳の中の虹彩が微動し、何も見ていなかった。自分を覗き込む我が子さえも。
程なくして、渋粋の兄が家を訪ねてきた。渋粋と兄は兄弟仲が良好で、住まいもすぐ近くだった。渋粋の兄は非常に取り乱しており、取るものも取りあえず撥香と渋撥を連れて家を出た。
気がついたら病院にいた。白い廊下、無機質な雰囲気、閉塞的な空間、慣れない場所は居心地が悪い。
渋撥は撥香と並んで廊下に設置された長椅子に座っていた。撥香は項垂れて黙り込み、病院に到着してから一声も発していない。毎日明るい母親が沈黙しているのは珍しかった。幼い頭では情況が理解できていなかった。しかしながら、嫌な予感だけはした。いつもと異なる電話、茫然自失の母親、焦燥に駆られた伯父、突然連れてこられた病院。すべてが不安を煽った。
「ハッカ!」と、背の高い男が母親の名前を呼んだ。
口髭を生やした男が撥香の許に走り込んできた。渋撥も何度か見たことがある、両親の友人だ。彼が何度か名前を呼び、撥香はようやく顔を上げた。
「ジョー……?」
「しっかりせえハッカ!」
渋粋の兄が攘之内の大声を聞きつけて廊下に出てきた。攘之内の顔を見て少々ホッとしたように見えた。兄は弟が特に親しくしている悪友とは既知だった。
攘之内は渋粋の兄に近付いて小声で言葉を交わした。その配慮は恐らく、撥香に対してのものだ。
「来たかジョー! タロとゴーは」
「すぐ連絡しました。せやけど二人とも今日に限って遠出しとって……。急いでこっち向こてますけど、いつ着くかは分かれへんです」
「こんなときに限って……! イヤ、お前だけでも間に合うてよかった」
「それでイッキは――」
「イッキ君は……?」
撥香が掠れた声を絞り出した。攘之内と渋粋の兄は弾かれたように其方に目線を向けた。
撥香は両目に涙をいっぱいに溜めていた。声を絞り出す度にポロポロと溢れ落ちた。
攘之内は撥香の前に両膝を突いた。明るく笑うようになった撥香が不安に震えているのも、まだ訳の分からぬ幼子が不安げに母親を見詰めているのも、心痛の極みだ。家族三人、あんなに幸福そうに暮らしていたのに。
撥香は攘之内のシャツの袖を捕まえた。その手はガタガタと震えていた。
「ねえ、ジョー……。イッキ君は……? イッキ君どうしたん……? 何でこんなとこに……」
「ハッカ。とりあえず落ち着け」
「イッキ君、イッキ君……ッ」
「イッキは手術中や。もう少ししたら帰ってくる。大丈夫や。イッキが死ぬわけない」
攘之内は片手に小さな渋撥の手を取り、もう一方の手に撥香の震える手を取り、二つの手を一つにした。自分の手よりも小さい二つのそれを包んでポンポンポンと撫でた。
気休めにもならないと思っても、それぐらいしかしてやれることがなかった。かつてお前の幸福を本気で願ったのに、その涙を止めてやることすらできない。
「うああぁ……イッキ君、イッキ君――……」
死に際の殉教者が神の御名を唱えるように、真っ暗な部屋で手探りに扉の鍵を探すように、愛しい名前を呼び続けた。
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