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#19:Warrior
鬼の拳 01 ✤
しおりを挟む某病院・屋外喫煙所。缶の灰皿とところどころ塗装が古びたベンチがいくつか。
曜至は一人で煙草を呑んでいた。夜の時分、喫煙者は丁度ほかに誰もいなかった。ベンチにゆったりと座ることができた。其処に病院から出てきた渋撥が合流した。
「言われた通り、禮には則平と順平とあと何人か付けた。離れていいって指示するまでベッタリだ」
曜至は渋撥が近付いてくるなり口を開いた。ゆったりとしているのは怠けているのではなくやることをやったからだというアピールだ。
渋撥は「そうか」とだけ返した。
曜至はベンチに腰掛けた低い位置から渋撥の顔を下から覗き見た。渋撥は無表情であり特に感情は読み取れなかった。
大塔を死ぬほど殴りつけたときも無表情だった。曜至もまた自分勝手に生きる人種。他人の思考や気持ちに同調することに不得手だ。それを差し引いても、渋撥の表情の無さは異常だ。マシンが如く人間を殴打し続けるのと同様に、感情をオンオフするスイッチでも付いているのか。
――それはそれでクールだな。
曜至はわざわざ口にするのも子どもっぽいと思って心の中でだけ笑った。
「意外だった。自分で禮を送るって言い出すと思ってたぜ」
「行くとこがある。バイク回せ」
これまた予想外だった。曜至には、今の渋撥が禮から離れてまで優先させる用事など思い当たらなかった。
「……ま、いーけどよォ。どうせ鶴榮にアンタを一人にすんなって言われてっから。家まで送るついでに寄り道くらいしてやんよ」
渋撥はジーッと疎ましそうな目線を曜至に送った。
「ンなウザそうなツラすんなよ。俺だって好きで引っ付いてねェ」
渋撥が立ったままポケットから煙草の箱を取り出して一本咥え、曜至はオイルライターを差し出した。
渋撥は特に礼も言わずそれを受け取って煙草に火を付けた。曜至も、渋撥から返ってきたライターを何も言わず仕舞った。渋撥から愛想のよい礼が出てくることなどはじめから期待していなかった。
照明もない夜の喫煙所に赤い光が二つ。枝葉に停まってじっとしている蛍のようだ。暗いから紫煙が立ち上るその先を目で追うこともなかった。
渋撥も曜至も足許に目を落として無言で煙を呑んだ。美味いも不味いもない。慣れ親しんだいつもの味。これを求めていた。
渋撥に対する曜至の態度は鶴榮とも美作とも異なっていた。渋撥の蛮行を責めることもなく、気圧され萎縮することもなかった。曜至がその目で見たのは、在りし日の〝暴〟の再臨。獣たちを統べる帝王の在るべき姿だ。
「アンタが丸くなったなんて俺の勘違いだった。アンタは今でも昔と変わらずギラギラしてんよ」
曜至は煙草を指で挟んで口から離した。赤い蛍が宙を漂うようにスッと渋撥を指した。
「俺ァ鶴榮ほどアンタと付き合い長かねェし、美作と違って気も回らねェ。アンタが何考えてるかなんかよく分かんねェ。アンタはアンタの好きにやりゃあいい。アンタがどっかのどいつを殴り殺そうと正真正銘のバケモンだろうと、俺はアンタに――――近江渋撥についていく」
研ぎ澄まされた刃のようにギラギラと、錆び付いたナイフのようにギスギスと、ともすれば刃毀れよりも何よりも叩き折れてしまいそうな、そのような危なっかしい切れ味に、まるで恋するように焦がれている。
前も後ろもなく敵を切って切って滅多切り。一心不乱に切り刻み、切って捨て、切れなくなったらパッキリと、潔く折れて朽ちて終い。そんな、満開の花が枯れもせず堕ちるような生き方をしたい。
真っ赤な真っ赤な、寒椿のように死にたい。
――「撥。もう一人になるな。禮ちゃんを一人にするな」
「どこにも行かんといて。一緒におって。勝手にどっか行ってしもたら嫌やよ――……」――
気が付くと、目的の場所に辿り着いていた。渋撥は曜至に行き先を伝えてバイクの後ろに乗っていただけ。
道中は禮の泣き顔と笑顔ばかりが脳内を巡った。それらを交互に思い返しながら、絶望と安堵を交互に繰り返しながら、憤怒と懺悔が交互に押し寄せながら、流れる景色を眺めていたら辿り着いていた。
渋撥は目的地に到着してバイクから降りた瞬間、鶴榮と禮の言葉を思い出した。重要なことを伝えられた気がするのに、真に意味は理解できなかった。
渋撥は禮を手放すつもりは毛頭ないのに、二人とも自ら離れていくような言い方をする。自分に近しい二人から言われたことも理解できないのは、やはり自分が愚かであることの証なのであろう。
渋撥が目的地として告げたのは禮の実家、相模道場だった。
道場の門は、渋撥よりも遙かに背が高い。木造で古めかしく、そのようなものに関心の無い彼等にも歴史や格式の雰囲気を感じさせる。
曜至は「ゲッ」と零し、道場の門を見上げてポカンと口を開けた。
「マジでココが禮の実家か。ガチのお嬢かよ。ホント荒菱館なんかにいる人間じゃねェな」
渋撥は「そうやな」と言って門のほうへ爪先を向けた。
「お前は帰れ、曜至」
「イヤ、俺は鶴榮からアンタを家に帰らすまで目ェ離すなって言われてんだって」
曜至は、渋撥から肩越しに不服そうな目線を送られ、はあと溜息を吐いた。
「アンタがブチ切れるのが悪ィ。あんな真似しといて鶴榮がアンタを野放しにするわきゃねェだろ。俺は何でもアンタの好きにすりゃいいと思ってっけど、アイツは違ェ。アンタの幼馴染みは、アンタをマトモな人間にしてーんだよ。まだマトモになれると信じてんだよ。フリだけだとしてもよ」
俺はアンタがマトモになれるなんて思っていないが、と曜至は厭味を言ってから肩を竦めた。
それから顎でクイッと道場の門を指した。改めて見てみても聳え立つ岸壁のようだった。
「でも、まあ、フリだけでも必要なんじゃねェーの。こんなデケー家のお嬢とガチで付き合ってんだろ、アンタ」
道場の門構えは、夜闇のなかでは昼間よりも何倍も重厚で堅固に見えた。木造であるはずなのに、鉄扉のように重く冷たい空気を吐き出す。
もしかしたらこの門扉は地獄の扉であり、開いた先には法廷が設けられており、さらには其処を見下ろす高台には閻魔様が座しておいでで、罪人を裁こうとしてらっしゃるのかも知れない。冥府を統べる閻魔様にとって、人から鬼に堕ちる存在は、果たして善か悪か。
いいや。中にいるのが閻魔様でも神様でも人間でも、兎に角誰でもいいから、断罪を下してくれ。
渋撥は此処に、裁かれる為にやって来た。
ぎぃ、と門戸を叩いてもいないのに独りでに門が鳴いた。裁かれる為にやってくる人間を待ち構えていたかのように、ぎぃぎぃぎぃ、と鳴き声を上げた。
「オウ。渋撥」
実は開いたのは門ではなく脇戸だった。
背を屈めて小さな脇戸を潜って姿を現したのは、この道場の主にして禮の父・相模攘之内。
渋撥は攘之内に対してペコッと会釈をした。恋人の父親として、娘の恋人として、互いにとうに挨拶は済ませた仲だった。とはいえ、久し振りと声をかける気分でも雰囲気でもなかった。
攘之内は渋撥の大きな身体の向こう、バイクに跨がった男を一瞥したのち、渋撥に顔を引き戻した。そして、そろそろ来る頃だと思っていたと言った。それはどういうことかと渋撥が尋ねる前に、重たい声で「中に入れ」と命じられた。
「親っさん、俺――」
「お前も俺に話があるんやろ。聞くだけ聞いたるさかいさっさと中入れ、ジャリ」
――お前も?
攘之内の口振りは、渋撥の前に誰かが訪れたことを示唆した。
攘之内はすべてを知っている顔だった。それ故か声音にわずかに緊張感があった。
渋撥はそれに対して途惑いや焦りはなかった。どういった事情で誰が何をどう話したかは知らないが、口下手な自分が説明するよりよっぽど良かったとすら思った。
此処へやって来た目的は謝罪ではない、断罪だ。弁解も慈悲も不要。ただただこの身に辛辣な責め苦さえあればよい。
攘之内は渋撥を道場へと通した。
道場のなかは風が遮られて屋外よりも蒸し暑かった。
今宵は季節外れに蒸し暑い。道場内には、初夏の兆候と梅雨の湿気が混在した不快な熱が充満している。爽やかな初夏の匂いにはまだ遠い、気怠い梅雨の匂いが鬱陶しく纏わり付いてくる。
攘之内は道場の奥へ進んでいき、渋撥は中程で足を停めた。
「親っさん、すんませんでした」
攘之内が振り返ると、渋撥は頭頂が見えるくらいしっかりと頭を下げていた。
「やんちゃ共のアタマ張っとる男が、エライ殊勝やな」
攘之内は少々厭味を浴びせてみたが渋撥から反応はなかった。わずかな反抗も見せなかった。己の非を認めることにも頭を下げることにも慣れていないだろうに本当に殊勝なことだ。
「お前が来る前に二人来た。サングラス掛けた男と、キンキラの頭したボーズや」
「お前の知り合いやろ」と攘之内から言われ、渋撥の脳内に鶴榮と美作の顔が巡った。禮が現れた途端、捨て台詞を吐いて何処かへ行ってしまったと思ったら、自分よりも先に攘之内を訪ねていたとは思いも寄らなかった。
少なくとも、今回の事件の経緯を誰が説明したかは渋撥の頭にも明らかになった。
「知らん顔やし見るからにツッパってそうやし、一発ずつぶん殴って追っ払ったろか思たんやけどな……。俺が出た途端、必死に頭下げんねん、お前を許したってくれってな」
渋撥はガバッと顔を上げた。相変わらず表情の変化は乏しかったが、完全に意表を突かれたという反応だった。
「禮が怪我した。自分等の問題に巻き込まれた。ほんまに悪いことした。せやけどお前の所為ちゃう。お前はアホやけど、絶対にお前が悪いんちゃう。……そう言うて頭上げようとせえへんねん。二人して何遍も何遍も頭下げてたで」
渋撥は攘之内には聞こえないように小さくチッと舌打ちして「アイツ等……」と忌々しげに零した。
攘之内が事情をすべて把握しているのも、愛娘の禮が怪我をしたというのに随分と落ち着いているのも、鶴榮が先んじて行動したからだ。今の渋撥には鶴榮の聡さが忌々しかった。
怒り狂った攘之内にバラバラになるまでぶん殴られたかった。断罪して制裁してほしかった。
「一端ツッパっとるヤツが初めて会うたオッサンに頭下げるんや。それなりに覚悟が要ったやろな。せやけどな、俺も禮が怪我した聞いて簡単に〝そうか、分かった〟と納得でけへん」
「禮にケガさして、ほんますんません」
攘之内から納得できないと告げられ、渋撥はまったく残念そうではなかった。
攘之内が覗き込んだ渋撥の目は、悔恨と懺悔。そして、如何なる処罰も制裁も謹んで受け容れる覚悟があった。
「お前のは、すんまへん言うてもほんまにただ俺に頭下げに来ただけちゃうやろ、渋撥」
攘之内には渋撥の腹のなかが透けて見えた。
誰もが渋撥を無表情で感情が読めないと言うが、攘之内には充分に分かりやすい男だった。真実を曲げる言葉を使わない。自分を飾る言葉を使わない。嘘を吐かない。嘘を使いこなす必要が無い。当然、王は己の是非を問うことをしない。してはならない。何の法理に照らすこともなく、自身が正しいと言えば正しく、間違っていると言えば間違っているのだ。
そして渋撥が下した決断は、自身への断罪だ。
「もう腹ァ決まっとる、煮るなり焼くなり好きせえっちゅうツラや。女攫われて疵物にされて、相手ブチのめしただけじゃ腹の虫が治まらんわなァ。そりゃそうや。自分の女ァ守りきれへんのは男の所為や。お前が無能やからや。自分の阿呆ぶりに腹立つやろ。グチャグチャにどつき回されたいやろ。お前は俺にブチのめされに来た」
渋撥は頷きはしなかったが、攘之内には渋撥自身よりも正確にその胸中を言い当てている自信があった。
「お前、禮に怪我さしたヤツを殴り殺しかけたそうやな」
それも鶴榮が話したのか。渋撥は腹を立たなかった。攘之内に自身の行いを包み隠す心算はなかった。
「……ほんで、気は済んだか?」
「イエ、トドメ刺し損ねてしもたんで」
「お前は、やると決めたらほんまに殺すまでやる。そういう面構えや」
渋撥はサラリと答えた。その瞬間に罪悪や躊躇は存在しなかった。
攘之内は嘆息を漏らした。
――「お前は相手殺すまでやらな気が済めへんのか、イッキ!」
昔のいつか、何処でどうしてか、自分が言った台詞を思い出した。
あの男と渋撥は非常によく似ている。似ているなどというものではない。瓜二つ、酷似している。
渋撥は、攘之内にとって過去を映す立体的な銀幕だった。良くも悪くも、渋撥を見ていると意識が過去に振られる。懐かしくて恋しい記憶を、酷く苦々しい過去を、思い出させられる。
渋撥が背負っている蒼白い焔も見覚えがある。敵を焼き尽くし、燃やすもののなくなった憤怒の焔は、火種を求めて己の身すらも灼く。何もかもを焼き尽くしてしまうまで盛る、有象無象一切消滅せしめる業火。
「…………。今日は暑いなァ渋撥。ほんま蒸し暑い。こんな宵は、鬼が出る」
攘之内は渋撥と呼びかけながらも、独り言のように低くボソリと呟いた。
――鬼?
渋撥には攘之内の言葉の意味が分からなかった。
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